《【書籍化決定】読家、日々是好日〜慎ましく、天無に後宮を駆け抜けます〜》29.紫花
昨晩、桜宮奏に戻ったのは豬刻(十時)近かった。
秋の夜はそれなりに冷える。帰って來てから、暖かい湯に浸かったが、朝から鼻水が止まらないし、々熱っぽくて頭がぼうっとする。寢込む程ではないが、後宮に來て以來、が弱くなった気がする。半端ない神的負擔(ストレス)のせいだろう、ゆっくりと本も読めない。
夜分に帰ってきた事について、魅音は何も言わなかった。先に帰った春鈴がうまく話してくれたのだろう。
朝から空は秋晴れで澄み渡っていて、林杏達はこの晴れ間に替えをしてしまおうと、服を引っ張り出している。先程まで、あれこれ指示を出していた魅音は、今、足を醫に見てもらっている。今日は、始めに見てくれた醫ではなく韋弦が來ていた。
何となく、察するがあり簡単に支度を整え待っていると、ひと通りの治療を終えた韋弦が、白蓮の宮まで來てほしいと言ってきた。
韋弦と林杏と一緒に後宮の北に向かう。醫と二人で歩くのを避ける為に林杏を連れてきたが、彼は北門までで皇居にはれない。
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大通りをまっすぐ北に向かっていると、西からぱたぱたと走って來る足音が聞こえた。見ると、息を荒げながら珠蘭が走って來る。
「明渓様、よかった、會えました」
「そんなに走ってどうしたの?」
「実は來月、主人が里に帰る事が決まりました。それで、明渓様にこれをお渡ししたくて」
珠蘭は懐から紙を取り出してきた。広げて見ると、そこには青や紫、桃の紫花や梔子、朝顔など々な花の押し花があった。
「ありがとう。大事にするね。貴方はこれからどうするの?」
「分かりません。兄弟も多いので、また何処かに働きに出るかも知れません」
い事もあるのだろう、春鈴の様にまない縁談が待っていない事にとりあえずほっとする。まだ、一ヶ月あるのなら春鈴に頼んで會う機會も作れるだろうし、簪やお菓子をあげようと思った。
「では、失禮します」
一緒にいた韋弦や、林杏に遠慮したのだろう、そう言うと珠蘭は來た道を走って行った。
北門で林杏と別れ、用意された馬車に乗る。今日行く白蓮の宮は、後宮よりさらに広い皇居の端にある玄瑯宮(げんろうぐう)という名の宮らしい。
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松などの針葉樹が植えられた庭の向こうに、白壁と朱の柱の建が見える。り口の漆黒の扉を開け、緑の絨毯が敷かれた長い廊下を歩くと広い居間に出た。
中央にいる人は、黒いに緑の腰紐を付けていて、髪は布で一つにまとめられている。
膝を折り、手を重ねて挨拶をしようとすると、
「頭は下げなくていい、それより座ってくれ」
また、し悲しげな顔で白蓮が言ってきた。
明渓は言われたまま機を挾んで向かいに座る。侍がお茶を置いて靜かに出て行くのを待っていたかのように、白蓮が話し始めた。
「今朝、一人の醫の姿が消えた。名前は宇航(ユーハン)、魅音の足の治療をしていた者だ」
「いなくなったって……」
「部屋から十字矢(ボーガン)の矢が見つかった。船で見つけたと同じ形狀だ。何度か試し打ちをしたのだろう」
白蓮ははやる気持ちを落ちつけるよう、お茶を一口飲み、真っ直ぐ明渓を見據える。
「皇后への恨みを書いた紙も見つかった」
(……宇航が皇后を殺害したと言う事?でも、あの宴に彼の姿はなかったはず)
「彼は、宴の料理にどうやってきのこをれたのですか?」
「調査中だ。足取りも含めてな」
「宇航に家族は?」
「義父がいたが、病で亡くなっている」
だったら、このまま逃げ切る事も可能かもしれない。國を挙げての追跡はされるだろうけれど、辺境の村まで似顔絵が行き渡るとは限らない。
どのみち、一妃嬪に過ぎない明渓にできる事はもうない。後は偉い方々が頑張ってくれるだろう。そう思い、出されたお茶に口を付けると、上等の緑茶の香りが口中に広がった。
(いいお茶飲んでるわね)
ついつい、眉をしかめて睨んでしまった。
「はくしゃん!!」
突然、白蓮が大きなくしゃみをした。
「大丈夫ですか? 風邪?」
「いや、昨晩ちょっと……散歩をしていて(・・・・・・・)夜風に當たりすぎたのかな」
(昨日は私を薔薇園まで送り屆けて、直ぐに帰ったはずなのでは?)
広い庭でも散歩してたのだろうか。鼻を啜っているので懐から紙を出して渡してあげると、それを自分の懐にれ、別の紙を用意させて鼻をかんでいる。妃嬪の持つ紙ではに合わないのだろうか。またまた、眉をしかめて睨み付けてしまう。
「あれ?明渓、それ何?」
見れば機に紫花の花が落ちている。先程貰ったが、紙を出す時一緒にこぼれ落ちたのだろう。桃の小さな花を指で摘み目の高さまで持ち上げる。
何だろう、何かを見過ごしている気がする。熱のせいか、疲れのせいか頭が上手く回らない。桃の紫花をじっと見つめながら頭の中の本をめくっていく。文字が頭の中で踴り出す。
がたん!大きな音を出しながら椅子から立ち上がる。
「どうした…」
「見つかるかも知れない!!今夜、私が言うを用意して北門に來てください。あと、後宮に帰るので馬車の用意を今すぐお願いします!」
いきなりの事に、訳が分からないと呆気に取られる白蓮に必要なを伝え、馬車に飛び乗る。北門で降りると、西に向かって走り出す。
妃嬪が一人で後宮を走り抜ける様に、すれ違う人々が振り返る。好奇心とも揶揄とも言える様な目線を気にする事なく、一息に洗濯場まで走り著いた。
周りを見回す。それ以上に見られているが、そんな事どうでも良かった。
そんな姿が余程目立っていたのだろう、探している相手から聲をかけてきてくれた。
「どうしたのですか?明渓様」
まだ、い顔をした侍かぽかんと口を開けながら聞いてきた。明渓はその顔に向かって問いかける。
「珠蘭、この紫花何処で見つけたの?」
日付がもうすぐ変わろうとする頃、明渓は黒いをふわりと翻し、窓から地面へと飛び降りた。そのまま闇に紛れるよう木立ちの中を一気に駆け抜ける。
後宮の北門には既に白蓮と韋弦、それから二人の武がいた。
「明渓、晝間言っていた事は本當なのか」
「まだ、はっきりとは分かりません。可能があるとだけお伝えします」
それだけ言うと、真っ直ぐ西へと向かった。男四人はその後を靜かについていく。西の端には、背の高い広葉樹が鬱蒼と茂った雑木林があり、その林の手前、道からし奧にった所に低木がずらりと並んでいる場所がある。今は緑の葉しか付けていないが、初夏には鞠のような花が咲いていた、紫花の並木だ。
「ここです」
明渓は腰程の高さの紫花の木を指さす。珠蘭から貰った桃(・・)の紫花の花が咲いていた場所で、このの紫花が咲いていたのは、ここだけだったらしい。
(珍しかったので、覚えているんです)
可い笑顔でそう言った朱蘭を思い出す。
武達は持っていた円匙(スコップ)で慎重に紫花の元を掘って行く。四半刻も立たないに、手が止まり鼻を突く異臭が辺りに充満する。
武達の顔が大きく歪むけれど、んだりする者はいなかった。一歩近づこうとすると、白蓮に腕を引かれ止められた。男達だけが、月明かりの下掘られたを靜かに覗き込む。
「……どうして分かったんだ?」
「紫花のです。紫花はその土に含まれる養分によってが変わります。その場所以外は全て青か紫の紫花だったのに、そこだけ桃でした」
気持ちを落ち著けようと、一度深く息を吸ったあと、靜かに白蓮を見る。
「人の死(・・・・)もまた養分となります。その場所だけ、他と違う養分が含まれている事になります」
は見ていない。恐らく傷んでいるので見ても分からないだろう。ただ、この數年で後宮で行方不明になったは一人だけと聞いている。
明渓が後ろを向いている間には布に包まれていく。しゅるしゃると布を巻く音だけが靜かな後宮に響いている。
今夜は月が明るい。先程は思わず足を踏み出してしまったけれど、の狀態を考えると、もう見るつもりはなかった。
「明渓……」
名を呼ばれ、橫を向くと白蓮が汚れた布を持って立っていた。
「それは……?」
「……の首に巻かれていた」
ゆっくりと手に握られている布を見る。
……震える手でそれをけ取る。
次の瞬間、足から力が抜けその場に崩れ落ちる様に座り込んだ。
……手が、肩が、が震える。
後宮で見てきた事が明渓の中で全て(・・・)一つに繋がる。信じたくない、でもそうだとしたら、皇后は……
「……私のせいだ……わたし…のっ…」
手の甲に、水滴が落ちて行く。
土に汚れた布を見つめたまま泣き崩れる明渓の肩を、戸いながら白蓮が優しく抱き支えた。
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