《12ハロンのチクショー道【書籍化】》8F:彼らの見た流星-3
しみったれた町。中川健治(なかがわ けんじ)の抱く故郷の印象はそんなモノだった。
道行く人間は暗い顔をしているわけではなかった。けれど明るい溌剌とした顔をしていたわけでもなかった。停滯と安寧。寫真に収めて飾るとするなら、そんな町並み、そんな人波。
それが嫌だった。だから東京へ出た。必死で勉強して関東の國立大學に合格して、卒業後は東京の會社に就職して。今では將來を誓い合った仲の人と同棲していて、仕事も順調に行っている。思い描いた通りの33歳になれた。健治はを張ってそう言えた。
そんな健治だが、故郷に帰りたくないのかと聞かれれば、別にそうでもなかった。毎年盆と暮れには帰省していたし、出張で近くに出向くとなればついでに寄るくらいには著がある。嫌おうが何しようが生まれ故郷は生まれ故郷。思い出はある。それに両親とも喧嘩別れしたわけでも無く仲もよければ、それなりに顔くらい出すものだ。
ところがある時、その親の方がむちゃくちゃをし始めた。父親の貞晴だ。
「はあ? 親父が借金?」
そうなのよ。とは電話口の母。
伝え聞くに、父親が金を借りてゴールドフリートの種を付けようとしているらしい。
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牧場の息子の癖に馬にはそれほど詳しくない健治でも知っている名前だ。近年現れた三冠馬だったと記憶している。
「それ幾らだよ」
『500萬』
驚きでむせながら、親父に代われと怒鳴りつける。代わった父親は実に暢気に口火を切った。
『おう健治久しぶりだな。おい、きいて驚け。今度フリートの種を付けるんだぞ!』
「バカ野郎! それで借金してたら世話ねぇじゃねえか! その子供が走らなかったらどうするつもりだ!」
『あぁッ!? おめぇ親に向かって馬鹿とはなんだ! だいたいなぁ、三冠馬の子供が走らない訳ねーだろ! ディープを見てみろ、どこもかしこもディープディープディープだろうが!』
詳しい勢力図を知らない健治は言葉に詰まってしまい、それを傘に貞晴は勝ち誇って電話を切ってしまった。
「馬鹿親父が。どうなっても知らねぇぞ」
その怒り方はまさに父親のソレと瓜二つであったのだが、それを指摘するものはこの場にはいない。
そんなこんなで500萬円かけて生まれた仔馬は売れ殘った。無様な父の姿を散々嘲笑ってやったが、いよいよとなったら手を貸してやろうとも考えていた。人は嫌がるかもしれないが、東京で一緒に暮らせばどうとでもなるだろうと。
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その程度の親孝行を考えていた健治だったが、両親からマルッコと呼ばれた栗の仔馬の行く末を見屆けるまでは牧場を続けるつもりであるらしいと聞かされてしまい、すっかり呆れ返ってしまった。
まあ別に今すぐどうなるでもないし、何より子供(じぶん)が獨り立ちした親の人生だ。好きにすればいい。そう區切りをつけ口を挾むのを止めた。
その仔馬とは実家へ帰省するたびにれ合う程度の間柄だった。ペットとしてみれば可い事この上ない容姿は、偶の帰省で仕事の疲れを癒すにはうってつけだった。
そんな馬のほうも健治の顔を覚えているらしく、帰ってくる度やたらとらしい仕草で好をねだるのだ。帰省の際、りんごを袋一杯にぶら下げる健治に、人はしきりに首をかしげていた。
今年も年始に帰って來た。信じられない事に、あの仔馬はダービーを勝ち、更にもう二つもGⅠを勝ったというではないか。
夏に帰省した際は別の意味でも驚かされた。あの、しみったれた空気が漂う羽賀の町が、明るく、賑やかになっている。きょろきょろと落ち著かず地図と標識を見比べる観客、都會めいた服飾の、カメラをぶら下げた男、杖を突きふらふらした足取りで何処かへ向かう老人。
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みんな競馬場を目指していた。みんながあの仔馬、サタンマルッコに會いに來ていた。
あの時吹いた風は、年末の今も続いていた。町並みが明るい。人の笑顔が眩しい。
「やるじゃん。親父」
決して本人には、言わないけれど。
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「よーう丸いの。久しぶりだな、元気してたか?」
「ふーぶるぶる」
夕日の沁みる時間帯。はるばる東京から飛行機で帰省した健治は、牧場のり口をうろうろしていたマルッコのたてがみをでつけた。マルッコが放牧地の柵に居ないのは最早日常であるので、健治はいちいち目くじらを立てたりしない。
マルッコがすんすん鼻を鳴らしながら健治が懐に抱える紙袋を口先で突く。袋の中は勿論りんごである。
「こーら。後で持ってきてやるから」
「ふっひーん」
「お前の好きな長野県産のりんごだぞ。GⅠ三勝馬様へのお祝いだ」
「ひっひひーん」
分かったような嘶きに健治の口元が綻ぶ。本當に犬のような態度を取る馬だ。
マルッコを伴い、ついでに柵の側へ押し込んで、事務所ではなく母屋側の玄関の引き戸を開けた。來客中らしく、見慣れない黒い革靴が並んでいた。
居間の方から騒々しい聲がする。酒でも飲んでいるのだろうかと思いつつ、靴をぐ。
「ただいま」
「ん? おお健治。こっちに著いたら電話寄越せって言ったじゃねえか」
「悪い悪い。すっかり忘れてた。それで、こちらはお客様?」
「おお! そうだ! なんとな、聞いて驚け! あの、天下の社代グループ、ノースファーム代表の吉沢會長だぞ!」
「やや、中川牧場長、息子さんですか? ご立派な息子さんですなぁ!」
「いやいや、吉沢さんところのご子息と比べたら屁みたいなモンで」
「いやいやいや、うちのはいつまで経ってもお坊ちゃま気質が抜けなくていけませんよ。やはり男はね、獨立して生活を一から十まで全っ部自分でケツ持ってこそですよ!」
「アハ、アハハハ! そうですかね! おい健治! 吉沢會長が褒めてくれたぞ! 鼻が高いなァ、ワハハハハ!」
ああ、馬好きの酔っ払い親父が二人居るのね、と狀況を把握した健治はいくらか白けた調子で挨拶を返した。テーブルにはこれまで鍋を突きながら空けたと思われるビール瓶が並んでおり、その數から逆算すると晝頃から飲みっぱなしであったようだと推察された。
この出來上がり合も納得である。
隨伴しているスーツ姿の男が申し訳なさそうに健治へ頭を下げている。恐らく吉沢會長とかいう人の書みたいな立場の人だろうとあたりを付ける。
何とかグループの偉い人がこんなうらぶれた弱小牧場へ何しに來たのか不明だが、無禮講の気配を會社員特有の覚で察知した健治は、必要以上にかしこまる事をやめた。
「はいはい、お待ちどう様。お酒とお料理お持ちしましたよ……あら健治。お帰りなさい。いつ帰ってきていたの?」
そこに料理とビール瓶を持った母、ケイコが臺所から姿を現した。
「ただいま母さん。つい今さっき。これ、丸いのへの土産。こっちは母さん達に」
「あらあら。ありがとうね。今年は希ちゃん連れてこなかったの?」
「希は向こうの家族とハワイ旅行だってさ」
「んだよ、九州だって南國だから似たようなもんだろ?」
「全然ちげーよ」
「おやおや、息子さんはご結婚されているのですか?」
「いえいえ! こいつ、無しなもんで同棲してても結婚してないんでさぁ。お前いつになったら持ちを固めるんだよ。俺なんか一貫でケイコと結婚したもんだぜ?」
「まあ、あなたったら」
やかましい親戚が一人増えたみたいな宴會だ。
健治は出されたビールを一口呷って、冷やかされ役(ピエロ)に徹した。
酔い醒ましに外歩いてくる、と言い殘して健治は外に出た。
一月の夜風はに染みて冷たい。だが火照ったにはちょうどよかった。
暫く馬道を歩くと、気配でも察知したのか、暗がりからマルッコが寄って來た。
「酒くせーぞ、おれ」
すんすん鼻を鳴らすマルッコがぶひっ、と鳴くタイミングでそう言ってやった。言うのが遅いと恨みがましい眼で見てくるマルッコの鼻先をでる。
「お前も隨分でかくなったな。ついでに偉くなった。あの借金抱えた疫病神が、いまや年収億越えのGⅠホース様だ。親父も母さんもすっかりご機嫌。お前のおかげだな」
自分のくらいも無かった高が、いまでは見上げるほどになっている。痩せたも大きくなって、も綺麗な栗だ。
たてがみや頭、鼻先をかわるがわるで付けながら、人馬は靜かな時間を過ごした。
「おや、こちらにいらっしゃいましたか」
そろそろも冷えてきたという頃、聲を掛けられた。聲の主は來訪者、吉沢だった。
「ああ、どうも。そろそろ戻ろうかと思っていたところです」
「九州とは言え流石にこの時期は寒いですからね。あまり長居はしない方がよろしいでしょう」
吉沢は近くに寄ると、じっとマルッコを見つめた。
「実は私とこのサタンマルッコには縁がありましてね」
「縁?」
「この馬が羽賀競馬場でセリに出された際、札していたんですよ。結局生産者買戻しとなってしまいましたが。思い出したのはついこの間でね、あの時買っておけば、と悶絶したものです」
ははは、と軽妙に笑う吉沢。
「吉沢會長は、今日はどうしてうちみたいな牧場にいらっしゃったんですか?」
「ええ。サタンマルッコの今後について、中川オーナーにご提案をしに訪問したんですよ」
「提案?」
「海外遠征についてのご提案です」
海外。急な単語に健治は暫くその言葉を反芻した。
「海外、というと、ヨーロッパとかの?」
「ええ。的には秋の大一番、凱旋門賞」
「凱旋門賞……うちの丸いのが?」
「様々な要素から考えて、國で勝つ確率が最も高いのがサタンマルッコであると私は確信しています。これほどの馬で世界に挑戦しないのは、日本競馬界の損失ですよ」
「世界、日本競馬界……ふふっ、ちょっと信じられませんね」
「いえ、私は」
「ああいえ、お言葉を疑うわけではありませんよ。そうですね、し歩きながら話しませんか?」
ほらいくぞ、と傍らのマルッコの首を叩く。ぽこぽこと健治の歩幅に合わせてマルッコは歩き出した。その何気ない仕草に吉沢は目を見張りつつ、後に続く。
「あの柵、わかりますか?」
そう言って健治が指差したのはそれまで続いていた柵が一段高くなっている箇所だった。
「あそこ、俺が子供の頃なんかはしへこんでいて、他よりも一段低かったんです。だもんで、放牧中の馬があそこを飛び越えちゃって。親父が慌てて作り足した柵なんですよ」
「ああ、牧場のり口なんかは、好奇心旺盛な馬だと見に來ますからね。出れるとなったら出ようとしても不思議ではありませんね」
「作り足してからは柵から出る馬は居なくなったんですがね。丸いの」
我が意を得たと言わんばかりにマルッコは駆け出し、見事な飛越で柵を越えた。
2mは近い跳躍に、またしても吉沢は目を見張った。
「あ、危ないですよ! 怪我でもしたら大変な事に!」
「大丈夫ですよ。丸いのは小さいころからあそこを飛び越えてましたから」
「は、はあ?」
「初めて會ったときも柵を越えたところでしたよ。まあ途中から面倒くさくなったのか、下を潛るようになったらしいですけどね。俺にとっては、こいつはそういう馬でした」
柵の向こうから「すげーだろ褒めろ」と頭を突き出すマルッコの頭をでながら、健治は続ける。
「昔から家の仕事は手伝わなかったんです。ずっと學校の勉強してました。だから馬のこととか、全然知らなくて。こいつと出會うのがもっと早ければ、違う道を選んでいたかもしれませんね。まあ、今更ですが」
「…………競走馬が背中に何を乗せて走るか、知っていますか?」
「そりゃあ、騎手じゃないんですか?」
「いいえ、それだけじゃありませんよ」
「うーん、鞍とか、あと錘とか」
吉沢はゆっくりと首を振る。
「夢。人の思いですよ」
格好付けすぎですか? と吉沢はしおどけて見せた。
夢。人の思い。分かるような、分からないような。
「……親父は昔からセコイ真似した時はとことん失敗するんです。例えば、三冠馬の子供を売って儲けよう、とかね。でも、不思議とでかい事をやるときだけは一度も失敗しませんでした。羽賀の競馬が曲がりなりにも運営されていたのだって、親父が平日競馬の馬券をウェブ上で買えるようにするべきだって主張したからなんですよ」
「おや? 馬産に関わる事柄に興味が無かったのでは?」
「酒を飲むたびに武勇伝で聞かされてるんで、事細かに説明できるようになってしまいました」
「それは、なんとも中川牧場長らしい、のでしょうね」
「ははは……吉沢會長。丸いのの凱旋門賞挑戦っていうのは、どっちなんでしょうね」
「もしも挑戦するとなれば、それは勇気ある決斷であると思いますよ」
「……競走馬は夢を乗せて走るんですよね」
「私はそうであってしいと願っています」
「夢を見るには、俺は々手堅く生き過ぎました。繋がったしがらみで、もう早々無茶なんか出來やしないです。だから吉沢會長。俺の夢も、こいつの背中に乗りますかね」
「彼に聞いてみてはどうです?」
呼びかけられたマルッコは、なんだー? と首を傾げるばかり。
「なんだよ、たよりねーやつ」
「ぶひっ」
東京に帰ったらプロポーズをしよう。
子供に夢を託すというのは、きっとこんな覚なのだろうから。
する人の子供なら、それはきっともっと素敵なはずだ。
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