《12ハロンのチクショー道【書籍化】》12F:夢のつづき-1
デビュー戦。そうあれはロンシャン競馬場だった。マイル戦。
ぼやっとしていたセルクルは盛大に出遅れた。しかしそこから尋常でない走りで全馬抜き去って一著。思えばこのとき負かしたムーランホークには隨分と因縁をつけられたものだ。
けれど思い返せば、楽なレースなんて殆ど無かった。
毎回何か起きた。相手が想定より強かったり、想定していたよりペースが流れたり、最悪だったのは飛んできた鳥にぶつかられた時か。
でも勝った。抜群の能力はあらゆるコース、レース展開に対応し、騎手(おれ)の手綱に従う知は萬能の自在に姿を変えた。
負ける展開が無かった。來年はBCへ出場してダートも征そうか。そんな話もしていた。
覚えている。
ペースメーカーが59秒で刻んだやや早い流れ。フォルスストレートの後半、周りの馬がセルクルを包囲しようと馬群をびっちり締めていた。それを見越して最後列につけていた。
最終コーナーで俺は外に出した。その程度の不利でセルクルをどうにか出來る筈が無いからだ。斜めに切れる馬群。が正面を向いた。
さあ今日も勝つのは俺達だ。鞭を抜いた。
やめろ。
神は俺に見せ付けるかのように、殊更時間を遅くさせて、その瞬間を映す。
後肢に鞭が振り下ろされる。俺の合図でセルクルの足並みが変わる。
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知らないはずの映像が、やけに鮮明に教えてくれる。
やめろ。
前肢。そしてを詰めて後肢が大地を踏み込む。
そのきをしなった腰がけ止めて――……
「……ッ!」
背中にじる冷たい。暗がりに浮かぶ既知の天井。頬を伝う何かの雫。
一気に目が覚める。
全が水に浸かったかのように濡れていた。また、この悪夢だ。
未だ水中に居るかのような倦怠の中、引きずるようにを運び、水を呷る。
"あの日"の出來事は夢に見る事があった。それは故障後一年の間に頻発し、最初の頃はみっともなく泣き喚いていただった。眠るのが怖かった時期もある。しかしそれも一年を過ぎた頃からなくなり、三年も経つころには殆ど無くなっていた。
セルクルとの記憶が風化したのだろうかと恐怖した時期もある。それは結局誤解であったのだが、さて。今もまたこうして夢に見るようになった。
原因ははっきりとしている。フォワ賞の直線。俺は明らかに意識を濁らせた。そして近づく凱旋門賞。それらに対して心理的な張を強いられているのだ。
神科醫にかかったほうがいいだろうか。いや、それで何かが打開できるとも考えられない。
中々どうして呪ってくれるじゃないかセルクル。
君との絆がこんなにも重い。だからこそだ。だからこそ。
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殻を破るのはいつだって"やった"奴だけだ。俺はやる。前を向くんだ。
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日本で外國人は目立つ。逆説的に、日本人は外國、特に歐州で目立つ。
小柄なアジア人二人組みはそれなりに奇異の視線を集めながらシャンティイ調教場近くを歩いていた。
中川牧場牧場長兼半農夫、中川貞晴とその妻ケイコだ。
「しっかし本當にフランスってのは外人がいっぱいいるんだな。意外と金髪いねーし」
「ねえあなた。海外にいるんだからそれは當たり前じゃない?」
「俺は見た事ないは信じねぇ質なんだ」
「火星に行ったら火星人がいるといいですね」
「なに怒ってるんだよ。あ、ほらあそこだろ廄舎があるの」
「もう。パリの市を観する約束だったのに」
「いやだってあんなに外人がいると思わねえだろ。知らない言葉使うし」
「外國なの! フランスなの! 當たり前でしょ! もう、気が小さいんだから!」
「う、うるせえやい」
仲良く喧嘩しながらマルッコの滯在廄舎である小早川廄舎に到著する。
「ごめんくださーい」
「はいはい、あ、中川さん。到著なされたんですね」
中から顔を出したのは廄務員の長谷川だった。何度か単渡仏しているケイコとは既に顔なじみとなっていた。
「中川オーナー初めまして。小早川廄舎の長谷川です。サタンマルッコの管理責任者です」
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「ああこれはこれはご丁寧に。中川です。いつもお世話になっております」
「マルちゃんは戻っています?」
「ええ。馬房にいますよ。ご案しましょうか?」
「いいえ、覚えているので大丈夫ですよ。それより主人に施設を案していただけませんか?」
「承知しました。中川オーナー、ご案しますよ」
「ああこれはこれは。よろしくお願いします」
廄章をに著けてマルッコの馬房を目指す。道すがら見覚えのある馬やない馬に手を振りつつ進めば、見慣れた丸い星が目に付いた。
ぼけーっとしていたマルッコもケイコに気付き、ぱっと表を変えた。
「ひん!」
「ごきげんようマルちゃん。元気そうね」
口をもぐもぐさせながら顔を突き出したマルッコをケイコの指先がでる。
「ん? あ、オーナーの奧さん! こんにちは!」
「あらクニちゃん。直接會うのは久しぶりね」
「はい! いやーパソコンの件ではお世話になりました。おかげでうちのセンセイとも連絡取り易くなって大助かりです」
「いいのよ。私がマルちゃんの様子を見たかっただけなんだから。マルちゃんは今日もうお終い?」
「調教は終わったんですけど、なんかき足り無そうだったんでちょっと歩きに行こうかと思ってたところです」
ほら、と引き綱を見せるクニオ。
「あらそうなの。お邪魔しちゃ悪いわね。でもどうしようかしら。貞晴さん、長谷川さんと一緒に施設の案に行かせちゃったのよね」
「それなら奧さん、マルッコと行きます?」
「あら。いいの?」
「ええ。馬房のおがくずをちょっと変えたかったんで」
「そう。ならそうしようかしら。いい? マルちゃん」
返事はひーんと間延びしていた。たぶん了承だろう。クニオとケイコは笑った。
あまり遠くへ行くつもりも無かったが、興味の赴くまま歩いているうちに中々の距離を歩いてしまった。
失敗失敗と心舌を出しながら、ケイコは廄舎までの道を戻った。
「マルちゃんは本當にどこにいても元気ね。シャンティイに居ても中川牧場(うち)に居るみたいな寛ぎようね」
まあね、と自慢げに首を上げ下げしたマルッコ。話に聞くところによると栗東トレセンでも王様気分だったらしいではないか。迷かけているんじゃないだろうね、と視線を鋭くすると、つーんと顔ごと目を逸らした。
だめよ? と軽く窘めていると、いよいよ小早川廄舎が視界に映る。
「あら?」
そのり口。北部の人間だろうか。長い金髪を一つに結わったさっぱりした格好のが、中を窺おうとしたり、音に驚いて隠れようとしたりした末に隠れられていない不審なきを繰り返していた。
ふいに視線が合う。否、相手の視線を追ってみると、隣のマルッコを見ているようだとケイコは気付いた。
「えっと、あの、その」
実はフランスではそれほど多くない金髪碧眼。そんなの聲帯が鳴らした言語は、やはりフランス語だった。
さてどうしたものかな、と心構えつつケイコが応える。
「お嬢さん。どうかしましたか?」
「言葉が分かるんですか!?」
「ええ。短い間だけどフランスで暮らしていた事もあるのよ。廄舎の人に何か用事かしら。呼んでくるわよ?」
「いいえ。私が用があるのは、その……その馬なんです」
「マルちゃんに?」
「ひん?」
呼ばれて意識をさまよわせていたマルッコはケイコをみて、次いでを見た。
を真っ直ぐにして張しているをじーっと見つめ、またケイコに顔を戻す。
首を傾げた。
「歩きながら話しましょうか。マルちゃんもいい?」
ひーんと長く嘶いた。さっきもそうだったし、たぶん了承の意なのだろう。
秋めいた空気を深めるシャンティイの木々。9月下旬のフランスは比較的過ごしやすい気溫が維持されるが、夕暮れ時となると風がやや寒い。あてもなく歩いていると特に強くじる事だろう。
廄舎から離れて暫く、ケイコが口を開いた。
「それで、マルちゃんに用事っていうのは何かしら。この子、知らない間に人と仲良くなったりするから、どこかで會ったのかしら」
「いえ、その……この間のフォワ賞、クリストフさんと約束して、見に行ってたんです。その時に。えっと……はい」
「あらクリス君の知り合いだったのね。そうならそうと教えてくれればよかったのに。それで、どうだった? クリス君とこの子の走り」
「はい。凄く強かったです。ロンシャンであんな勝ち方が出來るんだなってとっても驚きました」
「この子、いつも誰かを驚かせているのよ。うちの旦那だったり、調教師のセンセイだったり、競馬場で馬券を買ってる人だったり」
間近で顔を合わせてみると、はげな顔立ちをしているものの、二十歳前後である事が推察できた。どこか浮かない顔をしている。二、三歩の空白の後、口を開く。
「ネジュセルクルという競走馬をご存知ですか?」
それなりに聞く馬の名であった。
「マルちゃんの星が似てるっていう馬よね。クリスくんから聞いてるわ。現役時代は映像でしか知らないけれど。その馬が?」
「似ているってクリストフさんが。こうして見ても、の特徴は星以外似ているところはないんだけど……言っていた意味が分かりました。なんとなく、似てる」
はマルッコの星を見つめながら、遠くを懐かしむように呟いた。マルッコはそろそろねじ切れるのではないかという程首を傾げている。
「その子はあなたの家族だったの?」
「はい。お母さん馬の世代から世話してて、あっ、うちのお父さん、牧場をやっているんですけど、お父さんに頼んで生まれた仔は私の馬にしてって。
それで、セルクルが小さい頃から一緒でした。馬をはじめてつけたのも私だし、背中にったのだって……ごめんなさい。時間を取らせてしまって。もう、いいです」
要領を得ない言葉を並べたかと思うと、青い瞳に涙を浮かべは走り去った。
「あらあらまあまあ。マルちゃん、行くわよ」
「ひん?」
ケイコは年齢をじさせないのこなしで、ひらりと馬上へを躍らせる。
「きやすい服でよかったわ」
鞍もない、引き綱だけの馬にったケイコはマルッコの腹を蹴り、走らせる。
彼我の差はあっという間に埋まった。の行く手を馬で塞ぐ。
驚きに立ち止まるに向かい、ケイコは恭しい作で馬上から手を差しべた。
「お嬢さん。お名前を窺っていませんでした。私はケイコ。ケイコナカガワ」
「え、あの」
「お名前は?」
「ミーシャ。ミーシャ・ロンデリーです」
「そう。いいお名前ね。ミーシャ。一緒にドライブへ行かない?」
「ドライブって、車なんかどこにも……」
「あら。ここにあるわよ。車(マルちゃん)。この子、乗り心地抜群って言われてるのよ? 後ろに乗りなさいな。さあ」
ミーシャと名乗ったは差し出された手をどうしてよいものかと見比べた。
さあ、という聲に押しに負け、ついに手をとる。馬産地の娘が馬に乗れないはずも無い。軽々とを翻し馬上へを収めた。
騎乗に際して僅かもを揺らさなかったマルッコに対しては心で花丸をつける。がんばれ男の子。
「ケイコさん、積極的なんですね」
「アモーレの國だもの。マルちゃんが白馬ならしは絵になったかしら。それに、泣いてるの子を追いかけるのなんて當たり前なのではなくて?」
「今時そんな男の人いませんよ。すぐ泣くは面倒くさいって映畫で言ってました」
「なら、あなたはまだ運命の人とめぐり合っていないだけね。意外と居るものよ? それも近に」
「そうなのでしょうか」
「ええ。そういうものよ。それでセルクルちゃんだったかしら。歩きながら聞かせてくれない? 私の背中に目は付いていないから、きっと泣いても気付かないわ」
「その……なんというか、ありがとうございます」
そうしてやる義理も無いが、ケイコの持つ生來の世話焼きが、打ちひしがれたを放って置く事を善しとしなかったのだ。
マルッコの背に揺られ、ケイコの背中に縋りつき、そうしてようやくミーシャは思い出をぽつぽつと語り出した。
人気の無い秋の馬道には蹄の音と、時折鼻を啜りながら話すの聲だけが響く。
走の名手だったこと。
柵なんか関係なく飛び越えていたこと。
本気で怒ったらそれからはやらなくなったこと。
そのかわり柵の扉を開けるようになってしまったこと。
叱ったら「なんで?」という顔をされて結局許してしまったこと。
父親と喧嘩した時はめてくれたこと。
廄務員の真似をして新聞を読もうとすること。
呼ぶとすぐ駆け寄る人懐っこい格だったこと。
家の仕事を継ぐつもりはなかったけど、考えを変えたこと。
香水が嫌いなこと。
検溫のときだけはやけに大人しいこと。
自分の時はそうでもなかったのに、他の人に鞭を打たれるのを極端に嫌がったこと。
レースに出たら風のように速かったこと。
走っている姿は豪快なのにとても優だったこと。
いやなことは絶対にやらないクセに、レースだけは真面目だったこと。
「大きなレースの前には、馬房まで行って勝利を約束してました。約束って言っても、私が一方的に話しかけて、明日は勝ってねって。いつもレースの日はゴール板の前で待つんです。そこで一番に駆け抜けてくるセルクルを見るのが好きで。
ゴールした後は私のところまで走ってくるんです。ほめてーって。いつもクリストフさん苦笑いしてたなぁ。
でもあの子、微妙な著差になると拗ねるんですよ。あれきっと、ゴールの瞬間に他の馬が私の視界にるのがいやだったんです。ちゃんと見てもらいたかったのかなって。
それであの日……あの日も私はゴール板の前で陣取ってました。今日もきっと一番なんだろうって當たり前に考えて。セルクルはゴールまで來なかった。會場がざわつていたのは分かっていたから、何かあったのだとは思った。遠くで何かが倒れていて、それを……」
ケイコの背中に生暖かい小さなったが広がる。
「私は獣醫になるつもりでした。そうしたら牧場の仕事を手伝えるし、きっと競走馬を引退したセルクルや、その子供達と一緒に暮らせると思ったから。でも、もう今はよくわかりません。勉強して覚えた技で助けたかったセルクルはもう居ない。なんとなく、帆の切れた船みたいに漂ってるだけ。どうしたらいいのか、何をしたらいいのか、何も見えなくなってしまって」
毎日が寒いんです。
「……ありがとうございます。話したらしスッキリしました。見ず知らずの私のために、こんなに良くして頂いて」
「いいのよ。ほんのおせっかいだから。そうね、貴の心の問題だから私からはあまりいい言葉をかけられそうにないわ。でも、一つだけ伝えるとするなら――」
ぽんぽん、とケイコはマルッコの首筋を叩いた。
「この子、日本のダービーを勝った馬なんだけどね、所謂ローカルな競馬場出だったから、そこを勝つまで出るレース出るレース期待されていなかったのよ。
だけど見てくれてた人は居たみたいでね。中央デビューから追いかけていた人がいたのよ。その人、律儀にも牧場まで來てくれて、趣味で撮っただけどって沢山寫真をくれたの。
その人が話していたのだけどね、日本ダービーをマルちゃんが勝った瞬間、世界に風が開いたんですって。気持ちのいい風だったそうよ。どんな風なのかしらね。私は結構、いい加減に生きてきたから、そういうの分からないの。
だからねミーシャちゃん。凱旋門賞、うちの子に賭けてみない?
落ち込んだときは気分を変えて遊んでみるのも手のうちよ。
それに、いい目を出すわよ、うちの子は」
ここまでね。と乗馬が足を止めたのは調教場のり口。
「考えておいてね」
「えっと、はい。今日は本當にありがとうございました」
下馬したミーシャへ自然なウインクを投げたケイコは、馬首を翻し馬道の奧へ消えていった。
――綺麗になったね。あんまりにも綺麗になったものだから、中々気付けなかったよ
「えっ?」
ずいぶん時間がかかったけど、ここまで來たよ。今度は待たせない。
風が聞かせた幻聴か。落ち葉舞う馬道には去り行く人馬の姿だけがあった。
本編最終章でございます。
書いてて壽命で死んだ実家の犬を思い出し、自分でちょっとにくるオウンゴール
いつものように書き溜めがないのでどう展開していくのかこれから考えるわけですが、それなりに長くなりそうな予がします。
ご想、ブクマ、評価、など、ありがとうございます。
いつも勵みにしております。書き始めた時は1000くらい目標とか思ってましたが、案外いくもんだなって
ひとえに皆様のご聲援のおかげでございます。
ラスト1ハロン、駆け抜けます!
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