《【8/10書籍2巻発売】淑の鑑やめました。時を逆行した公爵令嬢は、わがままな妹に振り回されないよう格悪く生き延びます!》61、ヒースの花のような濃い紫

會場から逃げ出した私とイリルは、まだ騒ぎが広がる前にマレードの店に寄り、乗馬服にを包んだ。そこでもう一頭馬を借りる。街道まで出て、ようやく休憩を取る。馬を休ませながら私たちも木の元に座った。

「つまり私がその『聖なる者』? 噓でしょう」

イリルから詳しい話を聞いた私は、まさかという気持ちを隠せずにそう呟く。

「信じられない気持ちはよくわかる。僕もなかなかれられなかった。だけど、これ」

イリルは懐にれていた黒い石を用心深く取り出した。あれきり石はかない。イリルは石と私を互に見つめて言った。

「君のところにこの石が飛んでくるのを見て確信した」

「そんな……」

確かに石は私に向かって飛んできた。だとするとこれは私の「守り石」? イリルが注意深く石を懐に戻すのを見ながら私はなんとか混を抑えようと頭の中を整理する。「守り石」が私のものだとすると、「特別な子供」はミュリエルじゃなかった? だとしたらお父様はなぜあんなにミュリエルを特別扱いしたのかしら。いえ、お父様はやっぱりミュリエルを「特別な子供」だと思っていたはずよ。だからあんなにいつもミュリエルの言うことは聞いてあげていた。でも、それがすべて間違いだったら? ねえ、もしかしてたかがそんなことで? もしかして? どうして? 混は答えの出ない疑問を呼び寄せ、疑問は別の疑問とくっつき、やがて大きな一つの塊になった。

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ーーじゃあ、今までの我慢はなんだったの、という塊だ。

もし私が最初から『聖なる者』だと分かっていたら、父はミュリエルでなく私を「特別な子供」としてしてくれたのだろうか? して? 何それ。されたいの? 私? まだあの父に? まさか。

「クリスティナ」

イリルがそんな私の手を握った。いつの間にか近くに顔が來ている。私はハッとした。

「僕が守るから」

「……」

「怖いのはわかる。でも絶対に僕が守るから、僕から離れないで。大丈夫だから、怖がらないで。君のことは僕が守る」

「っ……」

気付けば私の頬には涙が流れていた。イリルはそれを指でそっと拭う。泣くなんておかしい。早く泣き止まなくては。イリルを困らせるだけだ。そう思いながらも私はどうしても涙を止めることができなかった。怖いのだろうか。確かに怖い。何が起こっているのかわからない。これからどうしたらいいのだろう。私に何ができる?

「クリスティナ」

イリルがそっと私を抱きしめた。私はその背中におずおずと手を回す。イリルの腕の力がグッと強まる。私たちの間の距離がなくなったので、私の涙はイリルの上著に直接吸い込まれていく。離れなくては。イリルの上著を汚してしまう。そう思っているのに涙は止まらない。そしてイリルの力も弱まらない。イリルので泣きながら、私は子供の頃の自分を思い出していた。父がいて、母がいて、私さえきちんとしていればされると思っていた子供の頃の自分。悲しいのはその頃の私の願いが葉うことがないと分かってしまったからだ。私が泣くのは子供の頃の自分のためだ。この世に存在しないものを私はずっと願っていた。父が見ていたのは私でない私で、ミュリエルではないミュリエルだ。父は結局自分の見たいようにしか私たちを見ていなかった。お兄様のことも同様だろう。

だから、もういい。

もういいのだ。

とっくに諦めたつもりなのに、何回も何回も期待しては勝手に悲しむ。もうそんなことは終わりだ。

「……ごめんなさい」

ひとしきり泣いた後でなんとか私はそれだけ言った。

「どうして謝るの?」

私はそれには答えなかった。その代わり、じっとイリルを見つめて言う。きっとひどい顔をしていると思ったが構わない。

「イリル……『魔』に勝ちましょう」

「クリスティナ?」

「私、みんなのために力を盡くしたい」

巻き戻ったのはそのためなのかもしれない。誰の意思かわからないが、私が『聖なる者』として振る舞うために今ここにいるとしたら。今の私をそのまま見てくれる皆、イリルやフレイア様、リザ様やグレーテ様、お兄様にカールにルシーンに……そんな皆を助けることにつながる気がした。

「分かった」

イリルは緑の瞳を細めて笑った。突然、泣いたことが照れくさくなった私は、慌ててを離した。イリルも両手を上にあげて固まっていた。

「そうだ、これ、イリル、使ってくれる?」

私は乗馬服に移し替えていたブレスレットを取り出した。ヒースの花のような濃い紫。イリルのためだけに作ったものだ。

「ダンスが終わったら渡そうと思ってたの」

イリルは手に取ってすぐに手首に通した。

「ありがとう、嬉しいよ」

ブレスレットは違和なく、イリルの手首に収まった。ブレスレットをれておいた袋をしまおうとして、私はふと言った。

「そうだ、その石、この空いた袋にれておいてはどうかしら」

「そうしよう」

そのままではどこかに転がりそうだったのだ。

ころん、と石を袋にれる。石が満足そうに揺れた気がした。

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