《12ハロンのチクショー道【書籍化】》9F:死闘-4
4月1日の阪神競馬場の上空は不穏な気配を漂わす暑い雲に覆われていた。
予報では深夜まで雨は降らないとされているが、今にも泣き出しそうな空模様はこの日を照準に合わせた嵐呼ぶ馬による余技なのではないかとすら思えた。
パドック。薄く照明の焚かれたその場所を、本番を前にした出走各馬が準備運を兼ねて周回していた。出走頭數は12頭。回避が続出しGⅠとしてはやや寂しい頭數での開催となった。そのことを殘念に思うファンも多かった、だがその原因たる二頭を前にそんな考えは吹き飛ばされた。これが相手では仕方が無いと。
カツカツと蹄の音も甲高く、靜かな闘志を包した鹿の馬がひた歩く。極限という言葉を言したかのような絞りきった。相馬眼の無い人間でもこれだけ近くで目にすれば嫌でもじる、瞳の奧のギラついた気配。
殺気とも置き換えられる気配に、本來ざわめくはずのパドックが水を打ったような靜けさに包まれている。
④番ストームライダー。前評判通り、鬼のような仕上げでの參戦だった。
その後ろ、⑤番のゼッケンをつけて続く栗の魔王。
前を行く殺気を気にも留めず、飄々とした足運び。あれだけの威圧を前に、むしろかかってこいと言わんばかりの余裕。格を有した余裕なのか、それとも生來の気質故か。
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⑤番サタンマルッコ。これまで通り、雲を摑むような怪しい手応え。
他の馬も悪くはない。しかし、件の二頭と比べるとどうか。
単勝人気2.3倍、2,5倍。僅差の一番人気は④番ストームライダー。続く⑤番サタンマルッコ。これらの數字に、観衆のは映し出されていたのではないだろうか。
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「橫田サン」
「クリス!」
フランスでの目的を達し、帰國したとは耳にしていた。
晴れて騎手仲間と呼び合える仲となったクリスの來訪を、橫田は検量室側の廊下で驚きと共に迎えれた。
「戻ってたのか」
「ハイ。大阪杯、応援するために急いできました」
「そりゃあ嬉しいよ。あっちじゃ上手く行ったみたいだな。おめでとう」
「ありがとうございます。彼にも謝しなければ」
「マルッコか」
「ハイ」
「なんというか、君らしいな。あぁ、そういえばクリス。まだ正式に話は聞いていないけど、海外遠征で乗るのは君だろう?」
唐突に放たれた繊細な話題に、クリスは言葉を詰まらせた。
「エェ。そういう話を聞いています。それも、ここで勝てバ、の話ですガ……」
「あーあー、それじゃあここでわざと負けちゃおうかなー!」
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橫田は顔をそむけて笑いをこらえきれないような表で言った。
クリスは微笑んだ。
「フフフ、橫田サン。出來もしない事を言うモノじゃありませんヨ」
「あー、分かっちゃうか。まあそりゃね、俺も分かっちゃいるんだけどね」
橫田は海外での騎乗経験も持つが、その道の専門家というわけでもない。日本の騎手の大半がそうであるように、日本の競馬場で乗る、日本の競馬場と競馬を知した、日本競馬の専門家だ。
勝利を至上とするならば、現地の騎手に乗り代わるのが自然だ。はっきりとは伝えられていないものの、小箕灘からも乗り代わりの話はぽつりぽつりと聞かされていた。
悔しさが無いといえば噓になる。だがそれ以上に、クリストフ・ユミルという騎手の復活を祝う心が大きいのだ。
(騎手がお手馬を取られて喜ぶなんて、こりゃもう引退だな)
橫田は口元の笑みに苦いものを混ぜ、すぐにそれを消した。
「彼もあなたも、勝負で手を抜ける人じゃありまセンよ」
「ふふっ、クリス、お前も日本語が隨分上手くなったな」
「人とれ合ってこそデス。橫田さん。勝ってください」
「勝つさ。今日も」
勝ってお前にバトンを渡そう。
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ガラス越しにパドックが見えてきた。
視線の先には鬼を宿した嵐の馬。
激戦の予。険しくなった橫田の表に、傍らのクリスだけが気付いていた。
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《嵐の名を冠する馬が導いたかのような曇天の空模様。
ここ、阪神競馬場では第11R大阪杯のスタートへ向け、出走各馬がスターティングゲート前で乗りをしています。これから奇數番號の馬がゲートに向かい、その後偶數番號の馬が収まっていきますが、吉原さん。どうでしょうか出走各馬の様子、こういった所は》
《ええ。⑦番のホウユウアオゾラがパドックからちょっとテンション高かったんで心配だったんですがね、返し馬から乗りの間に落ち著いたみたいでね。その他各馬も落ち著いて周回していますね》
《それにしてもストームライダーの気迫、闘志。なんだかまるで他の馬が萎しているみたいにも見えますね》
《今日は今までに無い姿、得意の距離ということでね。仕上げからも絶対に負けられないという陣営の強い意思をじますよ》
《負けられないのは世代と古馬を征した王者、サタンマルッコ陣営も同じ。事前の発表では大阪杯勝利後には海外への遠征も計畫されています。しかしあくまで勝利した後での計畫。この辺りに羽賀からり上がった王者の気位をじます。
負けられない両者の戦い。スタートしてから二分と経たずに勝者と敗者が決められます。どちらかが勝ち、どちらかが負ける。割ってはいる者はあるのか、それとも最強の二頭の戦いとなるのか。競馬である以上勝者が出るのは當たり前なのですが、今日ほど負ける姿の想像できない二頭が戦う日があったでしょうか。
私、黃島は実況する立場で座いますが、なんだかドキドキしてまいりました。
さあ、今、奇數番號の馬がスターティングゲートに収まっていきます。①番アルカイド、③番アデュー、⑤番サタンマルッコ、順調に収まっていき、⑪番ハイエンドシーまでゲートイン完了。続いて偶數番號の馬がります。
順調な枠り。決してそんなことはないと思うのですが、猛者の威圧に萎してか心なしかゲートりに各馬素直であるようにすら見えます。
さあ出走各馬収まりました!
どちらかが勝ち、どちらかが負ける。或いは一矢報いるか。
第NN回、大阪杯……スタートしましたッ!
サタンマルッコスタート絶好! ここを落とさないからこそのこの馬!
⑪番ハイエンドシーがやや出遅れたか、先頭⑤番サタンマルッコがスーッと差を広げて1コーナーへ向かっていく。
二番手⑦番ホウユウアオゾラ、その後1馬あいて外⑨番マイザーアカウント、に居るのが①番アルカイド、⑩番グレーターミューズ、その後ろ⑧番エルゴデルカイだ、⑥番トウカイランマだ、そして先頭から6、7馬の位置に④番ストームライダー馬群の外側、意外にも今日は先行せず中団に控えた形、その後ろ⑫番コトブキツカサ、ストームライダーにピッタリ付いているこれはマークか、並んで③番アデュー、切れて1馬キャリオンナイトは今日も後方、列の最後尾は出遅れのハイエンドシーといった制で2コーナーを回り向こう正面へ流れます。
さあペースはどうだサタンマルッコ1000m通過が58秒2、どうだどうだこの馬にしてはどうなんだ橫田友則。速いことは間違いが無い、しかしぶっちぎってはいない、今日はぶっちぎっての一番手ではないぞサタンマルッコ。
5馬切れて⑦番ホウユウアオゾラ、その後ろにつけるは①番アルカイド、⑨番マイザーアカウントはその外だ、そして、おっとここで後方にいたキャリオンナイトが早々上がってきている!
どうだこれはどうなんだ鞍上、八源太(はち げんた)!
狙っての事なのかせていないのか! しかしどうだ折り合いは付いているように見えるそんなキャリオンナイト八源太! スルスルと上がって間もなく3コーナーの中ほど殘り600mを通過というところで、なんということだ先頭サタンマルッコに取り付こうという勢い!
場は騒然としている! なんとサタンマルッコが3コーナー途中で先頭を、これは変わったか、先頭が②番キャリオンナイト! 外から被せるように抜いたか、もう抜いた!
3コーナーの途中で1馬ほど前に出た! これは意外な展開になってきた! どうなるどうなる、後ろはどうだ!? 中団につけていたストームライダーがコトブキツカサを従えて位置を上げているが二頭は勢いが違う!
前は二頭のペースが上がる! 一度詰まった差が4コーナー手前で再び開く! 開いた差の中ストームライダーだけが泳ぐようにスイスイと差を詰めてくる!
殘ったのは前3頭! 後ろの馬はスピードについていけていない!
さあ阪神回りの急カーブ! 馬が傾き直線勝負!
先頭は②番キャリオンナイト! リードは1馬!
サタンマルッコ鞭がった!
凄い腳!
あっという間に並ぶ!
しかし外キャリオンナイト応戦、食い下がる!
抜かせない! キャリオンナイト抜かせない!
外から嵐! 嵐が馬場の真ん中堂々と追い込んでくる!
殘り200m!
ストームライダー腳がいい! 前二頭に並ぶ! 並んだ!
三頭並ぶ! いや、ストームライダー前に出た! 半馬、1馬!
腳がいい! 一頭突き出た! だが他二頭も食い下がっている!
誰かが勝つ! どれが勝つ! 坂を上って殘り100mッ!――…………》
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後ろから抜かれた。
一度あった事だ、二度あったとしても驚きはない。
だが、今なのか。
既に鞭(きりふだ)は打った。
3コーナー、あまりにも異常な手応えのキャリオンナイトに対抗するため、例の歩方で速度を上げた。冬の間の訓練の果か、歩方の切り替えはスムーズに行われた。
そしてその選択は今、馬を並べて併走しているキャリオンナイトの姿から考えても正解だと考えられた。計算外であったのはその末腳。兆候は何度も見ていた。ジャパンカップで、有馬記念で最後方から3著へ飛び込んできた実力を低く見積もっていた。
ロングスパート故に腳が鈍るだろう、急カーブで速度が落ちるだろう、それら甘い期待を悉く裏切り抜群の持続力とコーナーワークを見せ付けられた。それらはマルッコの全力走行と比肩するあまりにも力強いフットワークだった。
そして。
それすらも抜き去ったストームライダーの末腳。
明らかに腳が違う。今もじわじわと離されている。
殘りは100m、相手はこのままの勢いで走りきるだろう。
(だから、だからもういいんだマルッコ!)
抜かれた瞬間から背中の気配が変わっていた。
まだやれる、まだやれると訴えている。
もう一度鞭を打てというのか。ここまで限界近くで走っておいて、もう一度追えというのか。
ここでアイツを追いかけなくても、誰もお前を責めやしない。今回は勝ったアイツが凄かったそれだけの話じゃないか。
(なあマルッコ。お前には明日がある。続きがある。なのに、なのに……)
負けたくないのか。
そんなにも負けたくはないのか。
有馬のときもそうだった。お前はこんなにも怒っている。
離れていくアイツを見ているだけなのが、そんなに悔しいのか。
ここからもう一度アレをやれば、お前は壊れるかもしれないんだぞ。俺は馬が壊れる直前の軋みを知っている。今、お前の背からじる音だ。
それでもなのか。
そうなんだな。
わかった。
お前がそれでいいのなら。
転んでもいいさ。一人で生き殘るのは辛いからな。
このスピードで落ちればただじゃ済まない。
なあに、死ぬ時は一緒だ。
いくぞ。
いくぞ!
「いったれおらああぁぁぁぁぁッ!」
乾いた鞭の音は撃鉄を叩く音にも似た。
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《…………――100mを切った!
先頭ストームライダー! ストームライダー!
サタンマルッコ頭一つびてきた! いやこれはもう一度か!
もう一度びてきている!
並んだか!?
ストームライダーもう一度!
サタンマルッコがまたびる!
並んだァ!
サタンマルッコ!
外ストームライダー!
負けられないサタン!
負けられないライダー!
サタン! 外ライダー!
橫田がァ、竹田がァ!
並んでいる!
どっちだ、どっちだ!
どっちだああああああぁぁぁッ!
ストームライダー、サタンマルッコ全く並んでゴールイン!
全く並んで見えました、放送席からではどちらが勝ったか全く分かりません!
恐らく寫真判定になるでしょう、あまりにも微妙な著差、死闘の幕引きはハナ差の決著となりそうです!
三著線にはキャリオンナイト! 他かなり離れて四著以下線となります!
吉原さぁんッ! どうでしたかレースご覧になって!》
《いやぁー凄いレースでしたね。3コーナーで八騎手がロングスパートで仕掛けましてね、普通だったら直線坂の手前で力盡きると思うんですけどねぇ、最後まできっちり腳をばしてました。その辺りを見抜いて橫田騎手もスパートをかけてね、直線並んだ辺りまでは思い通りだったのだと思うのですが》
《そこでストームライダーが恐ろしい末腳でやってきたと》
《ええ。わしたのはちょうど坂の手前で息をれる一瞬でしたね。竹田騎手これは狙ってましたよ。3コーナーでキャリオンナイトの早仕掛けを見て、スパートを僅かに遅らせたんじゃないですか? 馬の事を完璧に理解してないと出來ないですよこんなことは》
《それにしても吉原さん。私は直線の途中、ストームライダーが先頭に立った時、これはストームライダーが勝ったかと思ったんですがね。
そこからもう一度サタンマルッコが盛り返してきた。これは有馬記念でも見られた展開でしたが、あれだけのペースで走っておいて、一どこからあんな腳が出てくるんでしょうね》
《いやぁほんと、もう、すごいの一言ですね。食い下がったキャリオンナイトも相當なですよ。ジャパンカップ、有馬記念と3著が続き、そこはあまり評価されていなかったのですが、負けて尚実力を示したと言っていいんじゃないでしょうか。
そして何よりも上位二頭。最後まで腳が鈍らなかった中で、殘り100mくらいからはもう一度びていましたから。凄まじい追い比べだったのですが、そうなるとちょっと、馬の故障が心配ですね。サタンマルッコなんかは最後結構前につんのめったような走りをしていましたので――ああほら、ちょっと、サタンマルッコ橫田騎手が降りてますよ!》
《サタンマルッコ橫田友則騎手がゴール後2コーナー奧で下馬しています。どこか、足元というよりはを労る様な、そんなそぶりを見せています。何かあったのでしょうか。とても心配なのですが、今、ターフビジョンにゴールの瞬間が映し出されます。
両馬全く並んでのゴールイン。今、スローモーションで送られていきますが…………
吉原さん。これどっちだと思います?》
《うーん、凄いですねコレ、寫真で見ても分からないですよ》
《そんなターフビジョンを見つめるように佇むサタンマルッコ。あっ! 馬運車が駆けつけました! これは、なんということでしょうサタンマルッコに故障発生か!? 場騒然としています。ん? あ! 電掲示板に著順が表示されています!
一著は⑤! ⑤番!
勝ったのは⑤番のサタンマルッコッ!――…………》
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