ロクが紅葉とナナを連れて屋上に出た時は、まだ辺りは靜まり帰っていた。異様な靜かさだ、とロクは思う。

それは錯覚かもしれない。ここが包囲されていて、みんなが中央棟にかに集合していることを知っているから、よけいにそう思うだけなのかもしれない。

まだ寒い2月の夜に、薄い蟲の聲がする。郊外にもなると緑が多い。葉の揺れるざわめきが薄く、波のように聴こえてくる。

おそらく、相手はこちらが見えているだろう。相手の指揮がいるとすれば、狀況を把握しやすい場所にいるはずだ。さっと周りを見渡すと、近くに木が生い茂る小高い丘があった。こちらの狀況と包囲の様子を監視し、指示を伝達するとすればそこしかない。

本來であれば、ビルの一室を數箇所ほど確保して、そこを指揮所とするだろう。通信機を稼働する電力を確保しやすいし、いざという時は一般人に紛れて撤収しやすいからだ。しかし、この辺りに丁度良いビルはない。

「ナナ、」

ロクは聲を潛めた。この距離では指向マイクでも音を拾う事は出來ないが、あえて大聲を出す必要もない。

「なに？　ロク」

「おそらく、今、相手は屋上に出てきた僕たちを監視している。暗視ゴーグルだろうが熱赤外線スコープだろうが方法はいくらでもある。挙に気をつけて」

「わかった」

まずは、とロクは問題の丘を背にする位置まで歩いて、ナナを見た。

「さっと辺りの狀況を再確認してくれ。それと、僕の背後にある丘に相手の指揮がいる可能が高い。そこを注意深く観察してほしい」

「んっ、とね」

ナナは両手を広げてくるりと回る。いかにも外の空気を吸いに來たように、大きくびをしながら、辺りを歩き回りながら周囲に視線を走らせていく。

「……うん、やっぱりぐるりと人が囲んでいるね。まだきはないよ」

「よし。丘はどうだ？」

「う〜ん、四人かな？　もっとよく見ないと分からないけど」

確定だな。この深夜に丘に人がいるわけがない。おそらく、それが指揮だ。

ロクは手すりにもたれかかって、榊からけ取った攜帯端末を取り出す。GOAの到著まで殘りは二十五分。先鋒部隊はヘリでやってくるはずだ。

GOAが到著すれば屋上で防陣を構築させ、侵してくる相手を狙撃させるのがベストだ。しかし、出來れば相手の正を見極めたい。何とかして、相手の指揮を捕らえることは出來ないだろうか……。

ロクは榊から借りけた端末を全員への通話モードに切り替えて、耳元に當てた。

「こちらロク。榊はいるか？　中央棟の防陣の進捗を聞きたい」

「こちら榊」

おそらく、榊は予備の端末か仲間からの借りだろう。即応したのが榊本人だった。

「進捗は順調だ。こちらに銃がないのは心もとないが、まぁ何とかしよう」

「了解だ。現在、敵にきなし。二十五分後にGOAが到著する予定。ヘリで上空からだ。到著後、GOAは屋上で狙撃陣を構する。全員、不用意にくな。時間を稼げば僕たちの勝ちだ」

「「了解」」

通話を終えたロクは屋上のフェンスに背中を預けて両腕を組んだ。さて、父さんにはどう連絡したものか？

父さんは今、部屋で法強さんと一緒にいるはずだ。寢ているかもしれないし、まだ酒を飲んでいるのかもしれない。狀況から判斷するに、父さんの最適な行はそのまま法強さんと一緒にいることだ。相手の目標が法強だった場合の最終的な防衛手段にもなる。

しかし、

経験上、父さんに何かを依頼しても思い通りになったことはない。全くないと言ってもいいだろう。資源ゴミを出してきてしいと言えば、可燃ゴミを持って行く。卵と牛を買ってくれと頼めば、チーズとワインを買ってくる。

……とりあえず、狀況の共有くらいはしておくか。

はぁ、とロクはため息を吐きながら、今度は自分自の攜帯端末を取り出す。

「もしもし、父さん」

「やあ、ロク、楽しんでいるかい？」

ご機嫌な聲が鼓をでた。これは酔っているな、と察しをつける。ダメだな。普段でさえ結構ダメな人なのに、これでは役に立つわけがない。中途半端に狀況を話して騒がれても厄介だ。

「ロクも飲んでいるかい？　お酒はいいぞ〜。飲みすぎたらダメだけど」

まったくだ。分かっているのに、なぜ飲みすぎるのか？　酔っ払いと話す余裕などない。

「方強さんに代わってもらえますか？」

「……あっ、はい」

しゅん、と小さくなった父親の聲がする。耳元で攜帯をやり取りする雑音がしばらく続いて、方強の聲がした。

「代わったぞ」

「方強さん、狀況を共有します」

「どうした」

「今、ここは何者かに包囲されています。それなりに統制された集団です」

方強は無言だ。

「狀況から考えて、相手の目的は貴方である可能が高い」

「……だろうな」

話が速くて助かる。父さん相手ではこうはいかない。

「心當たりはありますか」

「ある、な」

「教えて頂けますか？」

「軍の一部には、今の総書記を排除しようとする勢力がある。おそらくはその一派だ。俺は軍部で総書記派と見なされていた」

まぁ、そんなところだろう。予想の範囲だ。現狀では、相手の目的が法強であると仮定して対策を組み立てるしかあるまい。そうであれば、時間を稼ぐための方法などいくらでもある。

「分かりました。貴方に死なれてはこちらも困ります。ご協力願いたいことがあるのですが、構いませんか？」

「もちろんだ。迷をかける」

「三階に放送室があります。そこの録音機能を使って、法強さんの居場所についての虛偽報を流すように設定してください。予約機能を使って十分後にです。敵への報攪に使います。その後、放送室から離れ、可能であれば、中央棟に移してください。そこで榊たちが防陣を構築しています」

「分かった。問題はない」

「放送室の場所は父さんに聞いてください。そこでの設定が終わった後は、を隠していれば問題ありません。時間さえ稼げれば、GOAがここに到著します。それでは、失禮します」

「待て、ロク」

ロクは、通話を切ろうとした指を止めた。

「何ですか？」

「お前の父親はどうする？」

「父さんですか？」

ロクは怪訝に思った。父さんをどうするって、どうしようもない。今、酔っ払っているみたいだし。僕の言うことなんて聞かないんだから。

「……父さんには、どうぞ好きなように、とお伝えください」

ロクはそれだけ言ってしまうと、通信を切ってしまった。

さて、どうなるか。

このまま狀態が膠著してくれれば最良だ。こちらはGOAの救援がある。時間を稼げればそれだけ有利な狀況になる。……父さんが余計なことをしなければいいのだけど。

ロクが次の思考に移ろうとした瞬間、

「ロク！」とナナが鋭い聲を上げて、ロクの袖を引いた。

ナナは、丘の方をまっすぐ睨んでいる。

「何だ、ナナ」

「あの丘に、いるよ」

「それは聞いた」

「違うよ」

ナナは丘から目をそらさずに言う。

「あのワインレッドは……うん、間違いない」

ナナはロクの方を振り向いて斷言した。

「あそこにいるのは、會長さん。黒條百合華さんだよ」

「クロちゃんが！」とそばで耳を立てていた紅葉が聲を上げる。

「まさか、」

ロクは流石に狼狽した。ナナの見間違いだと思った。しかし、あの黒條百合華があそこにいるとすれば……。

ナナの聲が再び上がる。

「き出したよ。ロク。周りの人たちがこっちに走ってくる！」

くそ！

ロクは榊からけ取った攜帯端末を取り出した。屋上のフェンス越しに地上を覗きこむ。ナナの言う通りだ。一目で數人の影がこちらに向かって走っているのが確認できた。

相手はこちらに向かって走っている。隠侵（ステルス）ではない。強行突破（ダイナミック）だ。両手を小さく構えている。握っているのはハンドガン。アサルトなどの重火は見當たらない。

ロクは攜帯に向かって聲を張った。

「全員、敵がき出した。施設に突。ダイナミックだ。主な裝備はハンドガン」

ロクは攜帯を口に當てながら、眼下を走りぬけていく人影を目で追う。

おかしい。

あいつらは明らかに、中央棟に向かってまっすぐ走っている。周囲の警戒などは一切しない。普通の突作戦では、敵がどこに潛んでいるか分からない。そのため、周囲をクリアリングしつつ徐々に侵攻するはずなのに。

奴らは知っているのだ。全員が中央棟に集結していることに。

「榊！　気をつけろ。奴らはお前たちが中央棟にいることを知っている。一気に突撃してくるぞ！」

「了解した！」

地上から、窓ガラスの割れる音が鳴り響いた。

◇

「多分、気がつかれたわね」

黒條百合華は英語でそう呟いた。

それは孤児院を囲む男たちが突を始める數分前だった。ちょうど、ロクとナナと紅葉の三人が屋上に姿を見せた時でもある。

黒條百合華は、屋上に出てきた三人を暗視ゴーグル越しに覗き込んでいた。暗視ゴーグル越しの映像は緑一で個人の特定が難しい。しかし、百合華の使っているものは雙眼鏡にもなる。拡大してみる三人の特徴がよく見て取れた。あら、ロク君にナナさん、それにモミちゃんまでいるじゃない。

「なぜ分かる？」

百合華の隣に立っていたが問いかける。このも英語だ。使い慣れていないのかしぎこちないが、発音は明瞭で聞き取りやすい。変にネイティブの真似事をせずに、相手が聞き取りやすいようにゆっくりと話す姿勢は好よ。

百合華は暗視ゴーグルから目を離して、を橫目で見た。

若いだ。年は20代の前半だろうか。

そのは珍しく、しくはなかった。醜いわけではない。ただ、日本では當たり前のしさが、彼にはない。彼は未調整だ。

し日焼けした淺黒いに、短くした黒い髪。活的なじのする、ただそれだけのだった。日本でなければ、どこにでもいるアジア人種。微妙に崩れて整っているとは言えない、海外ではごく一般的な容姿。

彼は日本人ではなかった。日本語もしゃべらない。

「よく見てみるといいわ、貴方の目ならばよく見えるでしょう」

百合華は相手に合わせて、ゆっくりとした英語で話す。英語はあまり好きではないが、しかし、報を伝達するには必要だ。十分ではないけれど。

が振り向いて、百合華を睨みつけた。

百合華は息を呑んで、小さく吐いた。

そのの目は、異様だった。

一度見れば忘れることができない。奇妙でさえある。見る人によっては不気味だとじるかもしれない。異質で不自然。しかし、百合華は彼の目が嫌いではない。

彼は、左目だけ真っ白だった。

右目はいたって普通だ。しかし、彼の顔を正面から見ると、両眼の不釣り合いさにギョッとすることだろう。

百合華は手をばして、屋上に出てきた三人を指差した。

はその指し示す方を、その白い目で追いかける。

そこには三名の男がいる。

「どうかしら、彼らのは？」と百合華が問う。

「……汚れを知らない」

「でしょうね。あの人たちは悪い人ではないわ。特にモミちゃんは最高よ」

「知り合いなのか」

「ええ」

百合華は笑った。

は表をくした。

「裏切ったのか？」

「あら、どうして裏切ったと思うのかしら？」

百合華はおかしそうに笑う。

「あそこに私の知り合いがいるから？　仮に裏切っているなら、それをどうして貴方に伝えるのかしら？　もしかして、貴方の目には見えた？　私の悪意が」

は眉をひそめた。

百合華はふっ、と口を緩めた。

「どうやら、裏切りに慣れてしまっているようね。それは被害妄想よ。ここは日本。統制された平和がお金で買える不可思議な國。裏切りや犯罪にはそれなりのコストを支払わなければなりません」

は目を閉じて、指をこめかみを押し付けた。彼にとって英語は母國ではない。先ほどの百合華の発言は言い回しが複雑で、彼は意味を完全に追いきれなかった。

「つまり、貴方は裏切っていない、と」

「ええ。私の裏切りは高いわ。あまりにも高価ですから貴方には売れません」

「……」

は諦めたように目を閉じて、小さく唸った。彼は辺りにある木に近寄ると、パッと飛び上がって手頃な枝の上にを乗り上げる。

見事なのこなし、と百合華は心した。まるで猿みたいだと褒めれば、彼は嫌がるだろうか。もし嫌がるならば、是非とも褒めてみたい。

は枝の上にまっすぐ立っている。片手で右目を塞いで、白い左目だけで、孤児院の全を観察している。

「……確かに、貴方の言う通りだな」

木の上に仁王立になっているを、百合華は見上げる。

「でしょ」

は音もなく木から飛び降りて、目の前に立つ。

「中にいる鬼子の兵が中央に移している。しかも、窓に映らぬように警戒しながらだ。人影は見えぬが、が窓から溢れていた」

「白髪の年が指揮をとっているのでしょう」

「ニィはここにはいない、と貴方は言ったはずだ」

「ニィ年じゃないわ。あそこにいるのはロク年よ」

「ロク？」

は片眉をピクリと震わせる。

「黒條の頭目よ。貴方は私に隠していることがあるだろう。ロクとは何者だ？」

「ニィと同じような年よ」

「……」は目を細めた。

「見れば分かるわ。貴方の目ならばなおさらね」

は無言で百合華を睨んだままだった。

百合華は手を口元に當てて、くすり、と笑う。

「気づかれたのであれば、早くしたほうが良いわ。ロク年はおそらく助けを呼んだはずよ。來るのは日本の特殊部隊。せっかく配置した包囲が無駄になる」

の無言は數瞬だけ続いたが、やがて、両目を閉じて、後ろを振り返った。そのまま歩いて茂みから外に出る。丘の最も高い開けた場所に出た彼の姿を、月明かりが照らした。

彼の目は屋上の三人をもう一度観察する。

強いが見える。警戒の灰に包まれている。良い反応だ。あのニィと同じ年がそこにいるらしい。

黒條の頭目に言われるまでもなく、突はする。すでに包囲網は完したのだ。このまま様子を伺っていても無意味だ。すでに相手に気づかれたのならば、なおさらだ。

法強上將の居場所はまだ分からぬが、適當に脅して聞き出せば良い。それほど広い建でもない。しらみ潰しにしても問題はない。

はポケットから通信機を取り出すと、それを口に當てた。彼の口からは流暢な中國語が発せられた。

「総員、傾注。鬼子どもは包囲を嗅ぎ當て、すでに目標施設の中央に集結している。法強も可能が高い。鬼子どもはすでに各區畫にはいない。中央に一気に突し、目標に到達せよ」

「「是（シィ）」」

と、通信機から応答があった。

「狀況の開始まで10秒。各自、備え。……五（ウー）、四（ス）、三（サン）、二（アー）、一（イー）。！」

は息を整えて眼下の狀況を見守る。

部下たちのがき出している。あの鬼子部隊とはいえ、丸腰の包囲戦はつらかろう。立てこもっている中央を制圧は難しくないはずだ。

「始まりましたか？」と背後から黒條百合華の聲。

「ああ」

「気まぐれに忠告です。あそこには貴方には想像もできないほどの強敵がいます」

黒條百合華のその言葉に、はし興味を引かれた。このに強敵と言わせる者がいたとはな。

「あのロクとか言うやつか？」とは振り返った。

「いいえ、あんなお子様とは比べものにならないくらいの圧倒的な存在です。もし、その方に出會ってしまったら、お逃げなさい」

「どれほどの者だと言うのだ、その者は」

黒條百合華は笑顔を浮かべて、首をかしげて見せる。

「そうね。分かりやすいところで言うと、銃弾くらいは避ける人です」

も笑った。この黒條の頭目にしては下手な冗談だ。

「銃弾など、私だって避けられる」

は手を振って、百合華から視線を外して前を見る。

「そろそろ、私も突する。お前は下がっているがいい」

白目のはしなやかなのこなしで、丘を駆け抜けた。