大広間に繋がる回廊から心地の良い風が吹き抜ける。嵌め殺しの窓をあえて開放することで、天上宮殿のエントランスには空気の流れが出來ていた。

ゆえにユクシアは気付く。

《寫し》によって姿を消してはいるものの、堂々と《転移回廊》から現れた侵者の存在に。

普段は賑いを見せるカフェテリアの一席に一人で腰掛けていたユクシアはテーブルの上に本を置いて立ち上がり、鞘から細剣を抜いた。

一切の気配を消して歩みを進めていたダガーがピタリと立ち止まる。

「あなたはここを通れない」

高度な《寫し》も、そこに存在する限りは空気の流れを阻害する。ダガーがユクシアの知覚を免（まぬがれ）れなかったのはそのためであった。

気付かれてしまった以上は魔力を無駄に食うばかりだ。《寫し》の魔を解いたダガーの姿があらわになる。

ダガーは疲れを隠さずに言った。

「はぁ、こっちはハズレか。私もつくづく運が無い」

張の無さにユクシアは眉をひそめる。

相対するダガーからは、目的意識もプレッシャーもじられなかった。

怪訝に思いながらも適切な距離を保っていると、ダガーはまるで戦闘を放棄するかのごとく、片手にぶら下げていた短剣を無造作に放（ほう）る。

彼の短剣は大理石の上で回転し、丁度二人の間辺りまでってきた。

「第一位だろう？　全く、お手上げだ」

肩を竦めつつ、ダガーがこの場を離するための魔を用意している。周囲に漂う魔力を一目見るだけで、ユクシアにはそれが分かった。

現れて即退散の姿勢は、ユクシアの並外れた才覚を察してのことなのか。ユクシアはげんなりしたが、今は私にかまけている場合ではない。

彼を捕らえるべく、左足を前方にらせた、その時。

ゾクリ。ユクシアの背筋に悪寒が走った。

それがダガーから放たれた《殺気》によるものだと気づき、初めて向けられた正真正銘の殺意をどうけ止めればいいのか困していると、眼前に短剣が舞った。

先程ダガーが放棄したはずの短剣である。鋭利な刃先は意思を持ったかのように、ユクシアの首元めがけて食らいつく。

「……！」

數本、ユクシアの絹糸のような髪が散る。

瞬撃を、ユクシアはゆうに見切ることができた。

短剣は《寫し》の魔で不可視となったワイヤーに繋がれ、ダガーがっている。さらにその短剣もまた《寫し》によって刃長が偽られていたのだから、まさしく必殺の不意打ちと言っていい。

それを即座に見極め、不可視の剣先を躱し、その上でワイヤーを斷ち切るという化け染みた対応をしてみせたユクシアに、ダガーの思考がほんの一瞬止まる。

先日の序列戦を見る限り、ユクシアは才能を有していても殺し合いの経験が無いカモだった。

魔力量や純粋な技の度、ある程度の力量差は、駆け引きや技の相などで覆すことができる。

だが、今の彼のきはそういう次元の話ではない。

いつもこうしていると言わんばかりの捌き。ダガーの刃が自分に屆くことはないと確信しきった王者の風格。

ずっとぬるま湯に浸かってきたはずのが初めて《殺気》をけた後の佇まいではない。

ダガーは失態を悟る。

（なぜ見誤った。こんな化けを）

慘殺はまず不可能だ。全力で挑み、ありとあらゆる手を盡くしても、殺せるイメージすら湧かない。

彼を躱して他の天上生を狙うのが最善だが、彼を躱すというのが現実的ではない。

この思考の時間すら彼にとっては長すぎる猶予だろう。なぜ仕掛けてこないのか。

平靜を裝いつつも向を伺うが、ユクシアの意図は読めない。

それもそのはず。ユクシアもまた揺しているのだ。

完全に不意を突いた一撃。それ自を見切ることは難しくなかった。

問題は、なくとも今の攻撃がしの妥協も無く、萬全を期して、ユクシアを"本気で"仕留めるつもりで放たれたものだったということだ。

その事実がユクシアを打ち震わせる。

いつもより力強く脈打つ鼓の奧からこみ上げてくるもの。

それは、ユクシアが求めていたものに限りなく近い覚であった。