《[完結しました!] 僕は、お父さんだから(書籍名:伝子コンプレックス)》[5-22] 10秒
「10秒」とロクが呟くのをニィは聞いた。
ニィはゆっくりと近づいてくる布津野の姿に目を凝らしながらも、ロクの呟きに応じた。
「ああ?」
「10秒、まず見ろ」
隣のロクは、なぜか目が虛ろで片言になっている。
「なんだよ」
「父さん、の本気、まず見ろ」
ふと気がついた事があった。
アメリカにいた時だ、俺は本気になった親父を見たことがある。ナナがさらわれて本気で頭にきた時の親父。ちょうどその時も親父の言葉はたどたどしかった。
「10秒だけだ、終わったら、」
「……」
「助けろ」
その一言が、ニィの思考を止めた。
その一瞬、
前に踏み込んだロクの背中が視界に侵してくる。
はるか向こうには、親父の姿。
そう、はるか(・・・)向こうにそれはあったはずだった。
ふっ、とロクの背中が視界から消えた。
次の瞬間、親父の姿も消えた。
消えた気がしたのだ。
消えるわけが無かったけど、いつの間にか二人はぶつかっていた。
現れたのは、真ん中だった。
さっきまで二人がいた間の真ん中。
「へぇ」と親父の聲。
「……ッ」
聲にならない、きしんだようなロクの息が鼓をさした。
先にいたのは多分、ロクだ。
もしかしたら、先にかされた(・・・・・)だけなのかもしれないが、それは俺には判斷がつかなかった。
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ただ、今のロクが圧倒的に不利なのは分かった。
消えて、ぶつかりあった二人。
格だけなら、リーチも重も、筋力の量も質も、ロクが圧倒しているはずだ。
しかし、勢が悪かった。
親父は余裕をもって前にばした手刀。
それにぶつかったロクの拳は、くり出そうとする直前の折りたたんだ腕。
それだけじゃない。
親父の姿勢は真っ直ぐの自然だ。やわらかく半をきって前に重心をまっすぐ立てていた。
それに対して、ロクは踏み込み直前の前後にバランスを崩した勢で止められていた。
おいおい、先にいたのはロクのはずだろ。
なぜ、親父に先を取られた!?
「か……あっ、」
ロクの歯が軋み、渾の息がこぼれる。
「ねぇ、ロク」
ロクが肩を震わして全全霊で対抗しているのに対し、親父は表をぴくりともかさずに沈んだ目で問いかけていた。
「後は頼んだよ」
——糞が!
が跳ねていた。
親父の前も後ろも左右にも、隙など一切ない。
だから、飛んでいた。不意を突くなら上しかなかった。
飛び上がって、ロクの肩を踏み臺にしてさらに上に飛び上がる。
親父はこちらを見上げた。
視線が合う。沈んだ目。勝てる気など一切しない。俺は甘かった。ロクの言うとおりだった。
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——10秒、まず見ろ。
俺は、知っているつもりだった。
ロクの愚かな野。無様なあがき。葉わぬ夢。
——助けろ。
あいつは、いや、あいつこそが嫌というほど知っていたのだ。わきまえていた。にしみこんでいた。
親父に勝つという試みの絶を、
その壁の厚みも、
見上げる高さも、
何もかも。
親父めがけて落下と同時に、蹴りをくり出す。
その足刀は、むなしく空を斬った。
それでもすぐにいた。闇雲でもいい、見立てなど探しても見つからない。著地と同時に片腕を地面についてを回し、組み替えた足で下段を払う。
それも、空振りだが、次の攻撃を繰り出す。
いい加減だった。
滅茶苦茶だったし、ごり押しでしかなかった。
それは達人に立ち向かうには、あまりにも稚拙な攻撃だった。
——親父は?
遠くに、いた。
數歩ほど後ろに退いて、あの悠然とした半の構えでこちらを見下ろしている。
「……ふぅ」
背後で、ロクの深い呼吸がある。
「……」
「ニィ、助かった」
その一言は俺のに刺し、そのあまりの痛みに自分のぐらを摑む。
俺はロクを馬鹿にしてきた。
無意味だ、愚かだ、無駄だと。
——お前は、親父にはなれない!
「ロク、」
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「なんだ」
姿勢を整えたロクが、まるで親父みたいに見えるのは偶然じゃない。何年も繰り返して模倣した末の、こいつがたどり著いた結果だ。
「勝てるのか?」
「勝てない、と言えば満足か」
「かもな」
「勝てない、」とロクは息を吐く。「でも、あきらめない」
「……みたいだな」
両足に力を込めて立ち上がる。
向こうには、ゆらり、と立つ親父の姿がある。
あの人に勝てるか?
その問いかけに、NOと正答したのが自分で、YESと勘違いしたのがロクだ。
その違いは多分、初めて親父に出會った時の年齢なのかもしれない。ロクは自分が何にでもれると思っていたガキの頃に出會った。一方で、俺は現実を思い知らされた後に出會った。
そして、俺はすぐに親父にすがったのだ。
はぁ、と息を吐く。「おい、ロク」
「なんだ」
口元がゆがむ。
ロクと肩を並べることが出來たのは。俺だけだったのにな。
「俺はフォローしか出來ないぞ」
「……」
「言え。指示は?」
し驚いた目を、ロクはしていた。
「……10秒なんだ」
「ああ」
「僕が父さんに対抗できるのは10秒だけだ。それまでにできるだけ橫やりをれてくれ」
「……分かった」
再び、ロクが前に出るのを見送る。
すると、親父も歩を進め始めた。
二人の間の空間が圧されていくにつれ、肺が潰されるような痛みをじた。まるで重力が変わったかのような錯覚がした。
もう、自分にはとても近づけない。
この距離が、父親にすがった自分と挑み続けたロクの違いなのだと思うと、ただただ自分がけなくて……。
もう、認めてやるしかないじゃないか。
◇
「……これほどだったのか」
シャンマオは自の口の乾きに驚く。
目の前の闘いは、彼にとって理解しがたいものだった。
シャンマオにとって、闘爭とは即ちの塗りつぶし合いだ。技巧に優れ、狀況的優位にあるものが勝つが、よりの濃い者がそれを上回って生き殘ることのほうが多い。
それが、闘爭の本質だったはずだ。
しかし、目の前で闘爭する二人は靜かでがない。
時折、ニィが放つがそれに混じることはあるが、それも合(ごう)を重ねるに従って控えめになっていく。
の鋭いニィのことだ、この闘いが相手を塗りつぶすような単純なものではないことを察しているのだろう。まるで、自らの分(ぶ)をわきまえるかのように、ロクを助けるようなきはするが、それ以上の出しゃばりは控えている。
「どうなっているのですか?」
橫に並んでいた鬼子の副長が聲を震わして問いかけてきた。
「すでに私たちの次元を超えているよ」
「そう、ですか」
「以前の、年の父親とその老師との仕合を覚えているか?」
「はい」
「あれに近いレベルの闘いだ」
「……あのロクが?」
「もちろん、ロクだけの実力だけじゃない。ニィのフォローで、ギリギリの均衡を保っている」
無の闘爭。
それは自分にとって、あり得るはずのない景だった。
人は悪意に汚(けが)されて殺し合う。時には、自分のものでもない悪意に取り憑かれて人を殺すのだ。そのような時にまとう人のは、汚のようにぬるいで気持ちの悪いものだ。故に、己の殺意だけでをなすニィの黒は、三苗型の間でもしいと評判だったのだ。
「……しかし、無とはな」
「見えませんか? あなたでも」
「年は、本當に遠くまでいったのだな」
まるで掌(たなごころ)で飼っていた小鳥が飛び立っていくような気持ちだ。
おかしいものだな、と今では笑い飛ばしてしまいたくなる。もしかしたら、溫めているこの雛は鷹(たか)なのかも知らない、とは思っていたが……どうやら、その正は竜(りゅう)だったようだ。
「きっと、シャンマオさんのおでしょう」
鬼子の副長がそう言ったので、純粋に疑問に思うことがあった。
どうして年はこの副長ではなく、自分を選んだのだろう。
こんな愚かで、デカくて、顔も整っていない私をだ。それが不思議でならないのだ。この副長とロクが噂になっていた事は知っていた。そこに嫉妬はない。ただ、當たり前の疑問だけがある。
「いいか?」
「なんですか」
「ロクとは?」
「……気になりますか」
その聲はあまりにも深かった。隨分と年下のはずのこの小さな片腕ののことが、一瞬だけ老婆のように見える。
「私は、」気圧(けお)されて、思わずこぼれる。「ありがたいと思ってるぞ」
「……1度だけ、ロクに聞かれました」
ああ、やはりか、と純粋に思った。
それを殘念だと表現することも出來るだろうが、納得と言った方が適切な気もする。2人は、いや、ニィも含めて3人か? 何と言っても、みな若いのだから。
「あの時のことは、ナナちゃんがうまくしてくれて……」
「別に気にしてない。むしろ、當然だろうな。お前は良いだ」
「……」
「分かった。では、こう言わせてもらおうか」
シャンマオは、すっと指を差した。
そこには無のまま鬼神のごとく、あるいは仏のように、闘いを繰り広げる父親と息子の姿がある。
どうやら、もうニィは限界のようだった。だからいって、それをあざ笑うつもりはない。私などがあの場にいたら、足手まといにしかならなかっただろう。ニィだからこそ、ロクもあそこまでやれるのだ。
それでも、あえてこう言おう。
「どうだ、私の年は凄いだろう?」
シャンマオは、にやりと榊に笑いかけた。
「ええ、本當に」
榊も笑った。
◇
自分の限界は10秒だった。
だったはずだ。
それが、今では、多分。20秒くらいは、なんとか、なっている。
そんな気がする。
眼前にはを失った父さんの目。
本気の目だ。
それをじっと見據える。
その時、相手の目を見てはいけないよ、と教えられた記憶が脳裏に浮んだ。
父さんが、消えた。
しまった。視線を釘付けにされた。
右がピリリとひりつく、その電流のような覚にまかせて右脇をしめてを固める。
衝撃、
右脇から心臓へと突き上げてくる。
膝を緩めて、軸を回してけ流す。
中心だけは崩されるな、回って流せ。
相手をつねに正面へ、もっとはやく、回れ。
——見つけた。
打ち出し直後の父さん。
目は見ない。絡め取られる。
相手は圧倒的な格上。視線だけで意識を導される。
け回した捻転を左拳にのせて、それを父さんに返す。
父さんの手刀がすぅと立ってそれを迎えけたかと思った瞬間、まっすぐ下に切り落とされた。
自分の渾以上の力を乗せた拳につられて、全が下へと流される。思わず、二の足で踏みとどまると、が崩されてしまっていた。
「ようやく、終わりだね」
父さんの聲、やさしい形をしたその手が自分の首筋にのびる。迷走神経への打撃。ここまでなのか。まだ、
「ロク!」
父さんの背後からニィの聲が迫る。
その鋭い回し蹴りを、父さんは沈み込んでやり過ごした。
ばされた父さんの手は、途中で引かれて、固定されていた僕のはふっと自由になった。
すぐに後ろに跳んで、思いっきり距離をとる。
ニィもすぐに駆け抜けてきて、すぐ側まで戻って來た。
向こうほうでは、父さんがゆるりと立ち上がっている。
「おい、どうなんだ」
「……まだ。しかし、しは」
「そうかよ」とニィは荒々しく息をついた。
ニィの息はすでに限界に近い。
すでに十數合は繰り返しているのだ、その度にニィは回り込んで奇襲をしかけては離を繰り返している。
並みの運量ではない。しかも、相手はあの父さんだ。迂闊に仕掛けて反撃をければ、それで全てが終わる。そのギリギリの張の中でニィは消耗を繰り返していた。
10秒だったんだ。
かつて僕が稽古で引き出せた父さんの本気の時間。
昔は、0だった。
それなのに、自分のほうが強いと勘違いしていた時すらあった。
それが1になったのは、シャンマオと出會った時からだ。父さんとの実力差に気がついて、彼のという概念を借りながら気や呼吸に真剣に向き合うようになった。
それからは、本當にしずつだった、
1が2に、2が3に……10秒になるまで2年間。
「でも、さっきのは20秒」
「あ?」
「お前のおかげだ」
「はっ」
ニィは鼻で笑って、で深呼吸をした。
「20秒がなんだって? 親父を倒さなきゃならねぇんだぞ」
「まだ続いている」
「……」
「次は、30秒だ」
がすでに溶け、意識は底に沈んでいる。
それは疲れによるものだけじゃない。神経には気が充実し、が脈打ち、には技が染みこんでいる。
まるで呼吸のように、技をなす。考えていたら、とても遅いんだ。
父さんの呼吸に、あわせる。
勝とうと我を出せば負けてしまう。そんな領域に僕たちは溶け込んでいる。この場では、勝とうとすることは負けることなのだ。
何よりもまずは相手の呼吸と一つにならなければならない。
その父さんの呼吸が止まった。
その周囲で、時間の流れがゆったりと遅滯していく。自分もその時間軸の上に、足を踏みれる。僕の時間もゆっくりと停滯していく。
一歩、二歩、
細い意識の間隙を、飛び石のように渡り歩く。踏み誤れば死ぬ。ギリギリの境界。
……三歩。
互いに死地にる。
もう10秒はたっただろうか。
ああ、本當はここからなんだ。この10秒から先があったのだ。僕のこの息はどこまで続くのだろう。どこまで父さんについて行けるのだろう。
まるで握手のように、父さんは打撃を差し出した。
それを迎え手でけ止め、同じだけを打ち返す。多分、重要なのはもらった分と同じだけを返すことなんだ。多くてもなくても不公平になっちゃうから。
ちゃんと同じ分だけ返したら、父さんもこれをけ止めた。
互いの打ち手を絡み組んで、靜止。
沈黙、
細く吐き続ける互いの呼吸。
組み合った形。
——本當に。
父さんの考えていることが聞こえる。
——強くなったね。
にこみ上げて來るものが、今は邪魔なものであったとしても。別にいいじゃないか。
——でも、ここからだ。
もっと、深く?
——死の淵まで、
和合のを結ぶまで、
——行かなきゃならない。冴子さんが
父さん?
僕の話、ちゃんと聞いてよ。
やっと、できるようになったんだから。ここまで來たのだから。
時間の流れが戻る。
父さんと僕は、本來の速さを取り戻した。
組み合った手が払われて、次の打撃が差し込まれる。
一歩踏み換えてをひねって、やり過ごすと同時に脇腹にかぎ打ちを放つ。
脇しめの肘でそれをけ、そのまま腕を回し絡め取る。
相手の膝を足で払い蹴って、崩し肘打ち。
肩を力して絡めとられた腕を引き抜き、
後ろに下がりながら、置き足で蹴りあげる。
——20秒!
追撃の上段から振り落としの手刀、
け流し、外へり、
掌底をすくい上げ、
肩の骨子を摑まれ、
摑み手を抑えて外し、
を沈ませ、
膝を打ち上げ、
離れて、
回り込まれて、
回って、
正面。
——30秒!
打ちつつ、防ぐ、
返しながら、躱す、
崩して、
破り、
捌き、
放ち、
迎え、
止め、
穿つ、
呼吸が、また落ちる。
——40秒!
すれ違って、
また回る。
くるくると、
いつまでも、
ずっと、
このまま、どこまでも。
加速する、回転が。
広がっていく、覚が。
意識が、落ちていく。
父さんと一つになる。
——50秒。
呼吸、
すって、はいて、とめて。
相手にあわせて、もらって、かえす。
ほら、次は父さんの番だ。
……父さん?
どうしたのだろう。父さんの呼吸にほんの小さなれがあった。
僕には、それが不満だった。
あげたものをけ取ってくれなかったからだ。かえしてくれたものが、ちょっとだけなかった。
違和。
父さんのほうを、ちらり、と見てみる。
父さんは僕を見ていなかった。
きっとグランマを見ている。
それが隙になっていた。
ダメですよ。今は僕と戦っているのです。
父さんをこちらに振り向かせようと、無意識に手がびた。
ぺちっ、
と、自分のばした右手が父さんの頬にれた。
気がつけば、僕と父さんは二人で一緒に、はっとなって固まっていた。
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