《6/15発売【書籍化】番外編2本完結「わたしと隣の和菓子さま」(舊「和菓子さま 剣士さま」)》餡子嫌いの若鮎(五月)
ご注意ください!
主人公が、子どもを手放す離婚についての記述があります。
辛い思いをされたり、不快な気持ちになる方もいらっしゃると思います。
ご心配な方は、お読みにならないことを、お勧めします。
今回の菓子はタイトルどおりの「若鮎(わかあゆ)」です。
田中 那(學 実母)視點の語です。
青々とした葉を揺らし、薫風が吹く。
一年の中でも若く勢いのあるこの季節を迎えるたびに、田中(たなか) 那(なみ)さんの心は、ざわざわとした。
心の中は、果てしない罪の意識と、果てしない謝の気持ちが混ざったマーブル。
――「ありがとう」
その言葉を思い出すだけで、那さんは泣きたくなる。
そして思う。
あの鈴木家の父子(おやこ)は、格は全く似ていないのに、言うことは似ていてずるい。
悔しいほど男前過ぎて、ずるい。
那さんが、一度目の結婚相手である鈴木(すずき) 元(はじめ)君と出會ったのは、桜咲く三月。パリ発東京行きの飛行機の中だった。
「そこのチョコレート、うまいよな」
隣の席から、し低めのやけにいい聲がした。若い男の子である。
「うまいって、これのこと?」
那さんがチョコレートのパッケージを見せると、彼は肩をすくめた。
隣の席の彼は、明らかに二十五歳の那さんよりも若かった。の敵と思うほどに、おがつるっつるなのが癪に障る。著ている服は高くはないだろうが、清潔がある。大學生だろうか。
「このチョコレート、さっき空港で買ったの」
お隣さんは頷くだけで話にのってこない。
「あなた、チョコレートが好きなの?」
なおも無言である。
「あなたね、話しかけてきたの、そっちだよね。だったら、會話を展開していきなさいよ。ぼくもチョコレート好きなんです、とか、他にもお勧めの店ありますよ、とか。ここのチョコレートを知っているってことは、あなた、それなりに詳しいんでしょう?」
「元気そうだな」
「なによそれ」
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「さっき、飛行機に乗ってきたとき。あなた、死にそうな顔をしていたから」
彼のその察力に、那さんは何も言えなくなった。
パリに赴任した人に、サプライズで會い行ったらがいました。
言葉にしてしまえば、たったそれだけのこと。けれど、その破壊力たるや、半端ない。
人は五歳年上の會社の先輩だ。お付き合いして二年。そのうちの一年ほどは、東京とパリとに別れ、遠距離である。
寂しくないの? と、會社の同僚や先輩、そして友人に聞かれるたびに、しおらしい表を浮かべてみるけれど、実は那さん、そのシチュエーションを楽しんでいた。人に會いにパリへ行くなんて、まるで、映畫やドラマのようだと思ったからだ。
できたら月に一度は會いに行きたい。けれど、就職をきっかけに実家を出て一人暮らしを始めた那さんだったので、さすがにそこまでの渡航費を捻出するのは難しかった。それでも安い航空券を探して、那さんは人に會いに行っていた。
「仕事ができるが好きだ」
人は、那さんの仕事も応援してくれていた。
も仕事も絶好調だったはずなのに、ここ三か月、どうも調子がおかしい。那さんが関わる仕事で小さなトラブルが続いただけでなく、人も仕事が忙しいのか、毎日屆いていたメールが二か月ほど前から途切れがちになっていた。
ようやく仕事が一段落した那さんは、迷わずパリへ向かった。今回は、前から一度やってみたかったサプライズ訪問というやつだ。部屋の鍵は、彼から渡されていた。
その鍵で、那さんは人が暮らすアパートメントへとった。人はとても元気そうだった。元気に、那さんの知らないと、いちゃついていた。
お決まりの修羅場のあと、那さんは空港へ戻り、一番早く日本へ戻れるチケットをとった。
出発までの時間、空港のロビーで、那さんのは山あり谷ありとなった。
初めは、怒るなんて言葉じゃ足りないほどの怒りと憤りと悔しさで、肩までのストレートヘアが逆立っているんじゃないかと思うほど、頭にが上った。
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しかし、怒りは徐々にを変え、挫折へと落ちて行った。
みじめだった。自分がとして落第したような気持ちになった。
は、ふりふりのエプロンをに著けていた。那さんは、モノトーンを好む人に合わせて、服裝だってシンプルだった。詐欺だ。
挫折は次第に悲しみへと変わった。そして、悲しみは自信喪失へ向かった。搭乗時間が近づくにつれ、那さんの心は、パリの厚い雲よりもどんよりとしていった。
このままじゃダメだ。甘いものでも食べて元気を出さなくちゃ。
那さんは、殘り時間のぎりぎりで、會社のスイーツ好きの先輩から教えてもらったチョコレート店を見つけてったのだった。
那さんは、改めて隣の席の彼を見た。
「あなた、人はいる?」
「いないよ。あなたは?」
「別れてきたところ。會社の先輩だったの。パリに駐在になって一年。フランスに遊びに來た大學時代の同級生と再會して、できちゃったわけ」
那さんの話に、お隣さんが肩をすくめる。
「彼、わたしが相手だと安らげないんですって。そばにいて愚癡を聞いてくれる(ひと)がしかったんですって。だったら、わたしとの関係を終わらせてから、彼と付き合えばいいのよ。あんな態度、わたしだけじゃなくて、彼にも不誠実だわ」
「男前だな」
「わたし、何も知らないで東京からパリまで行っちゃった。バカみたいでしょう」
「バカは、男だろ」
「そう思う?」
お隣さんは答えない。
「ねぇ、やっぱり、彼には癒しを求める? いかにもの子ってじの、ふりふりエプロンが似合うが好き?」
「どうかな」
「そっか。まだ、學生さんだもんね。仕事の悩みなんてないから、癒しがしい覚、分からないか」
「學生じゃないよ」
「そうなの? あなた、いくつ?」
「人に聞く前に自分から言えば」
この生意気なクソガキめ。
心とは裏腹に、那さんはとびきりの笑顔を見せる。
「わたしは、二十五歳よ」
「俺は、二十一歳」
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そう答える彼は、意外にもし悔しそうだった。
彼は、鈴木(すずき) 元(はじめ)君といった。
しかも、この元君、フランスで菓子の勉強をした帰りだと言うではないか。
「日本に帰ったら、ケーキ屋さんで働くの?」
元君がまた肩をすくめる。これは、彼の癖なのか? なんだかなぁと思うけれど、背びをしたいお年頃なのかもしれない。二十一歳といえば、新卒社の社員よりも若く、別れた人より十歳近く年下になる。
十歳! 那さんは一気に老けた気持ちになった。
元君は若い。見ているこっちがくすぐったい気持ちになるほど若い。若さとは、とてつもないエネルギーと可能を持っている。何かに向かい進んでいく、登っていく。
隣に座り息をしているだけでも、彼からはプラスの勢いしかじられない。若さって、すごい。那さんとて、會社では若手の部類にるけれど、いやはや、降參です。
那さんは、元君と話しをすればするほど、彼に好を抱いた。元君の地に足の著いた言いに心した。
「君って、育ちがいいのね」
元君は、話す言葉や抑揚に落ちつきと品があった。そして、やっぱり聲がいい。し低めで、艶がある。今でも、なかなか素敵な男の子だけれど、年を重ねたほうが、男っぷりがあがるだろうと想像できた。
那さんは社會人になってから、男もも四十歳を過ぎるあたりから魅力が増すタイプがいると知った。知らなかった世界である。
ふいに、元君が日本人とこんなに長く話すのは久しぶりだと言い出した。修業先でも、日本人は彼だけだったそうだ。
「外國の人たちの中で、孤獨はじなかった?」
「ないと言えば噓になるけれど。それが海外に出た目的でもあったから。自分がマイノリティとなる場所にを置き、過ごしてみたかったんだ。フランスを選んだのはたまたまだったけど、日本にいたら、それは葉わないから」
そう話す元君に悲壯はなく、瞳も澄んで清らかだ。しかし、そうはいえども、決して甘い時間ではなかったはずだ。それが辛くてふりふりエプロンを選んだ男だっているのだから。けれど、元君はそれさえも、糧にしたということか。
元君は、いい子だ。考え方が健やかで強く、ぶれがない。那さんは彼と話すうちに、気持ちが段々とフラットになっていくのをじた。
「あなたと話していたら、ぐちぐち悩むのがバカバカしくなったわ」
「別に、俺と話さなくても、あなたは自分でちゃんと立ち直ったと思うよ」
「それはそうかもしれないけれど。ここまでのすがすがしさはなかったかもしれない。それにね、誰かとかかわって元気になるって、気持ちのいいものなのよ」
「……よくわからないな」
「だって、そこに、素敵な出會いがあったってことだもの」
そうなのだ。那さんは元君と出會えて、とても嬉しいと思っている。しかし、元君はピンとこないのか首をかしげた。
「あなたみたいに、努力を惜しますに、実直に生きている人がいるって。そんな人がいるって知るだけで、とても勵まされるの。わたしも頑張ろうって、元気をもらえるの」
「……それはよかった」
照れているのか、元君は言葉なだ。
「あなたのご両親、きっと素敵な方々なんでしょうね」
「素敵かどうかは分からないけれど、父も母も、息子が見ていて恥ずかしくなるほど、夫婦仲がいい」
渋い顔でそう話す元君に、那さんは笑ってしまった。
パリから東京までの約十二時間、那さんは、心地よいフライト時間を送ることができた。人のアパートメントを飛び出した時には、予想さえしなかった。那さんは、思いがけず良き旅の友を得たのだ。
一期一會という言葉が浮かぶ。
人生って、なにが起こるかわからない。
將來、今日のこの日を思い返すとき、那さんの頭に浮かぶのは二年間付き合った人ではなく、十二時間一緒に空の旅をした元君の顔かもしれない。それが嬉しい。
飛行機が著陸した。那さんはふと思い、財布にれてあった會社の名刺を元君に渡した。
「もし、近くまで來ることがあったら連絡して。お晝でも奢るわ」
「この會社のそばに、和菓子屋があるだろう」
「あるある。すっごい立派なお店が。わたしの會社って、海外の企業との取引が多いの。接待の一環としてその店で開かれる和菓子教室に、外國のお客様やそのご家族を案するのよ。わたし、そういった接待全般を引きける窓口で働いているの」
那さんの説明を、元君は興味深そうに聞いていた。それなのに、元君は自分の連絡先を、那さんに渡してこなかった。
し殘念な気がしたけれど、二十一歳の男の子にしてみれば、二十五歳なんておばさんなのだろう。きっと元君は連絡してこない。もう、これきりなのだ。那さんは、しセンチな気分になった。
その6日後。
那さんは、元君と再會した。
場所は、那さんの會社のそばの有名和菓子屋だ。
元君は、和菓子を買いに來ていたわけではない。そこで働いていたのだ。
お客様をタクシーに乗せた後、那さんは急いで和菓子屋に戻った。そして、和菓子教室のアシスタントとして後片付けをしていた元君に近づく。
「ちょっと、あなたね。ここで會うって分かっていたのね」
機でのやりとりを思い出す。那さんの名刺を見て、彼はこの和菓子屋が那さんの會社のそばにあると言っていたのだ。こんな有名店、昨日今日で働けるはずがない。彼の口ぶりから考えると、帰國前からこの店での仕事は決まっていたのだ。
元君は仕事の手を止めると、まっすぐなまなざしを那さんに向けた。その視線の強さに、那さんは胃がキュッとまる。
元君は背が高く、細だけれどつきはしっかりとしていた。そしてなにより、立ち姿がりりしい。機で座っているときには気が付かなかった。
やばいと思った那さんに追い打ちをかけるように、元君が不敵な笑みを浮かべた。
その瞬間、那さんの世界はぐるりと変わった。
目の前にいるのは、飛行機の隣の席にいた、年下でし生意気だけど、素直で育ちのいい子なんかじゃなかった。
やられた、と思った。
けれど、やられたくなんかない那さんは「覚えておきなさいよ」なんて捨て臺詞を殘して、その場を立ち去ったのだった。
その後も海外からのお客様は絶えることなく、好評の和菓子教室での接待は続いた。結果、元君と顔を合わせる機會も増えた。
それにしても、なぜフランスで洋菓子の修業をしてきた元君が、和菓子屋で働いているのだろう? 逆に言えば、なぜ、和菓子屋で働くのに、フランスに行ったのか?
そんな謎さえ解くこともできないまま、那さんはただ彼を見つめるだけだった。
元君は、所作がきれいだ。材料や道も大事に扱い、お客様にも丁寧に気よく付き合っている。彼は、言葉もそれなりに話せるので、海外からのお客様とのコミュニケーションがスムーズだ。元君の評判は、會を重ねるごとに上がった。アシスタントにる職人さんは何名かいたのだけれど、那さんの會社は元君を指名してお願いするようになった。
「あなたは、やらないんだな」
すれ違いざまに、元君から聲をかけられた。久しぶりに間近で聞いた彼の聲に、那さんは鳥が立った。
「わたしは仕事で來ているんだもの。できないわよ」
「一度やってみればいい。仕事が休みの日にでも、作りにくれば?」
「餡(あん)が好きじゃないから、和菓子は苦手なの」
かろうじて裏返らなかった聲にほっとする。
嫌いなのは、餡だけではなかった。
苦労してった會社だというのに、最近、嫌気がさしたというか、仕事がしにくくなっていたのだ。
人と那さんの破局は、いつのまにか職場に広まっていた。那さんは黙っていたので、彼からのリークなのだろう。時折向けられる視線の痛さから、同というよりは、非難されているのだとじた。
「ふつうは、仕事を辭めて彼についていくよね」
そんな聲も聞こえた。
「フランス帰りの奴、調子に乗りすぎているよな」
和菓子教室の最中、參加者の子どもをトイレに連れて行った那さんの耳に、そんな言葉が飛び込んできた。視線を聲のほうに向けると、以前、何度か顔を合わせたアシスタントの男職人の姿があった。
異質は排除される。
排除しようとする側は、常識や正義という名のもとに、そこから外れると判斷した人々を言葉や行為で正しい道に導こうとしているのかもしれない。
人を支えるために會社を辭めてパリに行かない那さんも、和菓子職人として働いているのにフランスで洋菓子修業をしてきた元君も、その人たちからすれば、正しくない存在なのだろう。
もやっとした気持ちで和菓子教室に戻った那さんの目に、黙々と自分の仕事をしている元君の姿が映った。元君はアメリカ人夫妻へのフォローをしていた。今日の菓子は、花菖だ。いかにも五月らしい。
菓子は、すでに仕上げの段階にきていた。夫人が薄紫の練りきりに三角のへらで、はなびらを模すように線をれている。うまくできたのだろう。夫人の顔に笑みが浮かぶ。元君はそれを靜かに見ていた。
これが答えだ。
那さんの頭に、そんな言葉が浮かぶ。
先輩職人がなんて言おうと、元君がこの店に來るまえにどんな経歴があろうとも、今、彼は自分の仕事に真摯に取り組んでいる。
その事実を、フランス帰りだとかなんだといった言葉で汚されるいわれはないのだ。
改めて思う。先輩職人や、會社の同僚や先輩のからの言葉は、元君や那さんの仕事のできなさを諫めるものではない。
だったら、くさることなく、仕事に勵むしかない。
その日、お客様を見送った那さんのもとに、元君がやって來た。そして、毎回參加者に渡されるお土産の菓子のった小さな袋を、那さんにも渡してきたのだ。
「わたしがもらうのは、まずいよ」
「なら、上司に報告すればいい。でも、擔當者が、うちの菓子を食べていないほうがまずいと思うよ」
痛いところをつかれた。
「だったら、お金を払うわ」
「まじめだな」
「自分なりにルールを決めて線引きをしないと、堂々と立っていられないのよ。あなただって、そうでしょう?」
那さんは、元君に同意を求める。元君はしばしの沈黙の後、目を細め「そうだな」と言った。
會社に戻ると、那さんは、ランチをとるため社員食堂へ行った。
元君から渡された袋を開ける。そこには、細長い魚の形をしたパンケーキのようなものが二つっていた。
明な包みには「若鮎(わかあゆ)」と印字されている。
鮎。……鮎? 鮎ってあの川魚だよね。魚の和菓子か。しかし、和菓子といえば餡だ。餡子は嫌いなのに、彼はこれをわたしにどうしろというのだ。
「あれ、若鮎だ」
同じ課の両角(もろずみ) 良子(りょうこ)先輩が、那さんの隣に座った。二歳上の彼こそ、スイーツ好きで那さんにおいしいチョコレートを教えてくれた人である。良子さんは、あっさりとした格で、那さんと人についても、コメントはしてこなかった 。
「よかったら、どうぞ」
那さんは、二つあった若鮎の一つを良子さんに渡した。
「わぁ、いいの。さっそく、食べちゃおう」
「食事の前に餡子って、胃がもたれませんか?」
「若鮎にはね、餡子はってないのよ」
良子の言葉に耳を疑う。
「餡子がない和菓子なんてあるんですか?」
「やだ。そりゃ、あるわよ。これはね、中に求(ぎゅうひ)がっているの」
「え? 牛脂(ぎゅうし)?」
「牛脂って。すきやきじゃないんだから」
良子さんはひとしきり笑うと、求は餅みたいなものだと説明をしてくれた。
パンケーキの中に餅。
余計に不可解な気持ちになる。けれど、餡がっていないなら食べてみよう。那さんは若鮎を手に取り、頭からぱくりと食べた。口の中になんともいえぬ優しい甘さが広がった。
材料はなにかと、パッケージの裏に目を通す。……味醂? 味醂って、あの料理のみりん? 和菓子って、不思議だ。
求とパンケーキの食の違いも面白かった。
「これ、おいしいです」
思わずれた那さんの言葉に、良子さんが笑う。
「そりゃ、おいしいでしょ。あそこの菓子は、外れなし。超一流だもん」
もちろん、それはそうなのだろうけど、那さんの気持ちとはしずれていた。那さんが言いたかったのは、店の格式云々ではないのだ。餡が嫌いな那さんにとって、この若鮎が驚きの和菓子だということなのだ。
「若鮎」という響きと、二十一才の生意気和菓子職人の姿が重なる。
彼は、どうして、わたしにこの菓子を渡してきたのだろう。
わたしが餡子を嫌いだって言ったから?
だから、餡子がない菓子を渡してきたの?
気がつけば、年下の和菓子職人について考えている自分がいることを、那さんは自覚しだした。
那さんは、鈴木 元君にをしてしまった。
やっぱり、どうしても、そうなってしまうのだ。
けれど、これは葉わないだ。自分は彼の対象にもならないだろうと分かっているからだ。
元君は、那さんがパリにいる人に會いに行き、振られたことを知っている。そんなややこしい、面倒な年上のはごめんだろう。
それに、彼にしでもその気があれば、連絡くらいしてきたはずなのだ。機で會ってから二か月近く過ぎたけれど、元君はノーリアクションだ。つまり、そういうことなのだ。
二十一歳の元君がをするのにふさわしい、素直でかわいいの子はいくらでもいるのだ。
秋の人事異により、那さんは今の部署から外れることになった。
それについての異存はなかったものの、今までのように和菓子教室に行くことがなくなると思うと――元君に會えなくなると思うと、心がすかすかとした。
和菓子教室が終わったあと、店側のスタッフに今までの禮を伝えた。
「後任はわたしの先輩である両角が務めます。どうぞよろしくお願いします」
良子さんが後任だ。適任である。
帰り際、これが最後だと思い、那さんは元君に近づいた。
「つまり、そういうことだから」
さよなら、とか、これからも頑張ってね、とか。別れを意味する言葉は言えなかった。自分でも、大人げないと自覚はある。
人には、きっちりと別れを告げられたのに、元君に対してはこんなにぐずぐすとしてしまうなんて。このは引きずりそうだ。那さんは、見納めとばかりに元君を見上げた。
「じゃ、結婚するか」
那さんを見下ろし、元君はそう言った。そして、今夜待ち合わせをすることを那さんに承諾させていた。
會社に戻りながら、那さんは年下の和菓子職人からの言葉を反芻していた。
じゃ、結婚するか。
じゃ、結婚するか。
信號で止まった那さんは、その場にしゃがみ込んだ。
そして、就業時間中にもかかわらず、自分がプロポーズされたことを理解したのだった。
進む時は進むもので、とんとんとんと話は運び、なんと那さんは元君と飛行機で出會って半年ちょいで、自分も鈴木さんになっていたのだった。
結婚する段階になって知ったのだが、元君の実家は地元で和菓子屋を営んでいた。
那さんは、元君の両親に會いに行った時、彼が海外に行った理由が期せずしてわかった。
――「自分がマイノリティとなる場所にを置き、過ごしてみたかったんだ」
この人は、こんなにもひたむきに人を想い、するのだ。それを知り、那さんの心は震えた。
結婚式は、元君の収を考えシンプルに行われた。唯一こだわったことといえば、ウエディングドレスだ。那さんは、以前から目を付けていたドレスを自分で購した。
結婚しても、那さんは仕事を続け、元君も同じ和菓子屋で働いた。住居は、那さんのマンションをそのまま使った。狹いが、まぁ、仕方がない。
結婚して二年目に、那さんのお腹に命が宿った。その頃も仕事は忙しく、生理も不順だったため、妊娠に気付くのが遅れた。
子を授かった喜びの反面、那さんの心の中に漠然とした不安も生まれた。仕事のことだ。
會社での産休は、どうなっているのだろう。
出産後は、仕事に戻れるのだろうか。
そんな那さんの不安に答えてくれるような、モデルとなる先輩が周りにいなかった。
もしかして、仕事を辭めなくてはいけないのか。
専業主婦になるのか。
自分はそれができるのか。
日に日に大きくなるお腹をしいと思う気持ちとは別のところで、仕事に対する焦りが生まれてきた。
けれど、そのことは、元君には言えなかった。元君には、泣きごとを言いたくなかったのだ。
那さんは、自分も元君も前に向ってともに上昇していきたいという思いが強かったのだ。自分が年上だというのも、あったと思う。元君に心配をかけたくなかった。彼には、彼が目指す高みまで、なんの心配もなく駆け上がってほしかった。
生まれたのは男の子だった。
七夕生まれの、元気な子だった。
息子の名前を付けたのは、那さんだ。
學という名前は、一生學び続けていく元さんの姿に、そして自分もそうでありたい願いを込めて付けたのだ。
學君は可かった。
こんなにもしい存在がこの世にいるというのは、奇跡のようだとさえ思った。
那さんは、學君のことが大切だった。ミルクを飲む量がないと心配し、泣き出すと、どうしたものかとハラハラした。熱を出せば、自分が代わりに病気になりたいとさえ思った。それなのに、那さんの頭のすみには、いつも仕事があった。
出産後に會社に戻れるか、戻れないかと那さんは気をもんでいた。大學のゼミのの先輩のなかには、結婚しただけでまない部署へ配屬された人もいたからだ。
しかし、予想外に會社は、那さんが戻ってくるのを前提として話を進めてくれていた。
真摯に仕事に取り組む那さんは、いつのまにか周りから深い信頼を寄せられるようになっていたのだ。
那さんは、仕事がしたかった。
一刻も早く、職場に戻りたかった。
その思いは日々募り、遂には夢の中でも那さんは仕事をしていた。
そして、段々と、優先順位がわからなくなってしまった。
自分にとって一番大切なものは何なのか。
それが何だか分からなくなったのだ。
いつしか、家族三人での生活が壊れてしまった。
那さんは「この頑固娘が!」と、実家から勘當をくらう結論を出してしまった。
桜が散り、木々に若葉が茂りだす。
「那」
元君が那さんの名前を呼んだ。
元君は學君を抱いていた。
元君の腕の中で、學君はすやすやと眠っていた。
思わず那さんの手が學君の白くやわらかな手にびた。
ぷくぷくとした、幸せな手だ。
今日まで那さんの寶だったその手は、今からはもう遠くへ行ってしまう。
そう考えただけで、那さんの中から汗が吹き出た。
今ならまだ間に合う。
――でも。
今はしいその手を、五分後にはいらないと思ってしまうかもしれない。
それは、恐ろしいことだと思った。
どうして自分はこうなんだろう。
どうして、こんな答えしか出せなかったのだろう。
わたしは、わがままで、自分勝手で、殘酷だ。
そんな那さんの耳に「ありがとう」と、元君の聲がした。
那さんは、自分の耳を疑った。
元君は今「ありがとう」と自分に言ったのだろうか。
那さんは元君を凝視した。
「那。學を生んでくれて、育ててくれてありがとう」
けれど、やはり元君はそう言った。
「何を言ってるの。ありがとう、なんて」
那さんは、涙聲にならないように踏ん張った。
泣くなんて、そんな卑怯な真似は許されないと思った。
これから大変なのは自分ではなく、この人、そしてこの子なのだ。
これからこの人は、母親がいない子を育てなくてはいけない。
そしてこの子は、母親のいない人生をおくらなくてはいけない。
自分は、そこから退場するわけだから。
自分から、そう決めたわけだから。
「學は、ハンサムだから」
那さんは言った。
「産むとき、すっごく気を付けて産んだから。だから絶対にハンサムよ、學は」
今自分が持つ明るさの全てを出した聲で、那さんはそう言った。
すると元君は、笑った。
「そりゃありがたい。學、看板息子になるな」
元君は、実家の和菓子屋に戻ることになっていた。
「那。元気で」
元君の言葉が、頭の中でぐるぐると回った。
那さんは何も言えずに、ただ頭を下げた。
元君に向けての言葉なんて、自分には何もないと知っていたから。
だから、頭を下げたのだ。
ごめんなさいの意味と、ありがとうの意味を込めて。
那さんは、元君と學君と別れた後、がむしゃらに働いた。
それまで、仕事をする夢ばかり見ていた那さんは、一人になると學君の夢ばかり見ていた。
泣きながら起きることも多かった。
二人のもとに戻ってしまおうかと思ったのも、一度や二度じゃない。
けれど、那さんはそうしなかった。
ともかく、前を向いて仕事をし続けた。
那さんは、元君と學君のことを「後悔」という言葉で表したくはなかった。
自分が使うには、それはあまりにも一方的で、傲慢な言葉だと思ったからだ。
そうするうちに、いつしか彼らの存在は、那さんの中で「良心」として存在するようになった。
離れてしまった人たちに、どこで會ってもを張れるような自分でいたかった。
つまりそれしか、那さんが二人に対してできることはないと思ったからだ。
四十歳目前に、那さんは異したアパレル関連の部門で、田中(たなか) 典明(のりあき)さんと出會った。そして、彼とともに長年勤めた會社を退職し、二人で會社を興した。
學君が果たしてハンサムな青年になったことを、幸運にも那さんは知ることができた。
文明さんと再婚して、二人目の子がお腹に宿ったとき、なんと學君が那さんの家にやって來たのだ。
段取りをしてくれたのは、元君の再婚相手である鈴木(すずき) 苑(その)さんだ。彼から、學君が那さんに會いたがっていると聞き連絡をもらったのだ。思いもしないその事態に、那さんは人生で一番というくらいの張をした。
どんな顔で會えばいいのかと、夫にもピーピーと泣きついてしまったほどだ。
そんな學君との仲をとりもってくれたのが、再婚して生まれた上の息子だった。
再會の場で、學君は那さんではなく、上の子をが開くんじゃないかってくらいじっと見ていた。
上の息子も同じように學君を見た後、學君の靜電気になるのを決めたかのように、彼にまとわりついていた。
一度で終わるかと思った學君のとの張の訪問は、意外にも次回があった。
しかも、その日たまたま家にいた夫と學君は、仲良くなってしまったのだ。
そして、夫と仲良くなった學君は、最近夫の出張が多く家を空けがちなのを聞きつけると、頻繁にやって來るようになり、買いやら家事まで手伝ってくれるようになったのだ。
今まで全く世話をしてこなかった息子にそこまでやらせていいのか、不安になった那さんは散々考えた挙句、苑さんに相談をしたところ「學は頑固者なので、本人がやると決めたらそれを周りが止めさせることは出來ないんですよ」との返事が返ってきたのだ。
頑固者。
どこかで聞いた臺詞である。
そして、あぁ、學君は自分の息子なんだと、初めてすとんとその事実が心に落ちて行った。
もう、張はなくなっていた。
「ありがとう」
それは産まれたばかりの下の息子を見て、學君が言った言葉だ。
那さんは、デジャヴかと思った。
「ありがとう、お母さん。弟を二人も産んでくれて」
まるでいつかの誰かさんと同じ言葉に、今度は那さん、人目も憚らずに思いっきり泣いてしまった。
その學君は、彼の頑固さを通し、今は京都で和菓子の修業中だ。
「おかあさん、おかあさん。わかあゆ、かうでしょ」
那さんの服を引っ張りながら、學君と同じが流れる息子がしきりに後ろを見ていた。
息子の言葉に、那さんは足を止めた。
周りの景を見る。
後ろで和菓子屋ののぼりが揺れていた。
「ごめんね。考え事をしていたら、通り過ぎちゃったね」
「ぼく、さっきからおかあさんのこと、よんでいたのに」
そう言うと息子は「もどろう!」と元気よく那さんに言った。
那さんは、今來た道を振り返った。
街路樹の緑に隠れるように、老夫婦が営むお目當ての近所の和菓子屋があった。
息子を見る。
やっぱり、似ているな。
那さんは、い息子の顔に學君の面影を見た。
那さんは、ゆっくりとベビーカーを方向転換した。
そして、二人の息子とともに、和菓子屋へと向かう。
薫風に吹かれながら、那さんは改めて思う。
失敗ばかりで、ちっとも完璧じゃなくて、立派でもなく、いい人でもない自分だけど。
これからも、自分の大切な人たちに恥ずかしくない生き方をしたい。
――「ありがとう」
その言葉が、決して簡単に口にできるようなものじゃないってことが、わかっているから。
「わかあゆは、おかあさんがだいすきなおかしだよね」
その大きな聲にほほ笑みながら、那さんは息子たちとともに店の暖簾をくぐる。
五月の風が、誇らしげに店にるい息子の前髪を優しく揺らしていた。
【書籍化】解雇された寫本係は、記憶したスクロールで魔術師を凌駕する ~ユニークスキル〈セーブアンドロード〉~【web版】
※書籍化決定しました!! 詳細は活動報告をご覧ください! ※1巻発売中です。2巻 9/25(土)に発売です。 ※第三章開始しました。 魔法は詠唱するか、スクロールと呼ばれる羊皮紙の巻物を使って発動するしかない。 ギルドにはスクロールを生産する寫本係がある。スティーヴンも寫本係の一人だ。 マップしか生産させてもらえない彼はいつかスクロール係になることを夢見て毎夜遅く、スクロールを盜み見てユニークスキル〈記録と読み取り〉を使い記憶していった。 5年マップを作らされた。 あるとき突然、貴族出身の新しいマップ係が現れ、スティーヴンは無能としてギルド『グーニー』を解雇される。 しかし、『グーニー』の人間は知らなかった。 スティーヴンのマップが異常なほど正確なことを。 それがどれだけ『グーニー』に影響を與えていたかということを。 さらに長年ユニークスキルで記憶してきたスクロールが目覚め、主人公と周囲の人々を救っていく。
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勇者パーティの斥候職ヒドゥンは、パーティ內の暗部を勝手に擔っていたことを理由に、そんな行いは不要だと追放され、戀人にも見放されることとなった。 失意のまま王都に戻った彼は、かつて世話になった恩人と再會し、彼女のもとに身を寄せる。 復讐や報復をするつもりはない、けれどあの旅に、あのパーティに自分は本當に不要だったのか。 彼らの旅路の行く末とともに、その事実を見極めようと考えるヒドゥン。 一方で、勇者たちを送りだした女王の思惑、旅の目的である魔王の思惑、周囲の人間の悪意など、多くの事情が絡み合い、勇者たちの旅は思わぬ方向へ。 その結末を見屆けたヒドゥンは、新たな道を、彼女とともに歩みだす――。
8 56クラス転移キターっと思ったらクラス転生だったし転生を繰り返していたのでステータスがチートだった
世間一般ではオタクといわれる七宮時雨はクラス転移に合い喜んでいたが、神のミスでクラス全員死んで転生する事になり、転生先であるレビュート家と言われる最強の家族の次男として生まれる。神童続出といわれる世代にクラス全員転生しあるところでは、神童と友達になったり、またあるところでは神童をボコったり、気づかぬ內にハーレム狀態になったりしながら成長する話です。クラスメイトと出會う事もある 処女作なんでおかしなところがあるかもしれませんが、ご指摘してくださって構いません。學生なんで、更新は不安定になると思います
8 115梨
妹を殺された復讐から一人の米軍兵を殺してしまう『海』、家にいながら世界を旅できるという不思議な『世界地図』、表題作『梨』を含む短編・ショートショート。
8 175俺の小説家人生がこんなラブコメ展開だと予想できるはずがない。
プロの作家となりかけの作家、イラストレーター。三人で小説を生み出していく軽快意味深ラブコメディ。高校を入學すると同時に小説家デビューを果たした曲谷孔と、同じ高校に入學した天才編集者、水無月桜、イラストレーター神無月茜の三人が織りなす、クリエイターならではのひねくれた純情な戀愛物語。 ※タイトル変更しました
8 154異世界サバイバル~スキルがヘボいとクラスから追い出されたけど、実は有能だったテイムスキルで生き延びる~
動物好きの高校生、仁飼睦樹は突然異世界に転移してしまう。クラスメイトと合流する彼だが、手に入れたスキルが役立たずだと判斷され追放されてしまう。モンスターしかいない森の中でピンチに陥る睦樹。しかし、やがて成長したスキルが真の力を見せた。モンスターの言葉を理解し、命令を下せるスキル??〈テイム〉を駆使して彼はサバイバルを始める。とどまることなく成長を続けるユニークスキルを武器に、過酷な異世界サバイバルで生き殘れ!
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