《平和の守護者(書籍版タイトル:創世のエブリオット・シード)》第五十三話:強くなりたい その2
玄関先に立っていた恭介を見て、博孝は非常に驚きのを覚えた。表もさることながら、恭介がに纏っている雰囲気も真剣そのもの。それでいて悔しさや悲しみといった負のも読み取れ、博孝も真剣な表で応対する。
「どうした? こんな時間から遊ぼうって話じゃないよな?」
博孝と恭介は仲が良いが、遊ぶ機會はない方だ。理由としては、放課後だろうと夜間だろうと早朝だろうと休日だろうと博孝は自主訓練を行っており、ほとんど部屋にいないからである。
「ちょっと……相談したいことがあるっすよ」
「そっか、相談か……まあ、上がってくれよ。それとも外で話すか?」
博孝が問うと、恭介は僅かに悩んでから『部屋の中で』と答えた。できる限り他の人間に聞かれたくないのだろう。博孝は頷きつつ恭介を促し、部屋の中へと招きれる。
「……きょーすけ?」
「こんばんわっすよ、みらいちゃん」
恭介が部屋にると、ベッドで飛び跳ねていたみらいが不思議そうな顔をした。恭介が挨拶をすると、みらいは座布団を引っ張ってくる。
「……ざぶとん。すわって」
「ああ、ありがとうっす」
何かしらの雰囲気をじ取っているのか、みらいは恭介に座布団を勧めた。恭介はそれに笑顔を返すが、その笑顔もどこか弱々しい。
「みらい。今のにお風呂にっておいで。ゆっくりでいいから」
「……ん」
みらいがいては話しにくいだろうと判斷し、博孝が促した。するとみらいは素直に頷き、里香から買ってもらったウサギの著ぐるみパジャマや下著を簞笥から取り出して風呂場へと向かう。続いて所から音が聞こえ、博孝はみらいも気を利かせることを覚えたのかと思いながら冷蔵庫を開けた。
「お茶で良いか? つっても、急須やお茶っ葉はないから、ペットボトルのお茶だけど」
「悪いっすね。もらうっすよ」
「あいよー」
二人分のグラスにペットボトルのお茶を注ぎ、博孝はテーブルの上に置く。そして恭介の対面に座ると、胡坐をかいて口を開いた。
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「……で、こんな時間に相談っていうからにはとても重要なことだと思うんだけど……一何の相談なんだ?」
「まあ、相談というか聞きたいことがあるというか……」
博孝がそう言うと、恭介はグラスに口をつけてお茶でをらせる。しかし、すぐには言葉が出てこない。迷うように、逡巡するように、視線を彷徨わせた。
「この前の任務のことか?」
故に、戸う背中を押すように博孝は尋ねる。恭介は博孝の問いに目を見開くと、苦笑するように頷いた。
「その通りっす……気付いてたっすか?」
「まあ、これでも小隊長だからな。小隊員のことは、ある程度は理解できるように努めてるよ」
「そっすか……」
納得したようにお茶を飲む恭介だが、博孝でなくとも恭介の様子がおかしいことに気付いていただろう。病院での態度や、実技訓練での態度。それらを勘案すれば、恭介が“何か”を抱えていることは明白だった。
病院でも博孝は恭介にその手の話を振っているが、その時の恭介は『もうし自分で考えてみる』と言っていた。それだというのに博孝に相談に來たということは、自力では乗り越えられない“壁”だったのか、それとも乗り越えるための助言を求めているのか。
博孝は恭介が語るのを靜かに待つ。恭介は博孝が待ってくれていることを察し、自分が抱えている問題を脳裏で思い描いた。そして目を伏せ、お茶がったグラスを眺めながらポツリと呟く。
「こんなことを聞くのもアレっすけど……博孝は、なんでそんなに強くなったっすか?」
その質問をけた博孝は、思わず目を瞬かせた。
「俺……強くなったか?」
疑問形で尋ねる程度には、予想外の質問だった。なくとも、博孝にとっては思慮外の質問だったと言って良い。確かに以前に比べれば腕を上げたが、それでも砂原といった“本”の強者を前にすれば鼻で笑われるレベルだ。博孝としては、素直には頷けない。
「めっちゃ強くなったっすよ。なくとも、俺よりかはよっぽど強いっす……」
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「そうか? 俺と恭介の間には、ほとんど差はないと思うけど……」
やはり素直に頷けず、博孝は首を傾げる。恭介は悄然とした様子で言うが、博孝の認識では博孝と恭介の間には“それほど”差はない。差があるとすれば、獨自技能の有無による優劣と心の持ちよう程度だろう。
今でこそ博孝は沙織とも互角に戦えるようにもなったが、それは獨自技能を発現しているという點が大きい。瞬間的には沙織と張り合うことも、時には凌駕することも可能だ。しかし、戦力という數値を平均化すれば博孝は沙織に大きく劣る。そういった意味で言えば、博孝と恭介の間に大きな差はない。
そんな博孝を見て、恭介は否定するように首を振った。
「とかES能力とか、そういう次元の話じゃないっすよ。いや、それもだいぶ差が開いたと思うっすけど、なんというか……“心”の強さっすかね。博孝の場合は、それが滅茶苦茶強い。だから、他の部分もそれに引っ張られて強くじるっす」
「心の強さ……」
恭介の言葉を反芻する博孝。心が強いと言われても、ピンとこなかった。
疑問符を浮かべる博孝を見て、恭介は自覚がないからこそ強いのかと思う。
それは敵を前にしても怯まぬ度であり、ほとんど休みなく自主訓練に取り込むであり、危険に曬された仲間を躊躇なく庇える量であり――恭介には、持ち得ないものだった。
三回目の任務でハリドに襲われた時、恭介は満足にくことが出來なかった。目の前を掠めながら命を奪いにくるナイフが、殺意のこもった視線が、相手が発する殺気が、そのすべてが恐ろしい。恐怖がを縛り、けなくしたのだ。
強い恐怖をじた恭介だからこそ、迷わずハリドに立ち向かい、渡り合った博孝が理解できない。
「博孝は……戦うことが、傷つくことが怖くないっすか?」
恭介の口から、そんな言葉が零れた。純粋な疑問で、教えを乞うような響き。何故恐れずに立ち向かえるのかと、心からの問いかけだった。
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問いかけをけた博孝は、グラスに注いだお茶を飲みながら僅かに思考する。恭介の様子と、質問の容。それを考慮すれば博孝が取れる態度は一つであり――戦うことが怖くないのかと問われれば、その答えは一つしかない。
「いやいや、怖いに決まってるだろ」
“敢えて”気軽な様子で博孝は答えた。恭介の考えを否定するように、お前は何を言っているんだと言わんばかりに手を振る。
戦うことが怖いかと問われれば――怖いに決まっている。
傷つくことが怖いかと問われれば――怖いに決まっている。
それは“人”として當たり前のだ。
「というか、命のやり取りを怖がらなかったら、人間として々と壊れてると思うぞ。ああ、でも今回戦ったナイフ使いの男はその典型だったか。ありゃぶっ壊れてるわ」
博孝はグラスにお茶を注ぎ足しつつ、世間話のように言う。
ナイフ使いの男――ハリドは典型的な戦闘狂で快楽殺人者だった。戦い、相手を殺すことに悅びを見出していた節がある。そんな相手と戦うことは、とても恐ろしいことだ。
論點立てて簡潔に、博孝はそう告げる。
――そんな博孝の態度も、恭介には理解できなかった。
「う……そを……」
「ん?」
恭介が小さく呟き、博孝はそれを聞き逃すまいとを乗り出す。しかし、を乗り出した博孝を見て、恭介は激を発させた。
「噓をつくんじゃねぇよ! 怖いと思ってるのなら、あんな風に戦うことなんかできやしねぇ!」
びながら、博孝に手をばして倉を摑んで引き寄せる。恭介は荒い息を吐き、睨むようにして至近距離から博孝を見據えた。普段の明るい様子や口調などはかなぐり捨てて、親の仇が目の前にいるかのような剣幕である。
博孝は手をばされた時點でこうなると思っていたが、さすがに避けるわけにもいかず、なすがままにされた。最近は神的に不安定だと思っていたが、“ここまで”とは博孝も思っていなかったのだ。
「あんな笑いながらナイフを振り回すようなおっかない奴を前にして、互角に戦った奴が怖い!? そんなの信じられるか!」
聲を震わせ、を震わせ、恭介はぶ。そんな馬鹿な話があるかと、噓を言うなと、必死になって否定する。
その時の恐怖を思い出したように瞳に恐怖のを混ぜつつ、恭介は否定した。
「俺は怖かった! 心底怖くて、目の前が真っ白になって、自分のじゃねぇみたいにけなくなった! でもお前は違うだろ!? お前はちゃんとけた! それどころか戦いながら俺を庇う余裕もあった!」
言葉にした通り、恭介はハリドを前にしてまともにくことが出來なくなった。心臓の鼓が早まり、思考とは鈍り、視界は點滅しながら狹まる。そんな狀態に置かれ、通常の思考すらできなかったのだ。
恭介は睨み付け、博孝はが見えない表でそれをけ止める。そうやってどれほどの時が経ったのか、博孝は小さくも厳しい聲で尋ねた。
「――で、言いたいことを言ったら、しはすっきりしたか?」
「っ!」
博孝の冷たい言葉に、恭介はぐらを摑んだのとは逆の手で拳を繰り出す。テーブルを挾んでいるため、威力もない拳だ。博孝はそれを苦もなく平手でけ止めると、ため息を吐く。
「恭介、一つ例え話をしようか」
「……例え話?」
拳をけ止められた恭介は、怪訝そうな聲で問う。博孝は恭介の拳を離し、倉を摑む手を解くと目を細める。
「そう、例え話だ。そうだなぁ……三回目の任務でナイフ使いの男に襲われた時、俺はあいつと戦った。それは確かだ。でも、俺が戦わなかったら……いや、この場合は“戦えなかったら”どうなってた?」
「どうって……」
そんな仮定に何の意味があるのか。恭介はそう言って反発しようとしたが、博孝はそれに先んじて話を進める。淡々と、自が口にした仮定に則ればどんな展開が訪れたかを口にする。
「まず、恭介が真っ先に殺された。そして、そのあとは俺も殺された。さらにその後は、里香や沙織、みらいが殺された」
端的に、訪れたであろう未來を告げた。それと聞いた恭介は肩を震わせ、僅かにを引く。それを見た博孝は、『沙織が素直に殺されるとは思えないけどな』と軽口を一つ挾み、話を続ける。
「たしかに、ナイフを振り回しながら笑い聲を上げるような奴は怖いさ。俺だっておっかねぇ。できれば関わり合いになりたくねぇ。でも、戦わなきゃ死んでたんだ」
博孝も恐怖に震えてけなければ、目の前で恭介が殺されていただろう。そして、次は自分だ。その後は、殘った仲間が殺された。それで終わりで、後に殘るのは五人分の死だけだ。
恭介の目を真っ直ぐに見て、博孝は自分の考えを口にする。
「もう一度言うけど、俺だって戦うのは怖いさ。痛いのだって嫌いだ。俺にそんな趣味はねぇ。でも俺は戦いよりも、自分が傷つくよりも――仲間が傷つく方が怖い」
それは、紛れもない博孝の本心だった。もしも目の前で恭介が、里香が、沙織が、みらいが殺されたらと思えば、足も震える。
「それなら、震えている暇なんてないだろ? それに、俺はちゃんと戦えたっていうけど、それは數回でも場數を踏んでたからだ」
初任務といい、里香とデートをした時に襲われた時といい、沙織と“喧嘩”をした時といい、博孝は何度か命を賭けている。命を賭けるという點で言えば、『構力』を暴走させたみらいを至近距離で“治療”した時もそうだろう。至近距離――それも目の前で『ES能力者』による発が起きれば、無事に済んでいたとは思えない。
「でも……博孝は初めての任務の時だって、ちゃんとけただろ? あの時は、みんな同じ條件だった」
博孝の言葉を否定するように、恭介は小聲で言う。博孝はその言葉を聞くと、思わず苦笑してしまった。
「あの時はまだES能力が使えなかったからなぁ……小隊の指揮ぐらいはちゃんとしないといけないって気を張ってたんだよ」
今になって思い返せば、あの時の博孝は本當に無力だった。ES能力は使えず、小隊員である沙織は言うことを聞かず、四苦八苦していたと言える。
度があると言われれば、そうなのかもしれない。それは無鉄砲さと紙一重ではあったものの、恭介からすれば眩しく見えるほどの點だった。
「あとは、日頃の訓練の賜かな? 寢る間も惜しんで自主訓練をしてるんだ。それで果が出なかったら、落ち込むどころじゃないって」
博孝はお茶でを潤すと、恭介にそう語る。ES能力が使えなかった時は、毎日ひたすらにの訓練を行った。ES能力が使えるようになってからは、の訓練にES能力を磨くことが加わった。訓練の時間だけでいえば、博孝は恭介の三倍程度は訓練を行っているだろう。
他に差があるとすれば、あとは目標の有無程度だ。
「前々から言ってるけど、俺は『飛行』で空を飛んでみたいんだよ。今はその訓練もしてて、しずつだけど形にしていってる。その夢が葉うまでは死にたくないし、葉っても死にたいとは思えない」
日頃から培った訓練の量と、心構え。博孝は獨自技能を発現してはいるが、あとは全て努力で賄ってきた。もES能力も、全て日頃の訓練で鍛えたのだ。それを自信とするが故に、恐怖を抑えつけて戦うことができる。
「恭介からすれば俺は恐怖をじてないように見えるかもしれないけど、それはそう“見せてる”だけかな。小隊長が震えていたら格好がつかないし、そんなやつに従うのは嫌だろ?」
博孝の言葉を、恭介は黙って聞いていた。博孝だって、戦うのは怖い。しかし、恐怖を抑えてでも戦っていた。
――自分だけでなく、仲間も守るために。
「そうっすか……博孝でも、戦うのは怖いっすね?」
恭介の口調が普段のものに戻る。雰囲気も僅かに変化し、それに気づいた博孝は微笑んだ。
「當たり前だろ? 周りのみんなだって……あ、いや、沙織はどうかな? アイツ、割とバトルジャンキーなところあるし……」
冗談混じりに言うと、恭介の表にも笑みが戻る。だが、し時間が経つと恭介の表は再び曇り、視線を床へと向けてしまった。
「相談というか、聞きたかったのはもう一つあるっすよ」
「ん? なんだよ、ここまできたら何でも答えるぞ」
博孝が促すと、恭介はバツが悪そうに視線を彷徨わせる。その様子から、博孝はこちらが“本題”だと察した。
「博孝は……その、怒ってないっすか?」
だが、この質問については博孝も理解が及ばない。突然怒ってないかと聞かれても、皆目見當がつかないのだ。
「怒る? あ、もしかしてさっきぐらを摑んで毆りかかったことか? そんな細かいこと気にすんなよ」
「いや、それを『細かいこと』なんて一言で流すのはどうかと思うっすよ……それについても申し訳ないっす」
「いやいや、俺もわかってて挑発したような部分があるからな……こちらこそ申し訳ない」
互いに頭を下げ合い、先ほどの一件については水に流す。しかし、そうなると先ほどの質問の意図が本當にわからなくなってしまった。それでも博孝は思考を巡らせると、恭介が気にしていそうなことを推察する。
「ナイフ使いの男や敵の『撃』から庇ったことか? たしかに“ちょっと”危なかったけど、怒るようなことじゃないぞ。助け合うのが仲間ってもんだろ?」
実際は“ちょっと”どころではなく、博孝が『活化』を使えなければ首が落ちていたような事態だった。その時は博孝も冷や汗を掻いたが、無事に切り抜けられると判斷しての行だ。敵の『撃』から恭介を守ったこととて、博孝からすれば怒るようなことではない。
「そうじゃないっす……でも、あの時は本當に助かったっすよ」
「いえいえ、どういたしまして」
再度頭を下げ合う二人。場の空気が必要以上に重くならないようにと思った博孝の行ではあるが、恭介の口は依然として重い。ここまで言って違うのならば、恭介が言う『博孝が怒っている』ことが思いつかなかった。
恭介は何度か口を開いては閉じ、張を紛らわせるかのようにお茶を飲む。そして深呼吸をすると、覚悟を決めたように口を開いた。
「俺が言ってるのは……博孝と長谷川を置き去りにして逃げ出したことっすよ」
重々しい口調で、恭介は理由を言葉にする。
博孝の、小隊長の命令とはいえ、圧倒的に実力が上の者を足止めするために殘った博孝と沙織を置いて逃げ出したこと。それが、ずっと恭介のに重くのしかかっていた。
肩を震わせ、俯きながら恭介は話を続ける。
「博孝なら、『それは俺が命令したことだ』って言うだろ……だから気にするなって、そう言うだろ? でも、俺は博孝の言葉を聞いて思っちまったんだ……ああ、これでこの場から逃げることができるって……」
恥じるように、深く懺悔するように、恭介は言う。
あの時、みらいを抱きかかえて里香の手を引いて逃げる時に、思ってしまったのだ。
これでラプターから逃げられる。これで死ななくて済む。退卻の命令をけたのだから仕方がない。今の自分にできることは、里香とみらいを連れて逃げることだ。
――博孝と沙織がその場に殘ることさえ忘れ、そう思ってしまったのだ。
「けねぇ……博孝と長谷川が俺達を逃がすために戦っているってのに、そう思った自分がけねぇ。背中を向けて逃げ出すなんてけねぇ……」
聲を震わせて、両拳を握りしめて、恭介はを吐くように言う。謝罪するように俯き、その頬に涙が伝う。
恭介は泣いていた。
自分の無力を、戦いを前にして怯んでしまった心を、博孝の指示があったとはいえ逃げてしまったことを――そしてそれに安堵したことを、全てを悔いて泣いていた。
それは若いが故の潔癖とも言えるし、仲間を思うが故の悔恨とも言える。戦況を勘案すれば退卻は妥當であり、恥ずべきことではないだろう。
なくとも、博孝はそう思った。深手を負っていたとはいえ、あの場でラプターの足止めをできるのは博孝と沙織しかいなかった。恭介達が殘っていれば、そちらに意識を割かれてより困難な狀況になっていただろう。
博孝としては沙織が殘ってしまったのが“誤算”だったが、それでも恭介に命令を下したのは自分だ。怒るようなことではない。むしろ、すぐさま里香とみらいを連れて撤退したことに謝をしたぐらいだ。そうでなければ、死人が出てもおかしくなかったのだから。
しかし、恭介が求めるのはそういった説明でもなければ、謝罪をけ取ったと言葉にすることではないだろう。
お前は間違ったことをしたのだと、責めてほしいのだ。仲間を置いて逃げ出したのだと、罵倒してほしいのだ。足止めとして死地に踏みとどまった博孝に、斷罪をしてほしいのだ。
「ごめん……博孝、ごめん……」
顔を伏せたままで、恭介は謝罪をする。それを見た博孝は心でため息を吐くと、視線を鋭いものに変える。
「よし、わかった。それなら恭介――顔を上げて歯を食いしばれ」
そう言って、恭介が顔を上げるなり頬を毆り飛ばす。恭介はそのまま後ろへと転がり、壁にぶつかってきを止めた。
「ひろ……たか?」
何が起きたのかわからないと言わんばかりに、恭介は目を瞬かせる。博孝は拳を解くと、軽く振りながら不機嫌そうに答えた。
「言葉にして説明しても納得しないだろうから、行で示させてもらった。俺は怒ってないけど、恭介もそれじゃあ気が済まないだろうし一発毆らせてもらった。でも、これ以上は絶対に毆らないし、文句も聞かない」
博孝は憮然とした様子で腕を組み、腕を指で叩く。
「さっきも言っただろ……俺だって怖いって思うし、仮に立場が逆だったら逃げてたっつーの。恭介が気に病むのもわかるけど、そりゃ押しつけってもんだぜ? 俺が恭介のことを罵倒なりすれば満足なのかよ?」
本當に逃げるかはわからないが、博孝は不機嫌なままで言う。
恭介の気持ちもわかる。仲間を置き去りにして逃げ出し、それに安堵したというのは神的な傷になるだろう。そのことを気に病み、負い目から責められることをむのも理解できないことではない。
――相手の心を別とすれば、だが。
良心の呵責に耐えきれず、相手に処罰を求めるのはままあることだ。だが、それを求められた側としては素直に応えることができない。今回の場合でいえば、博孝は恭介が命令に従って退卻したことに謝すらしていたのだから。
直截に言えば、恭介に謝られても博孝は困るだけなのだ。それでも博孝は恭介の意を汲んで、その頬を毆った。それで恭介の気が晴れるならと、“親友”の頬を毆ったのだ。
戦えなかったことが悔しいのなら、次は戦えるようになれば良い。逃げたことが悔しいのなら、次は逃げなければ良い。突き詰めて言えば、それらを実現するために強くなれば良い。
もしも以前の沙織のように命令に従わず、その場に殘ったら。あるいは、恐怖から錯を起こしてラプターに向かっていれば――その結果は、慘憺たるものだっただろう。
「謝罪はけ取った。一発毆りもした。これでも気が済まないなら、沙織にも同じことを話して一発毆られてこいよ。あいつなら本気で毆ってくれるぞ」
不機嫌なままでお茶を飲む博孝だが、怒りによって僅かに力を込め過ぎたのかグラスにヒビがる。それに気づいてため息を吐くと、ようやく忘我から抜け出した恭介が頬をさすりながら小さく笑う。
「……博孝は、厳しいっすね」
めるのではなく、“叱る”。それが博孝の取った行であり、恭介からすれば先ほどまであった暗澹たる気持ちが半ば以上抜けた気分だった。
「なんだよ、優しくめてほしかったのか?」
「いや……そうっすよね。今回のことで博孝に謝るのは、俺の自己満足だったっすよ」
毆られたといっても、十分以上に手加減はされている。これならば、治療をする必要もないだろう。訓練でける打撲の方が余程酷い。
恭介は不機嫌そうな博孝を前にして、表を引き締めた。これ以上の謝罪をけ取ってもらえないのなら、できることは一つしかない。
「助かったっすよ、博孝。今度は俺が博孝を助けられるぐらいに強くなるっす」
そう言って、恭介は頭を下げる。それを見た博孝は、大きく息を吐いてから組んだ腕を解いた。
「わかってくれたのなら……まあ、いいや。強くなるっていうなら、一緒に自主訓練をするか? 沙織も喜ぶぞ」
「そうっすね……俺も、強くならなきゃな」
決意するように恭介が呟く。すると、それを見計らったようにみらいが風呂場から出てきた。
「……おふろ、あがった……あ」
風呂から上がったみらいが、パジャマ姿で近づいてくる。そして、テーブルを挾んで対峙する二人――壁にもたれかかり、頬を押さえながら涙を流す恭介を見て眉を寄せた。次いで、恭介を庇うように立ち、両手を広げながら咎めるように博孝を見る。
「……おにぃちゃん、きょーすけいじめちゃ、めっ」
「なっ……ち、違うぞみらい! 苛めてなんかいないって!」
可い妹からの斷罪に、博孝は必死に言い募った。みらいはその弁解を聞くと、恭介へと視線を向ける。
「……ほんと?」
疑半分に尋ねるみらいに、恭介は思わず破顔しながら答えた。
「ああ、本當っすよ。俺がちょっと馬鹿なことを言って、博孝に怒られただけっす。みらいちゃん、庇ってくれて嬉しいっすよ」
「……ん」
恭介が肯定すると、みらいは満足そうに頷く。そして髪のを乾かすべくドライヤーを手に取り――そのまま恭介へと差し出した。
「……きょーすけ、やって」
「え? お、俺、の子の髪なんて乾かしたことないっすよ!?」
突然の申し出に、恭介は大いに慌てる。それを見た博孝は、意地悪く笑った。
「綺麗に乾かしてやってくれよ? もしもみらいの髪を痛めたら――その時は全力で毆る」
「もう毆らないって言ってたのに!? さ、さすがにそれは酷いっすよ!」
抗議する恭介だが、みらいに促されて恐る恐るドライヤーを當て始める。みらいは心地良さそうにしており、博孝はグラスを取り換えながら穏やかに言う。
「やっぱり、恭介が取った行は間違ってないじゃないか」
「……ん? それ、どういうことっすか?」
みらいの髪を痛めないように注意していた恭介は、一拍遅れて返事をした。博孝が先ほどのことを蒸し返すとは思わなかったのだが、などと思いながら視線を向けると、博孝は恭介とみらいの姿を見て楽しそうに笑っている。
「恭介がみらいを逃がしてくれたから、今こうやって髪を乾かすことができたんだ。やっぱりあれは、逃げたんじゃなくて“撤退”だったんだよ」
言葉遊びのように博孝が言うと、みらいが何度も頷く。
「……きょーすけ、たすけてくれてありがと」
「あ……」
みらいから“助けられたこと”に対して禮を言われ、恭介は僅かに視線を下げた。
逃げることを肯定するわけではない。逃げたことに対する負い目が全て消えたわけでもない。それでも、恭介は強く思う。
(俺も強くなるっすよ……絶対に)
ドライヤーでみらいの髪を乾かしながら、そう決意した。
恭介の眥の端に涙が浮かんだように見えたが――それは、先ほどの涙に比べればずっと明るいを放っていたのである。
同日、時を遡ること五時間。
夕暮れによって照らされる教室の中で、砂原は一人の生徒と対面していた。
「き、教……その、し、お話を聞いていただきたいんですけど……」
「話、か……授業ならばよく質問をけるが、君とこういう形で話すのは珍しいな」
そう言って砂原は目の前に立つ生徒――里香に対して承諾を示すのだった。
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