《6/15発売【書籍化】番外編2本完結「わたしと隣の和菓子さま」(舊「和菓子さま 剣士さま」)》ハザクラ、ハザクラ、桜餅(四月)

番外編その2

慶子さんの両親の語です。

病気に関する話が出てきます。

以前書いた語を、大幅に加筆修正しました。

柏木 二郎

柏木 三悠

ハザクラ、ハザクラ、桜餅。

仕事帰りの柏木(かしわぎ) 二郎(しんじろう)さんは、その言葉のリズムを楽しむように、口の中で転がした。

たそがれどきの四月の町は、どこかし浮かれている。二郎さんも然り。これから妻と大學生の娘の三人でフランス料理を食べることを思うと、心は余計に軽やかだ。

風が吹く。

ついこの間まで桜の木に殘っていたわずかばかりの花も散り、枝に茂りだした緑がさざめく。

季節がいている。

それをじながら、二郎さんはあの春の日を思い出した。

出産を二か月後に控えた、四月の土曜日だった。二郎さんは、妻の三悠(みはる)さんのリクエストにより、夫婦でとある有名うどん屋に來ていた。

子どもを産んだ後は、外食もままならないでしょう。

そんな三悠さんの希により、週末のたびにこうして二人で食べ歩きをしていたのだ。

うどん屋を出て駅に向かおうとしたところだった。三悠さんが突然立ち止まる。

「ねぇ、カッシー」

妻の呼びかけに、二郎さんは「ん?」と返事をしながら繋いだ手を合図がわりにし持ち上げた。ちなみに、カッシーというのは、二郎さんのあだ名だ。柏木だからカッシー。命名者は、三悠さん。二人は、中學校時代の同級生だ。

「ほら、見て。あんなところに、桜の木があるわ」

「葉桜だけど、花もしだけ殘っているね。ビルのになっているから、開花がゆっくりだったのかな」

「わたし、葉桜って好きよ。緑が青々としていて、勢いがあって、生きているってじがするもの」

二郎さんは、大きなお腹でにこにこと話す三悠さんをまぶしい思いで見つめた。

「生命力に満ちているって面では、きみと似ているね」

「それは、とっても栄です。あの木、結構立派よね。樹齢、何年くらいになるのかしら」

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二郎さんと三悠さんはその木に近づいた。幹も太くしっかりしている。

「ソメイヨシノだよね。四十年? 五十年? どちらにせよ、ぼくたちよりは長生きしているんだろうな」

「桜の壽命って、どれくらいなのかしら」

「千年以上の木もあるらしいけど、ソメイヨシノに関しては、六十年とか七十年とか。あまり長くないと聞くよ」

「それ、本當なの? わたし、木は人間よりも長生きだと思っていたわ。でも、ソメイヨシノは、違うのね。人間よりも短いなんて、寂しいな」

言われてみればその通りだ。この桜の木も、一般的に言われている壽命通りだとしたら、あと二十年か三十年の命になる。三悠さんではないが、もの悲しい気持ちになった。

「樹齢四十年として、壽命が七十年とするとあと三十年か。三十年後は、ぼくたち還暦だね」

「カッシー、赤いちゃんちゃんこが似合いそう」

「きみこそ」

二郎さんと三悠さんが、顔を見合わせて笑う。

「きみも、わたしたちが還暦まで元気でいるんだよ」

三悠さんが桜の木に向かって言う。

「聞こえているかな」

「テレビ番組で植に話しかけている人を見たわ。だから、きっと大丈夫。伝わったわよ」

三悠さんが、テレビと言えばと、続ける。

「ねぇ、カッシー。昨日、テレビで見た桜の名前を覚えている? 旅番組で紹介された神社で、春に限らず花を咲かす桜が出てきたでしょう」

「不斷桜(ふだんざくら)だよ。初めて聞く名前だったね」

「さすが、カッシー。記憶力いいな。頼りになる」

妻がほほ笑む。

「不斷桜がどうかした?」

「そこの神社の安産祈願のお守りに、不斷桜の葉がっていたじゃない」

「桜の葉が裏か表かで、生まれてくる子どもの別を占うってやつね」

テレビを見ながら、面白いお守りがあるものだと二人して心したのだ。

そして、今。二郎さんと三悠さんの目の前には、たくさんの葉をつけた葉桜がある。つまり――。

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「あの葉がしいの?」

見たところ、枝はそう高くない。ジャンプすれば屆くだろう。……たぶん。

「葉を採る? カッシーったら、なにを言い出すの。あの木を傷つけることなんて、わたしはんでないわ」

「不斷桜の話なんてしてくるから、てっきりそうだと思ったよ」

「深読みしすぎ。桜の葉を見たから思い出しただけ。でも、そうね。一度くらいは本が見たいかも。赤ちゃんが生まれたら、三人で旅行に行きましょう」

「だったら、生まれた子が中學生になってから行くっていうのはどう?」

「それって、わたしたちが出會ったのが中學生の時だから? カッシーって、時々、恥ずかしいくらいロマンチストになるよね」

笑う三悠さんの橫で、二郎さんは唸った。

二郎さんは、三悠さんの二十八歳の誕生日に十二本のバラを贈った。しかし、三悠さんはその花の意味など考えず、本數さえ數えなかった。

後日、花瓶に飾られたバラを見た三悠さんのお兄さんの奧さんは、花を二度見してこう言ったそうだ。

「三悠ちゃん、バラが十二本って、ダーズンローズって呼ばれてね。『わたしの妻になってください』って意味があるのよ」

義姉の言葉を聞いた三悠さんは、本當なのかと、二郎さんに電話をかけてきた。そして「それならそうと言葉で言ってよ。YESよ、YES!」と、怒ったのだ。

「でも、三悠さん。桜の葉は採らないにせよ、桜絡みで、なにかお願いごとがあるんでしょう?」

「カッシーすごい。なんでわかったの?」

「きみが『ねぇ、カッシー』って言うときは、要注意なのさ」

「そうかしら? わたし、あなたにそんなにお願いなんてしたかしら?」

「高校のときに、校ハーフマラソンの子の部で優勝したいから、練習で一緒に走ってくれとか。トランプのマジックをマスターしたいからつき合ってくれとか」

「マラソンね。あれ、わたしはもちろん優勝したけど、カッシーだって男子の部で8位賞できたじゃない。手品に関しては、黒歴史よ。わたしはさっぱりできなかったのに、カッシーったら、さっさとマスターしちゃってさ」

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「ぼくだって、できる手品は結局あれ一つだけさ。で、今日のお願いはなんだい?」

三悠さんの瞳がきらめく。

「ねぇ、カッシー。葉桜って、桜餅に似ていると思わない?」

「桜餅? あの和菓子の?」

しだけ殘った淡いピンクの花と、緑の葉を見ていたら、もう、桜餅にしか見えないんだけど」

「そう言われれば、そうかもしれないね」

「ねぇ、カッシー。わたし、桜餅が食べたい」

三悠さんは、二郎さんと繋いでいた手を、ぶんと振る。

そして「ハザクラ、ハザクラ、桜餅」と唱えながら、歩き出したのだ。

三悠さんの呪文が効いたのだろうか。一分も歩かないうちに、二人は有名和菓子屋の前にいた。

結論から言うと、歩いて一分の有名和菓子屋に桜餅はなかった。

店を出た三悠さんは不機嫌顔だ。

「桜餅って、一年中売っているわけじゃないんだな。知らなかったよ」

「桜餅が食べたい」

「売ってないものは買えないよ。柏餅じゃだめなの? 桜餅でも柏餅でも、餡子と餅なんだから。同じじゃないかな」

「違う。全然違うよ。カッシーには和の心がないの? 桜餅は桜餅で、柏餅は柏餅。わたしが食べたいのは、桜餅なの。あの、桜の葉っぱの匂いとか、塩気とか、それを求めているの。柏餅じゃだめなの」

和の心って、なんだ。

三悠さんとのつき合いは長いが、彼が桜餅にこだわりをみせたことはない。ケーキやら、スコーンやら、チョコレートやら。彼が好きな甘いものは數あれど、和菓子はなかったぞ。

二郎さんは、突然桜餅ファンクラブに會した三悠さんをデパートのティールームで待たせ、地下の食料品売り場へと向かった。

デパ地下といえば、食の寶庫。桜餅だって、すぐに買えるだろう。

しかし、二郎さんは甘かった。

桜餅がないのだ。

しつこいようだが、売り切れではない。

売っていないのだ。

その代わりにあるのは、初めに行った和菓子屋と同じく柏餅。

まだ四月である。

なのに、柏餅?

なぜだ。

もしや、これ、常識なの?

それからが大変だった。

二郎さんは、手當たり次第に次々とデパートにっては、和菓子屋を探した。

しかし、あるのは柏餅。二郎さん。もう、目がテン。

柏木という名字から、柏餅に親近を抱いていた二郎さんだったが、行く店行く店で目にする大きな柏の葉に、段々と嫌気がさしてきた。

桜餅探しは、そう簡単にはいきそうにない。

こりゃダメかな。そう諦めかけたとき、救いの神のような店が一軒、二郎さんの目の前に現れた。

ピンクしたつぶつぶとした餅を上下二枚の桜の葉で挾んだ桜餅が売っていたのだ。

神様ありがとう! そう思った二郎さんの目に、「道明寺」と書かれた札が飛び込んできた。

道明寺ってなんだ?

このピンクの菓子は、桜餅じゃないの?

二郎さんは冷や汗が出た。

いやいや。この際、もう名前なんてなんでもいい。

自分には、これが桜餅に見えた。だから、これは桜餅なのだ。

そのとき、ふっと以前三悠さんが言っていたことを思いだした。あれ? うちの奧さんって、甘いものを食べてもよかったんだっけ?

そうは思ったものの、あの桜餅モンスター化した妻を黙らせるためには、ともかく桜餅が必要だった。

二郎さんは大きく深呼吸をすると、それを二個買い、そして三悠さんの待つティールームへと戻った。

ティールームに著くなり、二郎さんは三悠さんの前に立ち、そのまま彼の水を飲みほした。二郎さんは、一時間以上、街のあちこちを歩き、妻のために桜餅を探したのだ。

「……甘い」

「水が甘いの?」

ぼくが、君に甘すぎるんです。

こっちの言いたいことはわかっているだろうに、三悠さんはとぼけた顔をした。

席に座った二郎さんは、店員さんが運んできた水も飲みほした。ようやく人心地ついた。三悠さんは、夫から渡された和菓子屋の袋に上機嫌である。

「あのさ、いまさらなんだけど。このあいだの産科の定期検診のあと、甘いものは食べちゃダメなんだって言っていなかった?」

「あら、カッシー。違うわ。わたしは言っていないわ。言ったのは、先生だもん。『柏木さん、お菓子の食べすぎはダメよ』ってね」

「妊娠なんて、男にはどうやってもわからない世界なんだから、専門家の意見はきちんと聞いて守ってよ」

「大丈夫だってば。だってわたし、かすようにしているし、むくみだってないし、圧だって正常だし。重もね、あくまでもこのままの上り調子でいくとダメってわけで、今のままでキープすればいいんだから」

「また、すぐそうやって。もっともそうなことを言っては、こっちを丸めこもうとするんだから」

「ふふ。丸めこまれてよ、カッシー」

三悠さんは、男兄弟の中で育った。

そして、その唯一のの子は「弁が立つ、とてもよくしゃべるの子」でもあったのだ。結婚の挨拶に行った時も「三悠一人で、五人分賑やかですから」と、言われたほどである。

でも、二郎さんは、そんな三悠さんが好きだったのだ。

三悠さんとのポンポンと弾む會話が、大好きだった。

三悠さんの聲も好きだった。

三悠さんの聲は、自分のにしっくりとくるのだ。

三悠さんの聲を聞くたびに、その聲が自分のの水分に溶けていくような、そんな心地よさがあった。

つまりが、べた惚れなのだ。

妻に。

ティールームを出て、し離れた駅へと向かう。すると、再びあの桜が見えた。

風が吹く。

花びらが舞う。

二郎さんの橫を歩く三悠さんが、なにを思ったのか、大きく口を開けてその花びらを食べようとしだした。

パン食い競爭みたいだな。

二郎さんの視線に気がついた三悠さんが、いたずらっ子の様な顔で、まさにパン食い競爭のごとく顎を突き出す。

けれど、花びらは彼の口にはらず、鼻の頭にぴたりと張りついた。小さな鼻に花びらをつけた妻を見て、ぼくは一生この人が好きなんだろうなと、二郎さんは思ったのだ。

帰宅後、桜餅を食べ終えた三悠さんは、神妙な顔つきになった。

「カッシー、ごめんなさい。あなたに、あんなに頑張って買ってきてもらった桜餅だったけど、やっぱリ食べるんじゃなかったわ」

「どうした? 合でも悪くなった?」

「違うわよ。カッシーが買ってくれた桜餅。すごくおいしくて、丁寧に作られているなぁって思った。それを見ていたら、わたし、ちょっと恥ずかしくなっちゃった」

桜餅を見て恥ずかしくなる?

三悠さんの思考回路がわからない。

「あんな小さなお菓子にでさえ、人の手はかかっていたのよ。わたし、そんなつもりはなかったけど。お腹の赤ちゃんのことを考えているつもりだったけど」

そう言うと三悠さんは右手を上げ「食べすぎには注意します」と、宣言したのだ。

風が吹いた。

幸せな思い出がぱっと消えると、今度は一転して苦い記憶が蘇ってきた。

二人は病院の診察室にいた。

お腹にいた二人の寶である一人娘の慶子(けいこ)さんは、中學生になっていた。娘の大金星の中學験を家族みなで喜んでから、一年も経っていない。

診察室では、検査結果をふまえた醫師から三悠さんの病名が告げられ、それを治療するには難しい手が必要だと説明があった。

思いがけない「告知」に難しい「手」と続き、何も言えない二郎さんの隣で、三悠さんは淡々とその醫師に質問をしだした。

のリスクについての詳しい説明と、セカンドオピニオンのこと。

また、それをするだけの時間的余裕が、自分にあるのかどうかということを。

それに対し醫師は、手をしない場合とした場合、それぞれのリスクと見解を述べた後、三悠さんがむなら他の病院の醫師あてに紹介狀を書くと言った。

そして、それはなるべく早くに行うのが好ましいと。

そういった一連のやり取りを隣で聴きながら、妻には予と覚悟があったのだと初めて悟った。

このところの三悠さんの調不良は、二郎さんにもわかっていた。けれど、あれだけ元気な三悠さんだったのだ。きっと、すぐに良くなる。勝手にそう思っていた。

――いや、違う。そう、思いたかったのだ。

自分は、現実を見ていなかった。目の前にいる三悠さんの姿ではなく、過去の元気だった姿しか見ようとしていなかった。変化を恐れていたのだ。

二郎さんは、妻の手を強く握った。

そして、妻と同じように醫師を、この先に広がる運命を真っ直ぐに見た。今度こそ、へまはしない。起こる現実から目をそらすまいと誓った。

それから、二人でその病気の権威と言われる病院と醫師を探した。

主治醫を見つけた。

しかし、病は病を呼ぶのか。

最初の病気が一段落ついた三悠さんのを、別の病が襲った。

地獄だった。

また一からの病院探しが始まった。

荒れる海に漕ぎ出す船に乗るかのように、妻と娘を抱きしめながら二郎さんは必死にき、働いた。

働きながら妻のの回りの世話をした。

家の事は、娘に頼んだ。

一日が、あっと言う間に過ぎて行った。

そんなある日、妻から病院の売店で買った小さなハンドクリームを渡された。

それを娘に渡してほしいと。

帰宅し、ふと娘の手を見た二郎さんは愕然とした。

白くてふっくらとしていた娘の手が、荒れてがさがさになっていたからだ。

さらには、娘の部屋のゴミ箱で、既に過ぎた保護者會や運會のプリントもみつけた。

それらは、小さく小さく折り畳まれて、捨てられていたのだ。

父親に見つからないようにという思いと、でもだからといって、そのプリントを破いて他のゴミと一緒には捨てることができなかった娘の不用さが、やりきれなかった。

自分は、妻と娘を抱きしめながら生きていると思った。

しかし実際は、妻と娘に抱きかかえられてようやく生きていたのだと、二郎さんは気がついた。

とはいえ、どうしても時間は足りない。

ずるいと思いながら、知っていながらも、二郎さんは慶子さんの為には十分にけなかった。

こんな自分は、親とはいえないと思った。

妻の病気と娘の健気さと自分の不甲斐なさに、涙が出た。

そんな日が続いた。

何度目かの春の日、家路を急ぐ二郎さんの足元に、はらりと桜の花びらが舞い落ちてきた。

見上げるといつの間にか桜は花を全て咲かせ、いつかの春を思わせる新緑もちらほらと見え始めていた。

ふらふらとった近所の和菓子屋で、二郎さんは二つ桜餅を買った。

高校一年生になった娘と二人で、夕飯のあとに食べることにしたのだ。

夕飯の支度は慶子さんがしてくれていた。

三悠さんが家にいる時は、料理一つできなかった慶子さんだったが、この頃にもなると、なんとか一通りのことはできるようになっていたのだ。

そして、あの日からハンドクリームも使うようになり、手の荒れも減っていた。

「お母さんがね」

皿の上に載った桜餅を見ながら二郎さんがそう話し出すと、慶子さんはぱっと顔を上げた。桜餅は、いつか二郎さんが買った道明寺とは違っていた。小さなピンクのクレープ狀の生地が二つ折りとなり餡を挾んでいたのだ。そして、その皮を桜の葉が包んでいた。

「慶子がお腹にいるときに言ったんだ。葉桜は桜餅に似ているって」

――ねぇ、カッシー。葉桜って、桜餅に似ていると思わない?

「葉桜が桜餅」

慶子さんはそうつぶやくと「食いしん坊のお母さんらしいね」と言って笑った。その笑顔は、ぽっと咲いた小さな花のように優しいものだった。

自分は親を放棄していると言ってもいいのに、娘のこの優しさはなんなのだろう。二郎さんは目頭が熱くなった。

と同時に、この場にはいない三悠さんの存在を大きくじた。

娘のこの笑顔は、父と娘のこの時間は、あの春の日の三悠さんが、自分たちに與えてくれたものだからだ。

二郎さんはお茶を飲むと、ふぅと息を吐き、そして大きく吸った。

すると吸った息がの隅々まで行きわたり、細胞が目覚めるようなそんな不思議な覚に襲われたのだった。

二郎さんは、桜餅探しの顛末と、三悠さんが桜餅を食べて反省した話を慶子さんにした。

「食事制限なんて、まぁ、実際は心配するほどには、気にすることもなかったようなんだけどね」

「そうだったの?」

「うん、むしろ重云々よりも妊婦さんとは思えないお母さんのフットワークの軽さに、お父さんは冷や冷やしたよ。シャキシャキというか、ちょこまかというか、お母さんはよくいていたからさ」

「そうよね。お母さん、元気な人だもんね」

慶子さんが昔を思い出すかのような目をして言った。

「そうそう。お母さんは生命力が服を著ているような人だから」

二郎さんの言葉に慶子さんは大きく頷くと「そうだよね」と言い、もう一度頷いた。

二郎さんから「生命力が服を著ている」と言われた三悠さんは、退院を繰り返す生活を続けながらも徐々に良くなり、慶子さんが高校三年に上がる前には、自宅からの通院治療のみで過ごせるようになった。

――そして現在。

三悠さんが完全に自宅で生活をするようになって迎えた、これが二度目の春だった。

予約した、住宅街のフレンチレストランの前に來ると、道の向こうから妻と娘がやって來るのが見えた。この店は、うまい料理と広い庭が人気の一軒家で、週末の予約は七月までうまり、平日しか取れなかったのだ。

今日は、遅ればせながら、慶子さんの高校卒業と大學學祝いを兼ねての席だった。

慶子さんのことを思うと、二郎さんのには、ほろ苦いものが広がった。

自分や妻の中學、高校時代と比べて、娘のそれはあまりにも彩りがないものだったからだ。

せめてもの救いは、高校三年生の一年間だ。

あの一年で、娘は変わった。

十八歳のの子が、自分のことだけを考え、自分の將來について悩んだ。そんなあたりまえのことさえ、娘はそれまでできなかった。

友だちも増えたようだ。

……どういう訳か、和菓子も好きになった。

大學の進學さえ、和菓子が絡んでいる。いつの間にか近所の和菓子屋でアルバイトをはじめ、その店の將さんと三悠さんはメル友らしい。

二郎さんの知らないところで、どんどんと囲い込まれているような気がしたが、あの和菓子屋は家から歩いてすぐである。慶子さんが、いつか、どこかにお嫁に行くのであれば、近いにこしたことはない。

そんな父親の気持ちなど知らぬ慶子さんは、どこからどう見てもとは程遠い様子だ。けれど、親の目かもしれないが、日に日にきれいになっていく。そんな娘の姿を見ることができない誰かを気の毒に思う反面、どこか優越もあり。娘を持つ父親の気持ちは、つくづく複雑だ。

和菓子と言えば、慶子さんのおかげで、二郎さんの長年の謎が思いがけず解けることになった。

――そう、道明寺と桜餅の関係だ。

慶子さんの話によると 関東でいうところの桜餅とは、以前、近くの和菓子屋で買った、小さなクレープ狀の生地を餡で挾んだ菓子を指すことが多いらしい。

一方で、二郎さんが三悠さんに買った道明寺も桜餅でいいそうだ。関西では、桜餅と言えば、道明寺を使ったこの餅が主流だそうだからだ。だから、あの日、三悠さんのために買った菓子は、道明寺でもあり桜餅でもあったのだ。

レストランのり口に立ち、二郎さんは妻と娘を待った。そして、娘を中心に三人一緒に店の門をくぐった。庭は評判通り広く、青々と葉を茂らせた桜の木もある。

「ねぇ、カッシー」

出るか出ないかの聲で、三悠さんがその懐かしい名を呼ぶ。

昔とはその聲は変わってしまったが、この聲は、三悠さんがリハビリにより手にれた聲だった。

世界中のどんな聲よりも、二郎さんにとっては尊い聲だ。

いたずらそうな三悠さんの瞳がキラキラと輝いている。

「ねぇ、カッシー。葉桜って、桜餅に似ていると思わない?」

風が吹く。

桜の葉が揺れる。

今、三人がここに揃い歩く様子は、夢のようだと二郎さんは思う。

ハザクラ、ハザクラ、桜餅。

ぼくたち三人、元気です。

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