アストラには糸を売り歩く行商人に扮して向かうため、荷馬車を使い、あちこちの村や町に立ち寄って実際に糸を売り歩きながら移する予定だ。

その旅の道程で一番の気がかりは、最後はトリンガム侯爵領を通らなければ出國ができないということだ。

アストラとイルダーナの國境は、水晶連峰(クリスタルム・アルプ)という険しい山脈に隔てられており、安全に通行できるルートが限られているのだ。

どうしてもトリンガム侯爵領を通らなければいけないが、そこは、マイアを殺そうとしたティアラ・トリンガムが生まれ育った土地でもある。

ティアラは今もまだ陸軍第一部隊の遠征に同行しているはずなので、顔を合わせる事はまずないと思われるのだが、トリンガムの名前を聞くだけで気持ちがざわざわした。

この亡命の旅にあたって、ゲイルとアルナはあちこち走り回って々な準備をしてくれた。

偽名旅券、アストラへの通行許可証に商品を積んだ荷馬車に馬。通行許可証はクライン商會が所屬する商業ギルドを通じて手にれた正式なものだ（名前は偽名だが）。

馬車は一頭立ての小ぶりなものだが、幌が付いていて野宿する時には天幕の代わりになるという代だ。

馬車を引く馬はパティという名前の栗の牝馬で、荷運びに適した大きな格と穏やかで人懐こい格が特徴だ。しかし、油斷をするとマイアの髪を食べようと狙ってくるのが唯一の欠點だった。ルカにはやらないので、たぶんマイアはパティに舐められている。

ゲイルとアルナには本當に良くしてもらったから、出立の時には泣いてしまった。

魔布の刺繍に関する連絡のため、対になっている通信用の魔が渡されているから、その気になればいつでも連絡は取れるのだが、直接會えるのは次はいつになるかわからない。それを思い出すとまた悲しくなってきた。

既にマイアはルカと一緒に旅の途上にいる。

これまで馬とは無縁で生活してきたので、マイアに者はできない。當然のように手綱を握ったのはルカだった。

しかし、荷馬車の上からの景が珍しくて楽しかったのは、街を出て一時間くらいだった。

商人が使う馬車だ。軍や貴族の馬車とはそもそもの乗り心地が違う。

街からし離れると、途端に道の狀態が悪くなる。石畳で舗裝されているのは都市の近辺までで、そこを過ぎると土の道に変わるせいだ。

馬車の轍(わだち)、そして人の往來が作った道である。凸凹の激しい悪路のせいで荷馬車はガタガタと激しく揺れた。

「う……」

マイアは商品のった木箱で作ったベッドにぐったりと座り込み、揺れから來る酔いに必死に耐えていた。

長時間馬車に乗ると酔う質ではあるが、ここまで早くに気分が悪くなるとは思わなかった。

「リズ、大丈夫？」

馬車が停まった気配がして、者席からルカが顔を出した。

「ごめんなさい。揺れが思ったより酷くて……」

「し外の空気を吸ってきたら？　気分転換になると思う」

「うん……」

マイアはのろのろと立ち上がった。するとすかさずルカが手を差し出して、馬車の荷臺から降りるのを手伝ってくれた。

荷臺を降りると街道沿いに見えたのは、すっかり葉が落ちて、冬枯れた山々が広がる景だった。

月が変わり、霜月(フリメール)（十二月）にって冷え込みがより一層厳しくなった。

しっかりと著膨れているのでは寒くないが、顔に當たる空気は刺すように冷たく、息を吐くと白くなった。

荷臺の方から音が聞こえたので振り返ると、ルカがクッションやら布やらをかき集めているのが見えた。どうやら揺れに弱いマイアの為に、快適に休める空間を作ろうとしてくれているようだ。

こういう紳士的な優しさが心臓に悪い原因だ。

……とじたところで、アベルも王子様らしくのエスコートは完璧だったことを思い出した。

アベルの時は居心地が悪くていたたまれなかったのに、ルカだと恥ずかしくなるのは元々の好度の差だろうか。

マイアは小さく息をつくと、街道の脇に腰掛けるのにちょうどいい巖があるのを見つけ、ふらふらとよろけながらそちらに移した。

まだ地面が揺れているような気がする。

巖に腰を下ろすと、マイアはパティの様子を観察した。

パティは尾をゆらゆらと振りながら、もしゃもしゃと道端の枯草を食(は)んでいた。

「リズ、ハーブティーを淹れたからちょっと一休みしよう」

聲をかけられたので顔を上げると、湯気を立てるカップを持ってルカがこちらにやって來るのが見えた。きっと魔やら魔を使って淹れてくれたのだろう。

「セシル、いきなり迷かけてごめんね……」

ひ弱な自分が恥ずかしいやら申し訳ないやらで謝ると、頭に手がびてきて髪のをぐしゃぐしゃにされた。

「ちょっと、やだ！」

マイアはルカの手から逃げた。せっかくアルナに可く結ってもらった髪のが臺無しだ。

むっと膨れながら、編み込んでもらった部分が無事かどうかを手でって確かめる。

良かった。たぶんれてない。

「これくらい想定だから落ち込まなくていい。リズは《貴種(ステルラ)》の中では丈夫な方だよ。自己回復力が高いからだろうけど」

確かにし休めばすぐにマイアのは回復する。魔力がわずかに目減りしているところをみると、聖の自己回復力が働いているのだろう。

「元々休み休み進むつもりだったんだ。リズとしては早くアストラにりたいだろうけど、無理してを壊すのが一番良くない」

やっぱりルカは凄く優しい。マイアはうつむくと、カップの中のハーブティを口に含んだ。

すると、緑の丸い硝子玉が埋め込まれた金の腕が視界にってきた。

硝子工蕓が盛んなイルダーナでは、婚姻の際互いの瞳のの硝子玉がった腕を換するという風習がある。この腕は、夫婦を偽裝するためにルカが用意したものだ。

ルカの腕にも茶の硝子玉が腕がはまっている。腕の石はお互いに本來の瞳のではないけれど、視界にる度に複雑な気持ちになった。

マイアは腕から視線を外して、湯気を立てるハーブティーの水面を見つめる。

すると、どこか遠くから蹄と車の音が聞こえてきた。

音の方向に顔を向けると、マイア達が乗る馬車よりも一回り立派な二頭立ての幌馬車がこちらに向かって來るのが見えた。馬車は瞬く間にマイア達の傍までやって來て停車した。

「どうしたんだい？　何か馬車に問題でも起こった？」

者席に座る和で恰幅のいいおじさんが聲をかけてきた。

年の頃は四十あたりだろうか。十歳前後の男の子を隣に乗せている。

顔立ちが良く似ているので恐らく親子だ。くすんだ金髪に青い瞳という合いも同じである。なりから想像するに、そこそこ裕福な街の人間といったところだろうか。

「いえ、し休憩していたんです。妻が馬車に酔ってしまって」

分析するマイアをよそに返事をしたのはルカだった。妻と言われ、マイアはを震わせる。

そういう『設定』だけど、ルカの口から妻という言葉が出ると揺してしまう。

「それはいけないね。おい、カイル、酔い止めの薬があったろ。三日分取ってくれないか」

おじさんは馬車の中に聲をかけた。するとがさごそと音が聞こえ、下男らしい三十絡みの男が薬らしい紙の包みを持って馬車から者席に顔を出した。

「旦那様、これでいいですか？」

「ああ、ありがとう」

おじさんは包みをけ取ると馬車を降りてこちらにやってきた。そしてルカに手渡してくる。

「うちで扱ってる酔い止めの薬だ。よかったらどうぞ」

「頂いていいんですか？」

「運がいいなぁ、兄ちゃんと姉ちゃん。うちの薬はよく効くって評判なんだぜ」

得意げに聲をかけてきたのは者席の男の子だった。

「こらエミリオ！　すいません、生意気で……」

エミリオというのが男の子の名前らしい。

反抗期がそろそろ始まるお年頃なのだろう。孤児院時代を思い出し、マイアは心の中で顔をしかめた。

男の子達にさんざんいじめられた記憶があるせいで、今でもこれくらいの年頃の年は苦手だ。の子や赤ちゃん、大人の男は平気なので、神的な後癥なのだろう。

「……実は宣伝も兼ねてるんですよ。私はこの先のキリクで兄と薬種問屋を営んでいるアンセル・ライウスと申します。もし気にって頂けたら是非當ライウス商會にお立ち寄りを」

なるほど、薬を無料で渡すのは宣伝活の一環だったらしい。しかし見知らぬ他人から貰った薬を飲むのは抵抗があった。マイアの場合は《浄化》の魔で毒素を消せば済む話ではあるが。

「ありがとうございます」

ルカがお禮を言うと、アンセルと名乗ったおじさんは首を振って人好きのする笑みを浮かべた。

「『偶然の出會いですら運命によって定められている』ということわざがありますからね。見たところご夫婦での旅行かな？」

「いや、仕れを兼ねた行商です。糸を商っています」

「そうか、これから農村は冬の手仕事の時期だね」

イルダーナの西部は海流や地熱の影響で暖かい土地柄だが、東部陸側の農村は真冬は雪に閉ざされる。

そのような農村では冬は農作業ができないので、基本的に家に引きこもって室でできる職をする。男は木工製品を、は機織りやレース編み、刺繍などの糸と布に関わる手工業を行うのが一般的だ。

クライン商會で扱う糸、特にアストラ産の絹糸は、最高級のレースや刺繍、織などの材料となる。

行商を擔當する諜報員は、アストラに向かう道すがら農村の達に糸を売り、アストラで糸を仕れた後で、往路と同じ道程をたどって糸を売ったたちが作り出した手工業品を買取りながらゲイルの元に戻る。

扱う商品が糸というのはよく考えるととても効率的だ。アストラの名産というだけでなく、かさばらずに大量に持ち運べる。

今年の冬の行商がまだ出発前だったのはアストラの諜報部にとっては幸いだったそうだ。本來行商人に扮するはずだった諜報員と代するだけで済んだからだ。出発後だったら別の隠れ蓑を考えるのにし面倒な事になっていたらしい。

「……なあ、兄ちゃんたちは次はどこに行くんだ？　キリクにも寄る？」

質問してきたのはエミリオ年だった。

「そうだよ。その予定」

「じゃあうちに寄って行ってよ。旅の途中なら常備薬が必要だろ？」

返事をしたルカにエミリオが営業をかけてきた。なかなか商魂たくましい年である。すかさずアンセルが「こら」と窘めるがどこ吹く風だ。

「息子さんですか？」

「ええ」

ルカが尋ねるとアンセルは頷いた。

「なかなか有な後継ぎですね」

「今のところは継いでくれるみたいだね。だから仕れに連れてきたんだけど、いつまでその気持ちが続くのやら」

そう言いながらもアンセルはまんざらでもなさそうだった。

「うちに寄ってくれたら嬉しいけど、それはさておいてもキリクはいい所だよ。溫泉があるからね。見たところ新婚さんかな？　公営の貸切天があるから借りるといいよ」

「本當ですか？　リズ、楽しみだね」

ルカの言葉にマイアはかっと頬を染める。

「そ、そうだね……」

口ごもると、アンセルから生溫い目が向けられた。

「初々しくていいね。羨ましいよ」

「妻は恥ずかしがり屋なんです。そこが可くて」

ルカに肩を抱かれ、マイアは固まった。演技だとわかっているのに一々反応する心臓が憎い。

「もうすぐテルース様の祝祭だ。キリクでは夜に皆でシャボン玉(ソープバブル)を作って飛ばすんだよ。時間が許すなら見て行くといい。凄く綺麗だからね」

そういえばもうそんな時期なのだ。

大地母神テルースはこの大陸で広く信仰される農耕の神である。

霜月(フリメール)の最初の安息日は、一年の実りに謝し、大陸全土で盛大な祭が開催される。

仮裝してどんちゃん騒ぎをするのが定番だが、大きな街では花火を上げたり天燈を飛ばしたりと集客のために様々な催しが開催される。

「ちょうどいい時期にキリクに寄ることになるんですね。ありがとうございます」

ルカがお禮を言うと、アンセルは目を細めて微笑んだ。

「さて、若い夫婦の邪魔をするのも野暮だしそろそろ行こうかな。じゃあね」

アンセルはそう告げると馬車へと戻って行った。

「兄ちゃんと姉ちゃん。またな！」

エミリオがぶんぶんと手を振ってくれる。

マイアもルカと一緒に一行に手を振り返した。