《【8/10書籍2巻発売】淑の鑑やめました。時を逆行した公爵令嬢は、わがままな妹に振り回されないよう格悪く生き延びます!》48、口元だけの笑み
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「シェイマス坊っちゃん! またいらっしゃったんですか?」
オフラハーティ家の領地のひとつ、マートル地方に、今日もシェイマスは足を運んでいた。管理人のトマシュが呆れたような、いたわるような聲を出す。シェイマスは、目の前の養池を覗き込んだ。
「トマシュ、どうだい、鯉は元気を取り戻したか?」
帽子を取りながら近づいたトマシュは、うなだれる。
「水溫は言うことないはずなんですが、餌を食べません。このまま弱っちまうんじゃないかと気が気でないです」
トマシュの心配はもっともだった。
夏に向かうこの時期に大きく育てなければ、真冬の生誕祭に間に合わないのだ。
「旦那様はなんとおっしゃってますか」
探るような視線を向けるトマシュに、シェイマスはわざと明るく答えた。
「まだ時間はあるから様子を見ようって」
「そうですか」
トマシュはほっとしたように帽子をかぶり直した。シェイマスが安心させるように付け足す。
「やっぱり水質だと思うんだ。一見綺麗な水だけど、魚にとっては住み心地が悪いんだよ。そこさえなんとかすれば間に合うはずだ」
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トマシュは黙って眉を下げている。シェイマスは気よく続ける。
「病気ならもっとたくさん死んでいる。水を汚さずに魚に栄養を與えればいいんだ」
トマシュは乾いた笑いをらした。
「それが出來たら苦労しませんよ」
「そう言うなって」
シェイマスは養池を見回して言った。
「以前の挑戦で、藻を減らしても効果なかったことはわかったんだ。しばらく藻を増やして、さらに餌の甲殻類も増やす。トマシュ、馬車に積んである餌を下ろしてくれないか」
「……へい」
疑心暗鬼な様子のトマシュだったが、指示には素直に従った。トマシュが馬車に走るのを見屆けたシェイマスは、広々とした養池をあらためて眺める。
しい、と思う。
だがそれも、領民があってこそだ。
シェイマスはついこの間のオーウィンの言葉を思い出す。
シェイマスが必死になって対策を講じているのを聞いたオーウィンは、面白くなさそうにこう言ったのだ。
ーー出荷量が見込めないようなら、領民からの稅収を上げればいいじゃないか。
シェイマスは自分の耳を疑った。
ーー不漁なのに払えるわけないでしょう?
しかし、オーウィンは軽く言い放った。
ーー知るもんか。
ーー領民が苦しみます。
ーーそれがどうした?
話にならない、とシェイマスはを噛んだ。
ーーいいか、小賢しい真似をしているようだが、領主は俺なんだ。お前は今はただの代理だ。覚えておけ。
その通りだった。確かに領主はオーウィンだ。
だから、今しかない。オーウィンが謹慎している今なら、シェイマスは領民のためにける。
シェイマスは目の前に広がる、大きな水面を見渡した。アルバニーナは、ここの自然が大好きで、シェイマスとクリスティナを連れてときどき靜養に來ていた。都會の喧騒が好きなオーウィンはそれすら馬鹿にしていた。
靜かで落ち著きを好むアルバニーナを、派手で刺激を好むオーウィンはいつもつまらないだと言っていた。
しかしアルバニーナはじなかった。そうですか、と一言呟くだけだ。
母は父を憎んでいただろう、とシェイマスは思う。
自分も、もちろん父が嫌いだ。
立場の弱い領民をひたすら怒鳴りつけたり、気分で指示を変えたりするオーウィンが、シェイマスは子供の頃から吐き気がするほど嫌いだった。
だけど、父を嫌えば嫌うほど、シェイマスの絶は深まった。
アルバニーナはオーウィンとは他人だが、シェイマスにとってオーウィンは親だ。どこに影響が出るかわからない。オーウィンを嫌えば嫌うほどシェイマスの恐怖は増した。
そこから逃れるためにひたすら勉強し、ひたすら本を読んだ。そうすればとりあえず、それ以上不な考えに浸ることは止められたからだ。
だけどアカデミーに進學し、イリルたちと出會ったことで、シェイマスの意識は大きく変わった。王族という立場は、自分以上にと向き合うものだ。なのに彼らは逃げない。
シェイマスはそこでやっと、逃げようとすればするほど、父に囚われることに気付いた。
「だから」
シェイマスはもう一度目の前の風景を眺めて呟いた。
「この場所は僕が絶対に守る……やってみせる」
そう呟くシェイマスの左手首には、クリスティナから贈られた淡い紫のブレスレットが通されていた。ブレスレットは、勵ますように小さく揺れた。
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「お母様? 私の」
新しくミュリエルの侍になったブリギッタは、ミュリエルの金髪を櫛で整えながら頷いた。
「ええ。こんなに可いミュリエル様ですもの。お母様もさぞかしおしかったのでしょう?」
「そうね……」
ミュリエルはにっこりと鏡越しに微笑んだ。思い出の中のエヴァはいつも顔がないのだが、もちろんそんなことを言うつもりはない。
「當たり前じゃない! とっても優しくてとっても綺麗な人だったわ。私と同じ金の髪をしていたの」
「そうですか」
ブリギッタは優しく微笑む。
エヴァが生きていればもしかしてブリギッタくらいの年齢だっただろうか、とミュリエルは思う。
ブリギッタは手を止めずに続ける。
「お母様と同じ金髪ということは、ミュリエル様のお祖母様も金髪だったのですか」
「知らないわ」
ミュリエルはあっさり答える。
「お母様がまだ小さい頃、流行り病でおじいちゃんもおばあちゃんも死んじゃったんだって」
「まあ、失禮しました」
「いいのよ」
「それではどこで奧様は公爵様と出會ったのでしょう?」
「奧様?」
「ええ。ミュリエル様のお母様なら奧様でしょう」
エヴァを奧様と呼ばれることが嬉しくて、ミュリエルはつい饒舌になった。
「お母様は、アルバニーナ様のご実家に奉公に行ってたの。それでこっちに著いてきたのよ」
「もともと顔見知りだったんですね」
「そうよ」
髪はとっくに整えられているのに、ブリギッタは話をやめなかった。
「ではシェイマス様やクリスティナ様のお小さい頃を、奧様はご存知だったのでしょうか? 例えば生まれるときにそばにいたとか」
「さあ。生まれる前のことなんて知らないわ」
ミュリエルは小さな欠をひとつした。もう夜も遅い。
「そうですか。殘念です」
ミュリエルはブリギッタがなぜそんなことを聞くのか、なにが殘念なのかは疑問に思わず、
「髪はもういいでしょう。寢るわ」
と、立ち上がった。
「また、聞かせてください」
そう言ったブリギッタは、口元だけで笑みを作った。
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