《【書籍化・コミカライズ】手札が多めのビクトリア〜元工作員は人生をやり直し中〜》1 用意周到

ハグル王國の工作員クロエ。それが組織での私の名前だ。

海に面した崖の突端。

ピクニック用の敷を広げ、四隅にその辺の石を置いて飛ばされないようしてから晝食のバスケットを開いた。いつもこの時間に通る近くの農家のおじさんが荷馬車から聲をかけてきたので手を振って応え、印象付ける。

ひと切れだけサンドイッチを食べ、カップに保溫ポットからお茶を注いで敷の上に置いてから立ち上がる。人目がないのを確認してから崖の端にうつ伏せになる。腕をばし、帽子の紐を崖の縁のすぐ下に生えている松の枝に絡ませた。

サンダルをいで崖下の巖場に向かって放り投げる。今日まで大切にしていたペンダントを外して金を元通りに繋げてから力任せに引きちぎり、巖場を狙って放り込んだ。腕の側をし切って出たを皿に溜めて巖場に撒いた。

「よし」

長居は無用だ。傷に包帯を巻く。で汚れた皿をリュックにれて編み上げの短靴を取り出して履いた。崖に背を向け、道の向こう側の山を目指して歩き出した。

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・・・・・

同じ日の夜。

ハグル王國特殊任務部隊、中央管理室。

「ダン、マツールの崖を見にいってくれるか?朝になったら巖場も見てくれ。ヤコブ、警備隊に何か報がってないか確認してこい」

鍛えられたつきの男二人が素早く部屋を出て行く。それを見送ったランコム室長は額を抑えてため息をついた。

「ランコム、クロエはしょっちゅうマツールの崖に行ってましたよね」

「ああ、メアリー。あそこは柵もないから危ないと何度も注意したんだが」

メアリーと呼ばれたは片手で口を覆った。

「クロエに何かあったのかしら」

「大丈夫だよ。何もないさ。念のために見に行かせただけだ」

「彼、私とあなたの結婚がショックだったみたいだし」

「やめなさい。そんなことはないよ。まだクロエに何かあったと決まったわけじゃない」

「だってこんな時間なのにクロエが帰って來ないわ」

もう時刻は夜の八時に近かった。崖の周辺は真っ暗だろう。

「大丈夫だ。何かの間違いだよ。クロエは強い人間だ」

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ランコムはメアリーの肩を抱き、背中をさすってめた。そう、彼の知っているクロエはどんな時でも弱音を吐かない強いだった。

・・・・・

翌日の早朝、私は三つ先の田舎町から出る長距離用乗合馬車の乗客になっていた。

真っ直ぐな栗の髪を派手な赤のカツラに隠し、化粧は濃いめ、ブラウスのの中にはたっぷりの詰め。口元にはホクロをかきこんでいる。っぽい遊び慣れた雰囲気のに変裝している。

長距離用の乗合馬車に乗客は私をれて五人。私以外は全員男で、男たちは細気を振りまく私をチラチラと盜み見していたが、やがて一人の中年男が話しかけてきた。

「お姉さん、どこまで?こんな朝早くから長距離用の馬車に乗るなんて、よっぽどの用事かい?」

「ええ。母の合が悪いらしくて様子を見に行くんです。一人暮らしだから心配で」

「そりゃ心配だな」

男たち全員が耳を傾けている。

「ええ、心配で心配で。でも著くまではやきもきしたところで馬車に乗ってるしかないんですもの。悪いことは考えないようにしようと思ってます」

そう言ってバッグの中から銀のスキットルを取り出した。

「お。そりゃいいな。蒸留酒かい?」

「もちろん。朝だけど長旅なんですもの。みなさんもいかが?」

艶消しの銀のスキットルには普通のカルヴァドスよりも酒を強くした特別な品がっている。「皆さんでどうぞ」と差し出せば大喜びで回し飲みが始まった。自分の番の時は口をつけて飲むふりだけをして次に回す。

やがて馬車はご機嫌でブツブツ獨り言をつぶやく人、ぐっすり眠りこける人で靜かになった。これで私の印象は短時間の限定的なものになる。思い出せても派手な化粧と口元のホクロと赤だけだろう。あ、も思い出すかな。

夜遅くに目的地のサーストンで降りて歩き出した。ここサーストンの町には國境検問所がある。ここから隣國ランダル王國へるのだ。

自分で偽造した分証明書で國境は問題なく通過できた。分証明書には「マリア」という赤の名前が書いてある。マリアの名前は使い捨て。

ランダル王國にった私は人目につかないってカツラを外した。化粧落としので手早く口元のホクロと濃い化粧を落としの詰めも取り出して鞄にしまう。

小さな手鏡で確認すると、華やかでっぽい赤「マリア」は、から出た時には同じ服裝ながら茶の髪と印象に殘らない顔のに変わっていた。

無事にランダル王國に國した私はそのまま馬車を乗り継ぎ、馬車がいていない夜中だけホテルに泊まって二十日かけてランダル王國を橫斷し、その先のアシュベリー王國に國した。國の際に提示した別の分証には『ビクトリア・セラーズ』と書いてある。

ビクトリア・セラーズはランダル王國の実在の人で、行方不明者だ。同じ年齢で外見はまあまあ私に似ていて特徴がない。もう十年も行方不明のまま。家族は散り散りバラバラ。彼報を行方不明者一覧で見た時は(いつか仕事で使える)と思っていたが、こんな使い方をするとは思ってなかった。今回のことで書類上はその人が國を出た、ということになる。

もうクロエはこの世にいない。今日からはビクトリアの名前で生きて行くつもりだ。ビクトリアの的特徴の欄には茶の髪と茶の目、年齢二十七才と長百六十五センチという本來の特徴を記してある。本はもう長が低い。ランダル王國の分証は誰の目にも正規のに見える出來栄えだ。

ビクトリア・セラーズになった私は國境検問所を出てすぐのレストランにった。

「おはようございます。何になさいますか?」

「コーヒーとパンケーキ、ソーセージ二本と目玉焼きをお願いします。目玉焼きは半で二個」

「かしこまりました。お好きな席にどうぞ」

注文したあとは壁を背にした隅の席に座り、ふうぅと息を吐いた。元職場では私が崖から落ちたか飛び込んだかという話になっているだろう。

「お待たせしました」

テーブルに置かれたのは舌を焼く熱いコーヒー、ジュウジュウと音を立てている焦げ目のついたソーセージ、湯気を立てているパンケーキには溶けて染み込み始めているバター。小さなガラスのピッチャーにはメイプルシロップがたっぷりっている。

シロップを全部パンケーキにかけてからナイフとフォークを手に私は旺盛な食でそれらを口に運んだ。目玉焼きはいい合に半だ。工作員から足を洗う決意をしてから一年。そのうち食事を制限したのが八ヶ月。

「はぁ。味しい。これからは食べたいように食べられるわ」

に苦しむ姿を印象付けるために食事の量を減らしていた間、私は常に空腹だった。途中からは心配したランコムに食増進の薬まで飲まされていたから飢は酷かったが、必死に耐えた。重は普段より八キロも落ちていた。

やっと好きなだけ食べられる。

男でも満腹しそうな量の食事を時間をかけて完食し、ホテルを目指して王都の街を歩くことにした。これからは落ちてしまった筋を取り戻さなければ。

やがて大通りにある大きなホテルにり、カウンターに向かう。

「手紙で予約していたビクトリア・セラーズです」

「セラーズ様、お待ちしてました。お部屋は三階です。ご要通り角部屋をご用意しております」

當分はこのホテルを拠點にして今後の生活設計を立てるつもりだ。使える手札は多いのだ。のんびりいこう。私はベッドにポフン、と飛び込んだ。

室長のランコムは私の捜索を続けるだろうか。二つ先の國のアシュベリー王國まで捜索の手をばすだろうか。それともすぐに見切りをつけるだろうか。

「やめやめ。ここで心配しても時間の無駄よ」

これからは誰にも縛られずに自由に生きていくつもりだ。

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