しがらみを忘れ、レイラは駆け続けていた。

目にはリューナの姿しか映らない。外で煩く騒いでいるはずの霧生の聲も、今日は耳まで屆かない。研ぎ澄まされた神経が次を、次をときを急かし、それに従うだけでレイラはリューナを追い詰めることができた。

が熱い。全を汗が伝う。しかし呼吸は苦しくない。過ぎ去る景が心地良い。敵を追い詰めていく覚。勝利の足音が聴こえる。

闘技場の壁に叩きつけられたリューナがふらりと立ち上がっていた。

遅い。今から回避作をとっても間に合わない。無造作に両手を放り出しているリューナを見て、レイラは確信する。

「……《星降る黃昏（メ・ザ）》」

ボソリ。リューナが"何か"を言った。

レイラは気にすることなく突っ込む。彼から放たれた膨大な魔力を見てもレイラが止まることはない。

今のが詠唱式であったとしても、発は──

「ッ！？」

ズン。突如頭上から強大な負荷が襲いかかり、レイラはその場に叩きつけられた。

「かっ……はッ！？」

肺が圧迫され、口から空気がむせ返る。

レイラは四肢でなんとかを支えながら首を回した。周囲には大きくリューナの魔力が覆っており、それが膨大な質量を得ていた。

レイラはそれに強く押さえつけられていた。

「う、ぐぁ……！」

直ちに《抵抗》を全開にし、魔の干渉を軽減させて質量のし掛かったを立ち上げる。

同時に今の攻撃に対する理解が進む。

今のは、リューナの式展開が反応できない程に速かっただけ。

そしてこれは到底魔と呼べるようなものでは無い。無盡蔵の《魔力》を持つ者のみに許された、才者の業。

ただそれだけだ。

──ふざけるな！

怒りが襲う。力がみなぎる。

重圧の掛かったからは問題なく《気》の巡りをじられた。

レイラは許せなかった。分かってはいたが、リューナは全力では無かったのだ。

心を通わせるため、あえてレイラと同じ武の土俵で戦っていたのだ。

全力で戦えば、勝てると分かり切っているから──。

「こんな、の！」

質量から逃れるべく、レイラはその場を踏みつけ、大きく飛び退いた。

が。

そのきに合わせ、リューナがこちらに向けて手を翳す。すると意思を持ったかのように重圧が──まとわりついた。

「っ……！？」

一瞬だけ逃れられた圧が再びし掛かることで、がガクンと落ちる。

レイラは地を踏みしめ、なんとか叩きつけられずに済む。急いでリューナに視線を移すと、彼は追撃には迫っておらず、の滲んだ口元をゆっくりと拭っていた。

ギリと歯を鳴らす。直後、彼は天に人差し指を向けた。

「……"エスト"」

リューナを中心に、《魔力》が渦巻いた。

「"トラウ"、"リディア"、"ヴェムエ"」

その言葉の意味は分からない。しかし空へ空へと立ち昇る魔力の様子を見て、レイラはそれが詠唱であることを察する。

止めなければ。そう思い、また地を蹴ろうとしたが、リューナの一睨みだけでに重圧がより一層強くし掛かる。

「……！」

──そうか、この魔は……一度でもけたら──

逃げられない。

それに気づくと、レイラは重圧に耐え続けながらただ立ち盡くすしかなかった。

ーーー

「……ユクの、星空式だ」

背後でレナーテが苦々しく呟いた。

それは真晝には浮かばぬ星々の座標と、獨自言語による詠唱を式にした規格外の魔。

魔は式が高度であればある程、常識を覆すような現象を発現させられる。

霧生はリューナの反転攻勢に顔を顰めていた。

杖流には初見殺しの技が多く存在する。

レイラは武においてそのアドバンテージをいかんなく発揮していたが、魔においてはユクシアの元で育ったリューナもまた同じ。

當然レイラが対応し切れぬが數多く存在する。

「……でもレイラ、お前は勝てるんだぞ」

どうしようもなくなった時、どうしたらいいかはレイラに委ねるしかない。

全ての選択肢が消え失せるような鍛え方を霧生はしていない。

ーーー

──全部け切ろう。

レイラは即斷していた。

いくらリューナと言えど、無限に魔を放てるはずはない。それがどれだけ強大なものであっても、全て防ぎ、いなし、耐えきればいい。

「"ユニエ"」

リューナが詠唱を終える。そして──

「《を喰らう竜(ラヴァーディア)》」

リューナの魔力が滝のように天へと登った。

一瞬、晴天が闇に染まり、蒼が戻る。

上空に、眩いが集まっていた。

それには形があり、ゆっくりと首をもたげた時、それが竜の姿をしていることに気がつく。

巨大な、巨大なの竜であった。

「あ……」

すでに重圧は無かった。

飛び出そうとも考えたが、の竜がこちらを鋭く睨んでいる。

「……終わりよ、レイラ」

どこか退屈そうにもじられる表でリューナが靜かに告げた。

竜がリューナに忠誠を誓うかのように、その図太い首を彼の背後から肩に回し、頭を垂れている。

そんなリューナの佇いにき日、レイラが強く憧れた偉大なる魔師の姿を幻視した。

「あ、あ……」

怒りが引いていくのが分かる。どうすればこの一つであれを退けられると言うのだ。

しかしレイラは恐怖を押さえ、グッと拳を握りしめた。そうして一歩を踏み出そうとした時、

「無駄よ」

リューナがそう言った。

途端に目の前が真っ暗になる。憎き敵を前にして、覚が深い闇へと落ちていく。

辺りを見回しても何もない、凍えるように冷たい深層心理の空間。

そんな中、どこからともなく聲が聞こえてきた。

──どうして頑張るの？

──もう諦めたら？

──いつまで続けるんだよ。

それは兄妹達の聲。ひたむきに努力していたレイラを見捨てた家族達の聲が、耳元で囁かれていた。

──どうせ無駄なのに。

じわりと、レイラの瞳に涙が滲む。

なんで、……なんで止めるの？

今が一番大事なのに──

変われるかもしれないと、思っていたのに。

気付けばレイラは地に膝を付いていた。

負け犬のように呆然と地面の一點を見つめていて、を支える両手には力がらず、視界は歪んでいた。

ぽたりと、落ちた雫が土に黒い點を作っていく。

『オォォォォォォォォ！！』

決著を稱える、否、リューナを稱える大歓聲が耳につんざいた。

やがて彼の足音が近づいてくる。

「レイラ」

リューナが聲を掛けてくる。レイラには彼が敗者の言辭を求めているようにじた。

口が震える。言ってしまえば終わる。でも、もう終わっている。震えるが言う事を効かなくなっているのだ。

「……參り、まし、た」

だから、そう言うより他になかった。

負けたのだ。勝てるわけがないと、心からそう思ってしまっているのである。

「凄かったわ、レイラ」

レイラは何も答えられない。差しべられているであろう手にも。

視界に映るのは土の付いたリューナの靴だけだった。

それは見慣れた敗者の景。

そうだ、慣れている、こんな目に會うのは。

レイラは積極的に頑張って來た訳でもないし、信念をもってこの戦いに挑んだ訳でもない。

ただけなく負けただけだ。久方ぶりに、いつものように。

そう言い聞かせ、レイラは必死に涙を堪らえようとする。

「次は……ちゃんと勝つから」

そう言ってリューナが踵を返した時、レイラは思わず嗚咽を溢してしまった。

「あ、あぁぁ……」

彼はこの勝利に納得すらしていない。

その事実に、レイラは慘めで慘めで、涙が止まらなくなった。

ーーー

視界の端でユクシアが去っていくと、霧生の目の端に涙が滲んだ。

ぞろぞろと席を立つ観客達の中、自傷魔をけて吹き飛んだ霧生は、瓦礫の中で自分を悔いていた。

レイラを勝たせられなかった。レイラを待ってやれなかった。

勝てると言ったのに、レイラも勝てると信じて戦ったのに、勝てなかった。

曖昧な確信を與えただけで、レイラを戦わせてしまった。

全ては霧生に責任がある。

「だ、大丈夫？　霧生くん……」

レナーテが顔を覗き込んできた。

のあちこちに激痛が走っている。意識を手放しそうになるのを口の中を噛んで阻止する。

「大、丈夫だ。ありがとう……」

「全然大丈夫じゃないじゃんそれ……」

レナーテが霧生の下半に被さった瓦礫を退け、霧生は痛むに鞭打った。

「……肩、貸す？」

首を橫に振ってレナーテの申し出を斷る。

レイラのもとには、霧生一人で向わなければならない。

霧生はレナーテを殘し、2階席を後にした。

ーーー

悲しみにくれた痕跡を追い、大闘技場の歩廊で力無くへたり込んでいたレイラを見つける。

その側まで寄り、霧生は壁に肩を預けた。

何一つ話すことなく、時間が流れていく。

外からは今だ盛り上がった雰囲気が冷めておらず、観戦していた生徒達の熱をじる。

歩廊には風が流れていた。

「……ほら、駄目だった」

レイラが靜かに口を開いた。霧生は目を瞑る。

もっと完璧に鍛えてやれなかったこと、ユクシアが鍛えたリューナのように、誰にも負けないと思えるほど強くしてやれなかったこと、レイラが諦めてしまったこと。

何もかも、巡り巡って自分のせいだと言ってしまいたかった。

しかしそんなことを口にすればレイラをさらに深く傷付けるような気がして、霧生は言葉を奧に飲み込んだ。

「どうしてこういう時はいつも、優しくするんですか」

レイラの蒼い前髪がだらんと垂れる。

「……俺もキツイんだよ」

彼はギリと歯を噛み締めて、怒りを顕にした。それは當然、霧生に向けられたものだった。

「霧生さんのせいですよ！！　霧生さんのせいで私……、私……、勘違いしちゃったじゃないですかッ！！」

「……」

霧生は天井を見上げる。

「こんな想い、したくないから、努力してこなかったのに……！」

レイラは豆だらけの両手を見つめながら震えた聲で言う。

霧生は壁にもたれ掛かったまま、ずるずると腰を床まで落とした。

「……どうして思い出させたんですか！　私はっ、いつも、いつも！　最後まで頑張れないんですよぉ……！　だから……だからずっと諦めてたのに……ぃ……！」

ボロボロと涙を流し、霧生に怒りを向けながらレイラは自分を責める。

まだ戦えたのに、起させることが出來たはずなのに、僅かな勝利の明を探し當てる余力があったのに、レイラは諦めたのだ。

そしてその先に待っているのも、彼が何よりも恐れていた"敗北"である。

「何もしなかったら、誰にも負けることなんてなかったッ……！　でも結局私が全部、臺無しにしたッ！　こうなることなんて最初から分かってた！　なのに霧生さん、どうして……ッ！」

レイラの想いが痛いほど伝わってきて、霧生も顔を苦痛に歪ませる。しかしそれでも今はを噛み締め、彼の言葉をただけ止めるしかなかった。

勝利を諦め、敗北を自分から遠く退けることこそが、彼の信條であったのだ。

勝利への渇より、敗北に抱く恐怖がゆうに上回っているから、勝負から逃げることでを守ってきた。

だが、それはただのレイラだった頃の話。

今のレイラは霧生の弟子である。

「なんで私に見込みがあるなんて言ったんですか！」

霧生は言葉を吐き出すために、深く息を吸った。

「……レイラ、いいから言えよ。

俺だけはお前の可能を否定したりなんかしないから、もう本心から逃げるなよ。お前は今、どう思ってるんだ」

レイラの立て並べた事実は全て、霧生にとって勝利を諦める理由にはなり得ない。

そしてレイラも本心ではそう思っていることは、たった今確かになっていた。

「……もう、いいです」

レイラは涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま無言で立ち上がり、歩廊の出口に向かって進み始めた。

「レイラ」

呼びかけてもレイラは足を止めない。

霧生はふうと息を吐く。もはや伝えるべきことは一つしかなかった。

「……そんなことしても、無駄だぞ」

からはいつまでも逃げられない。レイラは向き合う時が來たのだ。

彼は一度足を止め、それでもまた歩き始めて出口の先へと消えていった。