《12ハロンのチクショー道【書籍化】》7F:夢のはじまり-1
話したいことがある。チーム小箕灘がクリスの召集に応じ、顔を揃えたのはジャパンカップの二日後だった。
會議と言えばマルッコの馬房前でパイプ椅子を並べて、というのが定番だったが、今日に限っては事務所で機を挾んでの開催となっている。
「お時間をとらせてシマい、すみません」
「いや、いい。それで改まって話ってのはなんだ?」
切り出したクリスに小箕灘が促す。クリスはタブレットを取り出し、クニオ、橫田、小箕灘に見えるように置いた。
「ジャパンカップでの、マルッコの走りについてでス。橫田サン。直線でクエスフォールヴに抜かれたトキ、何か違いませんでしたカ?」
タブレットにはストリーム再生の途中で止められている畫が映っている。乾いた西日を浴びて走るサラブレッドの群。ラチ沿い先頭付近を走る馬の額には白い丸型の星。言われなくともすぐに分かる。ジャパンカップの直線であった。
クリスは何度か畫面をタップし、映像をコマ送りにした。マルッコの足のきがパラパラと進んでいく。
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ここです。ある時になって、クリスが口を開いた。
「どうですカ?」
「……うん。そうだ。この瞬間、足の使い方が一瞬変になった」
橫田は反芻する。殘り200mを過ぎたあの一瞬。あの一完歩。故障を疑い、そうではなかったあの瞬間。
「レース後も話してたが、それはどういう合に?」
「妙な、としかお話できません。手前を変えるのに失敗した、というのが一番近い表現だと思うんですが、それともまた何か違うような気がしていて」
馬のギャロップとは人間に置き換えると片足飛びに近い。もっと正確に表現するなら一歩で上れない奧行きのある階段を上る時だろう。(山道とかに多い)
最初の段を左足で上った場合、次の右足は同じ段を踏むため負荷がかからない。
それを続けるうちいつか左足だけが疲労してくるはずだ。
馬もこれに似ており、常からギャロップする時、足が接地する順番は固定されている。當然人間と同じようにそのままではやがてどちらかだけが疲れる。
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そこで足を出す順番を変える。これを手前を変える、と表現する。競馬においては直線での追い込み時に手前を変える馬が殆どだ。
直線で追い出したときに手前は変えたはずだが、それに似た何かが起きた、と橫田は語った。
小箕灘は唸る。
「何かに躓いたって線が一番納得できそうだが、そういう話ではないんだろう、クリス?」
「ハイ。私はこれに覚えがあります」
ネジュセルクル、という馬をご存知でしょうか。
沈痛な面持ちでその名を告げたクリスに、クニオが答える。
「ヨーロッパで活躍してた馬だよね。凱旋門賞で予後不良になった」
「ハイ。彼は私のパートナーでした。そして彼との生活の中で、一度だけ、このマルッコと似た事がありました。とてもよく覚えています。もしも原因が同じなら、解決したいと思い、今日お話しました」
クリスが騎手生活を休んだ直接の原因である競走中止だ。その事件自は橫田も小箕灘も知っているし、そこから立ち直るために廄舎で働いているという事も本人から聞いている。
「それはつまり何だ?」
「セルクルには特別な走りがありましタ。ギャロップよりも更に速く走る足運びが」
言葉が難しいですが、と言語の壁に苦しみながらクリスがたどたどしく説明した容は纏めるとこのようなだった。
通常の馬は手前を変えてラストスパートをする。しかしネジュセルクルはそこから更に足の運び方を変えてもう一段階加速する事が出來た。その走りをやろうとして失敗した時、それにマルッコの狀態は酷似している。
「つまり、直線で回転襲歩に切り替えようとしたってことか。言われて見れば、スタートの時とじは似ていたかもしれない」
橫田はそのように理解し、それが正しい認識だった。
馬が襲歩(ギャロップ)する場合の常の歩方は叉襲歩と呼ばれ、後ろ肢から前肢にかけて順に右左右左と肢を繰り出すが、回転襲歩の場合右左左右と繰り出す。
回転襲歩は馬が自然に走る場合、停止狀態から加速する時に用いられる。競馬で言えばスタート直後の足運びだ。急加速、急旋回に有利な歩方で、短距離を得意とする食獣などはこの足運びで走る。実に理に適っている。
「それが本當ならすげぇ事だが、本當にそんな事出來るのか?」
「マルッコがそれをするのかは、分かりまセン。ただ、事実としてセルクルはそれを行い、レースを征していました。そしてこの走法には問題がありマス。背中から腰にかけての負擔がトテモ増える事です」
腰椎斷裂骨折。そうか、それで、と橫田と小箕灘の脳裏に閃くものがあった。
「セルクルと同じ丸い星を持って生まれたからなのカ、きっとこの走りがマルッコの持つ本來の走りなのではないでしょうカ。だからあの時、負けまいと足運びを変えようとして、失敗した……と私は考えまス」
ネジュセルクルの額の斑白とマルッコのそれは良く似ている。それがクリスの心を癒した話も聞いていた。しかし、星の形が似ているからと言って安易に関連付けて連想してしまってよいものなのだろうか。何か別の理由があるのではないか?
「まあ、よく分かんないですけど、試してみたらいいんじゃないですか?」
途中から理解する旨を放棄したきらいのあるクニオがあっけらかんとそう言った。
「……それもそうだな。明日のトレーニングでし追ってみよう。何か変化があるのかもしれない。橫田さん、明日乗ってもらっていいか?」
「はい。任せてください」
「今日はお話を聞いてくれて、ありがとうございました」
「いや、よく聞かせてくれたよクリス」
いえ、俺は……。母國語で出た否定の言葉は誰にも伝わる事は無かった。
翌日に持ち越しということでその場は解散となった。
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マルッコの試走は利用者の多い朝の時間帯でなく、比較的人馬のはける晝下がりに施行された。
「それじゃあ一周回って直線で追ってみてくれ」
敗北から明けたマルッコはふんすふんすとやる気十分に鼻息を荒げながら前足で砂を掻いている。その背にりながら、橫田は頷いた。コース脇ではクニオとクリスも見守っている。
いつものようにらかな発進から加速。強くは追わず緩めのギャロップでコーナーを回る。あのジャパンカップの直線のようなおかしな手応えは今のところ無い。
向こう正面に到達し、し速いか、と橫田がペースを落とそうとした時、それは起こった。
(なんだ……?)
背中から伝わるやる気。気分任せに走っている時の追い出し合図のようなふわふわしたでは無く、走らせてくれという鋭く強い意志。
分かった。やってみろ。
クリスの予想は正しかったのかもしれないと認識しつつ、コーナーを曲がる。
さあ直線。何をやるのか見せてみろ。
下から膨れ上がった生命の躍、力の波、或いは生命そのものが発したかのような存在。
ぐんっ、と沈み込む馬。びきった首と連した前足が力強く砂を噛む。
(あ……)
そこで橫田のは宙を舞った。
まずい、と思った次の瞬間、を丸め落下の衝撃に備えたのは長年の騎手生活の賜であろう。背中から落馬した橫田は何度か地面を転がり衝撃を逃がした。とはいえ痛いものは痛い。地面が砂で助かった等と考えながら顔を顰め膝立ちすると、何かが日のを遮った。
「ひーん……」
そのまま放馬してしまったかと思っていたマルッコだった。背中の相棒を放り出してしまい、慌てて戻ってきたのだ。
めずらしく心底すまなそうな表をしている僚馬に、橫田は堪らず笑みを浮かべた。
「心配するな。どうってことない。むしろ俺の方こそ悪かったな。落ちちゃって。お前の方こそ大丈夫か?」
鼻先を首元に押し付けるマルッコをあやしていると、クリス達が異変に駆けつけた。
「怪我はありませんかトモさん!」
「わかんないけど、骨とかは大丈夫そう。立てる……うん。立てるから平気かなたぶん」
「アトで病院に行きまショウ」
「ああ。それよりもクリストフ。君はあの狀態の馬に乗れてたのか?」
あの狀態、とは落馬する直前のことだった。昨今主流のモンキー乗りは不安定な騎乗法だ。左右は言わずもがな、前後のきに特に弱い。あれほど急激にバランスを変えられては、ごと吹っ飛ぶのも道理といえた。
「まさかマルッコがいきなり全力で走ると思いませんでシタ。注意しておくべきでした……スミマセン」
「いや、いい。それよりあれは……いや、やっぱりいい。こういうのは人に聞くより自分で覚を作った方がいいな」
「橫田サンがそれでいいのなら……ただ、今日はもう病院へ行きまショウ」
「そうしようか。小箕灘先生があわあわしちゃってるし」
「ほんとだ。センセイって気が小さいから、損害保険がーとか考えてそう」
そういうのも含めて調教手當てがあるのに、と三人は笑いながら、マルッコを伴ってトラックを出た。
こういう気分は久しぶりだった。落とされる心配など、橫田は新人のころでさえ殆どしなかった。傍らでしゅんとしているマルッコの首を叩く。
「遠慮なんかするんじゃないぞマルッコ。勝つためだ。俺とお前で」
ひんっ。分かったような、分からないような、そんな嘶きが師走も近い秋空に響いた。
次走は年末の祭典、GⅠ有馬記念。
そこには、先のジャパンカップ覇者クエスフォールヴも出走する。
二度は負けない。人馬の瞳に炎が宿る。
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