《[完結しました!] 僕は、お父さんだから(書籍名:伝子コンプレックス)》[3-08]対抗戦

その日のGOAの駐屯地にある稽古場は、異様な熱気がこもっていた。

まるで、自らの熱で自らが燃焼し、さらに熱を帯びるように、時間の経過とともにそのエネルギーが暴走していく。

GOAと孤児院の対抗戦は數えて五回目となる。

その始まりは、しやすい実戦を求めてGOAの宮本が試合を要したことによる。布津野はそれに反対だった。実戦という余談をゆるさない曖昧な狀況の再現として、試合形式を利用することを嫌ったのだ。

実戦における勝敗とは、死者と生者に別れることだ。

ゆえに勝者は勝利を喜べるが、敗者は敗北を反省できない。死んでしまえばもはや稽古は出來ない。それで終わりであり、それ以上はない。

ゆえに、両者が生きて終わる試合の勝敗など――つまり、稽古上の実戦という矛盾などは、生死を扱う武においては邪道でしかない。

……しかし、試合というゲームに人を熱狂する。

片方はGOA。世界最強を自負する政府の特殊部隊である。その構員は戦闘用に伝特化された個のみで構された。文字通り生まれながらの戦士の集団である。

対するは、元鬼子実験部隊の孤児院。まだ子どもながら、不可能な狀況をくぐり抜け続けた鋭でもある。ことに格闘については、布津野忠人の指導を元にさらなる研鑽を重ねている。

両者の対抗戦は、初戦こそ孤児院側の圧勝に終わったものの、それ以降は拮抗している。ここまでの勝敗は、GOAが二勝、孤児院が三勝。今回の開催場所はGOAの駐屯地稽古場にて行われていた。

「今日の勝負は、大一番だ」

GOAの隊長である宮本は周りを囲む隊員をねめ回した。

「お前ら、相手は子供だぞ」

「「サー、イエッサー」」

「お前らは、GOAだ!」

「「サー、イエッサー!」」

「つまり、世界最強だ!」

「「サー、イエッサー!」」

宮本はさらに聲を張り上げる。

「だったらなんだ! 二勝三敗だぞ。世界最強も落ちたもんだなぁ、あ?」

「「サー、ノーサー!」」

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「だったら、絶対に勝て!」

「「サー、イエッサー!」」

凄まじいほどの、怒聲がGOA陣営の円陣から上がっていた。

その向かいには、孤児院側の選手たちがこれまた円陣を組んでいる。その円陣のリーダーは片腕のない小さながいる。榊夜絵である。

「お前たち、」

榊の聲は冷たく鋭い。周りを囲む孤児院の選手たちは、その聲を無言で聞いていた。それはGOAの盛大な気合いとは対照的だった。

「ニィ隊長に恥をかかせるな」

「「……」」

「こんな平和な國で、恥知らずにも最強などとほざく山猿どもに、我々が負けるわけがあるまい」

「「……」」

「積み上げたもの、失ったもの、その重さをあの能天気どもに思い知らせてやれ」

榊はその鋭い視線で周囲をなぎ払った。

「「是(シィ)」」と周りの子供たちは短く応じる。

「平和ボケした阿呆どもなどに、我々は負けない」

「「是」」

「殺してでも勝て!」

「「是!」」

布津野は、その二つの熱の間で、できるだけ距離をとりながら冷や汗をかいていた。

加熱した両陣営の熱気は、もはや誰も止めることのできない領域へと突してしまっている。怪我をしないようにとか、あくまでも技の研鑽のための試合だとか、そんな正論は両者ともすでに遠くに放り投げてしまったようだ。

布津野は助けを求めて左右を見た。

「やっはー。なにやら盛り上がってるねー」

元気な聲を上げて、あたりを見回しているのは、紅葉だった。

「ふむ、久しく見ぬ武の熱気。布津野が育てた子供たちとやらも、良い気を発しておるな」

顎をでながら満足気な聲を上げているのは、紅葉の祖父であり、布津野の師でもある覚石だった。

どうして、覚石先生と紅葉ちゃんがこんなところにいるのだろうか。しかもよりによってこんな時に……。

「覚石先生、なんと言いますか、申し訳ありません」

布津野の一杯の急角度で頭を下げた。

「何がじゃ?」

「せっかく、お越しいただいたのに、こんな狀態で……」

「いや、こんな稽古だから來たのじゃ。実はロク君から聞き出したのじゃが、熱い試合が見られるらしいからの。いやはや、想像以上じゃ。こりゃ、やんちゃした若い頃の気持ちが蘇ってくるわい」

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覚石は、高齢だというのに興しているようだ。睨みある両陣営に向かって、もっとやれ、とか大聲で囃(はやし)し立てている。

「やんちゃ、って、先生は何をしてたんですか?」

「戦後間もなくのことじゃて、メリケンや闇市ヤクザどもとの喧嘩じゃよ。あの頃は日常茶飯じゃ。儂も帰還兵での気も多かったしのぅ。大丈夫じゃ、なるべく殺さぬようにはしたぞ」

「はあ……とんでもないですね」

「お前ほどではない」

ピシャリ、と覚石に言われて、布津野は首を傾げた。

「えっ、僕ですか」

「とぼけるでない。紅葉より聞いておる。何やら警にヤクザ、果てはそこの特殊部隊を相手に大立ち回りをしたらしいじゃないか」

「……あれは、仕方なく、その」

「仕方なくで出來ることでもあるまい。いかにせよ、それに比べればこの程度の稽古は可いもんじゃて、のう紅葉」

そう覚石は紅葉に聲をかけた。

「うん、そうだよ。私も今日が初めてだからね。おじいちゃん、どっちが勝つか賭けようよ」

「のった! わしはそうじゃの。布津野の弟子の子どもたちにしようかの」

「あっ、ずるい。そっちの方が絶対に面白いに決まってるじゃん」

「ふん、早い者勝ちじゃて」

……仲の良い祖父と孫だなぁ

そんな想を思い浮かべる以外にもなく、口元にほろ苦いものを含みながら、布津野は辺りの様子を見渡した。

その他にも幾人かの見學者がいる。ロクにナナがいるのはいつものことだが、その橫にいる悍な初老の男に目がいく。法強さんだ。あの人までどうしてここにいるのだろう。法強は燃え上がる両陣営の様子を眺めていた。

とりあえず、ロクとナナの方に聲をかける。

「二人とも今日は普通の稽古じゃなくてすまないね」

「いいえ、見るのも勉強ですから、」

ロクはそう言って、目を細めた。

「しかし、今回は孤児院の勝ち目は薄いかもしれません。負け越しているGOAは必死です。しかも、開催場所はGOAの本拠地。負けるのは絶対に避けたいでしょう」

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そう言うロクは、真剣な眼差しで両陣営の様子を観察していた。

えっ、ロクは解説モードなの?

「もうGOAに余裕などありません。今回の大將は、隊長である宮本さん自らがエントリーしています」

そう言って、ロクは配布されていたパンフレットを布津野に見せた。

それは、なにやら中高の文化祭みたいなお手製あふれるパンフレットだった。妙なところに手間をかけているな、と呆れながらも、け取ったパンフレットを開く。そこには、試合に出場する両陣営5名の名前と顔寫真がレイアウトされていおり、GOA側の大將に『宮本十蔵』という名前の下に、趣味は酒と麻雀と書いていた。

——あの人は、本當に、何をやってるんだ。

「最近、稽古で著実に実力を上げている孤児院も、さすがに宮本さん相手には分が悪い。この試合は勝ち抜き方式。宮本さんを倒さねば、孤児院側の勝利はないでしょう」

ロクの解説を聞きながら、布津野はただ、子供相手に本気になっている特殊部隊の隊長の姿を、じと〜、っとにらみつけていた。

その宮本はGOA側の円陣の真ん中で、大聲を張り上げて隊員を叱咤激勵している。稽古場に集まっているのは、試合に參加する5名のほかにも大勢いる。おそらくGOAの隊員たちが応援に駆けつけているのだろう。

ロクは油斷ならぬ様子であたりを観察しながら、ナナに問いかけた。

「ナナ、どうだ? 両陣営の士気のほどは?」

ロクの問いかけに対し、ナナは両目を見開いて油斷なく周囲を見る。

「うん、仕上がっているね。選手のが炎のようにまとまって渦巻いているわ。士気は互角、あとは単純な実力差だけの勝負だよ」

えっ、ナナの能力ってそんな使い方もあったの?

布津野は呆然とした。どうやら、ここに集まった人たちはこの試合の行方を楽しみにしていたらしい。どうしよう、もしかしてこの試合に疑問を持っているのは自分だけなのかもしれない。

殘されたわずかなみを託して、布津野は最後に殘った法強に助け舟を求めた。

「法強さん」

みんなに怪我をしないようにと法強さんからも注意を、と言いかけた布津野の言葉を法強は遮った。

「うぬ、これほどの熱気、祖國のあらゆる擂臺(らいたい)にも引けを取らぬ。さすがは、日本の懐刀であるGOAと祖國で名を馳せた鬼子実験部隊の兵(つわもの)よ。この両者を鍛え上げた布津野忠人なる人、やはり只者ではあるまい」

布津野はなんだか眩暈がして、その場に座り込みたくなった。

対抗戦のルールは五対五の勝ち抜き制を採用している。それぞれの先鋒、次鋒、中堅、副將、大將が試合を行い勝った場合はそのまま次の相手と戦うことになる。

布津野の心配を置いてけぼりにして、試合は開始された。

試合は両者とも譲らぬ狀況だったが、アウェーとホームの差か、GOA側がわずかに優勢になった。互いに勝ち負けを繰り返して副將同士の戦いにもつれ込んだのだが、先ほど孤児院側の副將が負けてしまったところだ。

次の試合は、孤児院の大將である榊夜絵とGOAの副將である千葉の戦いとなった。

「すみません、榊副隊長」

孤児院側の副將を務めた青年のを、榊は、とん、と拳で打った。

「良くやった。あと二人だ。大將戦の前に準備運も悪くない」

「申し訳ありません」

「気にするな」

ヒラヒラと右手を振り、中のない左袖をたなびかせて、榊は試合場の中に進んで行く。そこには、すでにGOAの副將である千葉が中央に立って待ち構えている。

「出てきたぞ、あれが鬼子の短槍か⁉」

「千葉、相手がの子だからって油斷するな! あれは只者じゃない」

観客側のGOAから聲が上がる。

——鬼子の短槍

それは、いつの間にかつけられた榊夜絵の異名だった。鬼子実験部隊の副長である彼の、小さく低い軀を揶揄したその名は、いつしか畏怖をもって呼ばれるようになった。

榊夜絵の武は、鬼子実験部隊で習得した八極拳と布津野から伝授された合気道の混合によってり立っている。

古來より八極拳の達人には槍の名手が多く、そのには槍の運を取りれたものが多い。一點突破の一撃必殺を旨とする八極拳の技は、小柄な軀しか持たない榊に大人を撃ち抜く槍を與えた。

その鋭い短槍に、さを教えたのが布津野の合気の技である。八極の穿つ攻と合気のらかい防。それらをともに兼ね揃えたのが、今の榊夜絵の実力である。

偶然にも、迎え撃つ千葉もGOAの副隊長だった。

彼も只者ではない。GOAのナンバー2は常人では務まらない。特にGOAの隊長には何かと問題が多い。千葉はそんな豪膽ではあるが配慮の淺い隊長をずっと支え続けてきた苦労人である。

その千葉は対戦相手を待ちながら、憂いていた。

この試合にかける宮本のこだわりは凄まじく、もともと持ち合わせのない大人気(おとなげ)など完全になくなってしまっていた。もともと、この対抗戦自も、面白いイベントがしたくなったうちの宮本が、布津野さんの反対を押し切って始めたものだ。それが、GOAの負け越した狀態になったものだから、隊長が周囲を巻き込んで熱くなっているだけなのだ。

千葉は常識人であったから、こんな試合でGOAが子供相手に怪我をさせたら、と思うと気が気でなかった。きっと大量の始末書と再発防止施策の予算案を書かされる羽目になる。そしてそれを書くのは宮本ではなく、副長である自分だろう。

ゆえに、千葉は真剣だった。

絶対に次の大將戦に回すわけにはいかない。大將戦になれば、あの隊長の出番になる。何か問題を起こす可能は高い。この対抗戦はここで終わらさなければならない。

千葉は稽古場の真ん中で待ち構えていた。

榊が中央に歩みを進めて、千葉から三メートルの距離で止まる。

ふわり、と榊の道著の左袖がたなびいて止まる。

囃し立てる喧騒が、ピタリ、と止んだ。

「始め!」

審判の掛け聲など聞こえなかったかのように、二人は靜止したままだった。

一秒、

二秒、

三、四、五、六……

しばらくの靜止のあと、ゆっくりときを見せはじめた。

千葉が構えはボクサースタイルで、両足で小さくステップを刻んで重心を前後に揺らし出し始めた。

小刻みなメトロノームのようなステップ。それは徐々にその運エネルギーを貯めていく。

シッシッ、という千葉が歯の隙間から吹く呼吸音が、時を刻んでいた。

千葉を優れた戦士であり有能な副隊長たらしめているのは、彼の冷めた現実的な格によるところが大きい。

多くの隊員が布津野の技に憧れていた。

格に劣る未調整が徒手格闘でGOAを圧倒する。そんなミステリアスに全隊員は熱狂し、こぞってその技を習得しようとしていた。彼らは布津野を先生と呼び慕い、合気の流れや呼吸といった概念を理解しようと必死になった。

千葉は違う。

布津野さんの技は確かに凄い。それは認めている。千葉自も先の事件で布津野と実戦で戦ったことがある。手も足も出ないうちに一撃で倒された。

しかし、自分がその技を習得しようとは考えない。

布津野さんの技は、格に劣る者が工夫を重ねた技だ。弱者が強者に対抗するために練られた高等技だ。それを強者として調整されたGOAが真似をする必要はない。

GOAである自分が強くなる上で最も効率的なのは、この恵まれた軀を活かしきる戦にこそある。圧倒的なリーチと腕力で相手の技を圧倒し押し切る。

そして、今、対峙する相手は小さいだ。

千葉が前後に踏むステップが、徐々に回転を高めていく。

榊は変わらず靜止したまま。

二人の間も変わらず三メートル。

シッ!

千葉が鋭く息を吐き、前に踏み込む。

ほぼ同時に左のジャブが疾(はし)る。

榊はそれを、一歩下がってやり過ごした。

シッシッシッ

斷続的な呼吸音と同時に、千葉は左の連打を繰り出した。

榊は數歩下がりながら、左手で円を描きながらそれを回しける。

遠目には、小柄な榊が千葉の連撃に耐えかねてジリジリと後退しているように見える。

シャッ!

突然、千葉が右足を踏み込んだ。上半を捻り込み、右ストレート。

正確に榊のを狙ったその右は、しかし、軌道がそれて榊の頭上をかすめた。

榊の掌底が下から、千葉の右腕を、打ち上げていた。

右腕が跳ね上がり、千葉の脇腹がガラ空きになる。

榊はを沈めながら震腳を、千葉のの真下に踏みれる。千葉のストレートを上げ打ちにした掌底は、すでに肘打ちの形に移行していた。

ダンッ!

榊の震腳が踏み下ろされ、肘打ちが打ち出された。

「が、はっ」

千葉が脇腹を押さえながら後ろに大きく飛んだ。著地に足がもつれて、そのまま膝をつく。両手で右の脇腹を押さえこんで、息を吐く。

痛みが奧から響く。脇腹の骨がやられてた。

周囲から息を呑む音がざわめいた。

小柄で隻腕のの妙技だ。相手の攻撃を打ち上げ、潛り込みざまの肘打ち。まさに短槍の名にふさわしい打撃。

「……有効!」

審判の聲が遅れて響き渡ると、周囲のざわめきに困が漂う。

一本ではないのか?

この対抗戦の勝敗は審判による判定制を採用しており、その判斷には「一本」と「有効」の二種類ある。

一本の場合であれば即座に勝敗が決まることになる。実際に撃ちぬけば相手を戦闘不能にするほどの有効打撃がった、と判斷された場合は一本が宣言されることになる。

対して有効は二回重ねることで勝敗が決する判定だ。こちらは相手の致命にならずとも、十分な損害を與える攻撃がった場合に宣言される。

布津野の近くで聲があがる。

「むぅ、勝負あり、ではなかったか? 見事な肘撃がったはずだが」

法強は避難がこもった怪訝な聲をらした。

前を向いたまま、ロクがその疑念に答える。

「確かに、一本でもおかしくはありません。しかし、致命打にならなかったのも事実です」

法強はロクのほうを振り向いて説明を求めた。

「どうやら千葉さんは、本気で攻撃を當てる気がなかったようです。寸止めで終わらせるつもりだったのでしょう。そのために踏み込みが甘くなり、それが結果として榊の肘打ちを不十分に終わらせた……。判斷の難しいところです」

「ふむ、いずれにせよ。試合の妙だな。相手に配慮して當てぬよう踏み込みを淺くしたことが、逆に己を救うことになったか、」

「そうです」

二人は黙り込んで前を向き、観戦に戻った。

千葉は立ち上がって、頬を伝う冷や汗を拭った。

目の前には小柄なが薄く笑ってこちらを待っている。彼の片袖は肩から垂れ下がってペラペラとしている。まさか、こんなの子相手に痛撃をけるとは思わなかった。

驚嘆すべきはその技だ。

リーチも腕力もスピードも、手の數だって、全てにおいてこちらが上のはずだ。

しかし実際は左ジャブからの右ストレートを見事に打ち破られて、急所に一撃を叩きこまれた。

伊達にあの布津野さんに鍛えられていない、って事か……。

「淺かった、か?」

榊の笑う口元から聲がこぼれた。

千葉は表を歪めた。

「肋骨をやられたよ」

「そうか、じゃあ淺いな」

千葉は息を整えた。

激痛の余韻はまだ脇腹にある。骨が折れている可能は高い。しかし、その程度を負傷のうちにれるほどGOAの臨戦は甘くない。

本気になる必要がある。隊長である宮本に順番を回すつもりなど最初からない。萬が一にでも、隊長までがこんな小柄な、しかも片腕だけのに負けたとあれば部隊の士気に関わる。

立ち上がった千葉は、前後にを揺らす。

脇の痛みが、ステップに合わせて全に響く。

流れた汗と一緒に、溫が下がる。それでも、千葉はステップを刻み続けた。

プランは組み上がっていた。地味で嫌らしいプランだ。子供相手に使うようなものではない。

それは、踏み込みのない手打ちのジャブを繰り返し、相手を消耗させることだ。

小柄な榊にとって、有効打となる攻撃方法はただひとつ。相手の踏み込みに合わせたカウンターしかない。

で、あれば踏み込まない。踏み込まずに遠間からの連撃で削りきる。消耗し、磨耗するまでの持久戦。大人の力についてこれるわけがない。

千葉は小さなステップを重ねて、ジャブを打ち出した。

榊はそれを躱す。

ジャブ、ジャブ、ジャブ

千葉は構わず打撃を散じた。

榊を中心に弧を描くようにステップを踏み、回り込みながら左のジャブを突き刺していく。

左、左、右、左……

左を中心に右を織りぜる。

緩急のきいた千葉の散撃を、榊はその隻腕だけで捌くのに文字どおりの手一杯になった。

一方的な攻撃が続く、榊を中心に千葉がステップを踏んで回る。

踏み込みのない手打ちの一撃は軽い。

軽いために捌くのは容易であり、多捌きそこねても致命打にはならない。が、そこに隙がないのも事実だ。

榊は、千葉の散撃を捌きながら舌打ちをした。

こちらの視界を塗りつぶすような打撃の連続。息をつく隙間もない。

どの打撃は重の乗っていないジャブばかりだが、千葉との重差は圧倒的だ。ジャブとはいえまともに當たればタダでは済まないだろう。

加えて、リーチの差が厄介だ。踏み込みのないジャブがこの距離で十分に屆く。なのに、こちらはたとえ蹴りさえも相手に屆きもしない。

相手もかなりの手練れだ。

聞いたところによると、こいつも副隊長らしい。優秀な將だ。先のカウンターで、にしてやられたとが上って躍起になって攻撃にくると思っていた。しかし、冷靜に格差を十分に活かした戦をより徹底してきている。

文字どおり、手も足も出ない。こちらから踏み込んでも屆かないだろう。

榊はその雨のような連打をひたすらに耐えた。

三十二秒。

もし、正確に時間を計っていた者いれば、千葉の一方的な攻撃が三十二秒間続いたことが分かっただろう。

そして、榊の反撃が始まる。

榊はじっと待っていた。

三十二秒の攻撃の間に、千葉のリズムを把握していた。

正確すぎる左ジャブ、

タン、タン、

タン、タン、パーン、

斷続する打撃に、一定のリズム、いや、癖がある。

千葉のコンビネーションは、タン、タン、と速攻の二連撃で始まる。

そこからの攻撃は不規則で捉えがたいが、初めは必ず、タン、タン、とやる。初撃の二発で計っているのであろう。相手の出方や自分の位置、威力と速度、自分の好きな距離と相手の嫌な距離……。冷靜で事務的な男だ。機械的と言ってもいい。こいつの事はあまりせないだろう。友達止まり、人以下。部下にしたいが上司だったらごめんだ。

榊が狙ったのは、その二撃目のタン、だ。

一撃目のタンを右手の掌底で払い落とす。間を置かずに、二撃目のタンがいつものリズムで迫ってくる。

榊は払い落としに使った右腕の、その肘をそのまま突き出した。

パキッ

と、箸を割るような音がした。

千葉の二撃目の左拳に、榊は右肘を正確に合わせて打ち抜いていた。

榊の肘が、千葉の拳の中央、中指に合わさっている。

拳の特に指の骨は細く脆い。一方で肘の骨は非常にく頑強にできている。

いかに小柄なと大男でも、この差は覆らない。

千葉の表が苦痛に歪む。

千葉は左拳を戻す。その中指の関節がないはずの箇所がズレて凹んでいる。

千葉は一歩退がった。

それは、左拳を壊されたことの痛みによるものではなかった。

すでに懐に踏み込んでいた榊の右拳の打ち下ろしをやり過ごすためだ。

榊の右拳が空を上から下に切り裂く。

千葉とて並ではない。

退がった後ろ腳を、そのまま軸足にして前足を蹴り上げる。

その前足が榊の顔にびる。

榊は右肩を前にれて、千葉の前蹴りをけ止めようとした。しかし、その蹴りが榊の肩にれる瞬間、

蹴りの軌道が、うねる。

下からまっすぐびてきた蹴りが、著弾の直前で蛇のように曲がったのだ。

その足刀は、榊が備えた防の肩を迂回して、榊の側頭部を打った。

榊の頭が橫薙ぎに飛ぶ。

はっ、というざわめきが周囲から上がる。その聲には恐れが含まれていた。周囲にいる人間たちは戦闘のプロばかりだ。榊が打たれた側頭部は、人の急所であることを知っていた。そこを強打すれば最悪、後癥の危険もある。

「は、反則!」と審判が千葉を指し示した。

明らかな急所への直接打撃は反則として扱われる。ルール上、急所への打撃は寸止めでなければならない。

反則が宣言された瞬間、周囲の人間が榊に向かって駆け寄った。

榊は打たれた側頭部を右手で押さえて、フラつきながらも立っている。小さく頭を振りながら、何度も瞬きを繰り返して左右を確かめている。軽度だが脳震盪(のうしんとう)の癥狀だ。脳の可能も考えれば余談は許さない。

「……大丈夫、だ」

榊は周囲に群がってくる人だかりに向かって、息を吐いた。その中に審判が混じっているのを見つけて、聲をかける。

「勝敗は?」

足元はおぼつかないが、しっかりとした聲だ。

審判は榊の様子を覗き込みながら答える。

「千葉副隊長の反則負けです」

「そういうことじゃない」と榊は頭をしっかりと振り直して、審判を見る。「最後の蹴りは有効打だったか、とそう聞いているんだ」

審判は目を見開いた。

「有効打でした。……致命傷になりかねないため、直接の打撃は反則になります」

「……つまり、私は勝負に負けたのか」

榊は、そこで初めてらしい悔しそうな表を見せた。反則で勝とうがどうでもいい。これが実戦であれば私は死んでいた。

——要は負けたのだ。ニィ隊長の副長が、GOAの副隊長に。

「いや、お前の勝ちだぜ」

野太い聲が周囲の注目を奪った。

そこにいた全員が振り返ると、そこにはGOA隊長の宮本がいた。宮本はその太い腕を組んで、榊を見下ろしている。

「とんでもねぇ、の子もいたもんだ。千葉は俺たちのナンバー2だぜ、それが完全に負けちまった」

宮本は聲を張り上げてた。もしかしたら、彼はそこにいる全員に聞かせようとしているのかもしれない。周りには彼の部下が集まっている。

榊も宮本を見上げる。

「しかし、私は最後の蹴りをけきれなかった」

「でもよ。お前さんは千葉の脇腹を打ち、拳を砕いている。反則の前に、お前さんの有効二本で勝ちだ。なぁ、そうだろ、千葉?」

宮本が視線を橫に向けると、その先には左手を押さえて千葉が立っていた。

千葉の表が曖昧になった。

「ええ、完全に俺の負けですね。……脇腹の骨にヒビもれられ、左の拳もこの通り使いになりません。文句なしの有効二本。榊さんの完勝です」

千葉はそう言うと、爽やかに笑った。

良い男だな、と榊はその顔を見直した。さっきは人にはなれないと判斷したが、あらためる必要があるかもしれない。勝負にこだわっていた自分が急に恥ずかしくなった。思わず顔を俯かせる。

「さて、しかし困ったな」

相変わらずの大聲で、宮本は周囲を見渡す。

「千葉が負けちまったから、最後の大將戦だが……。この嬢ちゃんにこれ以上、無理させるわけにはいかないしな」

「私なら、問題ない。もうしで回復する」

「さて、そう言われても、な」

「かまわない」

宮本は破顔しながらも、しかし、口元を歪めた。

「心意気は買おう。しかし、脳へのダメージに油斷はできない。念のために嬢ちゃんには検査をけてもらう。ここはGOAの訓練場だ、怪我人が出れば俺の責任問題になる」

そう言って戒める宮本の橫で、千葉がぼそりと「一応、責任意識はあったんですね」とぼやいた。

榊は食い下がった。

「でも……」

「続けたきゃ、代理だな。すでに出た奴からでも良い。しかし、嬢ちゃんはダメだ」

「……」

榊は奧歯を噛んだ。他のメンバーはいずれも手練れだが、しかし、次の相手はこのGOAの隊長なのだ。近くで見上げれば、その実力が香り立つように予される。間違いなく強い。先ほどの副隊長よりも數段は格上だろう。

他のメンバーでは勝算はない。たとえ自分が出たとしても、勝つのは難しいだろう。

そう逡巡する榊の肩の上に、後ろから手を置く者がいた。

「僕が出るよ」

全員が振り向いて、そして息を呑んだ。榊の後ろに立っていたのは、白い髪に赤い目をしたこの世のものとは思えないくらいにしい男だった。

「おいおい、ロク」と宮本がく。

「僕が、榊の代わりに大將戦をしよう」

ロクは一歩前に出て、榊を追い越した。

榊がその背中に向かって抗議を投げる。

「ロク、なんでお前が、」

ロクが榊を振り向く。

榊はハッとした。振り向いてこちらを見下ろすロクの橫顔は、まるで當然のようにニィによく似ていたからだ。

「僕も孤児院で稽古を続けている人間だ。出場する資格はあると思うけど?」

「しかし、お前は、」

——ニィ隊長の敵だろ。

その言葉を榊は飲み込んだ。馬の糞を食ったような不味さだ。吐き気がする。目の前の男はニィ隊長に似ている。雙子のように瓜二つだ。関係ない。外見だけだ。全然違う。まったく違うんだ。

が歪んでいく榊に、そっとロクは顔を寄せた。ニィと同じその顔に、榊は思わず引き寄せられた。その耳元でロクはつぶやく。

「あの時、僕とニィの実力は互角だった」

「……」

「見ていただろ? あの死闘を。そんな僕が、GOAの隊長ごときに遅れをとるとでも? ニィが宮本さんに勝てないとでも?」

榊は押し黙った。

ロクがを起こして、榊から遠ざかる。

榊は、憎しみを込めてロクを見上げる。

「私は、お前が嫌いだ」

「知ってるよ」

「お前は、最低だ」

間が空いた。

次に出た言葉も、榊のものだった。

「……絶対に、勝てよ」

「ああ、當然だ」

ロクはそう請け負って、宮本の方を振り向く。

ロクの目の前には、大きな男が両腕を組んで立っている。宮本の強さをロクはよく知っていた。世界最強を義務づけられたGOAにおいて最強の男だ。

「おいおい、マジかよ。ロク、お前がやるのか?」

「ええ、榊は認めてくれました」

「その割には、ものすごい睨まれているぞ、お前」

ロクは宮本の疑問を無視した。

「本気でお願いします。宮本さん」

「ん、それは命令か、ボス」

「ええ、命令です。もし、負けたら訓練不十分ということでペナルティも考えますよ」

「おいおい……。だったらよ、俺が勝ったら何かあるんだろうな」

「そうですね。ボーナスくらいは出しましょう。どうですか?」

「いいねぇ」

獰猛に笑う宮本を見て、ロクは薄く笑った。

その秀麗な顔の奧でロクは高揚していた。

目の前の男は試金石だ。旅程のマイルストーンだ。ようやく、それを確認できる。この男以上の指標は存在しない。それよりはるか上に行くための、現狀確認。

ふふっ、

ロクが小さくこぼした笑い聲を、近くにいた榊だけが聞いた。

はそれを不思議に思った。ロクはあまりを表に出さない。そこについてはニィ隊長とまったく逆だった。ロクが聲を出して笑うのを榊は初めて聞いた気がした。

それは笑い、というよりも、嗤いだった。

こぼした小さな聲に、複雑な、執念のような、狂気を孕んでいた。行き場のないの発。そんな嗤い。それは時折ニィが見せた笑いと酷似していた。

榊の耳にロクのつぶやきが聞こえてくる。

「絶対に負けない」

榊がロクの背中を見上げると、ロクは視線を橫を向けていた。

榊もつられてロクの視線を追いかける。

その先には、ハラハラと狀況を見守っている布津野がいた。

ロクの小さな聲が、榊の鼓を揺らす。

「父さんは、この男よりもはるかに強いのだから」

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