ロクは呼吸を整えた。

目の前にいるのは、片目が白眼の。

細く呼吸を落とせば、すでに彼と和合している。もう、慣れてしまった。幾度も繰り返した彼との仕合。呼吸に、匂い、鼓も。

もう十分になじんでいる。

ハァッ！

と、鋭い気合いの彼の聲は、しかし、すでに予の範疇にあった。

シャンマオの軸が捻転して、

蹴り、裏打ち、フェイント、い、打ち下ろし。

十分な威力と速度の連打は、空気を裂いて自分に迫る。

無。

彼がいうところの、沒（メイスェ）。その境地に自分はまだほど遠いだろう。

でも、彼の事はよく知っているつもりだ。

彼の癖も、欠點も、殘酷さも、

……意外なかわいらしさも。

彼の重心が落ちてまとまり始めている。

寸勁の気配。

その打ち出しを、ロクはあえて待った。

それが打ち出されると同時に、ロクは消える。

シャンマオが空気を破って著きだした拳は、虛空を貫いた。

すでに背後に回り込んでいたロクは、そっ、と隙だらけの背中を抱きしめた。

「……もう、私では及ばんな」

吐息のようなそのつぶやきが、ロクの鼓をなでる。

「すまないな」とシャンマオの力がぬける。「私はここまでだ。もうお前の相手にはなれんよ」

「そんな事は、」

「お前の」と彼は遮る。「薄くなった、見えにくくなった。かつては無様だった殺気も、もはや見る影はない」

「まだ、父さんには及ばないよ」

「本當に、お前は強くなったよ」

シャンマオはそのまま抱きとめられたまま、背後のロクに重を預けた。

張をゆるめたのの、意外ならかさにロクは抱きとめる。このをおしいと思うようになったのはいつからだろう？

自分のの変化に思い悩んでいた頃もあった。

もしかしたら、彼が何となくグランマに似ているからかもしれない、と仮定した時のことを思うと笑うしかなかった。外見はまったく違う。でも、本質は同じような気がするのだ。

例えば、與えられたに従順なところ。

強くも一途で頑固なところとかも。

「あと、どのくらいだ」とロクは問う。

「さぁ、分からんよ。私は雑種（ザージャン）で、事例がないからな……。心配してくれるのか」

「ああ」

シャンマオが、ふふ、と息をこぼした。

「弱くなっただろう。私は」

「……」

「だったら、もうすぐだ」

シャンマオの手がのびて、背後のロクの頬をなでた。

「もう死にかけかもしれん」

「そうは見えない」

「強化個は、的な全盛期を過ぎれば急激に老いて死ぬ。すでに峠は越えているだろうよ」

ロクは後ろから抱きしめていた両手をゆるめた。

シャンマオは、振り返ってかすかに笑った。その長い指がのびてロクの頬をなでる。

「こんな私をしてくれたのだろう。本當に変なやつだ」

「僕は、」

「言うなよ。山貓は人知れず死ぬ。楽しかったぞ。うれしかったんだ。うれしいままで、いいだろう？」

「……」

「私は……だったんだ。知らなかったよ」

ふふん、と貓が鼻を鳴らすようにシャンマオは笑って見せた。その可らしい仕草に気がついたのは、つい最近のような気がする。

自分はひどく鈍で、手遅ればかりだ。そういう所だけ、父さんに似てしまったのだ。

「なぁ」

「うん？」

「抱いてもいいか？」

「さっきから、今だって、抱いてくれてるだろう」

「もっとだ」

「もう死にかけなんだ。……優しくしろ」

「ああ」

「お前は、本當にがんばり屋さんだからな。昔から、相手をするのが大変ッ、」

シャンマオの口を、ロクのがふさいだ。

……

しかるべき時間が経過した。

火照ったも、荒い息づかいも、の奧底から沸き上がる蠢（しゅんどう）も。

一通りに絡み合って、燃え上がり。果ての先まで二人で駆け抜けてしまった後。

ひとまずは、それが治まった頃合い。

「ニィのことだが、」

そう言い始めたのはロクだったが、彼はつづけられずに黙ってしまった。

「……どうした？　歯切れの悪い」

お前らしくないぞ、とシャンマオは耳元でささやく。

「いや、どうにもな」

「まとまらないか？」

「ああ、……あいつは」

「ふむ」

「あいつは、凄いやつなんだな」

くすり、とシャンマオは笑ってしまい思わずロクを抱きしめた。

「なんだ？」

年の聲は不機嫌だ。

「いや、なんとも、な」

「おかしいか？」

「いや、そうじゃない。不機嫌になるな」

「別に、」

ロクはふて腐れたように、眉をしかめる。

「どうして、そう思ったんだ？」

シャンマオの聲がやわらいだ。

「いや、な」

「ん？」

「……こういう事を、さ」

「ああ、こういう事だな」

シャンマオの指がロクのを這う。

年のはき通っていて白磁のようにらかでしい。それでいて、十分以上に鍛え上げられてしなやかだ。

「あいつは、好きでもない奴らとやったんだろう。仲間のために」

年のを抱きしめて、を著させる。火照ったはすでに冷え始めている。

年の、いや、男ののぬくもりが心地よい。

「……そうだな」

「男もも、関係なく」

「そうだ」

「不思議だったんだ。お前がニィを認めている事が」

「んっ？」

シャンマオはロクを見上げた。

決まりの悪そうな表をしている。とても珍しいことだが、しかし、その表はこの年の父親に似ていた。

「やきもちか？」

「……」

「やきもち、と言ってくれ。教えてやるから」

「やきもち、かもしれない」

くすくす。

「ニィのはな、悪意の結晶だ。あれほどしいはないよ」

ふん、と年は鼻をならして、頬を私の房に寄せた。

機嫌を損ねたか？　面倒くさいやつだ。

「お前が大好きな父親のだが、」

ふん、とまた鼻がなる。

「前にも言ったと思うが、私には恐ろしく見てられんよ」

「見えないから？」

「それもある。見えないのに、誰よりも激しいからだろうな」

「……」

「あの男は、悪意がなくとも殺せるし、悪意があっても殺さぬ。……あれも極まっているという意味では、ニィと同じだな」

「ニィは？」

「本當に珍しいな。お前がニィのことを聞くのは」

シャンマオは自分の元に抱き寄せたロクの顔に視線を落とす。

「別に……いいじゃないか」

顔をうずめてきて、年は表を隠した。

「ニィのはな、純粋な悪意だ」

「……」

「それは、純粋な善意なのかもしれない」

「……ナナも、そんな事を言ってたかも、な」

「だったら、あながち間違ってはないのだろうよ。……ゆえに恐ろしいのだよ。分からないのさ、もなく人を殺せる人間というのは」

にうずめた年の頭が、もぞもぞ、といて、目だけがこちらを見上げてくる。

「父さん？」

「ああ、あれは善意ではない」

「悪意でも、ない？」

「ああ、もちろんだ」

シャンマオは両手で、年の頭を抱きしめた。

「あれは、が善と悪に分かれる以前。その狀態だよ」

「……」

「を発する以前の、あるがままさ」

を丸めたシャンマオの背を、ロクの両腕が抱きしめた。

◇

榊は口をほころばせて、ニィを見上げた。

「それは、ロクを褒めているんですか？」

「そう聞こえたのなら、言い方が間違っていたのだろうな」

ニィは表を歪めてみせる。

榊はその変化を眺めながら、いい加減にされたらいいのに、と思った。しかし、それを口にすることはなく、やや大になったニィに歩調を合わせるために足を速めた。

「ただ事実として、アレはとんでもないな」

「オートキリング、ですか」

「そうだ」

「ニィ隊長は勝ちました」

「……問題は、あれが量産可能だということだ」

ニィが急に足を止めたのに、榊はピタリと歩調を合わせてみせる。

「自化された殺人単位の量産……。榊、あれに勝てるか？」

「いいえ……。聞くところによると、GOAも慘敗だとか」

「戦爭の歴史を一段階押し上げたな。あれを導すれば殺傷率は跳ね上がるだろうよ。一方的に、な」

「それこそが、ゲーミング・ウォー構想なのでは？」

「統制された計畫的戦爭、か」

ニィはこんどはゆっくりと、榊の歩幅にあわせた速度で歩き出した。

「その概念の実こそ、あのドローンだ」

「はぁ」

「まさに妙（みょう）だ。頭のない高能な犬、あいつが打ち出した構想のなれの果てがあの形（かたち）だ。稽だと思わないか？」

くつくつ、と悅にるニィを、榊は困った顔をして首をながめた。彼には、この尊敬すべき隊長のユーモアセンスがいまいち分からない。

「たしかに、あの四足のドローンは脅威ですね」

先ほどの実戦テストの景はまだ鮮明に覚えている。

あれに囲まれて生き殘れる自信は、自分にはない。仮に鬼子の部隊を総員して同數のドローン部隊と戦ってみたらどうなるだろうか。なくとも容易に勝てるとは斷言できない。

「ああ」

それとも、ニィ隊長であれば問題ないのだろうか？

そうかもしれない。あの地獄から自分たちを引き上げた彼なら、何だってやってのける気がする。

「ニィ隊長は、勝ちましたね」

「……確かに勝った、な」

「余裕でしたか」

「いや……、実のところギリギリだったな」

意外だ。

この人は弱みを見せたなんて、一度もなかった。自分たちの前では、常に余裕たっぷりで、不敵で、全てを敵にまわしても平然と振る舞っていた。

ああ、変わっていくんだなぁ、とに落ちてくる。

布津野さんの息子になってから、この人は本當にやわらかくなった。

「オートキリングは……脅威だ」

「いけないのですか？」

「あれでは、本當に戦爭はゲームになる。しかも、ヌルゲーだ。あれを凡百の政治家がれば戦爭で遊び出すぞ」

「……」

「だからこそ、親父しかいないと言うのに、ロクのやつはなぜ分からん」

ニィの聲が獨り言に落ちて、ぶつぶつ、と変わっていく。

二人きりの時間を取られたみたいでし悔しかったが、榊は黙って思考に落ちていくニィを眺めていた。隊長である彼の思考を邪魔しないこと、それは彼のに染みついた日常でもあった。

榊はそっと攜帯端末を取り出して、次のニィの予定を確認した。

ニィが日本にもどってからは、その副として様々な事務処理を擔當するようになった。ロクとは対象的にニィは自由奔放の限りを盡くしていたが、それでも政府と関係する仕事はいくつかこなしていた。

その一つに四罪および純人會への対処がある。

無化計畫は、中國とカリフォルニアにつづいて南アジアに展開している。すでに外國人の最適化出産も実現した。特に南アジアで始を控えている最適化センターは大規模なもので、複合生による伝子継承にも対応した一大海外拠點だ。

こうしたきに対して、四罪と純人會のテロ活は急増している。

最適化センターを狙った破壊工作はもちろんだが、日本政府が外國人用の最適化には劣等伝子を使っている、などのフェイクニュース活も活発だ。こういった妨害工作に対して、対処するのがニィの仕事だ。

榊が確認したニィの予定はすでに詰め込まれており、各所諜報機関からの報告メールは積み重なってきりがない。

「あっ」

榊は思わず聲をらして、メールの件名を流していたスクロールをピタリと止めた。

「どうした？」

「……」

榊は左右に視線を走らせて周囲に誰もいない事を確認すると、つっとニィの袖を摑んでを寄せた。

「……危覧（ウェイラン）からです」

「見せろ」

榊は攜帯端末のモニタをニィにむけた。危覧はニィが四罪の部に忍ばせた間諜の中でも、最も重要な人だ。

ニィの瞳がさっといて、ものの一瞬でメールの容を読み解いた。

「四罪め、き出すか」

「罠、という線は？」

「罠なら飛び込むだけだ」

ニィは拳を手の平に打ちつけて、不敵に笑った。

「……奴らの次の狙いは、南アジアの最適化センターだ」