《12ハロンのチクショー道【書籍化】》2F:彼らの流儀-2
朝靄かかる栗東トレーニングセンター。須田廄舎の馬房を間借りしているチーム小箕灘も関係者が作り出す喧騒の一部となっていた。
「えっ、じゃあヤネ(騎手のこと)変えるんですか?」
「高橋も々辛かったらしい。泣きながら侘びられたら、乗れなんて言えねェよ」
「そうだったんですか……あの、センセ。俺もマルッコの調教、ケッコーしんどいなぁなんて」
「甘えんなそれは付き合え」
「がっくし」
小箕灘とて栗東でマルッコに付きっ切りという訳ではない。羽賀の廄舎にも所屬馬はいるので當然往復する生活になる。突き放した言いとなってしまうが、まともなコネも殆どない栗東では、羽賀からマルッコに付いてきたクニオにやってもらうしかないのだ。
間借りで迷かけている以上、禮儀の問題として事務所前の掃除や飼葉の積み出しなどの雑務を二人でこなしながら、著々と調教の準備を進めていた。
「ブルル」
「あーはいはい待ってなマルッコ。検溫終わったらな」
そんな二人を馬房の中から顔を突き出し、額に白丸輝くマルッコが見ていた。はやく餌寄越せといわんばかりにを鳴らしている。
クニオが馬房の中にり、溫計を引き抜く。他の馬はそうでもないが、マルッコは検溫するときだけ妙に大人しくなる。彼にはそれがし不思議だった。
まぁ大人しい分には助かるからいいのだが、と今日の溫を記載する。熱発などもなく、問題は起こっていない。
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サラブレッドは環境が変わるとすぐに調に異変をきたす繊細なだが、ことマルッコに関してはクニオも小箕灘もあまり心配はしていなかった。この能天気な馬が居場所を変えた程度で怯えるとは到底思えなかったからだ。なんなら都心で暮らせるんじゃないかとすら思っている。
「お前もなぁ、走るの好きなのはいいんだけど、付き合う俺のにもなってくれよ」
「ヒンッ」
やーだよーとでも言いたげに首を上げ下げしたマルッコの首筋をでつけ、馬房を出る。
マルッコの運量はデビュー後の競走馬としては明らかに多かった。無論、引き運にしても走りこむにしても、クールダウンにプールで泳ぐにしても馬だけでやらせるわけにはいかないので、調教助手も兼ねているクニオはその全てに付き合わなくてはならない。
「ほら見てみろよこの足。お前に付き合ってたらガンダムみてーになっちまったぞ」
必然、馬に付き合うクニオの運量足るやアスリートの如く上昇し、人生最小の脂肪率を記録していた。羽賀に居たころはトラックで運した後、近くの浜辺で好きに遊ばせていたのでそこまででもなかった。ホースマンとして放し飼いのような真似はどうかとも思ったのだが、問題を起こしてないからよかろうなのだ。
見せられたふくらはぎに鼻先を近づけるマルッコは、やがてくせーとでも言いたげに鼻を鳴らして馬房の奧へ引っ込み、手持ち無沙汰なのか馬房の中をくるくると回り始めた。
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「んで、誰が乗るんです? センセ」
一段落ついてペットボトルのお茶を傾けている小箕灘へ尋ねる。
「橫田友則」
「へ? 橫田って、あの橫田ですか?」
「そうだよ。実を言うと、未勝利戦のあとすぐに営業に來てた」
「す、スゲーじゃないですか! うわーすげー! おいマルッコ! お前にトモが乗るってよ!」
名前を呼ばれ、なんだよーといったじの表のマルッコが顔を突き出した。
「どういう訳だか……いや、俺達はマルッコが強い馬だとは思ってるから何もおかしい事はねェんだが、向こうがそれはそれは乗りたかったらしくてよ。とにかくを確かめたいから暫く調教でも乗せてくれってさ。だからクニオ、今日から暫く乗りはやらなくてよくなるぞ」
「お、おおおぉぉ……二重三重の意味でトモさん救世主だ……」
「ともあれ時間だ。引き運頼んだぞ。昨日と同じで2周、しっかりな」
「う、うへぇ……はぁい」
競走馬は準備運として、犬の散歩のように手綱を持った人間と共に歩く。この時歩様(字のまま歩く様子)から怪我などの異変が無いかを確認する。
犬と違うのは馬のが大きいという點だ。そもそもの歩幅が広いので人間側はかなり早足で歩かなくてはならない。しかも必要とされる運量も多いので、引き運が終わるころには冬でもかなり汗をかく事となる。
実際のところ調教は引き運の段階から始まるといえる。歩く事で鍛えられる筋と、走ることで鍛えられる筋は人間同様異なる。どちらかを疎かにした馬は必然的に怪我しやすくなる。競走馬の場合足の怪我は即命に関わる大事となるので、手を抜くことなどありえないと言える。
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とはいえ、なまじ普段から運量の多いマルッコである。引き運の段階から他の馬より長くく事となる。
小箕灘の言う2周とは、一周2000mのダートEコースを2周だ。それだけで4km。競歩のようなペースで砂地を歩けば人は元より馬でも汗まみれである。引き運は廄舎の周りを使ったりと場合によって様々だが、歩く距離を考えてトラックを利用している。
「よしマルッコ。歩きに行くぞ」
「ヒンッ」
分かったような嘶きに、クニオの顔は綻ばされた。ホースマンはなんのかんのと言っても馬が好きだ。ましてやのあるこの馬である。クニオに限らず、
「お、マルッコ。おはようさん」
「ヒンッ」
「マルッコ! 今日も元気そうじゃねえか」
「ヒーン」
「おうマルッコ」
「マルッコ」
「よぉまるいの」
「ヒヒィン」
すれ違うたびに聲をかけられる。
控えめに言って、栗東のおじさんたちはメロメロだった。
汗だくで引き運から戻ったクニオは廄舎の前に小箕灘と見慣れない人影を見とめた。
「お、ちょうどいいところに。おーいクニオ、こっちゃこい」
「なんだろうな?」
クニオは側のマルッコに尋ねてみるが、マルッコはしらないよとどこ吹く風だ。
廄舎の前まで來て見れば、人影は小柄な男であると分かった。というより見たことのある顔だった。
「あっ! 橫田ジョッキー!」
「おはようございます。次走で小箕灘さんのとこで乗らせて頂きます、橫田友則です」
「おはようございます。やーマルッコ、ほらこの人が次のレースでお前に乗るんだぞー!」
ぺちぺち首を叩かれるのを鬱陶しそうにしながら、マルッコの瞳は見慣れぬ人を見つめていた。
「以前見たときも思いましたけど、本當に丸い星ですね。可い顔してる」
面白そうに橫田。
「地元でもこっちでも皆さんに可がって頂いてますよ。こいつ、本當に人懐っこいんで。ほらクニオ、こっち連れて來い」
小箕灘に促され側まで寄ると、マルッコが鼻をすぴすぴ鳴らしながら橫田に顔を近づけた。
「ははは、本當に怖じしない馬ですね」
い頃からサラブレッドとれ合う橫田も慣れたもので、突き出た鼻面や首をでる。一先ずれられているので嫌われてはいないようだ。
「マルッコは香水が嫌いみたいでねぇ。匂いのする人には絶対近づきませんよ。まぁその代わり……あ、橫田さんちょっとじっとしててくださいね」
「お、おおぉ?」
れ合う程に近く、マルッコのがすれ違ったかと思うと反対側から顔が出てくる。まるで包むようにをくねらせ旋回を始めた。
「マルッコのグルグルですね。気にった相手にはこれやるんですよ」
「え、えぇ……? 何なんですかねこれ」
馬の巨に包まれる未知の覚に、橫田はされるがまま棒立ちになりながら尋ねた。
「私らも分からんのです。まぁ、悪い意味は無いんじゃないかと。マルッコのやることですし一々気にしてたら切り無いんですわ」
「ははは……それにしても隨分が曲がるんですね」
「はらかいですよ。乗り味も獨特で、そこだけは評判よかったもんで」
「へぇ。楽しみだなぁ」
「じゃあ鞍乗せるんで、今日はさっき言ったようにCコースでお願いします。軽く追う分には構いませんので」
「はい。分かりました。よろしくな、マルッコ」
「ヒンッ」
「はは、返事した! 可いなぁ」
午前10時。攻め駆けするにはやや遅い時間のCWコースは人馬の影もまばらな模様だ。馬場口からコースにった橫田とマルッコは広く使えるコースをゆったりと駆け出した。
った瞬間に稲妻が走るだとかそういう異形のはなかったな、と橫田は反芻する。そして歩くうち、やけに揺れない事に気づき、走らせた瞬間それははっきりと認識できた。
(この馬、がらかいだけじゃなくて、足もらかいのか。それに真っ直ぐ走るなぁ)
ウッドチップのコースをキャンター(駈足。人間でいうところのジョギングみたいなもの)させているだけだが、乗り味の差異にすぐ気付かされる。
ウッドチップが散りばめられているとはいえ、い事には変わりない地面を蹴ればその反発は自然とくなる。それがどうだろう。まるでスポンジでも踏んでいるかのようならかい反。これは確かに、獨特と言われるだけのことはあると橫田はじた。
マルッコはいつもと違うコースが楽しいのかご機嫌で駆けている。爪先が踴り首を丸く使って振っている。人間だったら鼻歌でも聞こえてきそうだ。
気分よく走る馬だなぁと思いながらトラックを回る。馬の機嫌がよければ乗っている方も楽しくなるだ。
2、3周すると背中がうずき出し始めた。小箕灘が事前に話していた通りの走りたがる
兆候だった。
(こうなったら追っていいんだったっけ。ムチは厳。なるほど、これはなかなか技が必要な馬だな)
騎乗技も日進月歩。昨今では直線での追い込みでも極力鞭を使わない方が良いとされている。理由に鞭を打つ瞬間、騎手側のウェイトがずれる事が挙げられる。基本的に小柄な格である騎手が長2m半の競走馬のを騎乗しながら打つには、かなり大膽にをよじって腕をばさねばならない。
ウェイトがずれると何故悪いのか。人間であれば中のく背負子を想像すると理解が早いかもしれない。つまるところ、競走馬の側へ追い込みの合図さえ出せればよい訳で、それが鞭でなくともいいだろうというのが話の骨子だ。
言うまでも無く難しい。橫田自も完全に得できているとを晴れない技だった。
(でも、この馬なら……)
ちょうど直線に差し向かう所だった。橫田は手綱をしごき、軽く首を押してやる。
合図を待っていたわけではないのだろうが、ちょうど背中を押されて都合が良かったのか、マルッコはそれに反応して足の回転を速めた。
視界の端を景が流れていく速度が上がっていく。全力ではないもののギャロップ(襲歩。人間で言うところの全力疾走)のスピードと呼んで良いものに変わっていく。
(足の回転が速いし前足の掻き込み方が凄い。これだけ足が上がるなら、あの息の長さも納得だ)
サラブレッドの前足は振り上げる事で骨と連し肺を膨らませる。肺の膨張は優れた呼吸から酸素を取りれ、大きな心臓が全に行き渡らせる。俗に言うスタミナのある馬の走りは押並べて前足の稼働率が高い。無論、備わる心臓など各種臓がそれに耐えられなければ意味が無いため、その一事を持って才能の全てとするわけにはいかない。だが長距離、ないしは持続力という面においてステータスの一つとして上げられる要素だ。
騎手の制止を無視しながらも逃げ切ったスタミナの源は走法にあったと橫田は推察していた。
(それにこれだけ足をかしているのに全然橫にブレない。本當に真っ直ぐ走るな)
ためしに左右へ向きを変えさせてみる。
橫田の手綱に「なんだよー?」と一瞬マルッコが首をもたげたが、ややあってリードに従うようにを振った。左へ、右へ。その間スピードは殆ど落ちない。
(幹がしっかりしてるって言えばいいのかな。そんな表現馬にしたことないけどそうとしか言いようが無い。もらかいから縦がすごく高い。凄いぞこの馬)
口元がにやける。己の覚は正しかった。やっぱり、この馬だ。
この時、橫田のに確信が宿った。
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浦にせよ栗東にせよ、トレーニングセンターでの出來事は噂になりやすい。
例えばどこそこの廄舎のあの馬が凄いだとか、あの廄舎のあの人が激怒していたとか、誰かが落馬で怪我しただとか。広いようで狹い場所に集している業界のため、耳目に易いのだ。
特に、春のGⅠシリーズの山場、ダービーを目前に控えたトレセンは、勢を見逃さんとするトラックマンや取材記者らの織りす喧騒で騒がしいとすら言えた。
そんな中、サタンマルッコの名はそれほど人々の話題に上がるではなかった。
々が『橫田が最近よく乗ってる馬』として名が挙がるほど。そういう気安さの中であるから、橫田も小箕灘が間借りしている須田廄舎を訪れるのは、人目を気にせず気楽にいられた。
「控えさせる? マルッコを?」
「どうしても本番前に腳を測っておきたいんです。これまでの競馬は良くも悪くも馬なりで、本當には追っていなかったはずです」
「まぁ、馬主さんも期待されてるし、それで二著にれるならってとこだが……」
既に何度か開催してお馴染みとなりつつある作戦會議は、マルッコの馬房の前にパイプ椅子を並べて行われていた。小箕灘とクニオと橫田、おっさん三人が顔を寄せ合う怪しい絵面に馬房のマルッコも顔をのぞかせている。
橫田が口にした次走の作戦に対し、小箕灘は難しい顔をした。
「そもそもの話、これまでやろうとして言う事を聞かなかった手前、実行出來るか怪しいと思うんだが、その辺どうするんだ?」
「これまで通り、では僕が乗っても同じ結果になると思います。ですが、最近乗っていて気付いたんですが」
初めてマルッコにってから一週間。騎乗の土日と調整ルームの金曜以外は足繁く栗東に通いマルッコに乗り続けた橫田は、己が結論をそう言って切り出した。
用意しておいたプリント紙を差し出す。
紙には數字の羅列があり、それがICチップで記録されたマルッコの調教タイムであることはすぐに分かった。
橫田は指で示しながら続ける。
「これとこれ、キャンターでもギャロップでもそうなんですけど、タイムが平たいんですよ」
「あ、ほんとだ」
クニオが間抜けな同意を示した。
「これがどうしたってんで?」
小箕灘が尋ねる。
「皆さんご存知の通り、今のところマルッコの調教は攻め駆けしない限り基本的に馬なりでマルッコのペースでしか走っていないですよね。っていて気付いたんですが、駈足にしても襲歩にしても、この馬はラップを刻むように走ろうとしているんですよ。このタイムが全く平らなところが直線で、ややズレが見られるのが曲がってるとき」
指摘され小箕灘も改めてデータを見やる。
確かに、そう言われて見れば指摘された通りであるように思える。いや、この場合背中にっている騎手の意見のほうが正確であるだろうと小箕灘は思い直した。
「なるほど確かに。それで?」
「はい。そしてこれは前走阪神2000m500萬下の時のラップです」
レースの勝ちタイムは2分0秒8。この時期の500萬下を勝ち上がるタイムとしては、特筆する事の無い記録だ。
ラップタイムはこれまでのマルッコのレース運び同様、前半ちぎって後半持ちこたえる大逃げ気味のレース。前半1000mを58秒5、後半を62秒3。3歳馬が見せたパフォーマンスとしては派手だが、タイム自はそれほどでもない。後続各馬が4コーナーで引き付けられ、息をれて加速したマルッコにスタミナですり潰された形だ。
數字からそれを認識した小箕灘はなくない衝撃をけた。なにせ、
「あれだけ騎手と喧嘩しながら、自分でレース作ってたってのか」
なまじ現地で見ていたせいで報にバイアスがかかっていた。なにせマルッコはレース中、誰の目からみても『かかっていた』ようにしか見えていなかったのだ。
「これが500萬下の最終追い切りの時計です。6Fでしか見れませんが、気付きませんか?」
「……レースほどの時計でないのは當たり前だが、5Fまではペースを刻んで、6Fから息をれている?」
小箕灘の脳裏に引っかかるものがあった。
思い返せば、この追いきりもジョッキー高橋への指示は6F馬なりであったはずだ。結局6F過ぎてもマルッコは駆け続け、コースを一周していたような記憶がある。つまり。
「マルッコはレースで走る練習をしているってことか」
「ここ最近乗ってみたじでは、おそらく」
そんな事ありえるんだろうか。その考えは小箕灘の脳裏を當然過ぎった。しかし。
「こいつなら、やりそうだ」
この馬に限っては、なんでもありなのではなかろうか。そういう常識だとか非常識だとか、人が計り知れない部分に魅力をじていたのだから。
そういうもの、と認識して考えれば、つまりここからの調教はレースで走らせたいペースへの順応を行えばいい。
「やってみましょう。橫田さん」
「はい」
小箕灘と橫田は、あとイマイチ話を飲み込めていないクニオと何故かマルッコも――頷きあった。
マルッコくんのイメージはレッツゴードンキとゴルシとリスグラシューのあいのこみたいなじです。
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