《平和の守護者(書籍版タイトル:創世のエブリオット・シード)》第八十一話:暗雲 その2

――それは、唐突にやってきた。

午前の座學を終え、突した晝休み。砂原も引き上げ、教室にいた生徒達はそれぞれ食堂へ向かおうとしていた。それは博孝も同様であり、食事を取ることに対する不安と里香手製の弁當が食べられる喜びを等分にじつつ、席から立ち上がったのだ。

里香の機の橫には弁當袋が吊り下げられており、今日も里香が弁當を作ってきてくれたのだと博孝は判斷。そのことに対して満面の笑みを浮かべつつ、口を開く。

「さーて、今日も楽しい楽しい晝飯だぞー」

「……おにぃちゃんばっかり、ずるい」

“わざと”口に出して喜ぶと、みらいから不満そうな聲が上がる。博孝はそれに苦笑を返し、里香がどんな反応をしているか視線を向け――不意に、視界が揺らいだ。

「――お?」

僅かにれた疑問の聲。博孝はそれが自分の口から出た言葉だとすら理解できず、働かない思考の中で急速に傾いていく視界を俯瞰するように眺める。

何故か接近してくる、一つ後ろの席の機。

ポカンとしたみらいの表

何をしているのかと目を瞬かせる里香。

そして、慌てたようにこちらに手をばす恭介。

それらを無に眺めつつ、博孝のが重力に引かれて倒れていく。博孝は自分の足でを支えることもできず、そもそもそんなことを考えることもできず、斜め後ろへと倒れ込んだ。

自分が座っていた椅子や一つ後ろの機を巻き込み、押し倒し、床へと倒れ込む。

一瞬の靜寂が、教室の中を満たす。しかし、倒れたのが博孝だと知ると、多くのクラスメート達は苦笑を浮かべた。

「おいおい、退屈な座學が終わったからって何を遊んでるんだよ?」

「岡島さんの手作り弁當を食べるために食事を抜いて、貧でも起こしたか?」

博孝のことだから、“いつものように”ふざけているのだろう。そう判斷したクラスメート達の聲に、停止していた博孝の思考が僅かに浮上する。

今ならまだ、冗談で済ませることができるだろう。クラスメート達の言葉に乗り、笑いながら立ち上がれば良い。その上で誤魔化すように騒いで、あとは食堂へ向かえば良いのだ。

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そう判斷した博孝だが、かない。口どころから指先一つかず、視界が急速に真っ暗になっていく。

「っ! 博孝! しっかりするっすよ!」

唯一“事”を知っている恭介は、博孝がどうにか誤魔化すだろうと思った。しかし、呼びかけに答えず、顔をなくして微だにしない博孝を見て即座に駆け寄る。

「ひ、博孝……君?」

突然倒れた博孝を見て、里香が呆然とした聲を零す。みらいや沙織も驚いたように博孝を見ており、辛うじてその視線をじ取った博孝は何とか立ち上がろうとした。

だが、かず、『構力』を練ることもできない。徐々に指先から覚が消え失せ、黒く塗り潰されていた視界は博孝の意識さえも奪い始める。

(ま……ずい……この、ままだと……)

緩慢な思考の中で呟くが、意識は既に途切れかけている。眠気による睡眠でもなく、苦痛による気絶でもなく、まるで電源を抜かれた電化製品のように意識が遮斷されようとしているのだ。

明らかな異常に、博孝は恐怖を抱く暇もない。そして、自の異常よりも気にかかることがあった。

(く、そぉ……せっかく、隠し通せると、思ったのに、なぁ……)

辛うじて視界に映った里香の表を見ながら、博孝は意識を手放す。呆然とした、何が起きたかを理解しかねた里香の表。倒れるならば、せめて里香の目がない場所で倒れたかった。

そんな後悔を抱くものの、完全に意識が途絶える。あとに殘されたのは、博孝に対して必死に聲をかける恭介と、聲を発することもできないクラスメート達だけだった。

「……そうか。まったく、あの馬鹿者め。もしも変調があれば、即座に知らせろと言っただろうに……」

博孝が倒れ、その報告に訪れた恭介から話を聞いた砂原は嘆息しながら呟く。それに加えて、恭介だけは博孝の“事”を知っていたため、聲を震わせながら俯いた。

「こんなことになるのなら、すぐに教に話しておけば良かったっすよ……」

「口止めされていたのだろう? 河原崎の演技に騙された俺も、人のことを言えん。しかし、そこまで注意を払って隠していたというのに、ここにきて突然倒れるとはな……」

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悔やんだ様子の恭介に聲をかけつつ、砂原は思考する。恭介の話では、博孝はここ半月近くまともな食事も睡眠も取っていなかったようだ。その上で毎日座學と実技訓練、放課後に『飛行』の訓練を行っていた。

砂原ほどの『ES能力者』になれば半月程度食事を取らなくても問題はないが、博孝は訓練生だ。いくら長が著しいとはいえ、まだまだ“人間”だった頃の慣習に引きずられる。半月も食事や睡眠をまともに取らなければ、倒れもするだろう。

「呼び寄せた醫療の診斷では、過労と栄養失調だそうだ。しばらくは休ませるしかないな」

「了解っす。それであの……このことは?」

恭介が不安そうに問い、その意図を汲み取った砂原は眉を寄せる。だが、僅かな間を置いて大きくため息を吐いた。

「あの馬鹿が何を思って隠していたかは、俺にもわかる。他の生徒には過労とだけ伝えよう。お前も口外するな」

砂原が釘を刺すと、恭介は僅かに喜を浮かべて頷く。博孝が倒れた理由は、連日の『飛行』で疲労が溜まっていたからだ。そう説明すれば、生徒達もある程度は納得するだろう。

(しかし、岡島が騙されるかどうか……)

博孝が最も騙したいと思っていた人こそが、最も勘が鋭い。里香ならば、砂原の言葉を鵜呑みにすることはないだろう。博孝も里香のことを思えばこそ不調を隠していたのだろうが、見する可能は非常に高くなってしまった。

突然倒れた博孝に対して、里香がどう思うか。砂原もどこか疑わしいものをじていたが、博孝の不調の原因が“どこに”あるか。里香ならば、それに自ずと気付くだろう。

里香も多は立ち直りつつあったというのに、それを全て臺無しにするような事態だ。もちろん、博孝がそれをんだということは萬が一にもないが。

「河原崎が倒れたといっても、午後の実技訓練を中斷するわけにもいかん。武倉は晝食を取って準備をしておけ」

「……了解っす」

博孝や里香のことを考えていた砂原だが、恭介に対して指示を出す。博孝が倒れたのは予想外の出來事だが、他の生徒の訓練を中斷するわけにもいかない。

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生徒達が訓練に集中できるか、という問題はある。しかし、こういった事態だからこそ“普段通り”の訓練を行うべきだ。

『ES能力者』の力量は、その神狀態にも大きく左右される。例え不測の事態だろうが、戦友が倒れた時だろうが、親の死に目だろうが、平常心を保つことを求められる。その意味では好都合であり――博孝に近しい人間にとっては、間違いなく辛い。

(まあ、様子を見ながらになるか……)

保健室のベッドで眠る博孝に周囲ができることなど、何もない。今は靜かに寢かせておき、目を覚ましてから治療なり説教なりをする。その間を博孝の傍で過ごさせるよりも、訓練でかしていた方が気も紛れるだろう。

(ただし、河原崎妹については兄のもとで過ごさせた方が良いかもしれんな)

里香のことも心配だが、博孝の妹であるみらいのことも砂原は危懼をした。恭介の話では、目の前で博孝が倒れたと聞く。神的な不安が『構力』にも直結するみらいは、博孝の傍で過ごさせた方が良いかもしれない。

そんなことを考えつつ、保健室へと向かう。保健室につながる廊下では生徒の何人かがたむろしており、砂原の姿を見ると姿勢を正した。さすがに博孝が眠っているので騒いではいないが、どこか落ち著かない様子である。

砂原は生徒達に晝食を取るよう指示を出し、保健室へと足を踏みれる。博孝が運び込まれた時にも訪れたのだが、恭介と話をするために一度教室へと戻っている。

そのため、どうなっていることやらと思いながら博孝が眠っているベッドへと視線を向けると、里香達の姿が確認できた。

「あ、教……」

砂原に最初に気付いたのは、沙織だった。里香はベッド脇の椅子に座り、眠る博孝を沈痛な表で見ている。みらいは博孝を心配しているのか、それとも何故倒れたのかを怪訝に思っているのか、博孝を複雑な顔で見ていた。恭介は砂原の指示に従って晝食を取りに行ったのか、この場にはいない。

「お前達も晝食を取れ。午後の実技訓練に障る」

「そうですね。でも……」

砂原の言葉に頷く沙織だが、里香やみらいを見て眉を寄せた。どう見ても、素直に食事に行くようには見えない。砂原はそのことに心でため息を吐くが、同時に、沙織に揺した様子がないことを不思議にも思った。

「長谷川も、河原崎のことを心配しているのか?」

だからだろうか。つい、聞かなくても良いことを砂原は聞いてしまう。後になって思えば、砂原も教え子が突然倒れたことで揺していたのだろう。だが、そんな砂原の問いに沙織は首を橫に振る。

「わたしは、別に」

「……ふむ、そうなのか?」

ここ數ヶ月の沙織の様子を見ていれば、博孝との仲の良さが目立っていた沙織だ。倒れた博孝のことを心配していると思ったが、本人はそうではないという。

「過労とは聞きましたが、わたしは博孝がこれぐらいでへこたれる人じゃないって思っていますから。きっと、『あー、よく寢た』と言いながら起きますよ」

沙織が語ったのは、博孝に対する信頼だった。突然倒れはしたが、博孝のことだ。きっと、なんでもないように目を覚ます。過労は心配だが、このぐらいで命を落としていたら、何度死んでいるかわからないような経験を博孝はしている。

それならば、沙織にできることはない。今できるのは博孝を靜かに寢かせ、起きてから『無茶をするな』と毆り飛ばすことぐらいだ。

「……まあ、それもそうか」

沙織の言葉に、砂原は思わず頷いてしまった。砂原としても、『ES能力者』である博孝がこれぐらいでへこたれるとは思わない。博孝本人を格を考えてみても、それは自明の理に思える。

しかし、“教”としては調に変調があれば報告しろと言っていたにも関わらず、そのまま隠していたことに対して叱責する必要がある。普段の訓練の様子だけを見るならば、博孝は全くの健康だった。砂原としても、僅かな違和を覚えつつも気のせいだと判斷するほどに博孝は“いつも通り”だった――表面上は。

ここまでくれば、隠していたことを怒るべきか、その演技力を褒めるべきかわからないほどだ。用だとは思っていたが、まさか半月もの間不調を隠し通すとは思わなかった。

(それほどまでに、岡島に負擔をかけたくなかったのか……)

ハリドの一件が発生した直後、砂原は博孝と共に里香について話をしている。何度も博孝に救われた里香に、これ以上の負擔をかけたくない、これ以上自分を追い詰めないでほしいと博孝は願った。倒れるまで我慢したのは、里香のことを慮ったからだろう。

(そう思うなら、相談ぐらいすれば良いものを……これもあとで説教だな)

もしも自分に知られれば、そのまま病院に叩き込まれるとでも思ったのだろう。そう判斷した砂原は、博孝を説教する際の項目に一つ付け足す。

「岡島も晝食を取れ。河原崎妹は……」

そう言ってみらいに視線を向けるが、砂原の言葉を聞いたみらいはそれを拒否するように博孝が眠るベッドへ潛り込んでしまう。それを見るなり、砂原はため息を吐いた。

博孝が倒れている以上、みらいが『構力』の暴走を引き起こした際に“治療”する手段がない。それならば、博孝の傍にいさせて神の安定につなげるべきだろう。

「仕方ない……河原崎兄が起きたら伝えにくるように。いいな?」

布団に潛り込んだみらいから、頷いたような気配が伝わる。それを確認した砂原は、今度は里香に視線を向けた。里香は砂原の言葉が聞こえていたのか、のろのろとしたきで椅子から立ち上がる。そして砂原に対して目禮すると、そのまま何も言わずに保健室から出ていってしまった。

「ちょっと、里香?」

目の前を無言で通り過ぎていく里香に沙織が聲をかけるが、里香の反応は薄い。慌てたような沙織の聲を聞きながら、砂原は大きくため息を吐くのだった。

意識が途絶えたのが突然ならば、目を覚ましたのも突然だった。深夜と呼んで差し支えない時間。保健室のベッドの上で、博孝はゆっくりと目を覚ます。そして何度も瞬きをすると、保健室の天井を見上げ、自分が置かれた狀況を理解した。

「あー、よく寢た……」

そう言いつつ、博孝はを起こす。さも、よく眠れたといわんばかりの口振りだ。その様子だけを見れば、突然倒れた人間には見えないだろう。

保健室は電燈が點いているが、人気がない。それでも注意深く、人がいた場合を考えて博孝は平靜を裝ったのだ。

(時間は……うわっ、日付が変わってる。十二時間以上眠っていたのか……)

壁にかかった時計で時間を確認して、博孝は愕然とした心境になる。気を失っている間に外されていた腰の攜帯ホルダーは枕元に置いてあり、攜帯電話で日付を確認してみても間違いはない。

(うーむ……まさかいきなり気絶するとはなぁ……ん?)

回転が遅い頭で狀況を確認していく博孝だが、自分が寢ているベッドの中に違和を覚えて布団をめくる。すると、そこには子貓のように丸まったみらいの姿があった。

「みらいにも心配をかけちゃったな……」

悪い夢でも見ているのか、それとも眠ってもなお博孝のことが心配なのか、寢苦しそうにしているみらいの頬を博孝が突く。みらいの眠りは深いようで、その程度の刺激で起きることはなかった。

こんな事態になってしまったからには、恭介から砂原に対して事の説明が行われているだろう。まずは目が覚めた報告をするべきだと判斷し、博孝は攜帯電話を手に取る。しかし、その行を遮るように保健室の扉が開いた。

「あ…………」

そして、小さな呟きをらしながら博孝を見つめる人――里香の姿に、博孝は心で舌打ちをする。どう考えても、狀況は良くない。

博孝が倒れたことに対して、何かしらの憂慮を抱えているのだろう。里香の表は暗く、目を覚ました博孝と目が合った瞬間複雑なが瞳に宿る。

「おっす、おはよう里香。あれ? この時間だとおはようだとおかしいか……おそよう?」

故に、博孝は何事もなかったかのように片手を上げながら気さくに挨拶をした。倒れたことなど微塵もじさせないように、いかにも自分は健康だと言わんばかりに、努めて明るく振る舞う。

そんな博孝の様子を見た里香は、僅かたりとも笑わなかった。戸うような、何かを恐れるような表を浮かべ、それでもゆっくりと博孝に近づいてくる。

「目が……覚めたの?」

「おう。いや、最近寢不足だったんだけど、その上教との『飛行』の稽古もあるだろ? いつの間にか疲れが溜まっていたみたいだ。いきなり倒れて迷をかけたよな。本當にゴメン!」

両手を合わせ、謝罪と共に頭を下げる。砂原には申し訳ないが、ここは『飛行』の訓練が厳しかったことにしておこうと博孝は思った。実際に厳しいのだが、倒れた原因はまったくの別である。それを理解しつつも、博孝は誤魔化すために頭を下げた。

「…………?」

だが、一向に里香からの反応がない。それを訝しく思った博孝は顔を上げ――絶句した。

「っ……ぅ……」

里香は、靜かに泣いていた。聲を上げることもなく、それでいて頬を濡らすほどに涙を流し、博孝を見つめている。

「え、あ、ちょ……な、なんで泣く!? と、とにかく涙を拭いて……」

涙を流す里香を見て、博孝は激しく揺しながら涙を拭けるを探す。ズボンのポケットを漁ってハンカチとポケットティッシュを取り出し、どちらを渡すべきか一瞬迷う。その間に里香は博孝のもとへと歩み寄り――そのまま、博孝へと抱き著いた。

「……ん? え? あれ?」

突然抱き著かれた博孝は、事態が理解できずに素で首を傾げる。何故里香が泣いたのか、何故里香が抱き著いているのか、その理由を寢起きで回転が遅い頭で考えるが、答えは出ない。

「って、里香!?」

しかし、數秒の時を置いてから博孝の頭が現狀を理解した。

――里香に、抱き著かれている。

その衝撃を頭が理解し、博孝は焦ったような聲を上げた。それと同時に引き離そうとするが、耳元から里香の押し殺したような泣き聲が聞こえてきを止めてしまう。

「……ゴメンな、里香。そんなに心配をかけちゃったか?」

まさか里香からそんな反応が返ってくるとは思わず、博孝はみらいに対するような、あやすような聲をかけた。里香はそんな博孝の言葉を聞くと、涙が混じった聲を出す。

「ひ、博孝君……“やっぱり”、無理をしてたの?」

その言葉を聞き、今度は博孝の表が強張った。やはりと言うからには、里香もある程度は勘付いていたのだろう。それを汲み取った博孝は、どうしたものかと思案する。

里香の心を追い詰めまいと思って取った行が、これ以上ない形で里香を追い詰めている。里香ならば、博孝が倒れた理由にも気付くだろう。砂原との『飛行』の稽古はたしかに厳しいが、それで倒れるようなら博孝はこれまでに何度も倒れているはずだ。

つまりは、倒れるに足る“原因”があったことになる。そして、里香としてはその“原因”にも察しがついていた。

「この前……ひ、人を殺したから……だよね?」

ここまで急激な変調を起こす理由など、他にはありえない。耳元で囁くような里香の聲を聞いた博孝は、どうしたものかと無理矢理思考を回す。

里香の勘違いだと言っても、納得させるだけの理由がない。砂原との稽古が厳しいと言っても、納得しないだろう。かといって、里香の言葉を認めてしまえば、里香はハリドを殺す原因になったと自分を責めるだろう。

何も答えることができない博孝からを離し、里香は至近距離から博孝の瞳を覗き込む。博孝は視線を逸らすことなく真っ向から見返すが、肝心の否定の言葉が出なかった。

「やっぱり……そうなんだ……」

何も言わない博孝を見て、里香は得心がいったように呟く。博孝は何かを言おうとするが、ここまでくれば誤魔化しの言葉も通用しない。結局、僅かに視線を逸らすだけだ。だが、その仕草は里香にとって肯定にも等しい。

これまで何度も守られ、命を救われ、挙句の果てには殺人だ。自分がハリドに捕まりさえしなければ、あるいは市原を守って逃げられることができれば、博孝がそんなことを行う必要もなかっただろう。

里香の瞳に、絶が混じる。博孝のを守れるようにとまでは言わないが、それでも足を引っ張ることがないよう、日中の訓練や自主訓練に勵んできた。

――その努力は、まったくもって報われない。

足を引っ張るどころか人質にされ、博孝を単獨で敵の『ES能力者』と戦わせるという危地に追いやり、その上でこの変調だ。里香としても、言葉が出ない。

里香の表を見た博孝は、里香の沈痛な心境が嫌でも理解できた。そして、隠しきれなかった自分自にも嫌気が差す。

(こんな顔を見たくなかったから、隠そうとしたんだけどな……)

その結果が、眼前の里香だ。自責の念に駆られ、博孝に対する申し訳なさと自己に対する絶。それらが混ざり合った里香の表を見て、博孝は煩悶する。

どうすれば、里香の絶を晴らすことができるのか。どうすれば、里香の苦悩を取り除くことができるのか。それを、博孝は必死に思考する。

以前砂原に話したように、里香が守られるに足る理由を作るか。そう考える博孝だが、それは博孝に追いつこうとする里香への侮辱だろう。

「わ、わたしのせいで……」

何も答えない博孝を前に、里香は絶を濃くする。

たしかに、里香から見れば自分がハリドに攫われたことが原因だと思うだろう。しかし、博孝からすれば“逆”だ。里香が攫われた原因は、自分にあると思っている。

ハリドの狙いは、明らかに博孝へ対するものだった。里香や市原はそれに巻き込まれたに過ぎず、里香の苦悩は筋違いだ。それでも、里香からすればこれまで積み重ねてきたいくつもの罪悪がある。

それが故に、博孝は一つの決斷をした。下手をすれば、これ以上ないほど里香を傷つけることになる。下手を打たずとも、何かしらの影響を與える。そんな言葉を、口にすることにした。

「――そうだよ。俺は、里香を守るためにハリドを殺したんだ」

博孝の口から出たのは、里香の自己非難に対する肯定。その言葉を聞いた里香はを震わせ、怯えるように博孝を見る。博孝は、そんな里香の視線を真っ向から見返す。

しばらく視線を合わせていた里香だが、怯えた様子で博孝から視線を逸らした。告げてはいないが、里香にとって博孝は想い人である。その博孝から殺人の理由を肯定され、押し潰されるような不安を覚えた。

怯えたようにを震わせる里香を見て、博孝は責め立てるように言葉を紡ぐ。

「俺が何度も死に掛けたのも、ハリドを殺したのも、全部里香のせいなんだ」

「あ……う……ご、ごめっ……ごめん……なさい……」

淡々と言葉を紡ぐ博孝に、涙を流しながら謝る里香。そんな里香に対して、博孝は冷めたような視線を向ける。その視線をけた里香は、より一層怯えてこまらせた。

博孝はそんな里香をしばらく見つめていたが、やがて、大きくため息を吐く。

「……なんて、こうやって俺が里香を責めれば満足か?」

「……え?」

ため息を吐く博孝に、里香は理解が追い付かないような聲をらす。博孝はそんな里香を見て、再度ため息を吐いた。

「なあ、里香……里香が俺に庇われたことを悔む……というか、俺に対して悪いと思ってるのは、俺にもわかる。でもさ、それを聞いた俺はどうすれば良いんだ?」

「ど、どうって……」

博孝の考えがわからず、里香は困するだけだ。博孝は苦笑すると、困ったように頭を掻く。

「今みたいに、里香を責めれば良いのか? 俺が里香を守って死に掛けたのは、里香のせいだ。俺がハリドを殺したのも、里香のせいだ……そんな風に、俺が里香を責めれば良いのか?」

そんなのは免だと、博孝は言う。里香を守ったのも、ハリドを殺したのも、全て自分の意思だ。守られた里香からすれば苦悩の一つもするだろうが、博孝からすればそれは一つの言葉で片付く。

「俺さ、前にも言ったよな。ごめんじゃなくて、ありがとうって言ってほしいって」

謝られても、泣かれても、博孝としては困るだけだ。そんな博孝の言葉を聞き、里香は博孝と初めてデートをした時のことを思い出す。“あの時”も、博孝は言っていた。謝られるよりも、お禮を言うべきだと。

「なんて言えば良いのかねぇ……“今回”の件については、俺からすれば里香の方が巻き込まれた側だ。ハリドの狙いは俺で、里香は俺を釣り出すための人質。俺がハリドを殺したのも、俺の意思だ。そりゃあたしかに里香のことは助けたいって思ったけど、ハリドを殺したこととは別の話だよ。アイツが“自”しようとしたから、俺は殺したんだ」

だから、里香の苦悩はお門違いだ。そう締め括る博孝だが、里香からすれば納得がいく話ではない。自分が攫われたという前提さえなければ、ハリドと戦うこともなかったのだ。

「で、でも……」

「でも、はなしだ」

それでもなお言い募ろうとする里香を、博孝は遮る。ここまでくれば、博孝としても覚悟を決めざるを得ない。この機會を逃せば、里香は今回のことを今後も引きずるだろう。例え里香に嫌われようが、里香のためを思ってこそ博孝は口を開く。

「ハリドを殺したのは、俺だ。“自”を許せば、たしかに里香も危険だったさ。でも、それ以上に周囲の被害も大きくなる。下手すりゃ、街にも大きな被害が出た。だからこそ、俺は、『ES能力者』としてすべきことをしただけだ」

そう言いつつ、博孝は里香を見つめながら話を続ける。

「以前里香を庇ったことだって、俺は小隊長として最善の手を打っただけだ。もちろん、俺の信條としての子を守るのは當然だって思う気持ちはある。でも、クラスメートとして、仲間として、戦友として、可能な限り最善の手を打っただけに過ぎない」

必要以上に里香が思い悩む必要など、ないのだ。自分を庇って仲間が傷つくとなれば、博孝とて苦悩する。しかし、それよりも先に、言うべきことがあった。

「ありがとうって言えば、それで良いんだよ。引きずっても、相手だって困る」

『ES能力者』ならば、例え重傷を負っても短期間で復帰できる。例え腕が千切れようとも、高位の治療系ES能力を使えば回復できるのだ。

そして、博孝は取り返しがつかない事態には陥っていない。謝罪をするなとは言わないが、それだけでは困ってしまう。特に、里香は自省が強い。そのため、苦悩を長く引きずってしまうのだろう。

里香は博孝の言葉を聞き、たしかに自分にはそういった傾向があると思った。相手が博孝だからというのも理由の一つだが、生來の格がそうさせるのだろう。もしも博孝と立場が逆だったとすれば、謝罪ばかりされても困るだけだ。

そうなると、今まで自分が抱えていた博孝に対する申し訳なさも、博孝にとってはただの迷になる。事実、博孝は自分に負擔をかけまいとして調の不調を隠していたのだ。

――それならば、自分にできることは何か?

このまま博孝に対して謝罪を重ねることか。庇わせてしまったこと、ハリドを手にかけさせたことを悔み、頭を下げ続けることか。

――そんなものは、博孝とてみはしないだろう。

里香は、自分の“思い違い”に気付く。確かに謝罪は必要だろうが、それも度が過ぎればただの迷だ。その証拠として博孝は自分に気を遣い、倒れている。

守られることを、當然だとは思わない。

守られたことを、當然だとは思いたくない。

――それでも、守られるだけというのは嫌だ。

共に、並んで立てるようになりたい。追い越せなくとも、せめて追い付きたい。守られるだけというのは、嫌だった。

里香は、博孝に対する謝罪の言葉を飲み込む。その代わりに、儚げな笑みを浮かべた。

「わたし……博孝君に守られてばっかりだよね」

ぽつりと、里香が呟く。それを聞いた博孝は、苦笑しながら首を橫に振った。

「里香の言葉に救われることだって多いんだぜ?」

「そう……かな? でも、わたしは全然そんなつもりはないよ……」

「それは里香が気付いてないだけだって。俺だって、恭介だって、沙織だって、みらいだって。みんな里香に助けられているんだ」

たしかに、里香は戦闘面では周囲の人間に劣るかもしれない。しかし、それ以外の面では大きく活躍することもあるのだ。

「ねえ、博孝君」

「ん?」

「わたしも……博孝君みたいに強くなれるかな?」

小さく、それでいて強いを込めて里香が問う。その問いを聞いた博孝は、苦笑を深めた。

「俺が強いっていうのには異論があるけど……悪い方向に考える癖を治したら、もっと良くなるんじゃないかな?」

里香の苦悩を解すように、からかうように、博孝は言う。その言葉を聞くと、里香は抗議するように博孝の腕を叩いた。

「もうっ……でも……うん。そうだよね」

「ああ。里香の場合、自分の側にため込むからなぁ。ため込まずに、周囲の人間に相談してくれよ。まあ、これは調不良を隠していた俺が言えた話じゃないけど」

他人のことは言えないな、と博孝は思う。しかし、里香は博孝の言葉を聞くと、叩いた博孝の腕をそっとつかんだ。

「で、でも……わたしのために隠してたんでしょ?」

「うん? ああ、まあ……そうなるかな」

ここまでくれば否定もできず、博孝は頷く。すると、里香は博孝の腕を握る手に力を込めた。

「あの……そ、その……それって」

里香が、何かを言おうとする。だが、それよりも先に突然みらいがを起こした。みらいは眠気眼で周囲を見回し、博孝の腕を握る里香を見て、困ったような博孝を見て、目を見開く。

「……おにぃちゃん!?」

博孝が起きていることに気づき、みらいが飛びついてくる。博孝は咄嗟にみらいをけ止めると、みらいは文句を言うように博孝の背中を叩いた。

「……しんぱいした」

「ああ、ゴメン」

「……とってもしんぱいした」

「うん。本當にゴメン」

目を覚ましたみらいを見て、里香は開いていた口を閉ざす。そして、小さくため息を吐いた。みらいが目を覚ましたことも、ある種の運命なのだろう。

里香はこれから先のことを思い、決意を固める。例え博孝に追いつけなくとも、“強さ”とは武力だけではない。自分にできることを、可能な限りすのだ。

涙を滲ませながらしがみ付くみらいに頭を下げる博孝を見て、里香はそう思った。

「やれやれ……説教は明日にしてやるか」

保健室の外、気配を消しながら廊下に立っていた砂原は苦笑をしながら呟く。博孝の『構力』にきがあったため様子を見に來たが、里香と込みった話をしていたために踏み込むことができなかったのだ。

その程度の空気を読むことはでき、砂原は博孝に対する説教と“指導”は後回しにしようと判斷する。

聞こえた里香の聲を聞く限り、“ある程度”の苦悩は晴れたようだ。博孝が里香を責め始めた時は止めようかとも思ったが、様子を見た甲斐があったというものである。

踵を返す砂原だが、里香に対する懸念は晴れても博孝に対する懸念は晴れない。

調が戻るかどうかは、今後の治療次第か……説教は手加減してやるかな」

博孝の的、神的な不調が治らなければ、今回の件は終わりではない。それでも、激しい不調の狀態でも里香に対して慮った博孝に対し、砂原は僅かに笑うのだった。

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