《[完結しました!] 僕は、お父さんだから(書籍名:伝子コンプレックス)》[2-23]老人

冴子は自分の肩を抱きしめた。

安堵の息を深く、長く、細く吐いた。

布津野の無事を知り、その空っぽになったの中に安心が満ちていく。しかし、それが一引いた後には、とある疑問が浜辺に打ち上げられたクラゲのように殘った。

宮本の先ほどの言葉が、冴子の脳裏に波音のごとく殘響した。

――旦那のこと、好きなんだろ

いや、そうじゃない。思わず「はい」と答えてしまったが、今はそれどころではない。たしか、

――旦那は、年兵たちを助けるつもりだ。

そう、この発言だ。

年兵とは例の走兵のことだろう。彼らを助ける……。それは、彼らの命を救うということだろうか。

冴子は白い人差し指を曲げて、それを口にれて噛んだ。

彼ら走兵は、高度に政治的配慮を要する存在だ。

ニィとサンが中國政府に拐された以降、中國の向は日本にとって最大の関心事だった。そのため、ロクは対中國の諜報網を極めて綿に張り巡らしてきた。

中國首脳部の主戦論は強い。軍事費は海軍、空軍を中心に年々増加を続けており、中國籍と思われる潛水艦や偵察機の領海の発見數は増加の一途を辿っている。

それを一即発の狀態、と表現しても過言では決してない。

そう言った事実は國民には隠し続けてきた。日本政府としてはこの事実を公表することで、世論が戦爭に傾くことを恐れている。

民主主義という意思決定システムは國民に強く影響をける。その國民報から醸されるのだ。國政に悪影響を與える報は統制する必要がある。それが民主主義をマネジメントすることだ。

第二次世界大戦が未な民主主義によって先導された事実を見落としてはならない。

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――彼らを助けるメリットは、何一つない。

……そう言ったことを、忠人さんには理解することが出來ないのでしょうね。

冴子は途方に暮れ悩み、あたりを見渡した。周囲には閣府の職員とGOA諜報隊員がつめている。それぞれがコンピュータに向かい各種狀況に対応していた。

彼らのうちの一人が、顔を強張らせて冴子を振り向いた。

「グランドマザー、沖縄・尖閣諸島間を太平洋方向に通過する艦隊あり。數は3。所屬は……中國人民解放軍です」

冴子の眉がわずかに上がり、眉間にひびがった。

「編は?」

「おそらく空母1、巡洋艦1、駆逐艦1となります。潛水艦の數は不明」

「該當海域に対潛探査と衛星監視を手配しなさい」

「了解」

冴子は奧歯を噛みしめた。

このタイミングで艦隊の領海通過、それも空母艦隊とは……。艦載機による本土攻撃すら可能な距離だ。中國政府はいったい何を考えている。

「中國政府からの聲明は?」

「ありません。外筋を通して中國政府に抗議しますか」

「……いいえ、しばらくの間は無視をします」

「了解」

「各予測進路と到達時間は?」

「目標が大阪の場合、およそ25時間後に大阪灣に到來。東京は31時間後。沿岸から戦闘機を発艦させた場合、いずれにしても1時間以に到達可能です」

タイミングは最悪だ。偶然と判斷するには絶妙すぎる。

冴子はモニターに映し出された艦隊の衛星寫真を見る。ひときわ大きな長方形の艦艇を挾むように小さな船影が2隻。確かに空母艦隊だ。

ニィが走兵を引き連れて日本に潛伏したのはこの數週間。それに呼応するように領海に出現した空母艦隊。この二つの出來事が偶然であるはずがない。

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冴子は頭をふり払った。

しかし、そうであったとしても我々の対応は変わらない。

走兵を亡きものとし、ニィの存在を隠蔽する。それが國の対中を抑制しつつ、中國に対して開戦の口実を與えない最良の選択肢であるはずだ。

それにこのような事態を予想していなかったわけではない。

ロクを中心とした12人の意思決定顧問は、はるか前からこのような事態に備えてきたのだ。

「……ゲーミング・ウォー構想の発レベルを4まで解除。即応できるAI艦隊は?」

「沖縄、鹿児島、広島、大阪、神奈川、青森、北海道。全AI艦隊即応可能」

「全艦隊司令に伝達。戦判斷を含むAI艦隊の全権を各指令に委譲。伝達メッセージにこう送りなさい。『戦爭を抑止するために、十分に戦闘を手段とせよ』以上」

「了解。ゲーミング・ウォー構想、発レベル4。これより全AI艦隊は戦判斷自由」

冴子はモニターを睨みつけた。

統制された計畫的戦爭(ゲーミング・ウォー)とは、國家は自の不利益になる行を取らないというゲーム理論的な単純前提に基づいた國際秩序の維持構想だ。

他國に対して、経済協力で得られる利益を必要最低限だけ供給し、日本と戦することの不利益を最大限に課す。

平和のためには他國を富ませてはならない。富めば軍事力が強化され日本による秩序統制が困難になる。

世界は知る時がきたのかもしれない。

伝子最適化を合法とし専守防衛を原則としてきた國家が、平和をコントロールするほどの実力をすでに得ているという事実を。

「ロクに連絡を、」

冴子は左側に座るGOAの諜報隊員に指示を飛ばした。

隊員は「了解」と短く答えるとコンソールを叩きだした。

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これ以降の対応判斷は冴子一人でも可能だ。しかし、この意思決定には出來ればゲーミング・ウォー構想の提唱者であるロクの合意を得たかった。

「グランド・マザー、ロクからの応答ありません」

「……そうですか」

冴子は下を軽く噛んだ。

ロクがこの場にいない事は本來あり得るべきことではない。そればかりか、まさか極道とマフィアの抗爭のど真ん中にいることなど、本來であれば看過することなど出來るはずがない。

通信に答えないロクが今、どういった狀況にあるのか、それは分からない。

しかし、中國軍が領海まで空母艦隊を員してきたのだ。もはや猶予はない。走兵の一隊を闇に葬り後顧の憂いを絶ったうえで、中國政府への対応に集中すべき時だ。

……その走兵を、忠人さんは助けようと、している。

冴子はこめかみに指の爪を押し當てて、思わず唸り聲をらした。

「冴子、珍しいのう。なにを悩んでおる?」

背後から聲をかけられて、冴子は驚いて後ろを振り返る。

そこには杖をついて和服にを包んだ老人が立っている。その斜め後ろには寄り添うようにして立つナナの姿も見えた。

「首相……、こんなところまでお越し頂くなんて、」

「ふむ、どうやら局面に差し掛かったようだと聞いてな、出來るだけ現場に近いところにいようと思うてな。ついでじゃと思うて、ナナも連れてきた」

首相と呼ばれた和服の老人は、杖をトトッとつきながら冴子の近くまで歩いてくる。

齢は80を超えるこの老人の正は宇津々右京閣総理大臣。數十年間以上に及ぶ長期政権を樹立し、伝子最適化を推進し、今や日本の獨裁者と揶揄されるまでになった政治家でもある。

老年の濁りを含んだ首相の目が冴子を見上げると、隣の連れてきたナナのほうに視線を移した。

「なにやら、ナナが言いたいことがあるそうな。聞いてやると良い。我々はこれまで幾度もそれに助けられてきた」

「……畏まりました」

「ふむ、ほら、ナナ、」

老人はナナに微笑むと、し脇にを引いてナナを前に進ませた。

ナナをおどおどしながら前に出ると、それでも冴子を真っ直ぐと見つめる。

「グランマ、」

「何かしら、ナナ」

ナナは一度、開いた口を閉じて無言になる。言いにくい事をどう言えば良いのか分からないで言葉を探す様に首を傾げては、頭をふった。

しかし、やがて彼の口から言葉がこぼれた。

「……グランマ、迷っているの?」

「迷って?」

「うん、グランマの、ぐちゃぐちゃだよ」

「……そう、今は難しい狀況だから、」

冴子は小さく笑って見せた。

ナナはその笑顔を見ながら、ゆっくりと頭を振った。

「そうじゃないよ、グランマのはそんなことじゃ、揺らがないもの。グランマの紫が濁りだしているわ。周りの紫がそれを押しとどめようとするのだけど、濁りがジワジワと広がっている」

「私のが、濁りだしているの?」

「うん、複雑な、まるで、お父さんの

「忠人さんの……」

冴子はを抑えた。

ナナの言葉が心臓を突き刺して、染みわたるのをじた。

ナナの言う濁りが意味するところは分からない。ただ、自分の今の心理狀態が通常の狀態とは言い難いことは否定出來ない。

私は……、

「……迷っているのね」

うん、と頷くナナの瞳に映る自分の表は、曖昧な顔をしていた。

「そう、私は迷っているのね」冴子は、納得を飲み込むようにもう一度呟いた。

「まるで、お父さんみたい」

「そう……」

それきり、冴子は何も言う事が出來なくなってしまって、ただ呆然とナナを見つめ続けていた。

「ふむ」と脇に控えていた老人が聲をかけて「ナナや、言いたかったことは言えたかのぅ」と優しく問いかける。

「ううん、まだだよ。グランマ、お願いがあるの」

「……何かしら、」

「お父さんを手伝ってあげて」

「手伝う?」

「お父さんは、みんなを助けるつもりだよ」

「……」

冴子は目を閉じた。

「それは、あの走兵たちのことかしら?」

「違うよ」

ナナは明確に否定し、冴子は意表をつかれて目を見開いた。

「違うよ、お父さんはみんなを助けるつもりだよ」

「みんなって?」

「もちろん、私達のことだよ。グランマとロクと、私のこと」

「……どういうことかしら」

冴子は訝し気に顎に手を當てる。

ナナは困ったように顔を歪ませて見せるが、何とか説明しようと口を開く。

「上手く言えないけど、お父さんは私達のこと一番大切に思ってくれている。私にはそれが分かっているんだから、だから、手伝ってあげてしいの」

「……」

冴子はそれに答えることが出來なかった。

二人の間にわり切らない沈黙が漂い淀む。それを見かねたのか、脇に控えていた老人がトントンと杖で床を鳴らした。

「ふむ、ナナよ。そのお父さんとは例の未調整の男のことよな」

「そうだよ、おじいちゃん」

ナナはこの日本國の大人である老人のことを、おじいちゃんと呼ぶ。そう呼ばれている當の首相のほうもまんざらでもない様子で、この老人は改良素の中でも特にナナを可がっていた。

「ふむ、どうも狀況が見えんな」

老人は近くの椅子に腰かけると、杖の上に顎を載せて冴子を見上げた。

冴子は姿勢を正し、張した面持ちで老人の言葉を待ちける。老人の眼は鋭い。世界で最も影響力のある政治家の表がそこにある。

「冴子よ、狀況を報告せよ」

「はい。現在、中國軍所屬と考えられる空母艦隊が尖閣・沖縄間を通過、領海付近まで接近しております。これに対応するため、ゲーミング・ウォー構想をレベル4まで解除。いつでもこれを迎え撃つことが可能です」

「手筈通りよな。中國のきもそれに対応する施策にせよ、全て想定の範囲に収まっておるように見えるが、」

「はい、問題はありません」

「ふむ、」

老人は、またトンと杖を鳴らした。

「して、中國軍から走したたちはどうなった」

「……」

冴子は一瞬、口ごもった。

老人はそれを見て、不思議そうに眼を細めた。

「……走兵については、まだ対処できて、いないのです」

「むぅ、どうした? 歯切れの悪い。らしくないぞ」

冴子は老人から目を反らした。まるで績表を親から隠す子供のように。

「報告では、あの子達を殺す、と判斷したようだが?」

「はい……今、彼らが潛伏しているビルを協力関係にある黒條會の構員が取り囲んでいます。この件、あくまでも暴力団による抗爭として処理するつもりです」

「それが、上手くいっていないのか」

「……はい」

老人は顎髭をでた。

「問題はなんじゃ?」

「……」

「どうした、冴子? 先々代最適解の名が泣くぞ」

冴子は拳を握りしめた。

冴子自、自分がこれほどに悩む理由が分からない。いつもなら、正しい答えが見えていた。今は目隠しをされたように真っ暗で、何も見えない。

「……中國マフィアのビルに宮本以下4名、GOAの鋭を派遣致しました」

「ほう、あの宮本自らがのう。それは隨分な事よな」

「任務は、布津野忠人の救出と年兵たちの発見次第の殺害です」

「……」

老人の眉がピクリといて、冴子の目をとらえた。

冴子はを震わせた。逃げ出したくなるような気分に顔がくしゃりと歪む。

「冴子よ」

「……はい」

年兵たちの存在を黙殺し亡きものとすること、儂も承知するところよ。國民のため數の犠牲を看過すること、分からんでもない。しかし、布津野忠人なる男を助けるためにGOAの鋭をかすこと、初めて聞いたつもりじゃが、どうじゃ」

冴子は無言で膝をついた。頭を老人に垂れて、絞り出すように聲を紡いだ。

「申し訳ありません。ご報告申し上げておりませんでした」

「ふむ、平和のために何十人の無辜(むこ)のを殺し、一方では一人の男を助けるのに最大戦力を投下する。最適解らしからぬ判斷よな」

「おっしゃる通りです」

頭をさげて震える冴子の様子を、しかし老人は咎める口調とは裏腹に、奇異の眼差しで見ていた。

老人は振り返って、ナナを見た。

「ナナよ、布津野忠人とはどのような人間じゃ?」

「お父さんだよ。ナナのお父さん。世界で一番優しくて、綺麗なをした人」

「そうか」と老人は顎髭をなでると、冴子のほうに振り返り「さて、その布津野忠人の救出作戦、首尾はどうなった」と再び問いただした。

「……失敗致しました」

「む……助けられなんだか」

「いえ、投したGOA4名全てが、救出対象である布津野忠人によって倒されました」

「ほう」

老人は顎髭をなでる手をピタリと止めて、甲高い聲を上げる。

「報告によると、あの人は年兵を助けるつもりだと聞いています」

「ふむ。まさかあのGOAを仕留めるとは、信じがたい事じゃ」

「あの人は、とても強いですから、」

老人は目を細めて冴子を見た。

それまで萎していた様子の冴子が、わずかに誇らしげに頬に赤みをさしたのを見逃さなかった。

「まるで、する乙よなぁ」と小さく老人はこぼす。

「……は? 申し訳ございません、今、何と?」

「よい、戯言じゃて、宮本は生きておるか」

「はい、宮本以下四名に戦死者はいません」

「そうか」

老人はそう言うと、周りの職員たちに向かって聲を張り上げた。

「通信を、宮本に繋げ」

「了解」

職員たちが即座に手をかすと、スピーカから接続音が鳴り宮本の聲がすぐに答えた。

「こちら、ガーガー・ワンどうぞ」

「こちら宇津々じゃ。宮本よ、聞きたいことがある」

「おいおい!? まさか首相自らとはたまげたぜ。どうぞ」

「お前は相変わらずよのぅ。どうじゃ、布津野忠人とやらにしこたまやられたようじゃが」

カッカッカ、と宮本が痛快に笑う聲がスピ―カ―を揺らす。

「すまねぇな。その通りよ。GOA最強の四人で挑んだつもりだが、手玉に取られちまった」

「ふむ、ちと思うことがあってな。その布津野忠人なる人と話したいのじゃが、彼は今どこにいる」

「旦那かい? 年兵を遠足みたいに引き連れて、ロクのところに行ったぜ」

「ロク? ロクはそこにいるのか」

「ああ、ロクは旦那を助けるためにこのビルに直接乗り込んだ。今はニィと対峙しているはずだ」

「……それはそれは」

老人はチラリと冴子を見ると、冴子はますます萎して頭を下げた。

ロクがそのような危険な現場にいることを老人は知らなかった。最適解らしからぬその非合理な行を訝しく思いながらも、老人はどこか楽し気に宮本に語りかける。

「のぅ、宮本、儂はその布津野とやらと話しがしたい。すまんが、ロクとそやつがいるところまで行ってくれぬか」

「了解。ちょうど、このまま手ぶらで帰還するのも恰好がつかねぇと悩んでいたところだ」

「頼んだぞ」

「了解!」

勢いよく通信が切れた。

老人は深く椅子に腰を掛けながら、久方ぶりに気持ちが逸(はや)るのを止めることが出來なかった。

布津野忠人なる人とは、どのような者だろう。

人の可能たるナナに認められ、人の最適解たるロクや冴子をわし、人の最強たるGOAを圧倒する。

會ってみたいものよのう、と呟く老人はまるで年のように高揚していた。

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