《[完結しました!] 僕は、お父さんだから(書籍名:伝子コンプレックス)》[4a-23]それをと呼ぶことにした

イライジャは目の前の景を信じられなかった。

観衆たちは高々と手を上げている。唾を飛ばし、をのけぞらせ、五百だ千だと何かの數値をんでいた。

彼らの意識は舞臺の檻の中に集中している。味するように舌でを濡らして、視線を舐めるように這わせて檻の中にいるを楽しんでいた。

は母(マム)によく似ているの子だ。

ナナという名の父親のことが大好きなの子だ。

その彼は今、まるで羽を切り取られた白鳥のように、ぐったりとを鉄格子に預けている。そして、その目だけを潤ませて、じっ、とこちらを見ている。

が自分を見ているわけではない事は明白だった。

自分の前に立つ小柄な男。彼の父親だけを見ているのだ。

それなのに。

この男は娘のほうなど見向きもせずに、さっきから二階席の方を見上げている。

「一歩遅かったですね。すでに第七世代のことをバラされましたか」

「……」

「ナナは衰弱しているようです。……くそ、を抜かれたな」

?」

布津野は二階を見上げたまま、ニィに問いかけた。

「ええ、目的はナナのDNA報でしょう」

「そうか」

布津野の様子は無機質だった。

イライジャはその様子にイライラした。

自分はこの男がちゃんとした父親なのだと思っていた。しっかりと娘をしているのだと思い込んでいた。

今、目の前で、お前の娘が豚どもに囲まれて泣いているのだ。

助けてくれと、救い出してくれと、涙を浮かべて、お前しか見てないじゃないか。どうして飛び出さない。

「おい、あんた!」

イライジャは手をばして布津野の肩を摑んだ。

「なんで、行ってやらねぇんだ。あっ?」

布津野は、ちらり、と眼だけをかしてイライジャを見た。

そののない眼のをイライジャは嫌悪した。きっと、俺の糞親父もこんな顔をしてマムを犯したに違いない。

「あんたは父親だろ! ちゃんと見やがれ。泣いていやがるだろ。父親だろーがよ。娘だぞ!」

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イライジャは布津野の肩を揺さぶった。

揺さぶりながら、自分が勝手にこの男に期待していたことに気がついた。

自分にはまともな父親がいなかった。しかし、ちゃんとした父親がいたら……。

きっと、それはマムを悲しませることなく、それがいたら幸せになれる存在。曖昧で説明ができない何か良いもの。それを自分は知らない。

もしかしたら、父親とはこの男みたいな人なのかも知れない。そんな期待をしてしまっていた。

イライジャは奧歯を噛んで、ナナから目を逸らす布津野を睨みつけた。

お前は、あのニィが子犬みたいに懐いている男で、あの娘が大好きなお父さんで、ブルース・リーが奇聲を上げて逃げだすような格闘家なんだろ。

なのになんで、あの娘を助けてやらない。まっすぐ駆け寄って、そのすげー技で檻なんか壊しちまって、あそこからあの娘をすくい上げて抱きしめてやればいい。映畫みたいでも良いじゃねぇか。

それとも、これが現実ってやつなのか?

「おい。なぁ、おい!」

イライジャがより一層強く布津野の肩を揺さぶろうとした瞬間、

タン、とその手は布津野の手に払われた。

まるで蝿をはらうようなぞんざいさで、目の前の父親面は、相変わらず二階席のほうを見上げ続けている。

摑むものを失ったイライジャの手は、上に跳ねて空気を摑んだ。

「……分かったぜ」

イライジャの足は床を蹴って、そのを前に飛び出した。

「おい、イライジャ!」

背中から呼び止めるニィの聲も無視した。

糞(シット)、糞(シット)、糞ったれが(ブル・シット)!

加速する足も、怒りも、もうネジが飛んじまっている。

まるで映畫のラストのアクションシーン。絶絶命の狀況からの一発逆転を狙う主人公。仲間面した無能には足を引っ張られ、ヒロインの細首は敵の腕の中。まさに崖っぷち。お前が出來ないなら見せてやる。

父親(ヒーロー)はこう演じるんだ。

「Hey, Hey, Hey!」

イライジャはをからして舞臺に飛び上がった。集中するスポットライトからナナを守るように両手を広げて立ちふさがる。

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目の前には糞みたいな観客が口を開けて、小便をぶち込まれるのを待ってやがる。

「Hey! fucking ladies and gentle mother fucker!」

その罵倒に観衆は凍り付いた。

突然舞臺にしてきた男が口汚い言葉で自分たちを罵り出し、しかもそれが誰もが知るハリウッドスターのイライジャ・スノーだった。その事実はなかなか納得に落ちずに宙に浮遊したままに漂う。

イライジャは、そんな観衆に向かって指を差す。

「いいか。糞野郎ども、俺は今から當たり前のことを言う。神だって同じことを言う。三歳の子供だって口をそろえて同じこと言う。いいか、最低のクズ野郎ども。よく聞きやがれ」

しん、と靜まり返った舞臺に、イライジャの聲はよく響いた。

「お父さんに教えて貰わなかったのか。おおっと、失禮。こんな所にはまともなお父さんなんて一人も居なかった。じゃあ、お母さんだ。マムに言われたことはないのかな? 男として最低限守らないといけない鉄則。これが出來ない奴はモテない。貞を引きずって、そのまま首をつって死ぬ。だから、何があってもこれだけは守りなさい」

イライジャは突き刺した指を水平にないで、観衆の表を切り裂いていく。

「いいか、ジョニー? スティーブ? ベイブ? バルド? イディエット? みんな思い出したか? おしいマムが口酸っぱくして言ってただろう。いいか、の子を泣かせてはいけません、だ」

イライジャは腕を振り上げて拳を作った。「の子を泣かしてはいけません」ともう一度んで全員を睨みつける。それで気が収まらなかったのか、舞臺の隅にいた司會役の男のほうに、ずかずか、と歩み寄るとマイクをもぎ取った。

イライジャは會場に響き渡る大音量を出した。

「お前らはな。マムをFuckしたド畜生だ。とか人種や宗教は関係ない。伝子いじっているかも関係ない。お前たちはな。マムが大切にしてきたの上に糞をたらす豚どもだ」

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イライジャはもはや両手を振り回しながら、舞臺の上を縦橫無盡にいて観衆たちを罵っていた。

それを眺めていたニィは手で口を覆い隠して、目を細めた。

「あいつ……」

ニィは周囲にさっと視線を走らせた。

呆然としている観客。舞臺の上には司會者と檻とナナとイライジャ。どこだ? 四罪の奴らはどこにいる?

「布津野さん」

「ここは大丈夫だから、行きなよ」

「しかし、ここに反骨がいるはずです」

「ああ、あれだろ」

ニィは、はっ、として布津野が指差した上を見た。その先にはこちらを見下ろす獣のような大男がこちらを睨みつけている。

「朱烈(ヂュリィェ)!」

「みんなの事も心配だ。行って」

「しかし、あいつは反骨です」

「……無様な殺気をまき散らしている」

上を見上げたまま、布津野は口を歪めてそうこぼした。

「あの程度の奴に、」と、橫目でニィを見た。「負けるわけないだろ」

「……」

「もう十分だ。ナナは絶対に助けるから」

「……すみません。お願いします」

ニィが駆けだしたのが、それが合図になったのかも知れない。

その直後に、二階からガラスが砕け散る音がした。

そして、すとん、と貓が著地するような軽やかな音を立てて、巨大な獣の姿が舞臺の上に降り立った。ちょうどイライジャの背後だった。

イライジャが思わず振り向くと、そこには左右の腕を大きく広げた獣の姿がある。人のではあり得ないほどに隆起した筋が、ねじりこんだワイヤーのようにしなっている。

剎那、その両手が差してイライジャの頭を挾み、凄まじい音を響かせた。

観衆は絶して、イライジャの頭が潰れて消えるのを想像した。

しかし、そこには、いつの間にか、

もう一人の男の背中が現れていた。

小柄な男だ。

ケチャップになったはずのイライジャは、彼の足下に転がって大きな獣と小柄な男を互に何度も見ていた。

獣は空振りに終わった左右の手を、だらり、と垂らして前屈みになった。それは猿のようにも狼のようにも見えた。なくとも、およそ人間と思えるようなモノではない。

それに対して、小柄な男は普通すぎた。絶的な狀況で足がすくんでいるように、観衆には見えていた。

獣の口が開いて、聞き慣れない言葉がこぼれる。

「你是(ニーシィ)沒(メイスェ)」

小柄な男も知らない言葉をつぶやいた。

「この、素人(しろうと)が」

ニィはホテルの部を駆け回っていた。

やることは多い。懸念はそれ以上に多い。後にした舞臺からは、観客たちがぶ聲や足音が聞こえてくる。どうやら逃げだそうとして、混を極めているようだ。

ニィは目を閉じた。

——朱烈(ヂュリィェ)。

見えたのは間違いなく、驩兜(ファンドウ)の反骨だった。四人の反骨の一人。その中でも驩兜は戦闘型の一つだ。

仮に、とニィは思考を走らせてみる。

仮に、朱烈と対峙したのが自分だったら?

間違いなく即死する、と斷定できる。敏捷特化の驩兜型に勝つためには距離が必要だ。そのためには裝備や準備もいる。

ましてや反骨なのだ。生一つでその目の前に立ちはだかるなど、愚か者のやることだ。

——そういえば、貴方は愚か者でしたね。

ニィは思わず口元がゆるんで、目を開いた。

攜帯端末を取り出して耳にあてる。

「榊。ニィだ」

「こちら榊。ご命令を」

「一班をホテル部に突させろ。純人會が殘した証を押収。ただし、1Fホールの舞臺には絶対にるな。そこには朱烈がいる」

「朱烈! しかし、」

「布津野さんもそこにいる」

「……はい。かしこまりました」

布津野さんと一緒にいた時間だけなら、榊は自分よりも長い。その分だけ納得も早いのかもしれない。

ニィは続ける。

「殘りは四罪の逃走を阻止する。周囲を探索して奴らを見つけ出せ」

「了解」

ニィは懸念を振り切って、再び走りだした。

観衆が逃げだしたため、舞臺は隨分と靜かになっていた。

「なるほど、たしかにが無い」

朱烈(ヂュリィェ)は目下に立っている布津野を見下ろして牙をむいた。

構えや備え、威嚇に導、目つけと運足。いずれにせよ、気配を発っし相手を計りあうのが闘爭における常だ。

それはとしての本能にざした反でもある。相手の反応を見て、戦うか逃げるか、狩るか諦めるか、それを決める。

しかし、その男には何もなかった。

気配が無い。

思わず鼻がまって、ハルル、とがなる。

不可解だ。この目の前の男は、まるで生まれてきたばかりの子犬のように邪気がない。まさか、闘爭とじゃれ合いを混同しているわけでもあるまい。

グワァ、と吠えてたててみた。

それでも変わらない。

まさに沒

なんの反応も、わずかな反もない。まるですでに死んで腐った獲のように、まったくの無益無害の何かのように、そこに立っている。

距離は十分に近い。

朱烈は、垂らした右腕の爪を立てた。

この無しの男は素手だ。

その非力なで、どこまでやるというのだ。

垂らした腕をゆるめて、鞭のようにしならした。この男の小さななど、一掻きで削り取れる。

まずは小手しらべ。

朱烈の右腕がいて、その爪が下からまっすぐに布津野めがけてびる。

ひょい、と布津野は首を傾けた。そこに生じた隙間に朱烈の長い腕が通る。

風を切る音。

躱(かわ)された事を、朱烈は驚かない。むしろ當然。失させるなよ。

びきった腕をそのままに水平に薙ぐ。

布津野は頭を下げて、そのなぎ払いを頭上にやり過ごした。

朱烈のその頭に向かって、もう片方の爪を打ち下ろした。

その時、

——消えた。

左膝が橫から蹴り降ろされる。

朱烈は鼻に皺をよせた。視線を左に移すと布津野が二撃目の拳を脇腹に打ち込んでいた。

肋骨の隙間に刺されるような穿痛。それが脇下から心臓にめがけて打ち出される。

ざわっ、と悪寒が走る。流石に、不味い!

脇を絞めて守りながら、朱烈は飛び退いた。一足、飛ぶだけで、優に5メートルは距離を稼ぐ。

はるか向こうに置き去りにした布津野を睨む。その打ち出した拳には二本指を折り曲げて突きだしていた。あの拳の形が、刺されたような痛みの正か。

「折られた、か」

朱烈は脇腹をさする。まるで釘を差し込まれたままになったような痛み。それが脇腹にまだ殘っていた。

なかなか、嫌らしい工夫だな。と、朱烈は腕を戻して、再び対峙にした。

さて、奇妙なことが二つ起こった。

一つ目は沒の殺気が無いこと、二つ目は沒が突然消えたこと。

この二つが、実は一つであることを朱烈は直した。それは彼の野がなせる理解だったのかも知れない。

狩りにおいて、殺気がなければ草木や石に同じことだ。それを意識することなどない。この男は殺気を隠しながら踏み込んでくる。誰も草木が移し、石が攻撃してくるなど思わない。

さて、どうする。と、朱烈が悩んだ瞬間、布津野が一歩前に出た。

本當に、嫌な時にきやがる。

この男は妙に気にらない。

蛇のように狡猾だ。

連撃。

それが朱烈のとりあえずの対策だった。

その長い腕をしならせて、れ撃つ。そして、びきった瞬間に、鞭のように、引き戻す。

空気を叩く音が、連続する。

手応えはないが、とりあえず打ち続ける。元より當たるとは思っていない。まずは見極める。この獲は奇妙な技を使う。

數えて二十は繰り出した打撃。

次の一撃は、爪をたてたなぎ払いだった。

その中指が空気を掻く。

脇をしめて腕を戻す。

戻した手に違和。おかしい。異常事態。

中指の覚が消えていた。

視線を手の平に落とす。中指が反対方向に折れ曲がって、ぶらぶら、とつけから垂れ下がっていた。

咆哮を発して朱烈は、さらに後ろに飛び退いた。

右手の中指が、痛みを思い出したように熱をもつ。激痛は走り回っているのに、ぴくり、ともかない。ぶらんぶらん、と揺れるばかりでかないのだ。

間合いはさらに遠く、8メートルになった。それはすでに朱烈の間合いでもない。もはや銃撃戦の間合いだ。はるか向こうで、さらに小さく見える布津野は、まるで仏が拝むように手刀を立てていた。

その手刀が自分の指を折ったのだ、と朱烈は直した。

腕力では敵わない。だから指を折りにきた。

こいつ、擬態してやがる。

こいつは弱者を裝っている。

擬態とは本來、弱者が有象無象に紛れる逃走行為。

恥知らずのこの男は、

強者であるのに己を弱いと誤魔化した。

朱烈は両手の爪で床を摑み、足を後ろに引いた。

まさに獣の四つん這いの姿勢、低く低く重心を落として牙をむく。すでにその頭部は布津野の腰の位置まで落ち、四肢にため込む。

前進以外を拒否した獣の姿勢。

朱烈の床にすれすれの視界の隅に、めくり上がるようにぶらつく自分の中指がある。

怒り。

を失った恥知らずに、誇りあるこのの一部を奪われた。

それは、ごく自然な憤怒。

吠える。

怒りを燃やして、咆哮を吐き出す。

技や工夫など不要。

ましてや擬態など。

弓なりに引き絞ったこの軀。限界までため込んだその軋(きし)みを、

朱烈は解き放った。

イライジャは目の前にある現象を理解できずにいた。

大きな獣と小さな男。

いつの間にか自分は床に転がっていて、その二つはどうやら戦っているみたいだった。

しずつ、しずつ、理解が現象に追いついてくる。

どうやら、自分は生きているらしい。

どうやら、これは夢じゃないらしい。

どうやら……、自分は助けられたのかもしれない。

どうやら、この男に。

あのの子の父親に。

大きな獣のような男が、本當に獣のように四つ足になって威嚇の咆哮を上げている。フツノはまるで扇風機に涼んでいるように、それを正面にしても平然としていた。

その時、

獣のが盛り上がり、フツノに飛びかかった。

イライジャは、それをハッキリと見えたわけではない。

速すぎた。

目では追い切れず、烈風が頬を叩いたのみ。

だから、見ることができたのは、結果の狀況だけだった。

獣はフツノを襲い、覆い被さった。

その圧倒的な膂力でフツノをズタボロにする、と思ったのだ。

変だった。

獣は覆い被さった後、かなかった。そのを、への字に曲げて顔面を床に押しつけて痙攣している。長くびたが下から上に突き上げられて、歪な鋭角で背が盛り上がっていた。

びちゃ、

地面につっぷした獣の口から、が混じった酸味臭いが吐き出された。

フツノは……いた。

獣の盛り上がった腹の下にから、獣の腹を蹴り上げているフツノの姿が覗いていた。

獣が吠えた。

自分の腹の下に腕を潛り込ませ、フツノを摑んで引っ張り出す。獣はまるでボロ布のようにフツノを振り回した。

宙できりもみになるフツノ。

なくとも、自分にはそのように見えた。

視界の下の隅に、歩幅を開いて立つフツノがいることに気がついた時、獣が振り回しているのが、フツノの上著だけであることに気がついた。

フツノが打ち出したその打拳は靜かだった。

彼の周囲の空気が、まとまったように思えた。

その拳を獣のに、とん、と當て、

開いた両足を小さく前に、まとめて揃えた。

フツノのがさらに小さく圧された。周囲の空気さえもフツノの拳に集約されたような気がした。音も時間さえも一瞬で、彼の拳の先に集まっていく。

そして、それが発した。

獣が吹き飛んだ。後ろの壁にり付けになる。

そのには拳の大きさで潰されている。獣は、げーげー、を吐きこぼしながら、牙を、ガチガチ、とかみ合わせては口を開き、がへこんだ分だけのを吐き出すのに必死になっていた。

マジで、ブルース・リーだ。

同じ表現を何度も見てきた。実際にそれを演じて見せたこともある。東洋に伝わるミステリアスな技。実際に出來る奴なんていない。だから映畫になる。カンフー映畫でおなじみのあれ、実際はワイヤーアクションのあれ。名前は確か、そう。

寸勁(ワンインチパンチ)だ。

布津野は殘心を宿した拳を引いて、呼吸を整えた。

——見よう見まねでも何とか形にはなったな。

寸勁の理については、その本質だけは法強さんから教えられていた。その後も榊さんに何度か調整してもらって、稽古上ではそれらしきものを真似出來るようにはなっていた。

中國の武と日本の合気は、その運の思想を大きく違えている。を重ねて大きく発展させていく中國武に対して、合気は逆に小さくまとめていく傾向が強い。

とはいえ、同じ格闘だ。源流で同じになることは多い。

中でも寸勁の理は運を一點にまとめる點で合気の思想に似ている。比較的、自分にも得しやすいものだった。

ふっ、と呼吸を吐ききって、細く、ゆっくりと吸う。

眼前には獣が一匹。

大きく頑丈な。分厚くいびつに盛り上がった筋。これに対して有効な攻撃は限れられている。

初撃で試した二連撃は効かなかった。

からの足払いでを崩し、脇への打撃で心臓を止める。人間相手なら必殺の手順。しかし、足払いではを崩せず、打撃は貫けずに取れずに逃がした。

人の範疇を超えたあのを壊すには、もっと威力を高める運が必要だった。

寸勁はそれにちょうど良かった。

「為什麼你(ウェイシェンムェニー)、」

と、獣が何かをしゃべろうとしたが言い切らないうちにを吐いた。

死んではいない。

まだ慣れてないせいか、威力が十分に通らなかったらしい。こいつはまだ十分に戦力を殘している。こんな大きな爪と牙を持って、まだコイツはけるのだ。

呼吸を整える。

ナナが近くにいるのだ。

それなのに、コイツはまだける。

ナナのか細い呼吸をすぐ近くにじた。

しかし、今はナナを見たくない。

今の自分をナナに見られたくなかった。

それはただの現実逃避。でも、同じ過ちは二度としない。確実に殺す。ナナに嫌われても良い。

確実に、徹底して、殺す。

ふっ、と笑いがこぼれた。

ここに、あの小太刀があったら良かったのに。

覚石先生から頂いた刀。日本に置いてきてしまった。自分は本當に馬鹿だ。

あれがここにあれば、綺麗にコイツを殺せたのに。

一歩、間合いをめた。

胃の中を全て吐き出した獣は、再び前屈みなる。

より姿勢を低く、自分が作ったの池にをこすりつけるほどに。

口が引きつって、思わず笑ってしまう。

まるで馬鹿の一つ覚え。引き出しのない奴。圧倒的に足りてない。本當に素人だ。こいつは何も知らない。自分よりも強い相手と戦うを。

獣の重心がまた引き絞られる。

布津野は軽蔑した。

まさか、また突っ込んでくる?

また同じ手が通じるとでも?

完全に呼吸を摑まれているこの狀況で、和合した相手に向かって、命でも差し出すというのか?

あわせて、もらって、かえす?

馬鹿な。

お前の命なぞ、握り潰して返すしかないのに……。

その一瞬は、布津野が予想した通りに訪れた。

目にも止まらぬ速さで獣は奔(はし)った。

風すら置きざりにする高速。

しかし、布津野の時間はゆったりと流れていた。

その時間軸に獣は取り込まれる。

布津野には、十分な余裕があった。

自分の二本指を尖らせて、抜き手をつくる。

予定された地點に、予定された時に、その抜き手を差しれる。

そこは獣の巨大な頭部の耳の

予定された角度で、抜き手は、するり、と獣の耳の中にめり込んだ。

そのまま、指先をたぐって耳奧のを指に絡める。

コリコリ、とした骨の指り。

摑んだのは三半規管。

そして、時間が元のスピードを取り戻した。

抜き手は、するり、と耳から抜け出る。

獣のはそのまま通過して、壁に激突した。

どさり、糸切れた人形のように獣は倒れ込む。まるで仕掛けが壊れてしまったようにジタバタと四肢を激しく不規則に暴れだした。

布津野の手が開くと、つまみ取った白い片が、ぼたり、と床に落ちた。

抜き取られたのは平衡覚を司る三半規管とそれに接続していた脳細胞。それを引き抜かれた獣は、もはや自力で立つ事ができない。

バタバタ、と獣の手足が床にのたうち回っている。

激痛とを、耳と口からまき散らしている。

そのまま三十秒間、

やがて獣はかなくなった。

布津野はそれを、じっ、と見下ろしていた。

ナナは、それを見ていた。

見つめていた。瞬(まばた)きすらせずにそれに見っていた。

同じ。

あの時と同じ。

ううん。あの時よりももっと深く黒に染まっている。

本當にこの人は、

悲しいけれど、

悔しいけど、

私をしてくれている。

理解とか納得よりはるか手前に実する。

それは溫をじるみたいに側からの熱や疼(うず)き。言葉にしようとすれば、全てが言い訳になってしまうような、そんな自分だけの覚。

初めて會ったのは十歳だった。

あの頃の私はこれと同じ景を見て、ずっと一緒にいたいと思った。そして、私はこの人の娘となり、人となったのはグランマだった。

もう五年が経った。

あの時の熱と疼きは、長とともにより大きくなった。

長したのはだけじゃない。私は言葉を覚えた。んな言葉を覚えたのだ。このくすぶる苦しみに名前をつける必要がある気がした。

——私は、それをと呼ぶことにした。

もう、五年が経ったのだ。

グランマじゃなくて私だったら、良かったのに。

どうして、初めて會ったあの時、私は十歳だったのだろう。

グランマが60歳くらいのお婆ちゃんだったら良かったのに。

どうして、どうして、どうして……。

最初にこの人を見つけたのは、私なのに。

スポットライトに引き延ばされたあの人の影がき出した。

大きな獣のような人のかなくなって、その荒々しいだまりに吸い込まれるように消え去っていく。

それを見屆けていたあの人は、こっちに歩いてくる。

見上げるほど近くにあの人がきた。綺麗な黒。殘酷な。優しい人。

あの人の手が鉄格子を握る。

がちゃり、と音を立てて、私の扉が解かれて開く。

彼が覗き込んだ瞬間、目が合った。

すると、黒が消えて、いつものマリモみたいな深緑が広がっていく。

私には見える。

この人は今、恐れている。

あんなに大きな恐ろしい獣を相手に何一つ揺らがなかったこの人のが、私を見て、線香花火の最後みたいに頼りなげなのだ。

私に嫌われる事を、この人は恐れている。

「お父さん」

そう呼ぶだけで線香花火は、ぱっ、と輝く。だけどすぐに不安になってをくすませてします。

「お父さん!」

だるくて力のらない両足をふらつかせて、倒れ込むように前へ。マリモみたいな緑の中にを委ねて、慌ててけ止められたから、抱きしめ返す。

「お父さん」

「ナナ」

なんて優しい聲なんだろう。

「ナナはね、お父さんのこと」

顔をお腹に押しつけたまま、すぅ、と息を吸い込んで、

「大好きなんだから」

お父さんの手が、私をすくい上げるように抱きしめる。

「……僕もだよ」

書き切りました。燃え盡きました。

舛本つたな

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