《12ハロンの閑話道【書籍化】》終わらない夢(2)

白狀すると、夢中だった。

「セルゲイさん。あの馬すごいよ。いったいなんなのあの馬」

外面がマフィアにしか見えない強面の男。知己のある競走馬オーナー、セルゲイ・スミノフさんだ。話せばそれなりに親しげな調子で自分がマフィアのような格好をしている自覚もあるらしいのだが、それでもスタイルを変えない辺り、あの格好で何か得をする事でもあるのだろう。ただの好みである可能も否定できないが。

あの馬、ネジュセルクルのオーナーであるらしい彼を捕まえられたのは幸運だった。

「どうしたんだクリストフ。お前から聲をかけてくるなんて珍しいな。それに妙に興してるようだが?」

セルゲイさんはオーナーとしてはかなり若手で35歳。どこの紐もついていない若手としては相當珍しい。お互い若輩の立場である所為か、以前から彼とは付き合いがあった。馬を経由してしか人付き合いをしない俺にしては珍しい関係であると思う。

付き合いで馬に乗ろうと気を出していた訳じゃないが、今にして思えば彼と繋ぎを作って置いた過去の俺にはよくやったと言ってやりたい。絶対にあの馬の乗鞍をものにしてみせる。

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「あの馬だよ! 丸い星の、ネジュセルクル。凄いよあの馬! 俺を乗せてよ!」

ちょっとかかり(・・・)すぎたかもしれない。セルゲイさんは怪訝な顔をしている。

「はあ? セルクル? お前乗ったのか? というかちゃんと走ったのか?」

「空馬が歩いていたからつい。いや、それよりもだよ!

ちゃんと走ったかって? そりゃ走ったさ! あんな馬乗ったこと無いよ!」

「おいおい、ついで乗ってもらっちゃ困るぜ……しかしバウニィの奴また落とされたのか。あとでどやさないといけねぇな」

そこで一端言葉が切られて、

「お前の言葉を信じない訳じゃないんだが、乗った馬は本當にセルクルだったのか?

他の馬じゃなく」

「あんな特徴的な星の馬を間違えるわけないじゃないか。青鹿の丸い星でしょ」

「ならセルクルだな……いやしかし信じられん気持ちが強いぞ」

「どうして。あんな凄い走りが出來る馬なのに」

「いやな、実を言うと預かってからまともに走れたことが無かったんだよ。ギャロップまではいけるんだが、追い出そうとすると急にヘソ曲げてしまって」

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「ああ。あの馬鞭が嫌いだよね。俺も一回落とされたよ」

「何っ!? 怪我は! 馬ではなくお前の!」

「怪我? 足から降りたから別に平気だよ」

相を変えて訊ねられた。何を心配しているのかと思ったが、賠償金やらなにやらの事が頭を過ぎったのかもしれない。阿漕な商売をしているとじているけど、さすがに勝手乗った空馬から落とされて損害金やらを請求するほど厚顔無恥じゃないよ。というか騎手として落馬した事の方が恥ずかしい。

「そ、そうか。ま、まぁ馬の方は正直よくわからん。お前がこうして営業しに來るなんてよっぽどの事なんだろうが、凄いだの鞭だの言われても狀況が飲み込めない。変な話なんだが、明日もかす予定だからその時また乗ってくれないか?」

「お安い用だよ! その代わり、分かるよね?」

「お前がいいならこっちとしては願ってもないんだが、セルクルだぞ? いいのか本當に?」

「いいんだよ! よろしく!」

しきりに首を傾げるセルゲイさんに別れを告げ、意気揚々とホテルに帰った。

明日以降の予定は全てキャンセルだ。マリアージュは怒るだろう。だけどそれだけだ。乗りたい馬に乗れないなんて、騎手をやっている意味が無いのだから。

昨日の出來事は夢じゃなかった。

自転車のように自走ではなく、バイクのように自でもない。生きと一となっての疾走。他に無いよこんな遊び。

だからこそ夢見心地だ。

やっぱり彼は飛ぶように走り、流れる景を線と調の世界に変えた。

一通り走って見せ戻ってみれば、迎えてくれたのは間抜けな顔二つだ。

オーナーであるセルゲイさんと、調教師であるガーナさんだ。セルゲイさんは別として、ガーナさんのこんな顔見るのは初めてだ。初老に近いこの男は殆ど表かない事で有名なのに。

「…………いや、人間驚きすぎると頭が真白になるのですね。オーナー、申し訳ありません。本來なら調教師である私が一番に気付かなければなりませんでした」

「いや、気にしないでくれガーナ。あんなヘンテコな馬の正を見破るなんぞ、誰にだってできやしない。ううむ、ミーシャの言っていたことは全部本當だったのだな。今度ショコラでも持って謝りに行こう」

驚きすぎてどこかぎこちないやり取りを前に、セルクル君はどこか得意気にたてがみを揺らした。降りて會話に加わる。

「追い出しから最初の1F、10秒切っていたと思うんだけど、どうでした?」

「その通りだ。9.6-9.8-10.5。紛う事無き化だ。馬かどうかも疑わしい」

3F30秒切ってたのか。速いと思っていたがそこまでとは思わなかった。

何故ならっていた俺にはわかる。彼はまだ余裕があった。

調教でなら3F程度最高速度で走りきれるはずだ。つまりあと5馬は前に進める。

レース中後ろから追い抜く事を考えるなら、普通の馬の末腳はどれだけ鋭くても3F(≒600m)33秒臺。平均すると距離にもよるが34~35秒。セルクル君が全く同じ腳を使えるとは考えられないが、仮定の話としてもし同じだけの腳を使ったのなら、4~5秒差、つまり勝ち馬から20馬から25馬後方にいても差しきれる計算になる。

簡単過ぎる。英國人ならオーマイガーだろう。

「クリストフがグライダーに乗っているようだと言っていたが、ようやく意味が分かったぞ。確かにあれは飛んでいるように見える」

「後腳の可域が広いせいかトビが非常に長く見えましたね。

恐らく全開時は姿勢そのものも低くなっているのかもしれません。接地の衝撃を腰のソリと曲がりでけ止めて、推進力にしているとでも言えばよいのでしょうか。まるで犬貓です。しかしあれでは早晩腰を故障してしまうようにも思えます」

「とはいえその発力は魅力的だ」

「ええ。後はどれだけのスタミナがあるのかで対応距離が決まるでしょうが、なくとも今この瞬間に直線スプリントレースへ出走しても勝てるでしょう」

セルゲイさんとガーナさんの視線がこちらを向く。

「もちろん俺を乗せてくれるんですよね?」

「當然だ。クリストフ、これから忙しくなるぞ。なにせ世界中を飛び回るんだからな」

傍らの彼を見やる。

集まった視線に首を傾げている。

「これからよろしくな」

ひん。俺の言葉に口笛のような嘶きが返された。

マネージャーのマリアージュからは嵐のような電話攻勢をかけられたが悉く流した。これより先の騎乗依頼を斷るよう指示を出したので、その対応で大変な事になっているのだろう。既に結んでいた騎乗依頼も反故にしている。

いいさそんなこと。違約金でもなんでも払ってやればいい。今更中途半端な馬になんて乗りたくはない。いっそのこと乗り手にも困るようなけない馬の方がいい。その方が俺の騎乗技が磨かれるのだから。

そんなことより、セルクルだ。

出會ってからというもの、俺はレースの無い日の殆どをシャンティイで……セルクルと共に過ごしている。

修行中や専屬契約でも結んでいなければ、騎手と言うのは調教でまで乗ったりなどしないのだが、俺はとにかくセルクルの背中に他の誰かをらせたくなかった。

殆ど毎日顔を出す俺にシャンティイのスタッフ達は不思議そうな面持ちをしていた。まあそりゃあ、それなりに稼いでいる騎手が契約を結んでいるわけでもない廄舎所屬のデビュー前の馬に乗込んでいたら不思議に思うだろう。

だけど簡単な話だ。友達と遊ぶのに理由が必要だろうか。

セルクルの競走馬としての価値について俺には確信があった。

それを脇に置いてただ一つの生命としてセルクルを見つめてみると、これが中々面白おかしい奴なのだ。

「ひーん」

廄舎を訪れると何故か獨りで外に居る。

「もふ」

新聞を読んでいる人間を見かけると襲い掛かる。

「グルッフィィィン!」

馬道を走っている時、気にらない馬を見かけると追いかけ始める。

「ひん」

歩いているとすれ違うシャンティイの人々から挨拶をされる。

「ぶるる」

皆で走る前、他の馬と拳でも付き合わせるかのように額をぐりぐりこすり付けあう。

「ぐひー」

寢藁がないと文句を言う。

好き勝手しているというか、誇り高いというか、人間臭い。

趣味が高じてこの業界に、などと言う心算はない。ホースマンというものは総じて競走馬をして止まないからこそ仕事に選ぶ。俺も例外ではなかった。最近では、馬を取り巻く環境に嫌気がさしてし辛く當たっていたかもしれないが。

絆されたとでも言えば良いのか、自省するとやや頑なだった俺の心はセルクルに溶かされ、原初のただ馬をしていたあの頃に立ち戻らせてくれる。

彼は時々東の空を見る。

馬には理由も無く遠くを眺めるそんな瞬間があるものだが、セルクルの場合は時間が決まっていた。夕焼け空、沈む太とは反対側を決まって眺めている。

何を見ているのだろうと目をやっても、あるのは橙と紺のグラデーションに滲んだ空だけだ。

おかしな馬だ。だからこそ友達甲斐が有る。背中を預けてくれているのだから、彼の方もそう思ってくれているのではないだろうか。

「なあ、どうなんだ。相棒」

「ぶる?」

出會ってから二月。いよいよ彼のデビュー戦が迫っていた。

割りと好き勝手書くよていなので脈絡なくいきまする

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