《[完結しました!] 僕は、お父さんだから(書籍名:伝子コンプレックス)》[5-19] ホンバイ
冴子が首相の病室を訪れたのは晝過ぎで、ちょうど布津野とナナが料理を焦がして外食に出かけた數時間後になる。
「宇津々首相、よろしいですか?」
「おお、冴子か」
重の腹を左手で添え支えながら、首相が橫たわるベッドの近くまできた冴子は椅子を引き寄せて腰をおろした。
「すまんのぅ。々と手間をかけた」
「いえ、」
「我が幕僚の本當にけないことよ。大の男がよってたかって、喚(わめ)いて狼狽(うろた)えるばかり」
「これまで何十年も日本を支えてきた首相が倒れてしまったのです。今はロクも外していますから。しかたのない事かと」
「それが、お前が鞭(むち)を取れば、ぴしゃりとまとまりよった。やはり、違う。布津野のは違う」
「……その件なのですが、」
冴子がそう言い始めるのを、首相は手を上げて遮った。
その手は枯れ枝のように節くれていって、すでにその生気が盡き果てていることが見て取れる。
「言ってくれるな、冴子よ。お前の不満は分かっておる」
「首相、」
「すまんがの、布津野を儂に貸してくれ。この日本ために預けてくれ。もう、あやつしかおらんのよ。弟の理想を現できるのは」
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「……ロクがいます」
それを聞いて、ごほっ、と首相は咳き込んで口をゆるませた。
「あやつはまだ若い」
「しかし、」
「ロクはようやっとる。しかし、それが如何(いか)に布津野に寄りかかったものであるか、分からぬお前ではあるまい」
「……」
冴子は押し黙って、目を閉じた。
すでに閣僚の間では、首相は気が狂った、と噂が広がり始めている。その主な要因が忠人さんを次期首相に據えるという主張だ。もはや正気を失った老人の判斷に従う必要はない、という意見も出てきた。
しかし、それはおそらく違う。
この人は正気だ。その明晰な頭脳は死を間際により一層に冴え渡り、はるか未來を見通している。
ただ、結論を急ぎ過ぎているだけだ。
「20年……。いや、10年でもよい。儂が死んだ後を託せるのは布津野だけじゃ」
「忠人さんには、その気がありません」
冴子は膨らんで固くなった腹をでた。
これから先の20年、忠人さんにはこの子の側にいてしい。それがささやかな私の願い。それを取り上げないでしかった。
「だろうよ。ゆえにこれは儂のワガママじゃ。文字通りの、後生(ごしょう)の願い」
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「……」
「冴子よ、お前は布津野を支えてやってくれ。あやつなら道を誤ることもあるまいが、お前が手を取れば盤石になる。あやつしか、ロクを育てることは出來んかった。ニィもナナもな」
冴子は思わず、両手で守るように腹を抱えた。その固く張った皮をでて、ぽつりと呟いた。
「……ホンバイ」
首相の表が驚愕の形で凍り付いた。
「なん、じゃと」
冴子は首相の聲が固くなったのを聞き逃さなかった。
「ホンバイとは何ですか?」
「……どこで、その名を知った」
冴子は目を閉じて、背中にふきだした汗が背筋を伝わるのをじた。
やはり、ホンバイとは不吉な何かなのだ。
「首相のお加減が悪かった時に、(うめ)かれていたのです。『布津野にすべてを委ねる。ホンバイも』と何度か。その後、ロクとニィからも、ホンバイなる言葉を四罪から聞いたと報告がありました」
「……」
秋の晝下がりの弱い日が、部屋にこぼれていた。
それが照らす首相の皺深い表が頑なになっていくのを見て、冴子は本當のことを告白するしかないと決意した。
「ホンバイを使いました。このお腹の子に」
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「なんっ! ……じゃと」
「それしか、私の伝子と忠人さんの伝子を結合する方法が無かったのです」
「……お前、使ったのかあれを、複合生に」
「ええ、この子は……」
秋の風がカーテンをゆらして、冴子のしい顔に日のを落とす。
爛(らん)と輝くその瞳には強い母の決意が宿っていた。
「忠人さんと私が四割ずつ、殘りの二割は全てホンバイの伝子から産まれた子です」
「……あれは研究所の奧底にしたはず」
「私は……忠人さんと私の子が、どうしてもしかった」
ぽつり、と語り始めた冴子は観念したように目を閉じた。
「私の伝子が人類を脅かすことも承知の上です。最適化の普及のために複合生の研究を推進したのも噓でした。本當は、生能力の低い自分の伝子をどうにかしたかった。……そこで思いついたのが、忠人さんの伝子との繋ぎになり得る第三者の伝子を介在させる複合生でした」
冴子の細い手が握り拳をつくって、小刻みに震えた。
「何度も、何度も。私は配合を検証しました。忠人さんと私の伝子が出會うパターンを探し続けました。配合の繰り返しのほとんどで、生能力の弱い私の伝子は取り殘され、能力の劣る忠人さんのはノックアウトされる。そんな挫折をなんども繰り返しました。なんども、なんども、なんども。もう、何年も失敗を繰り返しました」
冴子の拳がゆっくりとひらく。
力を込めた後のその指は、ただでさえ白いを蒼白にして青い管をくっきりと浮き立たせていた。
「……私は絶していました。私と忠人さんは結ばれるべき運命ではなかったことを、何度も繰り返し証明されているようで、とても辛かった」
冴子の目がうっすらと開いて、自分の腹に慈しむように視線を落とした。
「そうやってもう自暴自棄になった時……、研究室のデータベースに私が知らない『ホンバイ』という伝子を見つけたのです。そして、それが私すら立ちることが許されないエリアに保存されている事も……。もう、他に試すものは何も殘されていなかった」
「どうやってホンバイを、」
「同じ研究所の中です。ホンバイを擔當している研究員に頼み込めば簡単にれてもらえましたよ。研究員も『首相の命令です』と言えば特に疑う様子もありませんでしたし、男はに頼まれると弱いもののようです」
「……お前に頼まれると、たいていの男は斷れん」
「ホンバイを手にれた私はすぐに検証しました。そして、私は狂喜しました」
「……功したのじゃな」
「今までの失敗が噓のように、ホンバイを介して忠人さんと私の伝子は結ばれました。健康で、最適化された、私と忠人さんの赤ちゃんが産まれたのです。ようやく、やっとの思いで、やっと……ここまで」
冴子は顔をあげて、正面から首相を見た。
氷のようなは、その赤い瞳を燃やしていた。
そこにいるのは、もはや有能な己の副ではなかった。科學を駆使し、法を無視し、人類を危機にさらし、そして己の願を葉えた。
ただのだった。
「首相、」
「……」
「教えてください。ホンバイとは何なのですか?」
その切れ長の赤い目に、爛(らん)ときらめく狂気に、首相は息をのんだ。
「……ナナの伝子をベースに三苗(サンミャオ)型の視覚野に関わる因子を配合した伝子じゃ」
カーテンがゆれて、吹き付ける風の音を二人は聞いた。
「……それを複合生に數パーセントでも混ぜると、高確率で特殊な視覚能力をもった個が産まれる」
「……」
「その個の両眼はそれぞれ赤と白になる。その両眼は人の善意と悪意を見る」
「ゆえに、紅白(ホンバイ)と呼んだのですか」
「世界の恒久平和を完させる、最後のピースじゃ」
「……それは、弟さまの?」
「いや、これは儂のアレンジじゃ。羌莫煌からの提案に儂は乗った。奴らにナナの伝子報を流出したのは、儂じゃ」
「……」
冴子は腹の中の存在を確かめた。
ぽこぽこ、と中から叩いてくる。
この子は私たちの子だ。忠人さんと私の伝子をけ継いだ子なのだ。ただ、この子は、両目が紅白に分かれ、善意と悪意がはっきりとした世界を生きなければならない。
大丈夫。きっと大丈夫。
私たちには、忠人さんがいるのだから。
「四罪の最適化センター襲撃は?」
「おそらく、紅白を複合生中の生細胞に混させるためのものじゃ。羌莫煌が結果を急いだ」
「……ご存じだったので?」
「死にゆく者しか、このような蠻行は出來まいよ。羌莫煌は儂よりも過激じゃった。儂が躊躇(ちゅうちょ)しているのに痺れを切らしたのじゃろうな」
「……」
「すでに世界中の最適化センターに紅白を混させる準備は終えておる。後は、中央研究所の最深部のコンソールからコマンドを実行するだけじゃ。この研究所のマスターキーを使ってな」
そう言った首相は、もそりといて首にかけていた小さなディスクを取り出した。
「研究所のあらゆるセキュリティーにアクセスできる認証キーがこの中にっておる。生認証ではけ継ぐことが出來ないのでな……。こいつは布津野に託す」
「……忠人さんは、」
「これを使わんじゃろう。分かっておる。あやつが使わんと言うなら、それで良い。それが一番良かったということじゃ。儂は、最後の最後で分からなくなったのよ」
「……」
その時、窓のカーテンが大きく揺れた。
それは突風がゆえでなかった。確かな質量をもった黒い影が病室の床に音もなく降りたって、二人が振り向く間もなく冴子に殺到した。
「誰ですか」と冴子が聲を上げようとすると、その元にぎらりとる刃が押し當てられ、口を塞がれた。
冴子が、その襲撃者を見上げると片目だけが白い若いの顔がある。
「久しぶりだ。宇津々首相」
窓から黒い長髪の男が姿を現した。
中國獨特の間延びしたなまりのある、しかし、十分に流ちょうな日本語。その男の背後の窓からは、次々と長のたちがり込んでくる。いずれも片目だけが白い、シャンマオと同じ顔をした若いだ。
「……羌莫煌、か」
「やるべき事はやっていたようですね。聞かせてもらいましたよ、すでに紅白混の用意はしたと。しかも、」
と、羌莫煌はベッドの傍らで拘束されている冴子の顔に視線を移し、次にその膨らんだ腹へと落とした。
「かのグランド・マザーが紅白の子を宿していましたか。數奇な事だ」
くつくつ、と羌莫煌は笑いを忍ばせて冴子に近づいて、刃を當てられて仰け反ったその白いに指を沿わして、それを房から腹へ伝わらせてそこをゆっくりとでた。
「……しいだ。お前が運命の子を孕(はら)んだのか」
「羌莫煌、止めろ。紅白は布津野に託すと決めた」
「フツノ?」
病床の上で肘をついて半を起き上がらせた首相を、羌莫煌は振り返って目を細めた。
「ああ……、かの沒(メイスェ)のことか」
「……」
「ニィが児戯(じぎ)で仕立てた道化に、世界を託すとは呆けたものだな。とても世界を革新してきた者とは思えん」
「違うぞ。お前は知らぬだけだ。無化計畫を功させたのは儂ではない。あの男がいたからだ。布津野こそがッ」
ふん、と鼻で笑った羌莫煌の右手が振り払われた。
すると、首相のからが噴き出した。
それは白いベッドを赤く染め始め、ぼうとした冴子の口を背後のクローン兵が荒々しく塞いだ。
「羌……、おぬし、」
老人の口がき、伏した橫顔の片目が羌莫煌を見上げる。
「これは私がけ継ぐ。宇津々首相」
がこびりついたナイフで、首相の首からマスターキーの紐を切り、羌莫煌はそれを掲げて裏表を確かめた。
「腐りきった人類に、その醜悪さを見る目を與える。その斷行にお前のような臆病者は不要だ」
「……ふつ、の」
最後の一息を、と一緒に吐き出した首相はそのまま停止した。
「人類の革新者も、老いれば単なる老人よな」
ピー、と心拍停止をつげる機の音を背に、羌莫煌は周りのクローンを見渡した。
「さて、フィナーレだ。人類が始めて平和を手にれる瞬間だ。……中央研究所にいくとしよう」
「「是(シィ)」」と小さく応答がある。
「そのは……」
羌莫煌は冴子のほうを振り返って、その空の目を開いた。
「一緒に、連れていく事にしようか」
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