《【書籍化&コミカライズ】婚約者の浮気現場を見ちゃったので始まりの鐘が鳴りました》1.腹から聲を出せ

──あれ?なんで我慢しないといけないんだっけ?

ソフィーリア・フォン・ロータスは、まるで啓示をけたかのように、降って湧いた疑問に首を傾げた。

啓示。

まさに啓示だな。なぜ今まで疑問に思わなかったのか、なぜ突然疑問に思ったのか。

賢くないソフィーリアにはさっぱりとわからんが、まあそんなこたぁどうでも良い。いや、もっと早く気付けば良かったとは思うが、ここで気付けて良かったと思おう。

うん、とソフィーリアは頷いた。

わたくしが我慢する必要って、ちっとも無いんだわ。

ソフィーリアは息を吸った。

深く、深く、深く、深く、おおっと吸いすぎた。むせるむせる。よし、むせる前に、

「きゃああああああああああああああああああああ!!!!!!」

思いっきり吐き出した聲は、城中に響き渡ったことだろう。

聲には自信がある。

なんてったって、ソフィーリアは走り込みも筋トレも欠かさない。腹から聲を出すためだ。

か細く儚げな聲なんてのは、うん。可らしいだろう。異を惹きつけるにはピッタリだろうね。

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けれど、説得力とか優雅さとかには欠けちまう。

鍛えたしっかりした聲はそれだけで聞こえ方が違うものだから、ソフィーリアにはそういう訓練も必要なのだ。話す容や話し方だけじゃあない、聲の出し方一つ、息の吸い方一つも、ソフィーリアには自由なんざ無かった。

なんでって、ソフィーリアは半と抱き合ってる王太子殿下の婚約者だからだ。

青い綺麗なおめめをパッチリ見開いて、お揃いの真っ青な顔がまあ、なんておもしろいのかしら。

あっはっは。笑いが止まらんが笑っては臺無しだ。

ソフィーリアはひっ、ひっ、と淺い呼吸を繰り返した。

「で、でんか、そん、そんな、」

そんな馬鹿なおいおい、よく見ればそこに座すはソフィーリアの異母妹では????うっそマジか有難う、やらかしてくれて!!

ソフィーリアは踴りだしたい気持ちを堪え、を震わせる。歓喜の震えだ。

だが悟られてはならんので。とにかく息を吐き続ける。

ああ苦しい。

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じわりと視界がゆがんだ。

「あ、ソフィーリア、これは、その、違うんだ、落ち著いて」

「で、でんか、あ、」

違うって?違うって何かなあああ??

いくら貴族のお嬢様なソフィーリアちゃんだって、男のあれそれは知っている。

ていうか、王妃教育の中にはそういうのだってある。

だってソフィーリアは、王妃の仕事はお茶會とか何某様とのお付き合いとかモンスターの討伐計畫とか孤児院の問とか、そういうものよりも、お世継ぎを産むことなんだって言われた。

え、んーなわけないだろ、なんて言う事は許されない。殿方との夜の過ごし方ってやつも、ソフィーリアは「照れている場合ではありません」とか真面目くさった顔で教科書片手に教わった。

そう、教科書だ。ソフィーリアは実地経験なんてある筈も無いのに、この男はあちこちで予行練習をしているらしい。あ、そういうのがもしかしてそっちの授業科目にってます??なーんて聞いちゃいたいところだけれど、真面目でおしとやかなソフィーリアちゃんはずっとじっと黙ってた。

だってだって、殿方に意見するなんてはしたない。ちょっとした遊びくらいに目くじらを立ててはいけない。って、そりゃあもう何度も何度も言われてきたんだもの。

でもさあそういうのってもう、古いよね。

時は常に流れ、時代は自分たちの手で作るべきで、誰かが辛い思いをするだけの風習だか慣習だかは、鼻かんで捨てるにも使い心地が悪そうだから、床掃除にでも使って捨てちゃおうよ!ってなわけでソフィーリアは駆け付けた護衛騎士達を見つけて、その場に膝をついた。

「ロータス様!」

真っ白なおを曬しておいでのお可らしい妹と違い、地味で平凡な自分が涙目で見上げたって大した効果は期待できないだろうけれど。

まったく効果が無いとは思いたくない、と希をもってソフィーリアは名を呼んでくれた騎士を見上げた。

夜でも輝きを失わないビロードのような黒髪の、とんでもなくしい騎士は、ソフィーリアに向かって手をばし、けれどその手をぴたりと止めた。婚約者のいる貴族令嬢に簡単にお手をれないでくださいって?

なんて紳士!どっかの王太子とは大違いだ。え、どこの王太子って?この國の王太子で、そこで鍛え上げた腹筋を見てくれとばかりに服いだまんまのバカクソ野郎だよ。

「でん、か、が、っあ、は、」

ぎゅ、とソフィーリアは騎士の服を握った。

そろそろ指先が痺れてきたし、本気で息を吐けなくなってきた。うむ、見事な過呼吸だ。

びくびくとを揺らすソフィーリアを見る騎士の目は、あら、とっても辛そうで。ぎゅうと寄せられた眉がとんでもなくセクシーだ。

ねえどうしたの何があったの?なんて思わず聞いちゃいたいくらいだが、いや分の高いが過呼吸起こしてたらそりゃ超困るよねしかもバーンと開けた扉の向こうで、王太子殿下が今まさにおっぱじめようとしてる満載なんだもんねごめんなさい巻き込まれてください!!

部屋に駆け込んだ騎士たちにも心の中で謝りつつも、増える足音にソフィーリアは喜びが止まらない。

オオ神よ最高のシチュエーションを有難う最大限役立てると誓います!!

思わず天を仰ぎそうになったところで、「ソフィーリア様」と、凜と靜かな聲が名を呼んだ。

自慢じゃないが真面目でおしとやかなソフィーリアちゃんは、國王陛下と、それからそこのバカクソ野郎を除けば、家族と使用人くらいにしか男に名前を呼ばれたことがない。

「は」

びっくりして目を合わせれば、飴玉みたいなブルーベリーの瞳がぎゅっと細められた。

「落ち著いてください。をこちらに倒して、ゆっくり、ゆっくり息をして。僕の聲に合わせて、吸って、吐いて、そう、お上手です」

とん、とん、と繰り返し、優しくなでるように、手のひらが背中をたたいている。

そっとソフィーリアの頭を押さえる手は、どこまでも優しく、ソフィーリアを導いた。

穏やかに折りたたまれたソフィーリアのは、騎士の制服に頭を付けて、まるで抱きしめられているよう。心配しなくたって、過呼吸は死ねない。そんなに深刻にならなくたって良いのになあ、なんて。

はは、なんて真面目な騎士だ。王太子は腐って臭ってヘドロみたいな男だけれど、騎士はこんなに頼りがいがあるなんて良いのか悪いのか。こういう人が損をしない、そんな國をつくりたかったのになあ、と気づいたら。

気づいたらソフィーリアは泣いていた。

「誰も見ていません。我慢なさらないでください」

そう、そうね。

「殿下…!!」と悲鳴は宰相のものだし「リリー!!」ってぶあれはソフィーリアの父親の聲だ。ここまで騒ぎが大きくなれば、もう誰も見て見ぬふりなんぞできやしない。

駆け付けた誰も彼もこの大慘事にてんやわんやだ。

それよりも、無理に泣き止もうとすると呼吸が淺くなる。せっかく落ち著き始めてるのに意味がなくなっちまうじゃないか。って騎士のそれはただの事実で。

でも、優しさってやつだ。

いやはや騎士ってやつぁ凄い。ソフィーリアは優しさなんてものは、おとぎ話の中だけだと思っていたし自分にそれが降り注ぐこたぁ生涯無いだろうと、食べたことのない東の國の料理くらいに思っていたのに。一度は食べてみたいなあ、無理だろうなあ、辛くて赤いスープってどんなかしらん、なあんてそんな軽いものだったのに。

恐る恐る、ソフィーリアは顔を上げる。

騎士は、この世の不幸を一に背負っているかのような顔で、でもそれを押し込めるように、優しい笑顔を浮かべた。

「貴は誰よりも頑張ってこられました。もう、休みましょう」

「なぜ…」

なぜ、貴方がそれを知っているの。

なぜ、貴方はわたくしに優しくしてくれるの。

聲にならない聲が、ぼろぼろと落ちていく涙に吸い込まれる。

騎士の服はきっとぐしゃぐしゃだろう。皺が寄って、涙で濡れて、みっともないに違いない。

なのに騎士は、ソフィーリアを嗤うことも詰ることも毆ることも無い。

優しい。おとぎ話のように、ただ優しいひと。

眉間に皺をれて、泣きそうな顔で、やわらかく微笑んでくれる、しい人。

はく、と聲なく口を開くソフィーリアの涙を、騎士はそっと親指でぬぐった。白い手袋を、ソフィーリアは思わず摑む。

摑んではいけない。引きずり込んではいけない。

こんなに優しくて綺麗な人にれちゃいけない。そう思うのに、駄目だった。

そのブルーベリーの瞳が、しくて仕方がない。ぼろぼろの自尊心を包み込むような、労わるような、その甘やかな痛みに彩られる瞳を、ずっと見ていたい。

生まれて初めてじる強烈な飢を、それでもソフィーリアは口にできない。できるはずもない。ただ一言、その一言をきいてもらえたらどんなにか、そう思う事すらくだらないと、ソフィーリアは騎士の服から手を離した。

一人で立ち上がるのだ。いつものように。

でも、そう、うれしかった。どうしようもないくらい、途方もないくらいに、ソフィーリアはうれしかった。ちゃんと頑張れていたんだ、って教えてもらえることが、こんなにもほっとするんだってことを知って、もう一度生まれた気分だ。

大丈夫。

どこへでも行ける。

「有難うございます、リヴィオニス様」

騎士の、リヴィオニスの目が見開かれる。

星が落ちてくるんじゃないかってくらい、き通る夜のような濃いブルーベリーの瞳を見開いて。それで、立ち上がろうとするソフィーリアの手を引いた。

ぽすん、ってあったかい溫に戻され目をぱちくりするソフィーリアに、リヴィオニスの低い、小さな聲が降り注ぐ。

「僕と逃げましょう」

15歳の夜。ソフィーリアがかき集めて固めてきた全ては、星屑になって輝いた。

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