（どうしてこうなったのだろう）

明渓は両膝を突き顔の前で手を重ねる。額が手につくまで頭を下げる敬服の姿勢を取りながらそう思った。確かに帝のお通りは避けられそうだ。だからと言って東宮の側室になりたいはずもない。

（あの醫、何考えてるの？）

怒りが顔に出ないように必死で取り繕うが頬がぴくぴくとひきつる。

「但し、直ぐに側室に迎える訳ではない。半年程この朱閣宮に通いながらお互いを知っていけば良いだろう」

豪快な笑顔でそう言う東宮を見上げる。橫にはしい妃が座って何故か嬉しそうにこっちを見ている。

（笑顔が怖いんですけど……）

「明渓様、東宮は事を急く人ではありませんし、貴がむならいつでも側室候補から外してくれます」

僑月がそう付け加える。とりあえず、凍てつく様な視線を送っておいた。余計に意味が分からないが、側室としての適正を見る為の半年と解釈する事にした。

「それからひとつ頼みがある。この醫見習い、僑月に剣を教えて貰いたい」

「僑月殿にですか？」

「そうだ。場所はこの宮の庭を使えばよい」

明渓は不思議そうに僑月を見るが、東宮の頼みを斷れるはずがない。

「……はい、分かりました」

笑顔をり付けそう答えるしか明渓に選択肢はなかった。橫目でちらりと僑月を窺うと、こちらの気も知らずニコニコしている。

「それから、その、青周にも會ってもらう事になるだろう」

「……はい」

何故かと聞く気力は、明渓には既に殘っていなかった。

數日後、を突き刺すような冷えた空気の中、朱閣宮に向かう明渓がいた。日は頭の上にあるが息は白く、指先は冷たい。

何度目かとなる後宮の北門の前に立つと、門番も明渓の顔を覚えたようで、扉を開け中にれてくれた。

いつもは、そのまま庭に行く事が多いのに、今日は出てきたやや年配の侍に居間に案された。豪快な調度品が置かれてるが、品があり華すぎなく統一されており、主人の趣味の良さが窺える。

「こちらでしお待ちください」

僑月が仕事で遅れてくるらしく、侍は部屋に明渓だけを殘して出て行った。明渓が部屋をぐるりと見回すと、そこにはかつて本で見た絵や彫刻、骨董が並んでいる。勿論本だ。

（これは、またとない機會(チャンス)なのでは？）

明渓は踴りそうになる足を落ちつかせ、ゆっくり深呼吸をすると、部屋の隅にある調度品に慎重に近づいて行った。

（素晴らしいわ！これは三百年程前に任海によって作られた壺ね。これ一つで平民の一生分の銭をゆうに超える一品。しかも、この鮮やかな赤は晩年病に倒れる前に作られたもの。

あぁ、こちらの水墨畫は仙流による掛け軸ね。この筆使いは初期の頃の。墨の濃淡がまだまだだけど、若さ故の躍が素晴らしいわ）

明渓は、次々と調度品を見て行く。どれも本で見たばかりで興がおさまらない。

まさか、これらを自分の目で見る事が出來るなんて。

（あぁ、ずっとこうしていたい）

そう呟いてくるりと回った時、いつの間にか來ていた僑月と目が合った。気まずい空気が流れる。

「失禮しました」

こほん、と咳をひとつ。裁を慌てて整える。

「俺の事は気にしないでください」

「いえ、そういう訳にはいかないわ」

「そうですか？俺はいつまでも見ていられますけど」

「何をか聞いてもいいかしら？」

明渓は呆れたように睨め付けるが、僑月は意に介さない様子で笑っていた

場所を変え2人で模造刀を持って庭に向かいあって立つ。最初にき出したのは僑月だ。刀を頭上から振り下ろす。それを、最小限のきで明渓がけ止める。

「振りが大き過ぎる！がガラ空きよ」

そう言って刀の向きを橫に変えを切りつけると同時に指示する。

「右腳を蹴り上げ、後ろにとんでみて」

僑月が言われたままにく。

「次に著地した左足で右斜め前に踏み込み、私の膝をめがけて刀を振るう！」

明渓はその刀を軽く飛んで躱す。著地と同時に前に振り込み僑月の首一寸のところで刀をとめた。

先程からこんなやり取りを幾度も続けている。正確にいうとこの數日こんなじだ。すでに半刻(いちじかん)以上こんなやり取りを続けている。

「し休憩しましょう。息が上がってるわ」

そう言って明渓は剣を下ろした。息ひとつれていない明渓に比べて僑月は肩で息をしている。

庭に置いている長椅子に二人並んで座りながら、侍が持って來たしぬるいお茶を一気に飲む僑月を橫目に見る。

「剣の基礎はできているかな。誰に教わったの？　ただ実踐経験が乏しい為、技が続かなかったり、剣を振ったあとの防が出來ていないのが問題かな」

この數日思っていた事を口に出す。それから、と一息ついて

「基礎力が圧倒的に足ない！！」

僑月が病気がちだった事は聞いて知っている。だが、剣をする上でそれはいい訳にしかならないと考えている。明渓がである事をいい訳にできないように。

「走り込みや、腹筋、素振り等を毎日行いましょう。

腹筋三百回、素振りも三百回から始め慣れたら回數を増やして行くという事でいい？」

「三百回ですか」

「はい、しないぐらいから始めましょう」

「ないぐらい……」

げんなりとした顔をしながら僑月が呟いた。

「ところで、明渓嬪はどうやって武を學ばれたのですか？」

「きっかけは演武の書よ」

「演武ですか？」

「その書に描かれていた型がとても綺麗で覚えて真似をしたの」

「型、を」

「そうよ。手の角度や足の向き、跳躍の高さ全部ね」

「……」

僑月の表がピキッと固まるが、明渓は気にも止めず話し続ける。

「その、年上の従兄弟が稽古をつけてやるって言ってくれて。元々をかすのは好きだし、父も何故が反対せずに笑っていたし」

そこまで話すと、し冷めたお茶に口をつけた。暫く宙を睨み、何やら考え混んでいた僑月がその前に周り込み、目線を合わせた。

「もし、私が貴に勝ったら一つ願いを聞いてもらえませんか？」

「何故？」

「ご褒があれば人は頑張れます」

そう言ってニカっと笑う僑月を明渓は眉を顰めて見返した。自分の気持ちのあり様(モチベーション)は基本、當人でどうにかしてもらいたい、そう思っている。

しかし、子犬のように黒目がちな瞳に見上げられては、どうにも調子が狂ってしまう。なんだか斷ると、こちらの方が悪いような気がしてしまう。

「……私に出來る事であれば」

渋々呟いたこの言葉を後々明渓は後悔するのだが、それはまだ先の話だった。

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