《【完結&謝】親に夜逃げされた姉妹を助けたら、やたらグイグイくる》第四十三話 病室
二人で過ごしているとき、の子の母親に何度か會ったことがある。繊細そうな人、という印象があった。口數がなくて、俺を見かけると小さな聲で挨拶をした。表に大きなきがなかったから、つかみどころがなく、話をするのが難しかった。
「うちのお母さんは、仕事が忙しいみたい」
當時はわからなかったが、派遣社員として仕事をしていた。殘業が多かったようだから、家に帰るのが10時以降になることもあったのだそうだ。
「いつもひとりでどうしてるの?」
「どうもしてない。家にあるご飯を食べて、宿題をしたり、テレビを見たりしてる」
小學生のときには、いわゆる鍵っ子というものになっていた。だからこそ、俺も自由に家にることができた。あまりしゃべらない人だったけど、の子の母親はとてもいい人で、文句を言われたことは一度もなかった。
また、の子の家はとても古い。木造建築であり、床の一部に足をのせると軋む音がした。ふすまの端のほうが破れていたし、畳のところどころがささくれだっていた。窓を引こうとすると、がたがたと音がする。
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もともとその家には、の子の祖父母が暮らしていたらしい。祖父母が亡くなってからしばらく放置していた家に引っ越す形で、二人はそこに住みはじめた。引っ越したのは、の子が三歳のときであり、実は生まれたときからここにいたわけではない。もっとも、母親はここで生まれ育ったとのことで、なじみ深い場所だったのは確かだ。
漆の剝げた和簞笥のうえに、昔の寫真が飾られていた。そこに住んでいたという祖父母と母親が一緒に寫っている寫真だ。が薄くなっていたが、寫真の母親の姿が、の子とよく似ていたことをよく覚えている。
「おじいちゃんもおばあちゃんも、わたしが生まれるまえに死んじゃったから、會ったことはないの」
その家には、當時使っていたと思われるものが多く殘されていた。食は二人分以上あったし、棚のなかにはミシンや裁道がれられていた。俺は、その古い匂いを嗅ぐのが好きで、の子と一緒に、なにがあるかを探ったことがある。
「お母さんがたまに話してくれるけど、すごく優しい人だったんだって」
仏壇の寫真も、和簞笥のうえの寫真も、朗らかに笑う夫婦の姿が映っていた。だから、本當にそうだったんだろうと素直に信じられた。
「わたしも、一度でいいから會ってみたかったな」
の子は、そんなふうに言っていた。當時の家族寫真を眺める顔を見て、本當は寂しいという気持ちもあるんだろうなと勝手にじていた。
俺が小學校3年生、の子が小學校4年生になろうとしていたころ、一つの変化があった。の子の母親が調を崩して院することになった。
手一つで子供を育てているうちに、無理がたたってしまったらしい。町からし離れた、大きめの病院にり、長期間にわたって治療をけるとのことだった。
「職場で、急に倒れちゃったんだって」
なんでもないように話したが、その表は暗かった。突然のことに戸っていた。
の子は、一時的に俺の家で預かることになった。學校に行くときも、並んで一緒に歩いた。さすがに山に行こうという気力はないようで、通學路を往復するだけの毎日だった。
「いつ、戻ってこられそうなの?」
「わかんないよ。わたしにはくわしく教えてくれないから」
蹴られた小石が、傾斜を下っていくところを黙って見つめていた。びた影の先に、3メートルほどの木の幹がそびえ立っていた。
「電話では、よく話してるよね」
「うん。でも、すぐに戻るからいい子にしてて、としか言わないから。そもそも、わたしは、いつもいい子にしてるよ」
一週間、二週間と時が経過して、の子の不安が徐々に膨らんでいるようだった。
そんな日々を過ごしているうちに、の子の提案で一緒に病院まで行くことを決めた。場所を調べて、電車に乗って、一時間くらいかけてその病院にたどり著いた。付で名前を告げると、看護師が、院している病室を教えてくれた。
病室のドアを開ける。の子の母親は、俺たちの來訪にとても驚いた顔をした。
「どうして?」
後ろに大人がついてきていないことを怪訝に思っている様子だった。の子が言う。
「待てないから來たの。いけないの?」
「いけないなんてことはないわ……」
微笑みを浮かべていた。の子は泣かなかったけど、し目が潤んでいた。
母親の顔が、俺にも向けられる。
「介君も、わざわざ一緒に來てくれたのね……」
「連れてこられただけですけど」
やがて、の子の母親が、ベッドの脇をポンポンと叩いた。
「ここに座って……。わたしが結びなおすから」
「あ……」
言われた通り、の子がベッドのふちに腰かけると、左右の三つ編みをほどいた。そして、母親の手によって、きれいに編みなおされていく。俺の家にいる間は、三つ編みを自分で作っていたが、いつもよりも髪がれていた。院前は、ずっと母親に編んでもらっていたのかもしれなかった。
窓の外には駐車場があり、そのそばで、おじいさんが看護師に車いすを押してもらっている。病院の周囲は背の低い草木に囲まれていて、建は敷地の半分の広さも占めていない。病院のある場所だけ孤島のように取り殘されているじがした。
「できたわよ」
見た目はいつもと変わらなかったが、髪から手が離れる瞬間、その母親の手が以前よりも細くなっていることに気がついた。
「介君のご家族に、迷はかけていない?」
の子の代わりに、俺が首を橫に振った。
「それならよかったわ……」
吐息のようにか細い聲も、靜かな病院ではよく聞こえた。
し開いた窓から風がりこんできて、空のカーテンが揺れた。
きれいに結びなおされた三つ編みも、一緒に風に吹かれていた。
「お母さんは、いつ戻ってくる?」
窓の外を眺めていた母親は、その聲に振り向いた。それから口だけで笑う。
「すぐに戻るわ。だから、もうちょっとだけ、待っていてね」
そこから、俺との子と母親の三人で、長い間、話をした。どんな會話をしていたのかは覚えていない。とりとめのないことばかりしゃべっていたのだと思う。普段、の子の母親とはあまり話さなかったから、その時間が新鮮で非常に楽しかった。ずっと暗い顔をしていたの子も楽しそうにしていて、久しぶりに心から笑うことができた。
やがて、日が傾いたころに母親が言った。
「もうそろそろ帰りなさい。晩飯の時間になるでしょう」
「うん……」
名殘惜しそうに、の子がうなずいた。
赤いが窓から差し込んでいる。どの影も長くびていて、赤く染まった世界を黒く縁取っていた。廊下から、人が歩く足音が聞こえた。隣の病室からは、別の人の笑い聲も聞こえた。ベッドのシーツには、カーテンの形をした影がうごめいていた。
母親は、目を細めながらカーテンを引っ張って、窓からのを遮った。窓もあわせて閉じられたので、風の音が聞こえなくなる。
「帰りかたはわかる? もし難しいようだったら、電話して迎えにきてもらいなさい」
「帰りかたはもうわかっているので大丈夫です」
立ち上がった俺につづいての子も腰をあげた。持ってきた財布がポケットにあることを確認して病室を去る直前、俺たちは母親のほうをもう一度見た。
母親は、俺たちのほうを見て、にっこり笑っていた。
「じゃあね」
の子も笑う。久しぶりに母親と話せて、し機嫌よさそうに歩きだす。
そして、そのわずか數日後のことだった。の子の母親が亡くなった。
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