《12ハロンのチクショー道【書籍化】》2F:彼らの流儀-1

《……――直線を向きます。⑮サタンマルッコ先頭で粘っている、後ろとは5馬ほど。

々を回って④番ミヤビヤマシタ⑩番コロモビスケッティなど鞭がる。外を回っては②番ガルバルディがびてきている!

殘り200を通過、先頭はまだサタンマルッコ粘る粘る! 後続との差は保ったまま!

殘り100、大勢決したか、なんとなんとサタンマルッコ、2連勝でゴールイン!》

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「やー! よく勝ってくれたね高橋ジョッキー! この調子で次の青葉賞も頼むよ!」

顔なじみといえば顔なじみの、中川牧場長――即ちマルッコの生産者兼馬主の半農家、サダハルのご機嫌な笑顔に、サタンマルッコ主戦騎手高橋 義弘は引きつった笑みで応じた。

JRA転初戦を快勝し、二戦目の500萬下も5馬圧勝。羽賀競馬とは雲泥の差の賞金を獲得した上、晴れてオープン馬となり前途の開けた現狀に、一時は破産の影すらちらついていた馬主のサダハルが躁気味になるのも無理からぬ事だろう。

今夜はサタンマルッコの祝勝會。重調整に苦心するジョッキーとて、このような祝いの場では酒も食事も進むものだが、高橋は鬱とした心を表に出さぬよう苦心するばかりであった。

「センセイ、すみません。今日は俺帰ります」

禮を失さぬよう程ほどに酒と食事を摘み席を立つ。偶の食も今日ばかりは苦いだけだった。何か言いたげな小箕灘の顔を見ないよう、そそくさと退室する。背後で牧場長の笑い聲が響いた。俺が居なくても宴は盛り上がるから平気だろう、と誰にとも無い言い訳を呟いた。

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関東とはいえ春先の夜はそれなりに冷える。やや冷たい風に襟を立てながらタクシーを捕まえる。酒でも呷りたい気分ではあったが、味くじないのは分かりきっていたので滯在中のビジネスホテルを行き先に告げた。

微かなエンジン音だけが響く靜かな車で高橋は己がに潛む澱と向き合った。

地方競馬所屬の騎手が中央で連勝。しかも地方の馬に乗って。

そうかそれは確かに凄い事だろう。近年地方競馬のレベルは上がったと言われているが、やはり中央の壁は高く、最新の調教施設で鍛え上げられた名立たる良達の前に弾き返されている。そんな中順調に、どころか圧倒する地方馬サタンマルッコは羽賀の星と呼んでよいだろう。

で、お前は?

ネオンの向こうにぼんやり映る、酒焼けた目をした己に問う。

己は何であろうか。確かに羽賀競馬での新馬どころかデビュー前からサタンマルッコには乗っているが『乗っているだけ』だ。

高橋にとってサタンマルッコとは実に忌々しい馬だった。なにせ何一つ思い通りにかない。最初のころはムチを打つ度に振り落とされた。調教師に苦言を呈すもなんとかしてくれと頼み込まれればやるしかない。妥協してムチを打たずに乗ってみれば言う事を聞かず。

これでは乗る意味がない。いや、むしろ重の分だけ邪魔をしている。

邪魔をしなければいいのだろうか。その想いは確かにある。だが、それはしないと調教師と話し合って決めたのだ。例えレースで負けようとも、一度でいいからジョッキーの指示に従わせるべきなのだと。ジョッキーを省みぬ競走馬など大できようはずがないのだ。

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車が止まる。金を払って降車し気鬱なを引きずって部屋に戻る。そのままベッドへ倒れこめばもうシャワーを浴びる気も起きない。泥の様に思考の渦に飲み込まれる。

本來であれば、だ。

サタンマルッコはとっくに競走能力欠如として廃棄されているような馬だ。勝てず、育たず、そんな數多居るうだつの上がらない夢破れた競走馬の一頭だったはずなのだ。

だが勝っている。既に故郷に錦を飾る程の大金星を二つも。しかも次走はいよいよ重賞へ挑戦だ。ダービートライアル青葉賞といえばGⅡだ。その賞金たるや5著にるだけで羽賀競馬のタイトル戦を上回る金額が手にる。中央GⅡ。そんな大それた舞臺に、あの訳のわからない馬に乗って、そんな大舞臺を未経験の自分が走る。

誇るべきなのだろう。だが、それが恐ろしくて仕方が無かった。

夢を見る。それは羽賀競馬で連勝したころから漠然と、中央で勝ち上がってからは日を追う毎に明確な形となって現れる。

夢の中、己はマルッコに乗っている。芝のコース左回りの競馬場だ。4角を曲がりきり右手側は満員のスタンド。先頭を走る自分は歓聲や罵聲の津波をまっさきに浴びせかけられている。

その日もやっぱりマルッコは行きたがっていた。それを自分は抑えようとするのだが、結局4角まで折り合わずに來てしまう。だけど仕方ない。この馬のことだからここからでも走るのだろう。そう思って首を押す。行け、とサインを出す。

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けれどだんだんとマルッコは走るのをやめてしまう。どころか後方の他馬に追い抜かれる中、まるで底なし沼にはまったようにずぶずぶとが地中に沈んでいくではないか。

『お前のせいだ』

完全に地中へ沈みきった時、誰かがそう言う。

『お前がいなければもっと簡単だったのに』

或いはそれがマルッコの聲なのかもしれない。

『お前には失した』

それは小箕灘の顔をした何かが言ったように思えた。

『あいつさえのっていなけりゃな』

顔を知らぬ観客の誰かが言った。

『そうだ。使えない騎手は殺処分にしよう』

暗闇が突然首を絞める手に変わる。圧迫にもがくが聲も出せない。

『お前のせいだ。お前のせいで、お前さえいなければ』

やめろ、分かってる、役に立ってない事は、邪魔になっていることは分かっている。だからやめてくれ、そんなことは、分かっているんだ!

「…………――ぁぁぁあああああッ!」

夢はいつも、そこで覚める。

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「そうか。降りるか」

「すみません先生。すみません。すみません。俺には、無理です」

日に日にやつれていく姿を見ていて、いずれはこうなるのかもしれないという予は確かにあった。小箕灘は高橋の肩を抱きよせ、叩く。

「辛かったか。すまねぇな、苦労かけて」

高橋は今年で二十五歳。騎手としては中堅よりやや若手に分類される年齢だ。羽賀の廄舎で仕事を覚え、羽賀競馬で騎手として生活していた男だ。いつかは中央で、という野はきっと抱いていたはずだ。だがいざその『いつか』が來た時、想像を超えるその重さに心が耐えられなかったのだ。

羽賀生まれの馬を羽賀競馬の調教師が育て羽賀の騎手が乗り、中央に挑む。

マルッコの中央參戦はそういう側面もあった。実際に中央転の際、馬主の中川から中央の騎手への乗換えを打診もされたが説き伏せている。それが高橋の心に負擔をかけ、こういった結末を迎えてしまった事には苦い思いが殘る。泣きながら謝罪を繰り返す高橋をめ、頑張ったな。とりあえず今日はもういいから休め、と帰らせた。

しかし――。

事務所に戻り名刺れを手に取り、そこから一枚の名刺を取り出す。中央に転してからめっきり増えた名刺の中に、その名前はあった。

小箕灘は戦慄をじえない。なるべくしてったのか。それともあの馬が持つ、悪魔的な強運がしたのか。全ての要素があの馬に引き寄せられているかのようであった。

番號をプッシュし、呼び出し音を待つ。

「ああ橫田さん…………えぇ、はい。そうです。マルッコの騎乗依頼ですわ。次の青葉賞

からお願いできますか」

橫田友則。小箕灘はこの名刺をけ取った時の事を思い出していた。

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橫田友則。

騎手暦28年のベテランで、日本近代競馬の隆盛と共に長した騎手といって過言ではないだろう。獲得GⅠ數28。海外重賞4。JRAの國GⅠに限ればほぼ全てに優勝歴を殘す名手。しかしその名は畏敬の念より、JRA重賞二著122回の珍記録への親しみを持って呼ばれることのほうが多いだろう。

早い話が奇策の名手。騎乗も上手いが、より『競馬が巧い』タイプであるといえる。

大逃げからのスローペース。早仕掛けからの死んだフリでペース撹。向こう正面から始まる長ロングスパート。『その馬はそれで勝てるのか?』観衆の誰もが疑問を抱くそんな時、彼は數々の大をあけてきた。

無論、沢山の失敗や凡走も繰り返している。いい所まで行って勝ちきれない、そんな事の方が多い。だからこそファン達は目を離せない。畫一的な騎乗になりがちな現代競馬で異彩を放つ存在。それこそが橫田友則だ。

キャリアも晩年を迎える彼には一つの目標があった。ほぼ全てのタイトルを網羅した彼だったが、たった一つ、たった一つだけ手にした事の無いタイトルがあった。

その名を東京優駿。日本ダービー。

そう、これだけのキャリアを持つ彼は、ダービージョッキーではなかったのだ。

過去14度挑み二著が5回。力の差のある二著もあれば、鼻の先僅かの差で破れた二著もある。彼の父、橫田友助もダービー二著の経験はあれど優勝経験はない。

前例好きのメディアが『橫田の呪い』と呼ぶこのジンクスは、現役最後、打倒すべき目標へと姿を変えていた。

GⅠジョッキー列伝~橫田友則~

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その日は小箕灘はマルッコの次走、500萬下へ向けての調整を栗東トレーニングセンターで行っていた。

業界関係者からは外廄がどうのというバッシングはあるものの、羽賀の訓練施設と比べてやはり広いとじるし、細かな部分への気配り――例えば馬場までの道の両脇が木々で覆われていたりだとか――やスタッフ全じる馬への意識の高さは、流石競馬の中心栗東トレーニングセンターであると小箕灘は心しきりであった。良くも悪くも、調教後に頭絡と手綱だけで道路をウロウロさせていた羽賀とは違った。

スタンドから見る限り、マルッコはEコースの一周が長く橫幅も広いダートコースを走るのは楽しいらしい。軽快に駆け回っている。今日は火曜日なので強めの調教は施さず、ストレス解消程度の運だ。とはいえ、マルッコは基本的に運量が多い。特に栗東に來てからは與えられる飼葉が増えたため(零細経営の廄舎の悲哀をじずには居られない)これまでの分もと言わんばかりにモシャモシャ食べ、食べた分だけ運している様子だ。そのおかげか、羽賀にいたころとは馬艶も見違えている。それは"これならば"という手応えを小箕灘に與えていた。

Eダートコースは一周2000m。次走の阪神競馬場を見據えて右回りに走らせているが、既に6周は回っている。駈歩(キャンター。人間でいうところのジョギングに相當)とはいえ、若干走りすぎなは否めないが、無理に止めるとヘソを曲げるため、いつしか気の済むまで好きにさせるようになっていた。腳の疲労は毎日確認しているから問題は無いと思われる。大丈夫だ。たぶん、と語尾が泳ぐ程度の自信ではあるが。

「あの、小箕灘先生でしょうか」

「ン?」

橫合いから聲をかけられ雙眼鏡から目を離せば、小柄な人好きのする笑顔を浮かべた男がいた。見

覚えの無い顔。いや、どこかで見たような気もする。記憶野の隅を刺激するものがあった。

「サタンマルッコを管理されている、小箕灘先生でよろしかったですよね?」

「あ、あぁ。はいそうです。私が小箕灘スグルです」

「あぁよかった。間違えたかと思いました。私、関東所屬のジョッキー橫田と申します。一昨日の未勝利戦でゲットダウンっていう馬に乗っていました。小箕灘先生とはこれまでご縁が無かったので、ご挨拶に伺いました。よろしくお願いいたします」

ずいずいと前に來る橫田に仰け反りながら、小箕灘は差し出された名刺をけ取った。

刺激された記憶野の金庫から顔と名前を取り出して、ようやく目の前の人の正を摑んだ。

「これはこれはご丁寧に。こちらこそ良いご縁を、よろしくお願いいたします」

道理で見たことがある顔のはずだ。名にし負うトップジョッキーの顔は、テレビや新聞越しにいつも見ていたのだから。

心、何しに來たのだろうと疑問に思いながらも、染み付いた習で名刺を取り出し差し出す。

「ご丁寧にありがとうございます。センセイは、今日はサタンマルッコの調教ですか?」

「まあレース後だし火曜日なんで疲労を抜く程度の運ってところですがね」

「そうなんですか。どこを走ってるんですか?」

「Eコースですよ。ちょうど今正面に戻ってきてますね」

「……あ、いた! はは、楽しそうに走ってるなぁ」

「羽賀と比べてコースが広いからか、実際本人も楽しいみたいですよ。今日ももう6周してますし、この後もプールへ行きます」

「えっ、そんなに走らせて平気なんですか? というかプールもやるんですか?」

「ええ。あの馬は羽賀に居たころは調教の後はいつも海で泳いでいたくらいで」

「はー。なるほどぉ。だからあんなに息が長いんですね」

これは何か探りをれにきているのだろうか。レースを見れば分かる事ではあるので、小箕灘は取り立てて隠すことはせずに答えた。

「丈夫がとりえの馬なもので、みっちりやってが出來てきてますよ。おかげで中央でいい勝負できるくらいの武になりました」

「凄いですよね。普通の馬じゃ、あんな喧嘩してたら勝てませんよ」

「ハハハ、マルッコはずっとあんなじですからねぇ。人懐っこい馬なんですが、走ることとなると途端に俺様気質でねぇ。なんとかしたいとは思っているんですが、どうにも」

廄務員のクニオを背に、マルッコは向こう正面へ駆けて行く。

「……サタンマルッコはダービーに出す予定で?」

「今のところ順調に進めることが出來たならってところですが、大目標としては」

「小箕灘センセイ」

遮るように、凜とした聲だった。

「今年、僕、空いてます。いや、空けてあります。條件戦からでも、トライアルでも、いつからでも乗れます」

「……私は思うんですがね、これは羽賀の挑戦なんです。羽賀の馬に羽賀の騎手。そういう側面を意識してるんですわ。だから今のところヤネを変える気はありませんよ」

「いつでも構いません。必ず空けておきます。ご連絡、お待ちしてます」

果たして會話は立していたのか。橫田はそう言い殘し去った。

橫田の消えた先を見送り、小箕灘は頭をかいた。

「評価してもらってるってことで、いいのかねェ?」

トップジョッキーの一角が乗りたがっている。あのマルッコに。

その事実に、小箕灘はなんだかくすぐったい様な心持になった。

結局、小箕灘は橫田が挨拶に來た話は誰にも伝えなかった。神経質になっている高橋には勿論悪影響であるし、中川牧長の耳にればまたうるさく言われる事間違い無しだ。

とはいえ、この出來事自は小箕灘自の中では小さく、次走への調整の中で次第に埋もれていったのだった。

次話は明日の晝頃だと思います。

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