《【書籍発売中】貓と週末とハーブティー》4 夫婦と特別な日と

現れたのは、志保の旦那である手洗誠人だった。

早苗がはじめて會ったときよりは、がついた気はするが、まだまだ細でひょろっとしている。暑い中を走ってきたせいか、紺のポロシャツは汗でが変わっていた。

地味だがやさしげな面立ちに、必死な形相を浮かべていた彼は、志保を目に留めると「いた!」と大きな聲をあげる。

「ああ、よかったここにいて……! 実家にでも帰っていたらどうしようかと……!」

「実家って……なに、どうしたの? あなた」

「まずは言わせてくれ! 僕は誓って! 浮気なんてしていないんだ!」

誠人の決死の宣言は、『ねこみんと』の店にエコーを伴って響き渡った。

志保はきょとんと間の抜けた顔をし、ミントは「なんだ騒がしいな」と心なしか不機嫌そうに髭を揺らす。早苗も突然の誠人の登場には驚いた。

ただ一人、己のペースを崩さない要は、いつのまにか用意したグラスをカウンターにトンっと置く。

「まあまあ、とりあえず冷たい飲みでも」

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カウンター奧のミニ冷蔵庫にれてあった、レモンバーベナで香り付けをしたお冷やだ。

グラスの中で、氷がカランと音を立てた。

が乾ききっていた誠人は、要の用意したグラスの水をあっという間に飲み干してしまった。それから一息ついて、ここに駆け込んできたわけを話す。

「……すでにもう、僕が料理教室に通っているのはバレているみたいなので、隠さずお話ししますが。午前中にモモコ先生の特別プログラムをけて帰ってきたら、家に妻がおらず、いつもは置いてある行き先を書いたメモもなければ、スマホに連絡をしても出ないので心配になりまして」

「え、志保さん、旦那さんから連絡來てたんですか」

「早苗ちゃんがカフェに來る前に、三回くらい……でも腹が立っていたから無視していたの」

早苗の問いに、志保はふいっと顔をそらす。

浮気は誤解だとわかった今、とても決まりが悪そうだ。

「それで妻の行き先に心當たりがないか、電話で百合(ゆり)に聞いたら、『浮気者のパパなんかに教えない。どうせ今日のことも忘れているんでしょ、本當に最低』って、絶対零度の聲で言われて……」

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「あらやだ、百合ちゃんたらあなたに話したの!」

百合は手洗夫婦の一人娘である。

スポーツ推薦で他県の高校に通っていて、現在は寮生活のため、親元を離れて暮らしている。

志保は旦那の浮気疑を、娘には赤々に相談していたようで、憐れな誠人は娘にも軽蔑されたらしい。

「なんとか誤解を解いて、妻が行きそうな場所をいくつか教えてもらって……このカフェで當たりでよかったよ。いや、本當に焦った。壽命は確実に十年はんだと思う。だいたい百合のやつ、『今日のことも忘れているんでしょ』って、今日のためにがんばったのに忘れるわけないだろう」

「今日ってなにかあったかしら……?」

「まさか……本當に忘れていたのか?」

わけがわからないという顔の志保に、誠人は呆れた調子で「君の誕生日だろう」と答えた。

志保は完全に頭から抜け落ちていたようで、スマホで日付を確認してびっくりしている。

ここまで來るとなんとなく、早苗はなにを思って、誠人が料理教室になんか通い始めたのかがわかってきた気がした。

「ここ最近、君は臺所に立つのが辛そうだったし、それを見て僕も、もっと家事を手伝えるようにしなくちゃって考えてさ。男でも通いやすい料理教室があるって同僚が教えてくれたから、紹介してもらったんだ。ちょうど君の誕生日も近かったし、なにか作ってサプライズでも仕掛けようかとも思って……」

今日の午前中、誠人がモモコからけていた『特別プログラム』とは、事を知った彼(or彼)が協力してくれて全面指導の下、ホールのバースデーケーキを作っていたのだという。中は王道のショートケーキだが、見目が華やかでらしいものが出來たらしい。

モモコは「奧さんのために頑張るとかステキじゃなぁい! 羨ましいわぁ、ワタシもイケメンに作ってもらいたぁい!」とノリノリだったそうだ。

早苗的には、誠人の影の努力にしたいところ、モモコのキャラが濃すぎるため、そっちの方が気になるのが難點だが。

「そんな……わ、私、知らなくて。あなたがこんなに私のために頑張ってくれていたのに、浮気なんて疑っちゃって……本當にごめんなさい!」

「いや、僕も疑われるようなことをしてすまない。誕生日ケーキを出すときに、僕の手作りだって明かして、料理教室のことも言うつもりだったんだ。ケーキは家の冷蔵庫にあるよ。夕方には百合もこっちに來るらしいから、家族みんなでお祝いしよう」

誕生日おめでとう、志保。

いつもありがとう。

そう朗らかに微笑んで告げた誠人に、志保はきゅっとを噛んだ。

涙を耐える泣きそうな顔が、ハイビスカスティーの赤い水面に映り込んでいる。

黙ってことのり行きを見守っていた要は、「ね? 俺が出したハイビスカスティーよりも、旦那さんの気遣いの方が効果覿面でしょ?」とタレ目を緩めた。

早苗はやれやれと肩を竦め、要に同意する。

なんであれ、これですべて解決したようだ。

「要ちゃんに早苗ちゃんも、バタバタしちゃってごめんなさいね」

「妻がご迷をおかけしました」

お騒がせな夫婦は、誠人は來たばかりだったが、早々に仲良く寄り添って帰っていった。

夕方には家族水らずで、きっと誠人作のバースデーケーキを囲みながら、志保の誕生日を祝うのだろう。

気を回してか、要は特別にハイビスカスティーの茶葉も、小袋にれて志保に渡していた。誕生日プレゼントに、家でケーキと一緒にどうぞと。

夏バテ対策に毎日しずつ飲むのもいいかもしれない。

そして嵐が過ぎ、靜かになった『ねこみんと』で、ミントがくあっとアクビをこぼす。

「……急に平和になりましたね」

「ですね。何事もなくてよかったよかった」

んーと貓のようにびをする要に、早苗は笑って改めてハーブティーをすする。

早苗のためのリラックスブレンドは、騒の合間でだいぶ冷めていたが、それでも落ち著く味で心が安らいだ。殘っていたレモンバーベナのゼリーも、スルッとすべて食べきってしまう。

戻ってきた穏やかなカフェタイムの合間で、ポツポツと話題にのぼるのは、やはり手洗夫婦のことだ。

「あの二人には冷や冷やしましたけど……私はやっぱり、し羨ましいです」

「羨ましい?」

「はい。旦那さんは奧さん想いだし、志保さんだってあんなに浮気疑に怒っていたのに、『もう別れる』とか『離婚してやる』なんてことは、一言も言わなかったんですよ? お互いのこと、ちゃんと好きなんだなって」

普段の早苗なら、意地でも素直に口にしない他人を羨む言葉も、ねこみんとの緩い空間にほだされて、存外すんなりとからり出た。

ハイビスカスティーのポットとカップを片付けつつ、要は「そうですね」とやんわり頷く。

「相手のことが好きだから、隠し事に怒ることはあっても、離れようとは考えなかったんだろうし。今回はすれ違っちゃってたけど、そもそも相手を想っての隠し事ですもんね。……俺も、し羨ましいかも」

「ハッカさん……?」

が雲でるように、要はほんのり暗い顔を覗かせた。

早苗が初めて『ねこみんと』に來たとき、自分の二面を『詐欺みたい』と稱して、しゅんとしていた要と同じ表だ。

やっぱり彼にはなにか、スーツさんモードと素のモードとの差で、トラブルでも起こした過去があると見て間違いない。

「あの、ハッカさ……」

「そうだ。早苗さんにも、またお土産にラベンダークッキー渡しますね。特別なお客様にはお土産は必須だから。あ、その前に、早苗さんもハイビスカスティー飲んでみたい? 今からもう一杯サービスで淹れようか?」

「……ありがとうございます、飲みたいです」

踏み込んで聞いてみようかと思ったが、調子を取り戻した要に、早苗は下手に踏みるのは止めておいた。

なんとなく……これ以上彼のことを知ってしまうと、戻れなくなる気がしたのだ。

なにから戻れなくなるのかは、まだわからないけれど。

「おっと、會社からの連絡、無視したまま忘れてた。んー、まあいっか」

「よくない! よくないから、ハッカさん! すぐ出て!」

「えー。まあ早苗さんがそう言うなら…………毎週毎週、そんなに休日出勤が好きなのかお前は。今度はなんだ、さっさと用件を述べろ。は? 例の取引先からまた無茶を言われた? そんな私った個人的な頼み、どうして俺たちが聞く必要がある。そこは強気で返せ。一度要求を呑むと次からも來るぞ」

背筋をばして目をつり上げ、スーツさんモードで電話をする要は、どこを取っても仕事の出來る男である。

外では蟬が鳴き続け、真夏の眩い日差しはハイビスカスティーのように鮮烈だった。

僅かに複雑な気持ちを殘したまま、『スーツさん』を橫目に、早苗は殘ったカップの中も飲み干す。

そんな二人を見守りながら、ミントはゆるゆると尾を振っていた。

【ねこみんと 本日のおまかせコース】

・心を休めるリラックスブレンド

(ラベンダー+カモミール+レモンバーベナ)

・夏バテ解消ブレンド

(ハイビスカス+ローズヒップ)

・レモンバーベナとオレンジのすっきりゼリー

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