「ナターシャッ！！　今すぐ逃げて救援を呼ぶんだ……！」

「エルドさんは！？」

「俺はこれでも警備隊なんだよ……！」

エルドが拳銃を引き抜いた。

逡巡するナターシャだが、やがて結晶憑きとは反対側の出口へ走った。自分が加勢したって意味がない。足手まといになるよりも隊長たちへ報告した方が良い。瞬時に導きだした最適解を信じてナターシャは管理室を出た。

「きゃっ！？」

管理室を出て左へ曲がると、ちょうど階段から降りてくる二目の結晶憑きと目があった。ナターシャが結晶憑きに摑まらなかったのは奇跡であろう。とっさにもう片方の通路へ飛び退いたおかげで、結晶憑きの腕から逃れたのだ。

「挾みうちなんて聞いてないわ！」

二目の結晶憑きは上に繋がる通路から現れた。そして今もなお道を塞いでいる。つまり結晶憑きをどうにかせねば上に帰れないというわけだ。

殘された道は管理室へ戻ってエルドと共闘するか、下へ降りるか。共闘する場合は目の前の結晶憑きに挾み討ちをけることになる。かといって、下へ降りても安全とは限らない。ナターシャが考えている間にも結晶憑きは迫っていた。

迷う時間はない。ナターシャは下を選んだ。それがしでも生き殘る可能が高いと思ったから。

決斷し、を翻(ひるがえ)した瞬間、結晶憑きに噛みつかれるエルドの姿が見えた。彼は銃を床に落としており、肩に噛みついた結晶憑きを必死にはがそうとしていた。焦りで歪んだエルドの表。固まるナターシャ。二人の視線がわった。

あっ、と力が抜けそうになる。助けを乞うような視線を向けられたって、自分にはどうしようもできないのだ。

――生のや建の表面などに結晶が溜まって大化することを結晶化現象(エトーシス)という。生であれば主に呼吸から結晶屑を取り込むことで発癥するものであり、病というよりは現象だ。

もっとも、結晶に多近付いたってに結晶が形されるのはごく僅かであり、例えば夜風にしあたった程度では結晶化現象(エトーシス)は起こらない。

だが結晶憑きは別だ。奴らに噛まれれば直接に結晶がり込み、急速に大化して結晶化現象(エトーシス)を引き起こす。一度発癥すれば助かる方法はない。実際、エルドの傷口からあふれ出したは既に結晶へ変化しており、結晶化現象(エトーシス)が起こり始めていた。救助は不可能。自分を庇ってくれた青年を殘し、ナターシャは管理室を後にする。

駆けるナターシャ、追う化け。

後悔は全て後回しだ。助けられなかったと嘆くのは生き殘った者にしかできないのだから。

「ひぃぃぃいい無理無理むりムリ！！」

ナターシャは正真正銘、全速力で設備區を走った。まさに死に狂いだ。床に散らばったケーブルで何度もこけそうになるが、持ち前の能力で持ちこたえた。

（これだけ障害となるケーブルが多ければ結晶憑きも足を取られるんじゃないかしら……！）

淡い期待を抱いて背後を振り返ると、ヤツは化けじみた腳力でケーブルを踏み潰しながら迫っていた。世の中はやはりクソッタレである。

ちなみに、ナターシャは既に自分がヌークポウのどこを走っているのか分からなくなっていた。彼が知っているのは設備區の表層までだ。それよりも下はヌークポウの機関部が集合しているためったことがない。故に、どの道が居住區に繋がっているかなんて検討もつかないのである。

「こっち……こっち！？　どっちよ、もう！！」

地上が迷路なら、地下もまた迷路。直で道を選びながらも本當にこれで良いのか不安になる。心臓が激しく上下するのは全力で走っているからか、それとも不安と焦燥がりじっているからか。

考えろ。考えろ。思考を止めた人間は腐ったも同然だ。考え続けることが唯一の明。泥臭く最適解を求め続ける人間であれ。

やがて、大きな空間に出た。ヌークポウにおいては珍しく広々とした場所だ。中央にはいくつものパイプに繋がれた筒狀のが鎮座している。

「ハァ、ハァ、ここは、もしかして、ヌークポウの心臓部？　すごい、初めて見た」

ナターシャが立っているのは壁際の非常通路だ。筒狀の壁に沿って通路がびており、ナターシャは中央のを見下ろすような格好になる。なんとなく、あれに近付いてはならない気がした。人の本能と呼ぶべき第六がこの場から離れろとんでいる。

直後、背後から発音が聞こえた。パイプかられたを全から滴らせ、発による塵をまといながらヤツは現れた。

「ひゃぁ！？　まだついてくるの！？」

ナターシャは発音が聞こえた瞬間、反的に走り出していた。一度でも止まれば摑まるだろう。ナターシャは警備隊すらも置いてけぼりにする俊敏(しゅんびん)さの持ち主であり、追いかけっこだって摑まったことは一度もない。なのに、引き離すどころか段々と音が近づいてくるのだから彼はびたくなった。

下へ、どこまでも下へ。逃げれば逃げるほど居住區から遠ざかっているのは自覚していたが、かといって結晶憑きの橫をすり抜けられるような力は持ち合わせていない。逃げるしか道はなく。それでいいのか、思考を放棄していないか、と冷靜な脳が訴える。

ナターシャはただ走り続けた。

非常事態だというのに人間の脳というのは優秀らしく、逃げ道を選択しながらも寄宿舎の子供たちが脳裏に浮かんだ。どうか子供たちが襲われていないことを祈りつつ、「それよりも誰か私を助けてくれ」と聲にならないびを上げた。

全の酸素という酸素を使い果たし、両足が限界を迎えたとき、ナターシャは終著點にたどり著く。

そこはヌークポウで最も地上に近い場所であり、主に易船の出りに使われる出口だ。普段は閉じているはずのハッチは何故か開いており、真っ暗な外の景が顔を覗かせた。

「……くっそ、ハッチが壊れているじゃない。どおりで結晶憑きが侵できるわけね」

だから整備をしろと言ったのだ。おんぼろな狀態で放っておくからが空くような事態になる。呆然とするナターシャに客が現れた。ありがたいことにエルドを襲った結晶憑きまで一緒だ。二対一。の空いたハッチと、二人組の結晶憑きに挾まれて、ナターシャはいよいよかと歯を食い縛った。

「もっと練習しておけば良かった……ってのは言い訳かな。はぁ、本當にくそったれだわ」

ナターシャは銃を構える。標的はいつも練習している空き缶ではなく結晶憑きだ。狙いづらい上に當たったとしても一撃では倒れない。

（せめて、向こう側に渡ってレバーをおろせたら……）

ヌークポウの構造上、ハッチの周囲には急切り離し(パージ)が可能なレバーが備え付けられている。もしも不合が起きた際にパーツを切り離して修理するためのものだ。レバーをおろせば結晶憑きを船から落とすことができる。

しかし、レ(・)バ(・)ー(・)は(・)結(・)晶(・)憑(・)き(・)を(・)挾(・)ん(・)で(・)反(・)対(・)側(・)だ(・)。二の結晶憑きから逃れつつ、場所をれ替わってレバーの元まで走り、しかも結晶憑きと一緒に切り離し(パージ)するために、奴らをハッチの近くでひき付けなければならない。

無理だ。

そんな蕓當が可能ならばハッチまで逃げていない。結晶憑きはナターシャにご執心らしく、ヌークポウの最果てまで追いかけてきた。たとえレバーの元までたどり著けてもナターシャを見逃してくれないだろう。

ナターシャは覚悟を決めて発砲した。頭を狙って撃ったはずの弾は側頭部の結晶に弾かれた。続けて発砲。今度は足元のケーブルにが空いた。よく分からないが蒸気を上げながら噴出する。

「もうっ、へたくそめ……！」

舌打ち混じりにもう一発。今度は結晶憑きの頭部に命中した。しかし、真ん中から逸れてしまったため絶命には至らない。右目をえぐられた結晶憑きは自分の姿がどうなっているかすら理解していないだろう。目の前に獲がいるという、ただそれだけの行原理でナターシャを襲うのだ。

「ッ……！」

迫りくる結晶の爪を避けながら後退するナターシャ。言葉にならない聲が反的にもれた。我ながらよくぞ避けられているものだ、と自分を褒める。脳が判斷するよりも早くがく。これぞ生存本能。

撃つ。避ける。撃つ。外れる。焦りが手元を狂わせる。そもそも狂わなくても當たらない。異常なまでの粘りを見せるナターシャ。既に正常な思考は失われていた。生きたいという想いだけが彼の小さなをい立たせる。

しかし、いつまでも逃げ続けるのは不可能だった。ナターシャは著実に追い詰められ、ハッチまでの距離はあと僅かにまで迫っている。

（くそっ、くそくそくそ……！）

結晶憑きと目があった。

白濁した目は何も映さない。何も、じさせない。優しさも、恐怖も、生としての意思も、何もかもが濁りきった瞳だ。こうはなりたくない。こんな死に方は嫌だ。もっとたくさん味しいものを食べて、アリアや寄宿舎のみんなに囲まれていたい。

死にたくないと首を振るに、結晶憑きの爛(ただ)れた手がびた。

――ガコンッ。

直後、歯車が外れるような音とともに床(・)が(・)一(・)段(・)下(・)が(・)っ(・)た(・)。突然の衝撃にバランスを崩すナターシャと結晶憑き。一瞬何が起きたのか理解ができなかった。まさか他の結晶憑きが船にぶつかったのだろうか。それとも逃げる際に破壊された設備が発したのだろうか。しかし、それならば船全が揺れるはずだ。ナターシャがいる區畫だけ一段下がるなんて現象はありえない。

そこまで考えたナターシャは一つの可能が浮かんだ。バッと弾かれたように顔を上げて奧の通路に目を向ける。

（切り離し(パージ)用レバーがおりている……！？）

もっと正確に言えば、肩から真っ赤な結晶を生やした男がレバーを摑んでいる。大きく抉れた左肩はなおもが吹き出し、苦しそうに息を吐きながら、彼は最後の力を振り絞るようにレバーをおろしていた。

「エルドさん……？　なんで？？」

男はナターシャを見據えた。

「ゴホッ……結晶憑きを落とすには、これしかない……」

「でも……でも、待って、私は？　私がまだ殘っているわ？」

「ヤツらの侵を許してはいけないんだ……住民の命と、規則を破って銃を持つ違反者、どちらを救うべきかは迷うまでもないよ」

「ふざけないでっ、そんなことで――」

再度大きく揺れた。がこん、がこんと次々に留めが外れ、ナターシャを乗せた床がゆっくりと落ちていく。遠ざかるエルドの顔。彼は「これで街の平和は保たれた」と笑っていた。同じ人間とは思えぬ歪んだ笑顔を目に焼き付けながら、ナターシャは暗い外へと放り出された。

○

「みんな遅いなぁ」

ナターシャが寄宿舎を出てからどれほどの時間が経っただろうか。一人で殘されたアリアは我慢できずに夕食を食べていた。暗いから何だっていうのだ。日のが屆かぬヌークポウにおいて、暗闇とは隣人のようなものである。

「あっ、ようやく明かりがついた！」

ジジジッ、という雑音のような音とともに寄宿舎の明かりが復活した。暗くても平気だが、やはり明るい方が食事も楽しい。

明かりが復活したということは、設備區へ向かった友人がそろそろ帰ってくるはずだ。先に食べてしまったが怒られないだろうか。心の中で友人に謝りつつ料理を口に運んだ。こんなに味しいご飯が用意されているのに待てというのは無理な話だ。

彼にとってナターシャは自慢の友人だ。よくボーッとしているし、街を抜け出してくず鉄の塔に引きこもるようなだが、寄宿舎の誰よりも優しいのだ。しかも、料理がうまい。これにつきる。

アリアは「早く帰ってこないかな」と足をぶらつかせた。先ほどもしだけ揺れたから心配だ。ナターシャに限ってもしものことはないだろうが、嵐の夜はどうしても不安になる。

友人は無事か。停電の原因は何だったのだろうか。子供たちはまだ帰らないのか。今後の生活は、明日のご飯は……。

答えのない疑問を考えていると頭が痛くなった。

「あれ……？　私、疲れているのかな」

循環水が回っている。ヌークポウの一番下まで落ちた後、上まで戻る命の水だ。