翌朝になって教會を出ると、廃墟は昨晩の景が噓のように靜まり返っていた。大量にいた結晶憑きも姿を隠しており、ナターシャ以外に人影はない。

「……よしっ、午前中は食料探し、午後は街の散策にしよう」

とにかく腹が減った。森にってから口にしたのは黒い井戸水のみ。空腹には慣れていると言ったが、流石に二日も食べないと限界だ。

廃墟を目指す際に森の様子を観察したが、果実らしきものは見つからなかった。の気配はおろか、鳥の鳴き聲すらこの森では聞こえないのだ。

もしや、月明かりの森は夜にしか活しないのでは？

そんな推測を立てながら、ナターシャは森に向かった。道に迷わないように、木に目印を付けながら進む。街を歩いていた時も思ったが、この辺りは川が多いようだ。どの方角へ歩いてもすぐに川と流する。

「……ん？」

何となく違和をじた。そう自覚した瞬間に、違和は明確な形をもって膨れ上がった。何かがおかしい。

そもそも月明かりの森は最初からおかしな場所だったが、明らかにナターシャの常識を壊す存在があった。

あぁ、とナターシャは呟いた。

川の水が逆流しているのだ。理法則を無視した水が、下から上へ流れている。ナターシャは首を傾げた。なぜこのような現象が起こっているのだろうか。森の渓流は心地よい音を響かせながらナターシャの隣を上っていく。不思議だ。不思議だが、考えても答えは出ない。

きっと文明が崩壊したように、この世の常識も曲がってしまったのだ。

ナターシャは川を下る。上に流れる川を下る、なんておかしな話だが気にしないことにした。相変わらず生きの気配はじられないし、食べられそうな果実も茸も見つからない。そのくせに結晶塊は探さなくても見つかるのだから嫌になる。

不気味なほどに靜かな森だ。の顔に悲壯が増し始めた頃、周囲の景がしだけ変わった。

「……これ、楡(にれ)の木だ」

いつの間にか楡の群生地に踏みったようだ。堂々と枝を広げる姿は雄大な自然をじさせる。

楡の木にはつぼみのような固まりがいくつも付いていた。あれらは全て種だ。そして、楡の種は食べられるはずだ。

「種で腹は満たされないけれど……何も無いよりはマシね」

ナターシャはナイフを片手にバッサバッサと種を切り落として鞄にれた。ちなみに、この鞄も廃墟から拝借したものだ。小さな仕立て屋に放置されており、丈夫でたくさんるため気にっている。これを作った人はとびきりの職人だったに違いない。

群生地にはお腹ほどの高さの大きな草が茂っている。おかげで足元はまるで見えないうえに、っているせいで歩くたびにナターシャの服が濡れてしまう。にり付く気持ち悪い覚を我慢しながら、彼はせっせと種を集めた。

食料を見つけたことでナターシャの視界は狹くなっていた。彼自も警戒を怠ったつもりはないのだが、無意識のうちに群生地の奧へと進んでいた。

――ブンッ。

「！？」

背筋があわ立つのをじて振り返った。背後には鬱蒼とした茂みがあるだけで一見すれば何もいない。だが、確かに嫌な気配をじた。右手に銃を構え、左手にナイフを添え、ナターシャは姿勢を落とした。

恐らく、いる。何か分からないが、気配がする。相手の姿は見えないが狙われていると思った方が良い。ナターシャは無意識にを鳴らした。気配は右から、もしくは左から、ナターシャを弄ぶように現れては消える。

彼はくことが出來ず、ただただ茂みの中でジッと隠れた。

どれほど同じ姿勢で我慢しただろうか。足音が聞こえた方向へゆっくりと顔を出すと、木々の間から一の結晶憑きが現れた。

（なんだ、結晶憑きか）

なんだ、と安心できるような相手ではないが、知っている相手ならば対処ができる。彼は低姿勢のまま照準を合わせた。ふらふらとく頭を狙い、ゆっくりと糸を通すように息を吐く。

（大丈夫、向こうはまだ気付いていない……）

細く、長く、息を吐く。肺の空気を全て出しきり、意識を周囲の景から切り離していく。気付かれていないのだから落ち著いて狙えば大丈夫だ。

一瞬、ナターシャの思考が止まった。そうだ。相手は気(・)付(・)い(・)て(・)い(・)な(・)い(・)の(・)だ(・)。ならば先ほどじた気配は一なんだ？

疑問をじた瞬間、結晶憑きが地面に消えた。まさに地面そのものが結晶憑きを飲み込もうとしているかのようだった。手足をデタラメに振り回して抵抗する結晶憑き。奴の周りには小さな黒いも(・)や(・)が無數に蠢いていた。もがく結晶憑きをモヤは容赦なく飲み込もうとする。

結晶憑きはモヤから抜け出そうと何度も腕を振りまわし、結晶の生えた牙で噛みつき、飛び跳ね、地面を転がり回った。されどモヤからは逃げられず、結晶憑きは哀れなび聲を上げた。

ナターシャは一連の景を呆然と見つめることしかできなかった。逃げたい気持ちでいっぱいだが、けばモヤに捕まってしまう。引き金にかけた指を小さく震わせながら、はひたすら息を殺すしかなかった。

やがて結晶憑きの抵抗は収まり、群生地に響いていたび聲が止んだ。力なく項垂(うなだ)れる結晶憑き。まとわりつくようなモヤが結晶憑きをごと宙に持ち上げた。

「……蟲だ」

ナターシャはようやく正を見破った。あの小さな黒い點は全て蟲だ。「ブブブ」と低い羽音を鳴らしながら、結晶憑きを支えられるほどの大量の蟲がゆっくりと飛んでいく。空に黒い軌跡を殘しつつ、小さき狩人たちは廃墟の方角へと消えていく。

ナターシャは大きく息を吐いた。べっしょりと嫌な汗をかいている。アレは駄目だ。アレに襲われて助かる未來が全く想像できない。結晶憑きであれば銃で殺せるし、大型の獣も殺す方法が存在する。しかし、おびただしい數の蟲に襲われて助かる方法があるだろうか。

はに手を當てた。大丈夫、自分は生きている。激しく脈打つ心臓が生きていると実させてくれる。息を整えようと深呼吸をし、混する脳を落ち著かせた。つくづくこの世はクソッタレだ。人が暮らすにはあまりに過酷。されど世界は目を離せないほどしい。

ナターシャは靜かに群生地を離れた。既に脅威は去ったというのに、足音を鳴らさないよう慎重に歩いた。

○

教會に戻ったナターシャは軽く休憩をしてから街を散策した。まだ先ほどの恐怖が殘っているが、震えている余裕はない。日が昇っているうちにしでも多く報を集めねばならないのだ。

街を歩いて分かったが、晝間は結晶憑きの數が激減するようだ。奴らは日暮れと共に活するらしく、日中は比較的安全に行ができる。やはり月明かりが影響しているのだろうか。全く危険がないわけではないが、神的負擔は楽になった。

教會の周囲は一通り見て回ったが、當然ながら食料は殘っておらず、周辺の地形を示す地図も見つからなかった。長い年月が全てを風化させてしまったのだろう。

「手にったのはこれだけか」

ナターシャはオイル缶を片手に街を下った。使い古された油が手にっただけでも幸運であろう。

日が傾き始めた頃に教會へ帰った。首無しの神像に見守られながら、ナターシャは夕食の準備を始めた。

手にれた油を乾いた藁(わら)に染み込ませ、その周囲を太い枝で囲む。潰れないよう互に組んで、最後に空気の抜けも作っておく。

「持つべきものは銃ってね」

ぱすん、と藁を撃ち抜いた。

油に著火した炎が焚き火となって燃え上がる。あとは適當に臺を組み上げて、その上に洗った鍋を乗せれば完だ。楡の種を黒水と一緒に鍋へれた。そのままでも食べられるが、茹でた方が安全だろう。

そんなこんなで、本日の晩ご飯は楡の種の黒水添え。全く味しくなさそうだ。ヒビのった食に種だけが盛られた姿は退廃的な寂しさをじさせる。なくとも人の食事ではないだろう。ナターシャは不平不満を並べながら食べたヌークポウの食事がしくなった。

種をポリポリと食べながら、ナターシャはこれからのことを考えた。

街の散策と食料の確保は続行だ。楡の種だけでは栄養失調で遠からず死んでしまう。かといって、あてもなく探しても食料が見つかるかは運次第。

故に街の散策は効率を重視するべきだ。店を中心に散策し、普通の家も損耗がない場所は探してみる。余裕があれば中央の塔も確認しておきたい。ナターシャは街に著いた時から不穏な気配を塔からじていたが、同時に塔へ行かなければならないような謎の予も抱いていた。

楡の群生地も探索をしておきたい。現狀、あそこは食料を調達できる唯一の場所だ。先ほどの景は若干のトラウマになっているが、乗り越えるしかないのである。

夜の廃墟も危険を確認しておきたいが、今の格好では無理だろう。リンベルが使っていたようなを守るか、もしくは防護マスクがあれば良いのだが……。

ないものねだりは夜のおとも。パチパチと燃える炎がの不安を和らげる。あぁ、日が暮れてきた。森がざわざわと目を覚ます。人の常識が結晶風に乗って飛んでいく。半明なナニカが現れては消え、の玉が森の奧で踴っていた。

「……意外と味しいな」

ナターシャは最後の一粒を噛み砕いた。