《[完結しました!] 僕は、お父さんだから(書籍名:伝子コンプレックス)》[epilogue-2] 全員集合
覚石は、數年前に老衰で大往生を遂げた。
「おじいちゃんは死ぬ直前までピンピンしてたじゃない? だから、道場の引き継ぎとかはちゃんとした考えがあったんだよ」
「そうなんですか」
ロクは相づちを打ちながら、道場の師範室で出された茶に口をつけた。
「それにしても、また男前を上げたねぇ」
紅葉は履いた袴の裾を払って畳に腰を下ろし、ロクを覗き込む。
「もう三十路(みそじ)になりますからね」
「子どもまでいるもんね。まさか、私たちのアイドルだったロク君がシャンマオさんと子どもまで作るなんてね。びっくりだったんだよ」
「ええ、でも、トラのことは父さんとグランマに頼りっきりで」
ロクは顔を困らせて、湯飲みを畳に置いた。
「シャンマオさんも、早くに逝かれてしまったね」
「あれにしてはよく長続きしたほうなんですよ。そのことについては承知の上でしたから」
「せめて、子どもを、か」
「複合生のおですよ、僕たちみたいのでも子どもが持てる」
「ロク君よりも、なんだか布津野先輩に似た子だけどね〜」
「ええ……」とロクは湯飲みを再び引き上げて「そうですね」とこぼす。
手にした湯飲みを回して口に運ぶ。
ほど良い苦みだ。
シャンマオは最後の瞬間は微笑んでいた。
病床から立てなくなるようになると「危覧の気持ちがようやく分かったよ」と呟くようになった。
それから、手をばして付き添っていたトラの頭の上に手をのせると「大丈夫、お父さんがいるからね」と言い殘すと、後はゆっくりと逝ってしまった。
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「……それで、」
飲み干した茶を戻して、ロクは紅葉をみた。
「ん?」
「道場の後継者について、覚石先生はどのような考えだったんですか?」
「ああ、そうそう。それね」
紅葉は手を叩いて聲を明るく切り替える。
「本當はやっぱり布津野先輩に、とおじいちゃんは希していたみたいなんだ」
「そうですか」
「あっ、私に気なんて使わないでよ。今でも、私は先輩が代わってくれるなら大歓迎なんだから」
「でも、道場長は紅葉さんになって、父さんは、」
「私の師匠役だよー」
この人はいつまでも若いな、とおどけてみせる紅葉を見てロクは表を崩した。
「確か、道場長の紅葉さんの師匠という妙な立ち位置なんですよね。実際、どうなんですか? やりにくかったりしませんか?」
「ん、最高だよ〜。先輩に直接稽古つけてもらえる機會増えたからね。これって凄いことだよ。なんだって、今や先輩の稽古を目當てにして世界中から人が押しかけてくるんだからね」
「……みたいですね」
紅葉さんの代になって、覚石に連なる門下は大きく拡大した。
その理由の一つは父さんだ。
今や世界で一番有名な武道家といえば、父さんだ。ニィが拡散した朱烈との闘いの映像だけではなく、アメリカ大統領選で銃弾を斬り払った事例も有名だ。この二つの事件は、世界の最適化に対する態度を変えた象徴的事件として、教科書に掲載されていたりする。
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それだけじゃない。
暗殺された宇津々首相の後を引き継いで、混期の日本を5年にわたって指導した元首相としても有名だ。
「あの先輩が指導役についている道場だよ。もう門希者が山ほどなんだから」
「たしか、新しい道場も開いたと聞きましたよ」
「もうとっくに手狹だったからね〜。海外からの希者も多いから、通の便が良いところを選んで、どーんとね」
「意外に、紅葉さんは商売上手だったんですね」
「へへ」
ロクは顎をなでて、ふむ、と息をこぼした。
こう思い返してみると、子どもの頃の自分は隨分と贅沢な経験をしてきたのだろう。その指導を求めて全世界から人が押し寄せてくるような達人に毎日稽古をつけて貰い、その極意を幾度もすることが出來たのだ。
「それで、ロク首相、最近はどうなのよ」
「ロクと呼んでください。紅葉さんにそう言われるとむずくて」
「じゃあ、ロク君。首相になられて隨分たちますが、どんなじかね?」
「安定してますよ。実は、父さんの時代に々と大きな構造改革はやってしまいましたからね」
「おうおう頼もしいね。我ら國民のために、せいぜい頑張りたまえよ」
「はいはい」
ロクは紅葉の背後の壁にかけられた時計に目をやる。そろそろ予定の時間だ。
「時間ですが、父さんは?」
「ああ、そろそろ稽古場に來ているかも」
「では行きますか」
「遅れたらもったいないよ。先輩の稽古は貴重だからね。門下生も気合いりすぎて、私、道場長なのに稽古中にうるさいと怒られちゃうくらいなんだ。ほらほれ、立った、立った」
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紅葉が鶏を追い立てるようにしてくるので、ロクは湯飲みを畳に置きっ放しにして師範室を出ていった。
◇
「よう、ロク」
久しい聲を聞いて、ロクは眉を開いた。
「ニィ、來ていたか」
「ああ、年に一回はみんなで集まる約束だったからな。しかも、親父の稽古がけられるとあれば、まぁ、外すわけにはいかないな」
ニィは上げた手を降ろして、しめた袴の腰紐に親指をかけて右肩をだらけさせた。いつもの事だが、ニィの著こなしはだらしない。昔はそれが不真面目だと妙に気にかかっていたものだ。
ふと、ニィの背後に控えている小柄なの気がついた。
「榊か、よく來てくれた。父さんも孫の顔が見れて喜ぶよ」
「ええ、久しぶりね」
不思議なものだ、とロクは頭を振る。
昔、自分には榊のことが好きだった時期が確かにあった。
その彼が可らしいの子の手を引いているのだ。トラや紅白とは歳が離れていて、確か6歳くらいの子だ。自分に何か思うところが出てくるか、と恐れていたが、にざわつくものはじない。
その子は、淺黒い褐のに深い緑の瞳をぱちくりとさせてこちらを見ている。そのよく焼けたについては、おそらくニィが外に連れ出して遊びたおしていて日焼けしているせいもあるだろう。しかし、明らかに中東系の伝的形質が見て取れる。それは、二人の伝的形質とは獨立した子どもだった。
その子は、口に指をしゃぶらせながらニィの後ろにさっと隠れた。
「相変わらず、カルナに警戒されているようだな」とニィは笑う。
「殘念だよ」
「親父にはよく懐いているところから見ても、カルナはよく分かっているな。紅白と違ってな」
「お前の親バカも、相変わらずだな」
ロクは肩をすくめて、もう一度だけチャレンジだと思ってカルナにむかってかがみ込んでみた。
すると、ニィの足裏あたりから顔を覗かせたカルナは、そのい目元に皺を寄せてロクをじっと見つめてかない。
……無言の數秒間。
いカルナのい瞳は、ますます険しくなっていく。
ロクはため息を吐いて立ち上がった。
「ニィ、大変な子を引き取ったみたいだな」
カルナが人見知りが激しいことを言っているわけではない。明らかに伝子的に違うこの子を二人が迎えれたことには、事があるのだろう。
「……まぁな。手は焼いているが、なかなか楽しいぞ。ただ、自分ではどうしようもなくて、実際には夜絵に助けられてばかりだ」
「まるで、父さんみたいだな」
父さんも、困ったらすぐにグランマに頼ってしまう。
「合気道ではお前に譲ったがな。だが、子育てじゃあ、負けるつもりはない。ちゃんと育てきってみせるさ」
「……なるほど」
ロクは唸って、さてその通りだな、と心ではすでに降參していた。
シャンマオを失った自分に、子育てという偉業をなす自信はまったくなかった。合理的判斷という名目の、実のところ単なる妥協の末に、我が子であるトラを父さんとグランマに育ててしいと頼んだ。
シャンマオに託されたトラには、自分よりも父さんを見て育ってしい。それが、自分の限界だ。
トラの長を見る限りそれはどうやら正解だったようだ。……そう思ってしまう自分は、かつてのニィが言ったように一生をかけても父さんのようにはなれないのだろう。
「あっ、ロク兄様、ニィ兄様!」
元気の良い聲が道場の玄関から上がって、ロクとニィは顔を見合わせた。
……さて、お嬢様のお出ましだ。
「やぁ、紅白ちゃん。それにトラも。お前達はいつも一緒だな」
ニィが手を上げてそれに応える。
「ニィ兄様こそ……。夜絵姉様とカルナちゃんもお久しぶりです」
「大きくなったわね、紅白ちゃん」と榊が微笑む。
「……分かります?」
分からなかったなぁ、とロクは心含み笑いをしながら紅白のび悩む背丈ごしに、自分の息子のほうに目をやった。
——トラは、また長したな。
一目見ればすぐに分かる。
長やつきはもちろんだが、練り込まれた鍛錬もだ。
すでに立ち姿に懐の深さが窺える。父さんはトラをちゃんと鍛えてくれている。トラもシャンマオゆずりのストイックさでそれに応えているのだろう。
目算ではあるが、トラは自分が同じ年齢の時よりも、すでに數段は上のレベルにいるだろう。呼吸が深く、まとまりがある。むらっ気の強い紅白とは、すでに違うステージに足を置いていることだろう。
「トラ、久しぶりだ」
「ええ、お久しぶりです。……父さん」
トラが父親としての自分を曖昧に認識していることは自覚がある。仕方ないことだ。それでいいとも思っている。
「あ、みんなもう揃っている?」
父さんの聲が背後からした。
振り返ると、背後にナナを引き連れて隨分と頭に白いのが混じり始めた父さんがそこにいた。
「父さん、トラがお世話になってます」
すぐに頭を下げてみるが、ひらひらと振られた父さんの手が肩に降りてきた。
「いや〜、ロクみたいにしっかりとした子だから、もう世話なんてなにもないよ」
「そうですか」
「ロクこそ忙しいのに、よく來てくれたね。ニィ君も夜絵さんもね。……おっ、カルナちゃん!」
父さんが手を上げると、ニィの後ろで周囲を警戒していたカルナが、ぱっと駆けだして、父さんに飛びついた。
父さんはそれをやわらかくけ止めて、カルナがすりよせる頬を、ん〜、と堪能する。
「久しぶりだね〜」
「じいちゃ、會いたかった」
カルナがそういうのを聞いてとても驚いた。
この子、日本語をしゃべることが出來たのか。
「こら、お父さん。そんなところでデレデレすると、邪魔!」
すぐ側にいた紅白が、父さんの背中を手で押す。
「わっ、わっ、危ない」
抱きついてきたカルナを守りながらも、父さんはよろめくを立て直す。
「……あぶないじゃないか、紅白」と父さんが口をとがらす。
「重心が浮いてんのよ。腕、落ちたんじゃないの?」
「もう、年なんだよ」
「生(なま)いってんじゃないわよ。一応でも、最強って事になってんだから、しゃきっとしなさい」
紅白のきつい言い方に、父さんの顔が曖昧になっていく。
こういうのを見ると、どうにもいけないなぁと思ってしまう。自分もいころは紅白みたいだった、とナナから口酸っぱく言われているのだ。
そうだっけ?
自分はもうし、分(ぶ)をわきまえていたつもりなんだけど……。
「じいちゃ、大丈夫?」と、カルナが父さんを気遣う。
「大丈夫だよ。ギリギリだけど」
へらり、と父さんはカルナに笑ってみせる。
顔を曇らせたカルナは、紅白のほうを見るといながらも顔もすごみのある目で睨みつけた。
「……何よ」
紅白は悪ぶっているところがあるが、妙に気の弱いところもある。年下のカルナに睨みつけられて、バツの悪そうな顔になった。
「だめなのに。なんで?」
「はぁ?」
「なんで? いじわる?」
「もう、カルナちゃん、何をいってるのよ。さぁ、稽古よ稽古。今日はロク兄様とニィ兄様に稽古をつけてもらうんだから」
紅白は曖昧に笑うと、玄関から稽古場へと逃げていった。
「あっ、そうだよ。懐かしいから話し込んじゃったけど、今日は年に一度のみんなで稽古だからね。家では、冴子さんが味しい料理を作って待ってるんだ。はやく始めようよ」
「ええ、そうですね」
「ほら。行こう、行こう」
父さんがそうやって、せき立てると、布津野の一族はわらわらと稽古場へ移した。
◇
「さて、」
父さんが稽古場の真ん中に袴のすそを払って膝を折り畳めば、一族の団らんの雰囲気も流石に引き締まる。
年に一度の稽古が恒例になったのは、子どもたちがある程度大きくなって、合気の技量が隨分と整ってきてからだ。數年くらい前からだっただろうか。
それ以來、子どもの長を合気で計るような、妙な雰囲気が自分たちの中にある。
「ロク、前に來てよ」
「はい」
稽古著姿の一族郎黨の中で、自分が父さんに呼ばれるのを誇りに思う。
合気の稽古では、指導者が弟子の中から一人を選んで技のけを取らせて教える。このけをとる弟子は、技の種別や指導の目的にもよるが最も実力が高いものを選ぶことが多い。
足を抜いて、父さんに相対して座る。
「さて、ロク」
「はい」
「今日は、発表があります」
「はぁ、……なんでしょうか」
とは言え、あの父さんなのだから、そんな稽古での弟子の優劣みたいなところは無頓著だ。
実のところ、父さんは実力に関係なく、元気の良さみたいなところで相手を選ぶ。後、紅白やトラなどの年組に相手をしてもらうのが楽しいのか、よく呼びつけてけをとらせる事も多い。前なんか、けを取らせた紅白に技の解説を「訳わかんないんだけど」などと言われて、道場生の前で立ち往生していた。
……本當に昔の僕は、あんなに生意気だっただろうか?
父さんは稽古著の襟を整え直しながら、「おほん」とわざとらしい咳払いをしてこちらを見てくる。
「ロクは、今日から免許皆伝です」
「……」
目の前で父さんが懐に手をれてごそごそとする。
するとそこから折り畳んだ白い書狀が出てきた。
「これ、免狀。僕の字だから汚いけど、許してね。何ヶ月も練習したんだよ。これが一杯でした」
父さんが両手で回して差し出した書狀の表には、『皆伝狀』と筆がぎこちない様子で走っていた。
それを目の前にして、咄嗟にきを取れなかった。
「ロク、ほら」と父さんが急かす。
指先が震えたまま、腕をばして書狀を両手で押し頂く。
やわらかい和紙のが、指の震えを優しくけ止めている。
「今年で三十歳だよね?」
「……はい」
「確か、僕がロクに初めて出會った時と同じ年だね」
無意識に頭が下がった。
そう、もう三十歳だ。
しかし、果たして僕にあの時の父さんと同じことが出來るのだろうか?
「僕の師、覚石先生は言いました」
「……」
「皆伝とは、つまり、ロクと僕は互角です」
……互角?
この僕が、この人と互角?
そんな訳、あるわけがない。
シャンマオが言っていたのだ、最後の最後、死の間際だ。「お前はあの人の優しさをけ継いだが、」と目を閉じ、口をゆるめて「恐ろしさについては、まだまだ」と。
「……そうでしょうか?」
「実際、ロクのほうが強いのも事実」
しかし、父さんはそんな適當な事を言うのだ。
もし、自分が十代の時だったら、それに腹を立てただろう。自分が二十代だったら、慌てて否定したかもしれない。
でも、自分はもう子どものいる父親なのだから……。
「そうなれるよう、がんばります」
「……ほどほどにね。さて、これもあげる」
父さんは再び懐に手をれて、そこから紫の刀袋を取り出した。
寸尺から小太刀と分かる。父さんは、金糸の刀紐を解いて、その黒柄を摑んで鞘ごと取り出した。
父さんの小太刀だ。
「これはプレゼントです」
「……もうし、言い方がありませんか?」
「五百萬円もするらしいです」
「知ってます」
同じ刀がしくて、複製を依頼した際に鑑定もしたのは自分自だ。
當時で五百萬の価値があると言われた古刀。しかし、今なら數億以上の値がついてもおかしくない。これが父さんの刀であることは世界中が知っている。
「大変貴重なものなので、間違っても銃弾とか切っちゃダメだよ」
「切りませんよ」
「実は、あの時のがちょっと傷になっているのは緒」
ハハッ、と父さんはいつのものように笑うと、刀の向きを返して両手で掲げるようにして差し出した。
「せめて、誰かを守るために使ってください」
「……はい」
差し出した両手で柄と鍔(つば)を摑む。
これは覚石先生は父さんにこの刀を授けた。今だから、先生が考えていたことが分かる。この名刀は適當に見繕ったものなどでは斷じてない。
父さんのに恥じぬ刀を、先生は授けたのだ。
「進させていただきます」
「まぁ、適當にね。ロクは真面目すぎるから」
「……はい」
押し頂いた小太刀を膝上にのせて、その鞘をなでた。
視線を前にむけると、うんうん、と頷いている父さんの顔がある。
髪に白いものが混じり始めて、すでに初老だ。
出會ってから、長い年月が流れたのだ。
もう20年になる。
それなのに、この人との間にある相対的な距離は、初めて出會った頃とまったく変わらない気がする。
「じゃあ、そういうことで、今回の指導はロクにやってもらいます」
父さんがそう言うと、背後に並んでいるみんなの中で、紅白のものらしき拍手が鳴り響いた。
「……父さん、それはちょっと」
「ほら、紅白も喜んでる」
「みんなは父さんの稽古を楽しみにしているのに。もちろん、僕もです」
「そう? まぁ、いいじゃん」
相変わらず、適當な人だ。
「もう歳なんだから、楽させてよ」
「でも、」
「ダメです。首相の稽古だよ。みんな、楽しいさ」
「……分かりました。では、代わりに一つだけお願いがあります」
「なに?」
「家に帰ってからで構いません。一度はトラに見せてやりたかったのです。ちょうど良い機會です。あの時と同じですから……」
両手を畳について頭を下げた。
「父さん、仕合をお願いします」
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