抑えられていた口から手が離れる。

明渓(メイケイ)は自分の腕を摑んでいる手に思いっきり噛み付き、さらに怯んだ所を急所を蹴り上げた。

うっという唸り聲をもらし男が蹲っている間に立ちあがると、先程棒を振った人影の元に走り寄った。

「大丈夫か？」

変聲期真っ只中と言うじの掠れた聲がする。背も明渓より低く、あどけなさが殘る男児だった。

丈夫の皇子(イケメンヒーロー)とはいかないようね、と心の中で呟く。

「逃げるわよ」

明渓はそういうと、年の手を取り木々の間をう様にして駆け出した。そのまま一気に大通りまで出ると、角を曲がれば宦の詰所があるという所で立ち止まる。

手を引っ張っていた年の足取りが重くなったからだ。息を苦しそうに吐く音が聞こえてきて、息と息の間にゼィゼィと言う雑音も混じって聞こえる。

「大丈夫？苦しいの？」

「はぁ、はぁ、、俺が弱くて、久々に走ったから」

息切れしているだけでなく顔も悪いので、とりあえず近くの木にを隠す事にした。この場所なら萬が一見つかったとしても、べば詰所にいる人間が駆けつけてくれそうだと思った。

苦しそうにしている年の背中をでながら、周りの様子を窺うけれど、男達が追いかけてくる気配はないので、明渓はほっと一息ついた。

年も暫く背中をでているに、呼吸が落ちついてきたようだ。

「もう大丈夫です。最近は発作も起きなかったから、これくらいは大丈夫かと思ったけど、まだまだだなぁ」

まだし息苦しそうに話すのを、明渓が心配そうに見つめる。

「助けてくれてありがとうございます。改めてお禮をしたいのですが……」

話しながら明渓は思った。

（どうして年が後宮にいるの？）

後宮にれるのは、帝とその子供達、妃、醫、宦、侍、だけと聞いていた。

帝には皇子が四人いる。三十歳の東宮は宰相で帝の右腕として政(マツリゴト)に関わっている。さらに二十歳、十九歳の子と來年元服となる十四歳の男子がいて、他には公主が數人いたはずだ。

ちなみに東宮にも、十歳の男児と五歳と二歳の娘がいるらしい。

明渓はとしては背が高く五尺五寸(165センチ)ぐらいで、対して年は五尺(150センチ)とし、十二歳の従兄弟と同じぐらいの格に見える。

「あなたは、誰ですか？」

「醫見習いです」

息を整えながら、年が話す。見習いなら砕けた口調で話してもいいかな、と思った。

「見習いにしても、まだ若いように思うけど」

「私は小さい時からが弱く、醫の世話にずっとなっていました。発作があるたびにに醫が駆けつけてくれますが、余りに頻繁なので終いには醫に預けられました。その醫が後宮に行く事になり一緒に著いてきて醫見習いをしています」

そう言って年は一息ついた。

明渓は年の顔をじっと見る。顔は隨分良くなってきている。髪上げはまだしておらず後で一つに束ねられた髪の長さ三寸程度。し長めの前髪がかかる目は切れ長ではあるが、まだまだあどけなさが殘っていて、凜々しいというより可いという言葉の方が似合う。

「醫様は後宮の近くの醫局で寢泊まりをしているはず。ここは後宮の西の端。どうしてこんな場所にいるの？」

「散歩です」

明渓は胡散臭そうに年を見る。

もうし追求したいけれど、逆にいろいろ聞かれても困るのでやめようと思い、立ちあがろうとした時だった。

「貴様はどうしてこんな時間に出歩いているんですか？」

もう平靜を取り戻し、震える事も怯えている様子もない明渓を不思議そうに見ながら年が聞いてきた。

「いくら後宮とは言え、木立や林、池等人の気配がない場所はいくらでもあります。まして夜となると、不埒な宦や醫に暗闇に連れ込まれる可能もないとは言えない。一人フラフラ出歩くなんて、余りにも不用心です」

年はじっと明渓を見る。墨を溶かしたような髪が風に揺れ、微かに甘い匂いが漂う。月夜に浮かぶ白いに長いまつが影を作っている。大きくはないが、形の良い目は吸い込まれるような漆黒で、こちらの心を見かされるように澄んでいるように見えた。

「星を見に」

「星？」

年は空を見上げる。今夜は月明かりが明るく星もよく見える。たが、しかし、と首を傾げる。

「部屋の窓からでも見えますよね？」

「私の宮からでは木に邪魔をされ、空の星全てを見ることができないの」

「星を見るのが好きなんですね」

「う〜ん。好きと言うか……」

明渓の曖昧な言い分に年は眉を顰める。何か不自然なをじるが、頼まれた件(・・・・・)とは無関係だろうと、とりあえず判斷した。

「今日、天の本を読んだの。そしたら、実際の夜空で星を見てみたくなって」

「それだけの為に、ですか」

何と説明すれば分かって貰えるのかと思案する明渓に、年は諦めたよう小さく息を吐いた。

「……とにかく、夜に出歩くのはやめた方がいいでしょう。市井(しせい)に比べれば安全ですが、今夜みたいに危ない目にあうこともあります」

「確かそうね。素手だと流石に限界があるし」

そう言って、ぎゅっと握った自分の拳を見つめる明渓の様子に、年は頭をくしゃくしゃとかき、今度は大きな溜息を一つ吐いた。

「宦と言えども男です。貴のような華奢なでは……」

「そうなのよ！　ほんと、良かったぁ。！！　普通の男と違って無いから(・・・・)効くかどうか不安だったのよね」

明渓の発言に年が一歩退く。その表は暗くてよく見えないけれど、先程男が突然蹲った理由が分かったのか顔が歪んでいる。

そんな様子に気づく事なく明渓は立ち上がると、服についた埃をパンパンと払った。

「じゃ、私帰るね。これ以上部屋を抜けていたら、侍が怪しむかもしないし」

その言葉を聞いた途端、年がポカンと口を開け固まった。

（……と言う事はこのは妃嬪か？　何故そんな格好をしている？？）

疑問は沢山あるけれど、妃嬪を一人で宮まで帰す訳にはいかないと、そこは冷靜に考えた。

そして何よりもこの変わり者の妃嬪ともうし話がしたいと思った。彼が誰かに興味を抱くのは初めての事だ。

「宮まで送ります」

「大丈夫。それより私が貴方を送りたいぐらいよ。一人で帰れる？」

児をあやすような目と、悪気のない言葉に思わず年の口がへの字に歪んだ。

「いえ、送ります」

仏頂面でそう言うと、立ち上がり、先に立つようにして暗闇の中を歩き始めた。