その宿屋は三階建てで、お世辭にも豪華とは言えなかった。崩れかけの小さな教會と一化しており、魔獣の襲撃にでも遭えばあっと言う間に吹き飛ばされてしまいそうだ。まあこの手のダンジョン近くの宿屋は、大抵結界が張られているものだが。

『シン、今から私たちは旅人を裝うから、貴方も話を合わせてね』

扉を叩く前、クロエはシンにそう言い含めた。

トン、トン

『いらっしゃい、何名だい？』

恰幅のいい中年のが扉を開ける。この宿屋の將だろう。

『すみませんが、先程山賊に遭いまして、手持ちがないのです。部屋の隅でもいいので借りられないでしょうか』

『ああ、追剝から逃げてきたのかい。あんたらも災難だったね…まあこの辺じゃよくある話さ。一宿一飯ぐらい面倒みてやってもいいが、數日ともなると他の客がね……裏手に亭主が牧師やってる教會があるけど、泊まるだけならそっち使ってもいいよ。どうせほとんどお祈りなんて來ないんだから』

『ありがとうございます』

中にると、一階は付と酒場になっていた。宿泊できるのは二階からのようだ。いくつかあるテーブル席の一つに座ると、將が食事を運んでくる。固くなったパンとのスープ、それにやけに真っ黒い飲みだ。

『殘りで悪いけど……』

『充分です。助かりました』

笑いかけながらパンを千切り、スープに浸して食べるクロエ。これまでの彼なら、こんな末なは犬の餌だと突っぱねていただろう。數日の護送生活で早くも旅に馴染んでしまっている。最早公爵令嬢などと、誰も言われなければ分からないだろう。

『ところで野暮な事聞くが……お二人は駆け落ちでもしたのかい？』

『彼は兄です』

ブホッとシンが飲みを噴き出したのは、クロエがあまりにもしれっと噓を吐いたからなのか、彼の実の兄を知っているからなのか……當の兄本人は、眉間に皺を寄せている。

『まあ大丈夫、兄さん？　初めて見る飲みですものね。この焦げ臭い…もとい、香ばしい匂いは煎り豆を挽いてにしたかしら』

『よく分かったねえ。これはコーヒーと言って南方じゃメジャーな飲みだけど、王都に近いと馴染みがないかもね。詳しい詮索は避けるけど…あんたら貴族だろ？　末な服著てたって、立ち振る舞いが違うよ。恐らく山賊に狙われたのも、見る奴が見たら分かるんだろ』

上級者向けダンジョン近くの宿屋を経営しているだけあって、將は訳ありの貴族崩れを見慣れているのだろう。シンと顔を見合わせたクロエは、改めて自分たちの素を明かす…ふりをした。

『おっしゃる通り、貴族でした。ですが私は先日、親に勘當されたのです。兄は私を一人で行かせられないと、付き添ってくれたのです』

『そうだったのかい。何があったか知らないけど、こんな危ない山道を通らせるなんて、酷い親もいたもんだね。それに引き替え、あんたは妹思いのいい兄さんじゃないか。しっかり守ってやんなよ』

『え、ええ…はいもちろんです』

バンバン背中を叩かれ、歯切れ悪く返事するしかないシン。

「何も知らない癖に、よくも他人の事に突っ込めるものだ」

「許してやれ、ダーク。クロエもバカ正直に自分が聖に嫌がらせしたなどと、言えるはずもない」

忌々しげなダークに、レッドリオは窘めるように言って寛大なところを見せた。

そう、この程度の噓など可いものだ。クロエこそが、我々に騙されているのだから。