《【書籍発売中】貓と週末とハーブティー》1 お疲れ子とヤケ酒と
新連載です。
どうぞよろしくお願いします!
朝、出勤前のささやかな時間。
道路に面したマンションのベランダから、道行く人たちの様子をぼんやりと眺めるのが、足立早苗(あだちさなえ)の日課だ。
ロングヘアーを一つに束ね、新卒時からのお付き合いであるスカートタイプのスーツを著て、あとはヒール靴を履いて部屋を出るだけ。出勤の用意は整え終わっている。
腕時計を確認すれば十分余裕はあった。
ベランダに出て手すりに肘をつき、今日も今日とて日課に勤しむ。
家賃そこそこのマンションは七階建てだが、上からの人間観察にを出すなら、この二階の部屋くらいがちょうどいい。
黃い帽子を被ったチビッ子と母親は、これから稚園だろうか。
真っ赤なジャージでランニングに勵むおじいさんは、いつも元気だなと思う。
たまに見かける金髪青目の人は、ハーフなのかな。
「あ」
そんなことを考えながら見守っていたら、最近のお目當ての人が現れた。
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「『スーツさん』、やっぱり今日もカッコいい」
早苗命名。
スーツ姿しか知らないから、スーツさん。
歳はおそらく、今年で二十五の早苗の二つか三つ上くらい。
はっきりと顔を見たことはないが、シャープな面立ちで遠目からでも整っているのがわかる。
セットされた清潔のある髪型に、理知的なノンフレームの眼鏡。シワのない白シャツにきっちりネクタイを結び、高級そうなグレーのスーツを著こなす姿は、如何にも仕事の出來る男だ。
きっといいとこ勤めのエリートサラリーマンとかだろう。
クールな出で立ちはにモテそうである。
だけど決していけ好かないじではなく、道で誰かの橫を通る度に、子供にもお年寄りにも平等に小さく頭を下げているのが、かなり好度が高い。
つまりトータルでカッコいい。
眼福です、今日もありがとうございますと、早苗は心の中でお禮を述べる。
「彼とか普通にいるんだろうな……もしかしてもう結婚しているかも」
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ご近所のはずだが、名前もどの辺りに住んでいるのかもわからない。
當然ながら接なんて皆無だし、相手はきっと早苗の存在なんて知りもしないだろう。こちらが一方的に、いいなあと眺めているだけ。
「會社でも頼られていて、部下からの信頼も厚くて。きっと仕事が休みの週末でも、人とデートしたり、子供がいたら遊びに連れていってあげたり……スーツさん、家事とかもばっちりこなしそうよね」
だから勝手に妄想が膨らむ。
考えるのが楽しいのだ。
彼は最近のお疲れ気味な早苗にとって、日常のちょっとした癒しだった。
迷いなく仕事に向かう彼の姿を眺めているだけで、ああ私も仕事イヤだけど頑張ろうと思える。イヤだけど。
「ヤバッ、そろそろ行かなくちゃ!」
スーツさんのまっすぐびた背中を見送ったあと、ビジネスバッグを擔ぎ直して、早苗もバタバタと下界の景にじっていく。
今日こそは、あのクソ上司に一矢報いてやると気合いをれながら。
――――などという朝の気合いも虛しく、早苗は據わった目で、行きつけの居酒屋でジョッキのビールをあおっていた。
「…………ねえ二人はさ、誰かの後頭部に思いきり回し蹴りを決めたいって思ったことある? 私はあるわ。最近毎日、てか一分間に一回くらい」
「怖いッスよ、先輩!」
「荒れてるわねえ、早苗」
ただ今は溜まった鬱憤を晴らすため、後輩と同期と愚癡吐き大會を開催中だ。
この居酒屋は會社からも駅からもほどほどの距離があり、知る人ぞ知る場なので思う存分愚癡が吐ける。
気っ風がいい店主が一人でやっており、昭和風のこぢんまりとした店には木板のカウンター席しかなく、今日は客が見事に早苗たちだけだった。
週の真ん中の夜ではこんな日もあるだろう。
花の金曜日まで我慢するには、早苗の堪忍袋がもう限界だったのである。
「大、小さいのよあの上司はが! 今日だってあの野郎、自分の確認れの癖に、私を呼びつけてネチネチと書類の不備を指摘してきたり! 忙しいときに限ってクソどうでもいい雑用を押し付けてきたり! なんで上司が部下の仕事の邪魔をする!? 本っ當にあり得ない!」
早苗は苛立ちのまま、引き千切る勢いで焼きトン串をむさぼった。
旨味がじゅわっと広がって味しい。
ここの居酒屋ではビールに焼きトンのタレが鉄板だ。
続けざまにを鳴らしてビールを飲み干し、ドンッと空になったジョッキをカウンターに荒々しく置く。
左右からは同を孕んだ視線が注がれていた。
「先輩は仕事バリバリ出來ちゃうから、余計ああいうタイプのおっさんは気にらないんでしょうねぇ」
「おまけに早苗ったら反論するし噛み付くから、生意気判定されちゃうのよ」
茶がかった髪に、のある八重歯。軽い言で憎めない営業課の後輩は、剝いた枝豆を口に放り込んで苦笑して。
黒髪ショートカットに、赤い口紅が似合うスタイルのいい経理課の同期は、お冷やのグラスを傾けてやれやれと嘆息している。
「ついでに彼氏にはドラマみたいな臺詞を吐かれてフラれるし……もう踏んだり蹴ったりよ……」
早苗は「うう」とけないき聲を、泡だけが殘るグラスに響かせる。
大企業とまではいかないが、それなりに名のある健康食品メーカーで唯一の営業として、勤めること早三年。
周りの男陣に負けないように、元々の負けず嫌いな格をいかんなく発揮して、早苗は著々と職場で果を挙げて地位を固めてきた。
顧客の評判もいいし、績も上々。
最初の頃は面倒見のいい上司にも恵まれ、同僚や新しい後輩との関係も良好で、早苗の社會人生活は概ね順風満帆だったのだ。
――――それが、人事異で新しくやってきた上司に盛大に嫌われたことから、船は転覆した。
顔を合わせた當初から、他には売る態度なのに反して、の営業というのが気にらないのか、頭でっかちな上司はあからさまに早苗を見下していた。
ただわかりやすく軽んじられても、この頃はそこまでの実害がなかったので、早苗は忍耐力を稼働してもやもやを抱えるくらいで済んでいた。
しかし、早苗の出した企畫が、上司の企畫を押し退けて上層部に採用されてしまってからは、完全に目の敵である。
下に見ていた者に足元を掬われたのが、よほど許せなかったのだろう。
そこからねちっこい嫌がらせがスタートし、早苗もなにくそ負けるか! と躍起になって仕事をしていたら、一ヶ月ほど前、大學時代から付き合っていた彼氏に浮気されてフラれた。
蔑ろにした自分も悪いと思うが、「俺と仕事とどっちが大事なんだ!」という臺詞はない。つい「仕事ですけど!?」と返したことは一応反省はしている。
だけど直後に浮気のカミングアウトしなくてもいいじゃない!
「おやっさん! ビールもう一杯!」
「いいのかい? 明日も仕事なんだろう」
「おやっさんの言うとおりッスよ、先輩! いくら酒が強くてもそろそろ止めましょう……!」
「あんた、家でも相當飲んでるでしょ? ほどほどにしときなさいよ」
店主にも左右の二人にも制止されたが、かつて二日酔いなどなったことがない酒豪の早苗にとって、ビールなんて五、六杯飲んだところで顔一つ変わらない。
有難い忠告も軽く躱して、追加のビールをけ取る。
そんな早苗を橫目に、同期の彼は「せめてなにか癒しでもあればねえ」と呟いていたが、早苗は「私にはスーツさんがいるからいいの!」と聲にはせずに返して、勢いよくもう一杯を飲み干した。
「じゃあまた明日。今日はありがとう、二人とも」
同期と後輩に別れを告げて、早苗は終電で帰路についた。
「また愚癡ならいつでも付き合うッスよ!」「話くらいなら聞いてあげるわ」と快く肩を叩いてくれた二人には、心の底から謝している。
「あー気持ちいい」
カツンカツンと、ヒールの音を鳴らしてアスファルトの地面を歩む。
まったく酔ってなどはいないが、ほんのり冷たさを孕んだ夜風は心地よかった。
六月の終わりで夏を間近に控えた今、梅雨が明けて気を取り払った空気は、熱くなったを乾かしてくれる。
深夜十一時を回ったご近所は、家々の燈りも落とされて、まるで人が消えたように靜かだ。
鼻唄を口ずさんでも誰にもバレやしない。
頭上にかかるのは、黒い夜空を切り裂いたような三日月。
明日も仕事だという過酷な現実をしばし忘れられる、いい夜だった。
「あれ……?」
トコトコトコ……と、そんな早苗の進行方向に、橫道から貓が歩いて出てくる。
街燈の小さいの下で見た限りだと、黒、白、茶とが三混じった三貓だ。
早苗をチラッと見上げた瞳はなにかを見定めるようで、どことなく賢そうである。
三貓のオスは希だと言うが、この子はどちらだろう。
野良かと思ったが、よく見ると綺麗な瞳と同じ、ペパーミントグリーンの首をしている。迷子札のようなタグもついていた。
「逃げてきた飼い貓? それなら捕まえるべきなの……って、あ!」
早苗は悩む間もなく、思わず短い悲鳴を上げた。
パタリ、と。
橫切る途中で、貓がなんの前れもなく目の前で倒れたのである。
現実でレベル上げてどうすんだremix
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