おやすみなさい、とだけつぶやいて、二人は部屋にってしまった。俺は、額を手で覆いながらドアを開けた。

つけっぱなしの蛍燈がまぶしくて目を細める。いつもであれば、まっさきにミミの様子を確認するが、そんな気にもならなかった。鞄を放って、ベッドに倒れこむ。急に、脳裏に浮かびあがってきた景があった。小さいころ、俺がまだ８歳のときに見た馴染のの子の姿。常に両サイドを三つ編みにしていたその子は、その日だけ髪を結ばずにわんわんと泣いていた。離れたくないと言っていた彼に、結局、二度と會うことはなかった。

こんな小さいころのことを鮮明に覚えているあたり、きっと自分のトラウマなんだろう。

あの姉妹と顔立ちが似ているわけでも、シチュエーションが重なるわけでもないのに、妙に心に引っかかる。あとしリミッターが外れれば、もっと深りするところだった。

飯を食い、シャワーを浴びたところで、気持ちが落ちついてくる。スマホで最近始めたばかりのソシャゲを遊んでいるうちに、深夜０時を回っていた。

そろそろ寢ようと、スマホを充電につなぐ。電気を消すために壁際に移した。スイッチを押すと部屋が暗くなり、ミミのっている飼育ケースから、がん、と音が鳴った。同じような時間に電気を切っているが、毎回驚くらしい。ベッドに潛り、目を閉じるとすぐに眠気が襲ってきた。

夜行のハムスターは、晝よりも今のほうが活発的にく。サイレントホイールにしているから大きくはないが、人によっては気になるほどの音だろう。薄壁のせいで隣室にも聞こえていたら申し訳ないなと思う。

意識が遠のいていく。から力が抜けていく。

砂漠に立ちのぼる炎のようなゆらめきが、脳裏に広がっていた。サイレントホイールを回す、小さな洗濯機のような音が炎に絡まる。それはやがて、記憶を巻き戻すトリガーとなり、奧底にしまいこんでいた景を引っ張り出す形となった。

黃いＴシャツを著て、鍋で煮込まれているかのごとき暑さに見舞われている。手が小さく、腳は短く、目線が低い。ミニサイズの自分のを見下ろしている。足のまま靴を履いていて、その後ろをかかとでつぶしていた。青地に白のラインがったアシックスだ。ぐるっと周囲を見渡して、どうやらここが公園のなかだということがわかった。

水飲み場の蛇口が開けっ放しなのか、ちろちろ、水が垂れている。おぼつかない足取りで向かうと、自然と靴がげて、排水の網のうえに足の裏がぴたりとりついた。頭から水をかぶると、徐々にうだるような暑さが解消されていく。視界にこびりつくゆらめきも、薄まっていくのをじた。

――ねえ

そのとき、呼びかける聲が聞こえた。靴を履こうと思うが見當たらない。諦めて、そのまま振り返った。

三つ編みのの子。なにが楽しいのか、満面の笑みを浮かべていた。なにか返そうと思うが、頭のなかが靄で覆われていて、うまく言葉にならなかった。

つづけて言う。

――今日、アサガオが咲いたよ

アシックスの靴はいつのまにか、數メートル離れたり臺の下に転がっていた。しかし、彼を放って拾いに行くよりも、話を聞いたほうがいい気がした。

――あとね、冷蔵庫の氷をこっそり食べちゃった

うなずく。

――かき氷を作るアレ、このまえ落として壊しちゃったから、あきらめた

――あーあ、もう夏休みが終わっちゃいそう

――遊ぼうよ

また、うなずく。手を引っ張られてしまったので、靴を放置するしかなかった。不思議と、砂利を踏んでも全く痛くない。公園を出て、懐かしい街並みをうように進んでいく。

駄菓子屋のまえを通りかかると、シャーベットを食べたくなる。ピアノ教室を視界の隅に見かけると、こっそり耳を澄ましたくなる。通學路を橫切ると、小學校に通っていたころを思い出す。

プリズムにを通したみたいに、あちこちの景が輝いていた。人の気配はなく、とりどりの景が周囲を覆っていた。

やがて、三つ編みのの子が止まった。どうしたの、と聲を出そうとしてまた失敗する。

につかえる理由は、の子の名前が分からなくなってしまったからだと気づいた。

隣り合ってガードレールにもたれかかる。空は、底が見えないくらい青かった。

――學校なんか始まらなきゃいいのにね

の子は、足元に生えていたタンポポのを抜いて、綿に息を吹きかける。

緩やかに中空へと広がった。その綿の向を追っているうちに、時間の流れが遅くなるのをじた。飛んでいく様だけでなく、一つ一つの綿が回転している姿まで見えた。スローモーションの世界は、徐々に完全な靜止狀態へと移行する。

まるで、自分一人が取り殘されてしまったかのようだった。

妙な浮遊をじていると、耳が遠くなり、視界が狹まっていった。

そして、さっきまで見ていた景が、々に砕け散っていく。

＊　＊　＊

パリン、と大きな音を立てて、現実世界が俺の知覚範囲に戻ってきた。酒を飲んでもいないのに視界がぐらつく。そして、もう一回、パリン、と大きな音がした。

「え！？」

驚き、が大きく跳ねて、寢ぼけていた頭が一気に覚醒する。

「な、なんだ？」

ベッドに寢転がっていたを起こして、部屋を見渡す。異変はない。

あの音は、外から響いているような気がした。カーテンを開けて、窓の外に目を向ける

カーテンレールに引っかかっていたコードをずらして窓を開けると、冷気が飛び込んでくる。すでに日が昇っている。覚的に、普段起きるよりも一時間程度早そうだ。

以前、犬の死が放られていた場所には、それに近いものは転がっていない。しかし、すぐに俺は異変に気がついた。

雑草がちらちらとっているように見えた。うまくピントがあわず、目を細めて凝視して、その正が何なのかを理解した。

ガラスだ。

さっきの音を踏まえて考えると嫌な予がする。窓からを乗り出して、隣の部屋の窓を見て、そのガラスが割られていることを視認した。

――音の正はこれか。

音は一回ではなく、二回だった。そして、ガラスを割ったであろうものはこの周辺には見つからない。もしかしたら、ガラスを突き破ったのかもしれない。人がれる大きさではないから、人が侵したわけではなく、石かなにかを投げ込まれた可能が高い。

俺はコートだけ著て、外に出た。すると、ちょうど平川姉妹と出くわす。

「あ……」

気まずそうに二人が目をそらした。見る限り、どうやら怪我はないようだ。

なにがあったかを問いただすと、俺の予想通りに石が２つ投げ込まれたらしい。パニックになり、外に飛び出したとのことだった。

「……ごめんなさい」

平川晴香は、し充した目でそうつぶやいた。おそらく、トラブルに巻き込んでしまったことを申し訳なく思っているのだろう。

「いや、悪いのは割った人間だろう」

「もともとの要因は、うちですから……。しかもこんなに朝早くに……」

「そんなこと言っている場合じゃないだろ。これは警察を呼ぶ必要がある」

「はい……」

そこで、すぐに犯人を捜さなかったことを後悔した。すでに遠くに逃げてしまっているかもしれない。犬の死と同一犯かわからないが、捕まえない限り狀況は好転しない。

警察に電話するとすぐに駆けつけてくれた。しかし、簡単に事を確認したのち、被害屆を出すかどうかを確認されただけだった。このような事件では、現行犯でないと捜査は難しいらしい。結局、ろくなこともできずに出勤時間になってしまった。

「わたしたちのことは気にしないでください」

姉――平川実里が、なんの表も浮かべず、淡々とそう言い放った。心配そうに見上げる妹の姿など見えないような様子で、心の壁を強固に守っている印象があった。

仕事をさぼるわけにもいかず、著替えて會社に向かった。テレワークの浸が進んでいないことを苦々しく思った。