ジガは橫に広く、のっぺりとした形の版図を持つ國家である。北部を海に、殘る三方を霊峰に囲まれているために、他國からは攻められにくい地形をしており、平和は実に二百余年続いていた。

その南西部、レストア山脈の近くに一つの街がある。

鉄將街ギアン、そこは山から降りてくる魔達を狩るために荒くれ者達の集うと鉄の集積地。

そんなギアンの冒険者ギルドは今日もまた、喧騒と怒號に包まれていた……。

「ですから無理です、これ以上公務の邪魔をしないで下さい」

「な、な？　そこをなんとか頼むよ、デートの一つや二つ別に減るもんじゃねぇだろ？」

私の神が磨り減るのよ‼　と心で罵倒しながら、表面上はとてもにこやかに一人の付嬢が対応している。

「すみません、今は仕事が人なので」

「そんなこと言わずに頼むよぉ、ミースちゃん」

彼はすぐに砕けてしまう白波のように儚げな、波打つ金の髪を揺らす。

全てを徹してしまいそうなほど鋭く、しかし一握りの優しさをじさせるマラカイトの瞳は、今でもなお、目の前の男をしっかりとした眼差しで見つめていた。

人気付嬢であるミースは今日もまた、自分に言い寄ろうとしてくる男冒険者をにこやかにあしらっている。

瞼を震わせながら悲しそうな顔をすれば、先ほどまで意気軒昂だった男は慌て、謝りをれてから早足でギルドを出ていってしまう。

顔を青くしながら走る男の後ろ姿を見て、心の中で溜め息を吐くミース。

付嬢の仕事も、案外楽ではない。冒険者達に気分良く仕事をさせ、かつ向こうが踏み込んでくるのを躊躇うような関係を構築するのに、彼達は並大抵でない努力を続けている。

け持ちのカウンターが空いたために、ちらと視線を右にズラして併設されている酒場に目を向ける。

そこには飲んだくれてんだり泣いたりしている男達の姿があった。

（……ああいうのに限って、言い寄ってきたりするのよね）

冒険者というのは剎那的な生き方を好む者が多い。

宵越しの銭は持たず、一日一日を生きていくような生き方をしているというだけで、伴にしようなどという気は欠片も起きない。

ランクが上がり稼ぎが良くなれば貯蓄もできる。

上の方まで登り詰めれば、孫の代まで豪遊してもなくならないような財産を得ることもできる。

清潔と稼ぎが大事よねと一人頷くミースが、思わずうっと息を詰める。

すえた臭気に顔を戻すと、目の前に一人の冒険者の姿があった。

「ちょっとよぉ、そこらで一杯引っかけに行こうや」

口から漂うアルコールの香りから、ミースは男が酔っているのだと一瞬でわかった。

赤ら顔と視線の定まらないその様子から考えると、泥酔しているものだと思われる。

「すみません、公務がありますので……」

「あぁん、俺の話が聞けねぇってのかぁ⁉　一てめぇらがメシ食えてんのは誰のおだぁ、言ってみろ‼」

「痛っ‼」

手首に鋭い痛みをじ、思わず聲が出てしまった。

流石に冒険者というだけのことはあって、その握力は一人のでは振りほどけないほどに強い。

ギルドでのめ事などご法度中のご法度である。

こんなことをすれば、ほぼ間違いなくこの男の人生は終わる。

良くて奴隷落ち、悪ければ即日斬首だろう。

ギルドの罰則は厳しいからこそ、冒険者達は規律を最低限守るのだから。

恐らくそう遠くないうちに、通報をけて駆けつけた衛兵達により、彼は拘束されることになるだろう。

「このCランク冒険者、マーガル様の言葉が聞けねぇってかぁ、あぁ⁉」

カウンターからを乗り出してくるその男の力は次第に強まっており、捕まれた腕はギシギシと軋り始めている。

赤く鬱し始めた腕を見て、マーガルが暗い笑みを浮かべた。

ミースは今までじたことのない痛みを覚え、すんすんと鼻を鳴らす。

「い、痛いっ‼　ごめんなさいっ、許して下さいっ‼」

「よぉし良いだ、あとでたっぷりと可がってやる」

男の言葉もギルドの規則も、ミースには既に頭にってはいない。

衛兵が駆けつけて來るという事実も、なんら彼をめてはくれなかった。

たとえ來たとしても、到著した時には手遅れになっていたとしたら？

その時には既に、自分の純潔は散らされてしまっているのだとしたら？

そんな絶的な未來が頭にこびりついて離れない。

痛みにポロポロと涙をこぼしながら、周囲にいる人達へ視線を向けるミース。

彼は誰一人として自分を助けようとしているものはいないという現実を知り、絶に打ちひしがれた。

Cランクという、一般人に到達出來る最高の等級を持つ冒険者の狼藉を目の當たりにして、誰も彼もが自分の命を惜しんでいるのだ。

自分が殺されるくらいなら見殺しにしよう、そんな消極的な態度を取る者達の中には、普段ミースに言い寄ってくる男の姿もあった。

「おら、こっちに來い‼」

誰も自分を助けてくれないとわかったせいか、ミースは下手に抵抗する気も起きなかった。

彼は言われるがままにカウンターを抜け、震えるで必死になって男の後をついていく。

恐怖と生理的な嫌悪から、ガクガクと足を震わせているミースの歩くペースは非常に遅く、その様子を見たマーガルが彼の頬を思いきり叩いた。

「あうっ‼」

「さっさとついてこい‼」

頬にじる鈍痛、腕の圧迫、そして誰も助けてはくれないという絶が生み出した心の痛み。

あらゆるが彼の気持ちを苛み、その心を蝕んでいった。

暗闇に捕らわれた彼は、握られていない左手で、自分の目をごしごしとる。

ミースは、世界の理不盡を嘆き……そしてただ一心に願った。

（……誰か……）

ここにいるような腰抜けじゃない、颯爽と自分を助け出してくれるような王子様の登場を。

自分のためにその命を賭けてくれるような人が、自分のことを守ってくれる…………そんな有りもしない可能を。

（誰か私を……）

それは逃避なのかもしれない、現実を直視できないが故の弱さなのかもしれない。

だがミースはそれでも願わずにいられなかった。

幾ら男の扱い方を心得ているとはいえ彼はまだ二十にも満たないでしかない。理不盡をはね除け毅然としていられるほど、ミースは強くないのだ。

（…………助けて…………）

心の中の獨白でさえ弱々しいその言葉が、ミースの脳に虛しく響き渡っていく。

諦めかけた彼がマーガルと共にドアを潛ろうとしたとき……二人の足がひたと止まった。

彼らの目の前に、一人の老人が立っていたからだ。

「…………おやおや、これは一どうしたことかな？」

ヨボヨボとした見た目に、腰に提げた木剣、そして折れ曲がっている背骨。

その特徴のどれをとっても普通の老人であり、冒険者ギルドにやって來るような人とは人種の違う好々爺にしか見えないおじいちゃんが、そこにはいた。

呆けているミースの腕にじていた圧迫が、一瞬のうちに消える。

「……え？」

「どんな事があるにせよ、の子を泣かしちゃいかんよ。の子が泣いたらの、悪いのが誰であっても謝らなきゃダメなんじゃ」

彼の手を、老人の枯れ木のような手がそっと握った。それは何もよりも弱々しく、しかしどんなものよりも、ミースがしていた救いの手だった。

「……おいジジィ、言はそれでいいんだな？」

「言なんぞ既にしたためとるわい、死ぬ準備はもう萬全なんじゃ」

「そうか……よっ‼」

茹で蛸のように顔を真っ赤にしたマーガルが腰に差していた斧を瞬時に取り出し、橫に凪いだ。

ミースが目で追うのも難しいほどの速度で放たれたそれは、彼の力量が並大抵のものではないとわかるだけの一撃だった。

だが、彼が想像していたような事態は起こらなかった。

老人は瞬時にを屈めると、斧を持つマーガルの人差し指に木剣を當て攻撃を中斷させ、返す刀でその脳天を強かに打ち付けたのだ。

言葉を発する間もなく、一撃をもらったマーガルが、目をぐるりと一回転させてから気を失い、地面に倒れ伏す。

「でも、まだ死ぬつもりはなくての。孫が結婚するまでは生きたいと思っとるのよ、わし」

傷一つ負っていないにもかかわらず、老人が小さくき聲を上げた。

慌てて駆け寄ろうとしたミースになんでもないと首を振り、再度彼の手を握る。

「彼氏に手荒な真似をしてしもうて、すまんかったの」

「…………いえ、いえ……違うんですっ……」

「わしの名前はディル、お嬢ちゃんは？」

「……ミース……って言います」

「そうか、良い名前じゃね」

上手く言葉を返せそうになかったミースは、しだけ強くディルの手を握ってその答えとした。

彼の目の前に現れたのは、キラリと白い歯をらせるような王子様ではなかった。

ミースの手を取ってくれたのはどこにでもいそうな、腰の曲がった老人だった。

骨と皮がくっついているだけに思える腕は、今にも壊れてしまいそうなほどに弱々しい。

だが彼にはその腕が、世界中にあるどんなよりも強く逞しく思えた。

ホッとしてまた泣きそうになるミースの頭を、ディルが優しくでる。

まるで出來の悪い娘をあやしているかのようなその行が、どうにもくすぐったかった。

「冒険者になりに來たんじゃけど、年齢制限とかあったりするのかの？」

「いえ……大丈夫ですよ、ディルさん」

恥ずかしさをまぎらわそうと、ミースは小さく首をかしげた。

そしてディルに笑みを向け、その鈴の音のような聲で彼は言った。

ようこそ、冒険者ギルドへ……と。