《傭兵と壊れた世界》第十二話:書庫の塔には要注意
月明かりの森に小雨が降っている。教會のり口に足を抱えて座り、延々と降りしきる雨を見つめながら、ナターシャはため息を吐いた。
ミミズ事件から數日が経ち、廃墟での生活にもようやく慣れてきた。教會の部も掃除をして綺麗になったし、食料調達の目処が立ってしまえば心の負擔も軽くなる。夜中に聞こえるうめき聲に起こされることもなくなった。たまに空を飛ぶ黒いモヤは恐ろしいが、勝手が分かれば廃墟暮らしも悪くない。
「……いや、悪いわ」
ナターシャは歯応えのある蛇を食いちぎった。おかしい。ヌークポウで食べた時はもっとらかかったはずなのに、この森で獲れる蛇は歯を全て持っていかれてしまいそうだ。おそらく調理の仕方が悪いのだろう。住めば都(みやこ)と昔の偉い人が言ったけれど、ろくな料理すらない狀況は流石にいただけない。せめて調味料さえあれば味しく料理ができるのだが。ナターシャの表は曇天の如く悲しげである。
「そうだ、水を溜めておかないと」
雨は天の恵みだ。ナターシャは教會の外と中をパタパタと行き來しながら、雨水を集めるためのバケツを用意した。飲み水代わりの井戸水があるといえども、食材を洗う時などは綺麗な水がしくなる。溜めておくに越したことはないだろう。
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全てのバケツを置き終わると、ナターシャは教會の中へった。正面に建てられた首無しの神像が歓迎してくれる。もしも敬虔(けいけん)な信徒であれば恵みの雨に謝を捧げるだろう。殘念ながらナターシャはそれほど信心深くない。神様はいると思うが、人の祈りを聞いてくれるほど優しくないだろうから。
「さてと……時間は大切に使わないとね」
中央奧にある主祭壇の前に立つと、足元にオイル缶や鉄屑などを並べた。
ナターシャはそのうちの一つをり口に向かって蹴り上げた。同時に銃を引き抜く。照準は鉄屑が落ちるし先だ。くるくると回る鉄屑をよく狙いながら指に力を込めた。
――ぱすん。
狙いどおりに放たれた弾が鉄屑を吹き飛ばす。殘った鉄屑も続けざまに蹴り飛ばし、同じ様に撃ち抜いた。ぱすん、ぱすん、と空虛な音が雨音に混じって消えていく。最後に殘ったのはオイル缶だ。景気よく蹴り飛ばそうとしたが、思っていたよりも固くて後悔した。
銃の練習に集中していると雨音すらも聞こえなくなる。ナターシャが「ったな」と自覚する瞬間だ。研ぎ澄まされた集中による、ナターシャだけの靜かな世界。周りに注意を払いつつも、目の前の標的がどうくかを予想できる。
今日は特に上手くれたようだ。視界に映る世界が彩を失い、瞳孔が極限まで絞られているのが分かる。不必要な報を全て削ぎ落としたような覚だ。狙いは宙を舞うオイル缶。照準を追うようにかし、銃から弾丸が放たれた。聞き馴染んだ消音の音。両腕から伝わる心地よい反。そして、やや下側に命中して吹き飛んだオイル缶。
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それらの景がひどくゆっくりと見えた。多分、今ならもう一度當てられる。
ナターシャは再度発砲した。地面に落ちかけたオイル缶が、甲高い音を上げなからもう一度吹き飛ぶ。ぐしゃぐしゃになったオイル缶は何度も転がりながら教會の外、雨がふりしきる森の中へと消えていった。
ナターシャは確実に上達していた。銃の扱いはもちろんだが、何よりも目が良くなった。彼が上達する方法を日々考えていたからである。日々の鍛錬の積み重ねによる果でもある。鍛錬において大切なのは自分の強みを知ることだ。強みをばすというのは弱さを克服するよりも何倍も効率的であり、そもそも弱さを克服しようと努力しても平凡になることさえ疑わしい。
ナターシャは集中を切らさぬように何度も練習した。飽きるまでずっと。飽きてもずっと。
○
午後になると雨が上がり、結晶の空に虹がかかった。しき世界にこんにちは、と背びをしながら今日の行き先を考える。食料はまだ大丈夫だ。無理に森へ向かう必要はないだろう。銃の殘弾がし不安だが、この調子ならば數日はもつ。練習に使う弾と予備を考慮すれば、あと二日か三日といったところだ。いずれ調達しなければならないが、急ぐほどでもない。
ならば選択肢は一つ。
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「行くしかないでしょ! いざ、塔へ!」
ナターシャは聲高々に宣言する。街の中央にそびえ立つ、未だ足を踏みれたことのない結晶の塔を指さした。街のどこにいても目にるほど巨大でありながら、ナターシャが中へるのを躊躇し続けた場所だ。月明かりの森の象徴とも呼ぶべき巨大な結晶が塔の壁を突き破って生えている。晝間は太のが眩しいほどに反し、夜は月によって七のを放つ。を一枚隔てて別世界が存在するような言い知れぬ雰囲気が漂い、塔の周囲だけが異なる空気で包まれていた。
塔のり口には大きな木製の扉が備え付けられている。門の表面には綺麗な裝飾がされているが、苔と結晶による経年劣化によってボロボロだ。どうやら鍵はかかっていないらしく、取手を思い切り引っ張ると、軋んだ音を上げながら扉が開いた。
同時に、塔の側から淀(よど)んだ風が吹き抜けた。ナターシャはこの匂いを知っている。これは人が腐った匂いだ。長く放置されて腐敗したの匂いは、壁や床にこびついて何年経っても殘り続ける。この塔でどれほどの人が死んだのか。そして、今もなお(・)き(・)続(・)け(・)る(・)者は何人いるのか。
(結晶憑きがいるのは間違いなさそう。問題は場所と數ね)
一階は書庫だった。大きな本棚がいくつも並んでいる。中には倒れてしまっているものや、木材が腐って底が抜け落ちているものもある。恐らく壊れた窓から夜風がり込んだのだろう。支柱の結晶化が進んでおり、この塔も長くは持たなさそうだ。床に散らばった本がパラパラと捲(めく)れた。
結晶憑きの気配はじられない。恐らくもっと上の階だろう。
(この階には……いないのかしら)
し警戒を緩めながら、ナターシャは本の海を進んだ。使われなくなった書庫は哀愁をじさせる。街の中心にあるのだから、きっと昔はたくさんの住民が利用していたはずだ。カウンターに放置されたランプ。うず高く積まれた本の山。立てかけられたままの梯子には、知らない言語で書かれた紙が引っかかっている。
ヌークポウに書庫はなかった。たまに行商人からデタラメなレシピを買う程度で、本と呼べるものは一冊も買ったことがない。故に、これほど沢山の本に囲まれるという景はただただナターシャを圧倒し、かつて平穏だった時代の殘り香をじさせた。
(お気にりの本を見つけておけば良かったわ。そうしたら、同じ作者の本が殘っていないか探すことができたのに)
消えゆく古き街の記憶にれられないのが殘念だ。
圧倒されながら書庫を歩いていたナターシャだが、角を曲がったところで足を止めた。
「……わぁ」
棚にもたれるようにして白骨死が倒れている。服裝から察するにの子だろう。一冊の本を大事そうに抱えながら眠っており、骨の側を食い破るように結晶塊が生えていた。結晶化現象(エトーシス)だ。周囲に散らばった結晶屑がの最期を語っていた。
どうか、このが神様のところへ行けますように。多分、神は優しくないけれど。
死を踏まないよう慎重に歩きながらナターシャは塔を捜索した。各階の両側に階段があり、螺旋を描きながら上階へ繋がっている。
二階と三階も書庫だった。四階から六階は居住區のような形跡があったが、結晶憑きは見當たらず。七階以降も昔のよくわからない設備ばかりが続いている。
(……階を上がるほど匂いがきつくなるわ)
十階を越えた頃、鼻をつくような腐臭が強くなった。階の扉を開けるたびに、ナターシャの鼓が早くなる。晝間だというのに塔の部は薄暗い。結晶が窓を塞いでいるからだ。ナターシャは右手に銃を構え、左手で口元を覆った。これほど沢山の結晶が集していると空気が汚染されてしまう。そうでなくとも空気が淀みすぎて息を吸いたくない。
やがて塔の頂上付近に到達したとき、ナターシャは姿勢を低くした。古びた設備の角を曲がった所にヤツはいた。
「……!」
結晶憑きだ。しかし、他の結晶憑きとは明らかに異なる點がある。腹が異常なほどに膨れているのだ。當たり前だが子を宿しているわけではない。もっと歪で、本能的な嫌悪を呼び覚ます外観。ぶつぶつとした何かが腹の中でき回っているのを見た瞬間、ナターシャは思わず吐き気が込み上げた。
(嫌な予がするわ)
腹抱えの結晶憑きはナターシャに気付いていない。うめき聲を上げながら天井を見上げている。結晶憑きとは幾度も対峙してきたが、明らかに様子がおかしかった。ナターシャは直的に逃げを選択する。
ナターシャがゆっくりと後退し、もうしで結晶憑きが視界から離れるという時のことだ。ヤツは突然苦しみだしたかと思うと、顔を激しく掻きむしりながら大きく口を開けた。ナターシャが突然の事態に直する一瞬。結晶憑きのから數えきれないほどの蟲が現れる。
楡(にれ)の群生地で見かけた黒い蟲だ。
――名を宿蟲(やどむし)という。結晶の塔を城にする寄生蝿の一種であり、結晶憑きのに卵を生みつけることで繁する。さらに、寄生先となった結晶憑きは蝿から分泌される神経毒によって自由を奪われる。宿蟲から無理やり食べを與えられ、その後再び卵を生みつけられるのだ。蟲の栄養源として。もしくは、夜風からを守るための生きた巣として。宿蟲に狙われた結晶憑きは抵抗できぬまま苗床となる。
ブワッと拡散する宿蟲の群れ。それを確認する前にナターシャは走り出していた。淀んだ空気の原因はこいつらだ。結晶憑きのが腐敗し、それでもなお寄生先として利用され続けたせいで、塔の部はおびただしいほどの死で溢れていた。そういえば、以前出會ったときは廃墟の方角へ飛んでいったような気がする。そうか、ここは宿蟲の巣だったのだ。
(くそっ、油斷した……! 結晶憑きだけだと思っていたのに……!)
背後から無數の羽音が聞こえてくる。しかし、恐ろしくて振り返ることができない。一度でも立ち止まれば苗床の仲間りだ。本當は塔の狀況を調査して終わるつもりだったのだ。廃墟で暮らす以上、近くにどのような脅威が潛んでいるかは把握しなければならない。
ナターシャは踏み込みすぎた。貪な宿蟲は新たなる寄生先を見つけて歓喜する。螺旋階段を埋め盡くす勢いで襲いかかる宿蟲の群れ。ナターシャは一心不に駆け降りた。
(ハァッ……! やばいやばいヤバイ! どうしようっ、逃げ道は!?)
逃げながら思考を巡らせた。塔の構造上、逃げ道は下しかない。高層部まで登ったせいで出口までは距離があり、いくらナターシャの足が速いといえども宿蟲を振り切るのは至難だ。
ぐるぐると階段を走りながら使えるものがないか探した。オイル缶や黒水があれば対応の仕方もあるのだが、殘念ながら塔の部には使い方の分からない機械が殘されているのみだった。あんな古びた鉄の塊で何ができるというのだ。ナターシャが必死に打開策を探していると、とある機械が目に映った。
「これで、しでも……!」
ナターシャは足を緩めずに機械を撃った。パネルや筐(きょうたい)に弾かれながらも、そのうちの一発が貯水タンクのようなものに當たる。直後、圧されていた水が一気に吹き出し、宿蟲の群れを襲った。
何のか知らないが、橙赤(とうせきしょく)のは明らかに普通でないだろう。つんとした刺激臭が何よりの証拠だ。
ナターシャは振り返らなかった。居住區を抜けて、白骨死の上を飛び越えても、なお彼は走り続けた。いつの間にか羽音が聞こえなくなったが、彼は立ち止まらない。一度でも足を止めれば背筋が粟立つような羽音が聞こえてきそうだった。
が汗を流すことも忘れ、肺が痛いほどに苦しくなる。こんなに全力で走ったのは初めてだ。ランナーズハイなんて聞こえの良いものではない。無理に階段を駆け降りたせいで足が痛い。ろくに食べていないせいで頭がクラクラする。
「ハッ……ハァッ……!」
塔の扉を押し開けた。見慣れた廃墟を駆け抜けた。幾つもの小川を越えた。
日が沈む。夜が來る。廃墟の結晶群がにわかに輝き始め、徘徊者の影が苔むした壁に映った。半明な何かが現れては消え、逃げ遅れたを嘲笑う。夜の世界に人は必要ない。早く帰れと急かされて、のが軽くなる。
教會に帰るまで彼は走り続けた。転がり込むようにして逃げ込んだナターシャは、すぐに教會の扉を閉めた。誰もってこられないように廃墟から集めたガラクタで固定する。これで私は安心だ。羽音に怯えることはない。主祭壇の前にフラフラと歩いていき、神像に見守られながらナターシャは眠りについた。膝を抱えて貓のように丸まり、小さくを震わせながら。
この日の夜は靜かだった。
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