《【書籍化】これより良い件はございません! ~東京・広尾 イマディール不産の営業日誌~》第三十二話 北の丸公園と千鳥ヶ淵
楽しい時間って、どうして過ぎるのが早いんだろう?
き通る水の空を彩るのはピンクの額縁だ。ニュースでは東京は7部咲きと言っていたけれど、今日中に満開になりそうなほど、どこもかしこもピンクで溢れている。
楽しい時間とは、どうしてこんなにも時が経つのが早いのだろう。私は空を彩る桜を見上げ、眩しさに目を細めた。
桜木さんとの際はとても順調だった。
もうお互いアラサーの2人だ。若いころに彼氏としたような、例えば他のの子と楽しそうに喋っていただとか、せっかくかけた電話に出なかっただとか、見たいテレビ番組が違うとか、そんな馬鹿げた理由の癡話げんかは殆どなく、私達はゆったりとした時間を共有した。
際約1ヶ月目のお正月には、原宿駅の近くにある明治神宮に2人で初詣に行った。3が日はとっくに過ぎた頃に行ったのだけど、辺りは初詣の人たちで大賑わいだった。はぐれないようにと繋いだ手がとても溫かくて、の奧がむずい。おみくじを引いて、二人で容を見せ合って笑い合った。
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神社の売店で2人でお揃いの付を購して、私はそれを通勤鞄の側のファスナーに付けた。鞄をあけてそれがチラリと見えるたびに、心が溫かくなる気がした。
2月のバレンタインデーには料理好きな私は気合をれてガトーショコラを焼いた。一応失敗した時用に有名パティスリーのチョコも用意していたので、私はガトーショコラと市販のチョコの両方を桜木さんに渡した。
桜木さんはガトーショコラを食べながら『味しい!』と何回も言ってくれて、有名パティスリーのチョコより私の作ったガトーショコラの方が味しいと思うと笑ってくれた。
3月の3連休には一緒に靜岡県の伊豆へ旅行に行った。品川駅から修善寺に特急スーパービュー踴り子號で向かい、宿は発して客室天風呂のある部屋に宿泊した。レンタルの浴を借りて竹林で有名な『竹林の小徑』をお散歩して、宿に戻ると溫泉にって一緒にテレビを見ながらのんびりと過ごした。春なので夕食には新筍や菜の花を食材に使った會席料理が出てきて、舌鼓を打った。
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そして3月の最終の週末である今日、私は桜木さんと千代田區にある北の丸公園にお花見に來ている。北の丸公園は、皇居の北側に隣接する大きな公園で、その名の通りかつては江戸城北の丸があった場所だ。広い園には300本もの桜の木が植えられているそうで、芝生の広場には多くの家族連れやカップルたちがレジャーシートを敷いてのんびりとお花見を楽しんでいた。
所々には大學生グループらしき人達もおり、何十人ものグループで宴會を開いていた。もしかしたら、サークルの送別會なのかもしれない。
「雪。あっち行ってみる? 來るときに見えた、千鳥ヶ淵緑道の方」
隣を歩く桜木さんが武道館の方向を指さす。ここに來る途中、皇居をぐるりと囲むようにある千鳥ヶ淵の広いお濠沿いには見事な桜並木があるのが見えた。北の丸公園も桜が沢山だが、千鳥ヶ淵緑道の方も桜の名所として有名だ。水辺に並ぶ桜並木は、遠目に見るだけでも絶景だった。
「うん、そうだね」
私は笑顔で頷く。
武道館の脇を抜けたら現れる田安門は木製の大きな門で、いかにも日本の城を思わせる。長の何倍もある圧倒的な大きさと、周囲に石垣と白塗りの壁の名殘が殘り、ここがかつて江戸の中心であったことを強く伺わせた。
かつて江戸城を外敵から守るために造られたお濠には、今は橋の片側は蓮が生い茂っており、もう片側には多くの人がボートを漕いでいるのが見えた。端の方には鴨が泳いでいた。それはまるで幸せを絵に描いたようなのどかな景に見えた。
私は今來た北の丸公園の方を振り返った。殘念ながら今は天守閣は殘っていないが、もしも天守閣があったならば圧倒的な存在であったことは想像がつく。
ふと桜木さんがポケットからスマホを出して、確認するのが視界の端に映った。私は繋いだ手が離れないようにぎゅっと握る。それに応えるように、握られた手に力がこもった。
千鳥ヶ淵緑道は緑道沿いに桜並木がずっと並んでおり、さながら桜のトンネルを通っているかの錯覚を覚えた。見上げれば一面のピンク。本當に、見事な絶景だった。風が吹くと花びらが舞い、紙吹雪のように景を彩る。
「もう満開だな」
桜の木を見上げながら桜木さんが片手を目の上にやり、ピンクの合間からこぼれる日ざしをよけるように手でかさをつくった。見惚れる私に気付いてこちらを見下ろすと、目を細めて「雪と一緒に見られてよかった」と笑顔を見せてくれた。
桜木さんがまたポケットからスマホを出して畫面を確認する。私はにチクンと痛みをじ、握られた手にまた力をこめた。
「そろそろ、行かなきゃだ」
桜木さんが小さな聲で呟く。
私は腕時計を見た。時刻は午後2時を指している。東京駅から新神戸駅までは新幹線で約3時間弱。夕方到著で引っ越し荷を手配しているそうなので、さすがにそろそろここを出ないとまずいのだろう。
「……うん、わかった。行こっか」
私は努めて明るく返事をした。心配掛けないように、笑顔を作って。私達はせっかくなので車窓から景が見えるように地下鉄ではなく、いつか來た釣り堀の見える市ヶ谷駅のホームから中央線に乗り込む。
「釣り、リベンジ出來てないね」
「そうだね。そろそろ暖かくなってきたから行き時かもな」
桜木さんが笑う。
行き時なら、今から行こうよ。そう言いたいのに、咽で言葉が突っかかり、出て來ない。
もうすぐ桜木さんが行っちゃうのに、こんな時なのに、何を話せばいいのかが分からずに言葉が出ない。話したいことが沢山あり過ぎて、何から言えばいいのか分からない。電車に揺られながら昔友達と行った大阪の有名な観地の話をして、こんなこと話したいんじゃないのにって思うのに。
新幹線のホームに著く頃には、私達は無言になっていた。ホームに白と青の車がってきた時、桜木さんが沈黙を破る。
「雪。俺も會いに來るから、雪も來て。お互い月1回行き來すれば、2週間に1回會えるよ」
「うん」
「電話するから。ラインも」
「うん」
「とりあえず、今夜引っ越し作業が終わったら電話するよ」
「うん」
思わず涙ぐみそうになり、私は自分を叱咤する。
口を叩かれて飛び出したという古巣に戻る桜木さんは、きっと戦いに行くのだ。『今更どの面下げて戻ってきたんだ』とか、『これだからお坊ちゃんは』って言う人はなからず居るだろう。その人達に、そんな口がきけないくらい長したところを見せに行くんだ。心配させちゃ駄目だ。
発車ベルが鳴り、桜木さんが新幹線に乗り込む。私に気遣ってくれてるのか、座席には行かずにり口付近に立ったままだ。
「雪。元気でな。またな」
「桜木さんもお元気で……。私、応援してるから、頑張ってね!」
桜木さんが驚いたように目をみはる。ドアが閉まるガラス越しに口が『あ・り・が・と・う』の形にいたのが見えた。私はとびっきりの笑顔で両手に握り拳を作って見せる。
ホームから新幹線が出発して、カモノハシの顔ような後ろ姿が見えなくなるのまで見送りながら、不意に目から涙がこぼれ落ちた。
***
4月になると、新人さんが2人、イマディール不産に仲間りした。1人は不産関係の業務経験がある私よりしだけ年上の男の人、もう1人は派遣社員としてデパートで販売の営業経験があるという20代半ばのの子だ。
オフィスに屆いた郵便を整理していると、私宛の葉書があり、私は手を止めた。裏返すと差出人は久保田様だった。
久保田様は結局、イマディール不産が仲介した東急田園都市線沿いの駅に引っ越しされた。住所は神奈川県川崎市になるが、近年大規模に再開発された二子玉川駅も近く、閑靜な住宅地でありながら利便が高いと人気の場所だ。手紙には無事に引っ越しが完了したことの報告とお禮の言葉がかかれており、私は口の端を上げた。
私は斜め前に視線を移させた。桜木さんがいなくなったこの席は、今は新しくった男の人が座っている。そして、ながらく空席だった私の隣には新しくったの子が座っている。
「藤堂さん。大丈夫? サクロスしてない?」
隣の綾乃さんがコソッと私に話し掛けてきた。綾乃さんは私と桜木さんの関係を知る、數ないひとりだ。ちなみに『サクロス』とは『桜木さんロス』の略らしい。
「大丈夫ですよ。今朝もライン來ましたし」
私は笑って答える。
パソコンを開くと覧の申し込みや売卻依頼が數件っていた。今日も忙しそうだ。
桜木さんはいないけれど、私の日常は何事もなかったように今日も回り出す。
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