こうなった時だけはどうすることもできない。

いくら足掻いても、どれだけ信念を突き通そうとしても、最終的には自分を曲げるしかなくなる。

それは霧生にとって、耐え難い苦痛であった。

地を伝い、空気を伝い、視線を伝い、霧生へと遮の"殺意"が押し寄せる。辺りに悪意が充満していく。

霧生がやるせなく目を閉じたのを見て、遮はしの怒りを覚えた。

「余裕ぶってんなァ。守りながら俺に勝てると思ってんのか？」

遮が霧生へ向けた一歩を踏み出した。彼の意識は、本來の標的であるレナーテにも向けられている。

「……勝つ？」

言葉をわすつもりはなかったが、霧生はその言葉に反応する。殺し殺されで、勝った負けたをのたまう。そんな彼を霧生は哀れみの目で見據えた。

《殺気》の質から推し量れる遮の人殺しとしての歴。決して淺くはない。

彼に対してはどんな言葉も意味を為さないのだろう。本的な考え方や、常識が一切異なっているのだ。

しかし無駄だと理解していても、ほどに在るかもしれない遮の良心、あるいは僅かにでも自責の念が芽生えていることを、やはり霧生は願わずにいられない。

「殺すか、殺されるか、だろ」

結果が勝ち負けに昇華しない淺ましい闘爭。その無意味さを訴えかけるように、霧生は語気を強める。

「あ？」

遮は言葉の意図が読めず、首をひねった。

「……人は死ねばそこで終わりだ。

悔しいという想いも、嬉しいという想いも、重ねて來た研鑽も、何もかも、死をもって潰（つい）える」

再戦の機會は永遠に失われ、抱（いだ）くの行き場は無くなる。それを前提に戦うことを、勝負と呼べるのか。

敗北とは死であると、い頃からそう教え込まれた記憶が、霧生の脳裏に蘇る。

霧生がトドメを刺さなかった立ち合い相手の首を、祖父が容赦なく刎（は）ねる。

実の親に斬り伏せられる父の姿。

くして間引かれる腹違いの兄妹達。

──"彼"の心臓に、刀が深く突き刺さっていく。

吐き気を催しそうな程に忌々しい景が、霧生の瞳に映っては過ぎ去っていく。

「……なぜ殺して良いと思う」

霧生は尋ねた。刀を握る力が緩む。

どこか懇願するようにも思える問いに、遮は呆れ果てた。

「殺し屋に説教なんぞ、的外れも良いところだぜ兄ちゃん。

俺らはよォ、良いとか悪いとか、んなことは微塵も考えてねえんだわ」

地面に接する足の裏から木々に刻まれた紋様に魔力を通し、遮はいつでも霧生を殺せる所まで準備を進めている。しかし下手にダガーの紋様を消費することはしない。

遮は霧生の後から現れるかもしれない新手のことも視野にれている。目の前の生溫い年は、1対1のに効率良く力を溫存して始末するのがいいだろう。レナーテも慘殺と言うにはまだまだ足りない。

「俺には殺しの技があって、それで飯が食っていける。それだけだ。俺にとってどうでもいい奴が何人死のうと関係ねーよ」

「…………」

霧生は口を噤（つぐ）む。

遮にとって殺しは生業。日常にり果ててしまっている。そうして善悪の區別を付けずに生きて來た遮との隔絶的な価値観の差は、どうしても埋められないのだ。

「まあテメーがどう考えるのも勝手だがな？　それを俺に押し付けてくんのはどうもいただけねぇ」

遮は背の後ろに手を回し、両手の人差し指をクナイの柄のに引っ掛ける。それに《寫し》の魔を浸させる。

「ッてなわけで、死んどけ」

一瞬の予備作を経て、遮は前方に勢を低くしながら踏み込んだ。背景が寫し込まれた、視認できない2本のクナイが投擲される。クナイの軌道は、霧生のを避けてレナーテへと続く。

強い殺気をじ、自分が狙われていることを察した彼の心臓が跳ねる。正面に立つ霧生に反応はない。

「……っ！」

まだけないレナーテは目をぎゅっと瞑った。

だが彼にクナイが屆くことはなかった。霧生が刀をただ一度橫に払うだけで叩き落としたからだ。

「やるねえ」

ぴゅうと口笛を吹く遮。《寫し》によって視認が妨げられたクナイに反応した霧生に対する素直な稱賛。遮は霧生の評価を一段階引き上げ、さらに投擲を続けるべく、再び背後に手を回す。そうして今度は10本のクナイを指に掛けた。

今や戦闘不能であるレナーテへの攻撃が、そのまま霧生への有効打に繋がる。霧生は本來なら一つ守れば良いところに、余計な守備範囲が追加されている狀態。そして霧生から仕掛けてくる様子もない。

ならば手數で後手を強いて、力を削る。障害を消す手段でありながら、レナーテの慘殺という本來の目的も達せられる効率的な攻撃。

「お前の言う通り、押し付けだ」

遮がクナイを投擲しようとしたところで、霧生がまた口を開いた。

殺意を持って攻撃を仕掛けたというのに、まだ懲りずに話そうとする霧生に、遮は驚く。この後に及んで何を話すつもりなのか。それが気になって、思わずきを止める。

しかしそんな遮をよそに、霧生は説得する努力を打ち切ることに決めていた。

霧生の苦心は遮には屆き得ない。

これまで遮のような者と相対する度にこうして諭しては來たが、理解を得られたことは一度もなかった。話す前から分かり切っていたことである。

「俺はお前のことも、本當は殺したくないと思ってる」

霧生は吐き出すように言う。

「でもここで見逃せば、お前は生業にせよ気晴らしにせよ、殺しを続けるんだろ」

霧生が見逃したために、見知らぬだれかの研鑽が、歴史が、遮に摘み取られ続ける。

そんな誰かのことを思うと、霧生は悔しくて、悔しくて今にも気が狂ってしまいそうだった。

「……だから、殺すしかない」

霧生の背後でへたり込むレナーテは、その聲が震えていることに気づいた。遮をまるで恐れず、堂々と振る舞っているように見えて、どこか追い詰められているようだった。

今だから、レナーテは霧生の殺しへの嫌悪を深くじ取ることができる。

遮の殺意は依然としてレナーテにも向けられている。

頼もしくも悲観に暮れた背中を見上げながら、彼は恐怖を誤魔化すように、強くを噛んだ。

「言ってろよ！」

遮が10本のクナイを放ち、その場から跳ねる。宣言の割に、霧生からは殺意がじられない。所詮は戯言（ざれごと）だ。

羽蟲でも払うかのように、クナイを次々と払い落としながら、霧生は溜息を吐く。

「お前が想像の何倍も強くて、俺を振り切ってどこかに逃げてくれればいいのに」

そうであったなら、殺さずに済む。仕方ないと割り切って、この業から逃げられる。

最低な、淡い期待を抱く。

「でもきっとお前は──」

遮はもはや霧生の言葉に興味は無かった。視覚外からの攻撃に転じるべく、彼は飛び回る。

しかし霧生は正面を見據えたまま、言葉を続けた。

「今までの研鑽も虛しく、何の実力も発揮できないまま、訳も分からずに」

柄を持つ手に力を込め、刀の切っ先をほんのしだけ土にれさせた。寸刻後に遮の首が飛ぶのが容易くイメージできる。そんな自分を激しく嫌悪した。

「死ぬ。──いくぞ」

"霧立ちのぼる"

の聲が霧生の頭の中に響く。

霧立姫に紐付けられた式が、それを起點に展開された。

辺りに濃霧が立ち込めていく。周囲を飛び回る遮の影がそれに埋もれていった。

（馬鹿がよッ！）

これ幸いとばかりに遮は自ら霧に紛れる。鋭敏な五を求められる殺し屋に視界の妨げなど無意味。呼吸を止め、足音を消し、霧の向こうにいる霧生に狙いを定める。

そんな遮の背後に霧生が現れた。

「……！」

立ち込める霧は目を眩ませるものではない。所作一つ一つを式とするための、自己中心的な空間。

霧生が一歩を踏み出せば、呼応するように周囲の霧がうねりを見せる。に纏われた魔力がそれに浸し、即時的に魔が発する。

足元から、霧生の刀が振り上げられる。

遮は右足を地面に食い込ませ、方向転換することで、刀を躱す。頭上にびる軌跡を潛り、遮は霧生の懐に踏み込んだ。

脇腹目掛けてクナイの切っ先を振るう。霧生は反応できていない。

──殺った。

確信し、遮は腕に送る《気》を増幅させる。そして得を勢い良く振り抜いた。

「……ッ！？」

が、手応えがまるで無い。

振り抜き様に視線を流していくと、上から真っ二つに分かれた霧生のは、作を続けたまま幻のように揺らめいていた。

遮は目を瞠る。

直後、遮は頭上に影が出來るのをじた。クナイを構えつつ見上げると、逆さに舞う霧生が振り下ろす刀が眼前に迫っていた。

遮は驚愕に口を半開きにしたまま、脊髄反でクナイを向かわせる。刀とクナイがぶつかり合う。

そう思い、力んだ遮に冷気が覆い被さる。

眼前で刀を振り下ろしていたはずの霧生が、またも揺らめき、遮に寄りかかるようにして霧散していた。

「あ……」

遮は助走を付けて踏み込んでいる霧生に今更気が付いた。霧生が握る刀が遮のを橫斷していく。

これも幻。霧狀の冷風が遅れて遮を襲う。

霧生の姿が捉えられない。何が起きているのかも分からない。遮はいつの間にか立ち盡くしていた。

霧生は霞の向こう側から遮を見據え、また距離をめていく。呼応するように纏わりつく霧。

霧生は一心に考えていた。せめて楽に殺してやりたい、と。

死の恐怖に怯えることなく、何が起こっているのか分からないまま、一瞬のに。

遮の意識外から切迫した霧生は、その首に向けて霧立姫をらせる。

終わりだ。

「……やめてくれ」

「ッ！！」

遮が零し、霧生は咄嗟に刀の軌道を変えた。

ボトリという音と共に、遮の重心が傾く。視線を下ろすと、そこには腕が落ちている。言わずもがな、遮のものだ。

飛沫が上がる。小さく肩を揺らす遮は、落ちた腕を見つめたまま佇んでいた。

霧生は顔を歪ませギリと歯を鳴らす。

遮は実力差をじ取った訳でもなく、狀況を理解していた訳でもなかった。

數多の修羅場を潛ってきた殺し屋としての本能が、漠然と彼に死を悟らせ、訪れる最期の瞬間までに取ることができる唯一の選択肢を、選ばせたのだ。

命乞い。

練の殺し屋である遮だからこそ、無意識にそれが出來てしまった。

「ふざけるな！！」

遮のぐらを摑み、霧生はんだ。

遮は開いたままの口をかすが言葉は出ない。今ようやく狀況を飲み込み始めているところであった。

命乞いをしなければ死んでいたこと。切り離された右腕。多量の出。殺しにおける、霧生との途方もない力量差。

自分が握るカードの全てが、霧生には一切通じないと直的に悟る。

「ぁ……俺ァ……」

霧生は遮を毆り飛ばし、そのまま地に組み伏せる。そしてその元に刀を押し付けた。刀を押し付けようとする理を、念が止める。

「ああ、クソっ……！」

何度もその首筋に刃を食い込ませようと試みたが、出來なかった。

悸が加速する。生に縋ろうとする遮を霧生はもう殺せない。

とうとう、霧生は刀を遮の首から退けてしまった。

それを機に霧が晴れていく。

二人からし離れたところに座り込むレナーテは、遮を組み伏せる霧生の姿を目の當たりにした。

「……お、俺が悪かった……！」

遮から紡がれるのは仮染の言葉。その場を生き抜くための方便。

霧生は歯を食いしばり、今一度遮に刀を向けた。ザンと、遮の腹部と肩に刃を突き立て、すぐに手當てしなければならない致命傷を的確に與えた。

「ッぐぁぁ！」

だが、それで遮が死ぬことはない。霧生に殺すつもりがないのだから。

霧生は遮の肩を貫く霧立姫に、力無く寄りかかった。

「誰に雇われた……、人數は。全部吐け」

霧生が尋ねると、遮は生きるためペラペラと報を垂れ流す。

それを虛ろに聞きれて、霧生はまた口を開いた。

「……今だけでいい、俺の前だけでいいから、誓ってくれよ。二度と人を殺さないって」

引き攣った遮の目を見據え、霧生は言う。

それはきっと無意味な誓いになる。

それが分かっていても、霧生はその言葉を聞かなければならなかった。でなければ平靜を保てない。自己が崩壊してしまう。

「誓うって言え！」

「わ、分かった、誓う！」

霧生の中にある矛盾。隠しようもない弱さが呈する。

霧生は肩から刃を引き抜いて、を切った。その後、刀を鞘に納めると深い深い息を吐き出し、遮の上から退く。

「……行け」

そうしてまた、己の逡巡（しゅんじゅん）に目を瞑るのだった。