エアコンのランプが、薄く燈っている。暗い部屋のなか、まぶたの裏に焼きついたの子の姿が今も離れなかった。

「――ずっと悔やんでいた。もし、俺の行で未來が変わらなかったとしても、なにもできなかった自分をあれほど憎らしく思ったときはなかった。あんな殘酷な姿ではなくて、もっと、明るくて楽しそうな姿で戻ってきてほしかった」

あのときから、一つ一つの行をよく思い返していた。そのなかで自分ができたはずのことを妄想して、現実ではできなかった自分を責め立てた。

の子の母親が亡くなったときに、の子の將來のことをもっと考えてあげればよかった。

泣いて俺にすがったときに、話を聞いて、どうにか救う方法を見つければよかった。

車を追いかけて靴がげても――

足で走って足の裏にが染みても――

靴なんかほっぽって、

砂利なんかいくらでも踏んづけて、

全力で走って、手をのばして、の子を車から引きずり出さなければならなかった。

もしも過去に戻ったのならば、彼を救うために自分はきっとなんだってする。

あんな思いをするくらいなら、自分のすべてを投げうってでも、助け出す道を選ぶだろう。

失ったことを知ったときに味わった、こそぎ自分のものをはがされたような覚は、それほどに計り知れない痛みを伴っていた。

「２０年近く経った今でさえ、忘れ去ることができない。きっとこれからも、この痛みを抱えて生きていくことになる。だからこそ、こんな痛みを二度と味わいたくなかった。二人のことを知って、助けなければおかしくなると思ったんだ。全部、自分のためだった」

どんなに遠く離れても、自分の魂はいまだにあの場所にいつけられている。

灣を一できる高臺で、宙に熱を奪われながら呆然と立ち盡くして、一人きり、緩やかな風に吹かれていたあのときから、一歩たりとも前に進めていない。

俺は、いつまでもそこに縛りつけられている。

「二人のためと言いながら、自分のそんな勝手な罪悪を解消するためにやっていた側面もある。だから、二人にはそういう意味でも申し訳なく思っている」

俺の左右で橫になっている二人は、口を閉ざしたままだった。重みに耐えかねた苦しそうな吐息がときおり聞こえてきた。

「話しすぎた。もう寢よう」

「尼子さん……」

「やはり、酔いすぎだな。今度からは自重する」

強引にでも話を打ち切らないと、昂ぶったが暴れだしそうだった。まぶたを閉じると、どうしても過去の景が思い浮かんでしまう。普段は意識していなくても、こうやって話しただけで簡単に強いが蘇る。奧底にしまわれているが、いつだって自分のなかに存在する。

ぼんやりした意識のなかで、俺はこぼれそうになるものを懸命にこらえていた。

夢を見た。

いつのまにか鬱なのなかに飛び込んでいて、生ぬるさをにじながら、どす黒い水底に沈む。流されていくがふわふわして、聲を出そうにも息すらできない。水面が見えなくて、強い水圧にしめつけられたまま、ゆるゆるとそこを漂っていた。

が苦しい。不思議と呼吸はしなくても大丈夫だけど、全がじくじくと痛み、手や足に力がらなかった。視界は、黒一で塗りたくられて出口があるのかわからなかった。

すると、急に水のなかを切り裂いて、あの子の姿が現れた。

三つ編みのの子。ピンクのワンピースを著て、俺の頭上を漂っている。

手をばすも、遠い位置にいるせいで、その指先を屆かせることができない。の子は、俺をじっと見ながら、同じ距離を保って浮かんでいた。

２０年も経って、俺の背はずいぶんと高くなった。顔つきは変わり、當時は男の子っぽくないとからかわれた髪型も、きれいに刈りそろえられている。

対して、の子は當時からなにもかわらず、小學生のときの姿のままだった。時が止まって、もうこれ以上、どうやっても先に進めない。の子は、俺と一緒にいたときと同じように笑みを浮かべていた。

目を細めて、を薄く開いて、頬に緩い曲線を作って、俺に笑いかけている。

（……っ）

また、その笑顔を見て、うれしくなって、俺の心が緩んだ。

自分のなかに閉じ込められていたが、一気にあふれ出してくる。

會いたかった。もっともっと會いたかった。しばらく離れた故郷でも、得のしれない場所でも、今住んでいるところでもいい。ともに同じ時間を過ごして、思春期を越え、一緒に大人になってみたかった。かつて、溫かい家庭があり、古びてしまったあとも俺たちを迎えれてくれたの子の家のなかで、くだらない話をしたり、アイスを食べたりしながら、その笑顔をもっと見ていたかった。

失いたくなんか、なかったのに……。

余計に苦しくなって、をかみしめた。その笑顔に手が屆くのならば、どれだけよかっただろう。俺の名前を呼ぶ聲が、心をじんわりと溫めてくれたはずだ。この渇きこそが、俺のなかにできた空の正だと知っている。

夢でもなんでもいい。その笑顔がそばにあるのであれば、きっとなんだって耐えられる。

けれど、俺の願いとは裏腹に、の子が徐々に遠ざかりはじめた。

待ってくれとぼうにも、聲がから出てこない。もう取り戻せないものだと理解していても、その手はどうしたって限界までばしてしまう。だんだんと小さくなっていくの子の姿を、大好きだったその笑顔を、何度だって取り戻したくなる。

（今度こそ、離れたりしないから）

やがて、一筋のが差し込み、俺の夢の世界ごと、々に砕かれた。

目を覚ます。

頭が、ゆっくりと元の世界に帰ってくる。

窓の外から鳥の鳴き聲が聞こえた。開いたまぶたの先に、さっきまでの景ではなく、白い天井や橙の電球が映る。外からり込んだ淡い日差しが部屋のなかをじんわり照らしていた。

――朝か。

腕を頭のうえにのせた。寢る前の頭痛は、噓のように消えていた。酔いは覚めていて、昨日の夜のことがずいぶん前のことのようにじられる。

上半を起こそうとして、に力をれた。しかし、なにかに引っかかっているようでが持ちあがらない。違和のするほうを見ると、実里の手が、俺のシャツの裾をつかんでいた。その目は、まだ閉ざされている。

――寢ているのか。

このままではきができない。どうしようか考えていると、靜けさのなかにまぎれるように、控えめな聲が聞こえてきた。

「好きです」

最初は聞き間違いかと思った。二人ともまだ寢ているし、その容も耳を疑うものだった。

実里のほうを見ると、まぶたは開かれていない。気のせいだと思って目線をずらしたときに、シャツの裾が小さく引っ張られた。

そこには、薄く目を開いた実里の姿。微笑みを浮かべて、もう一度言った。

「尼子さんのことが、好きです」

俺は、その実里の表から目が離せなかった。