《傭兵と壊れた世界》第七十三話:母を呼ぶ
機船を垂直に駆け上る傭兵・ヌラ。
その景を見たイグニチャフは目を輝かせた。人間の常識的なきを凌駕しており、たとえば空を飛んでみたいと誰もが夢を見るように、ヌラの戦い方は男心をくすぐる魅力があったのだ。イグニチャフは手すりからを乗り出してぶ。
「すっ、すげぇ! 見たか今の!? 壁を走って登ったぞ!」
「彼はヌラって傭兵ね。足に履いているの力で壁も天井も自由に走れるらしいよ」
「やっぱりは男の浪漫だよなぁ。俺もがしいぜ」
彼はしそうな視線をナターシャに向けた。正確にはナターシャの背中にある結晶銃を見た。あげないよ、と彼はを抱きかかえる。
「イグニチャフがを持つなら銃以外がいいわ」
「なんでだ?」
「私、味方に撃たれて死にたくないもん」
「俺をなんだと思っている」
「って扱いが難しいから。ああ、いっそ楽とかどうかしら。とある國は軍に演奏隊がいるらしいわ」
イグニチャフがぷふぁーっと笛を吹く姿を想像してクツクツと笑う。
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「――楽しそうなところを悪いが戦闘中だ。あの海牛をどうにかしないと、先に進む前に商業船が襲われるぞ」
遊んでいるつもりはない。ナターシャの目は海牛をきちんと追っている。
ヨナキのきは緩慢だが、持ち前の生命力によって第三六小隊の猛攻を耐えていた。無數の砲弾がヨナキに放たれたが、水沒原という環境、そして降り続ける雨が火の威力を弱めているようだ。
「無視して逃げたら駄目なのか?」
「さっきの水圧で後ろから撃たれたら船ごと沈沒するわ。こういう時は臓を潰すのが一番なの。第三六小隊に狙撃手はいないんだっけ?」
「――いないぜ。彼らは平地での野戦を得意とする。そもそも足地の任務はほとんどが第二〇小隊に回されるから、海牛のような原生生はエイダン小隊にとって不慣れなはずだ」
「じゃあヨナキと相が悪そうね。ちなみにリンベル、海牛の心臓はどの辺りにあるか知らない?」
ナターシャは甲板の先頭に立ち、濡れた前髪をかき上げた。
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「――首よりも下、エラの手前にあるそうだ」
「ダメね、暗くて見えないわ。そもそも首なんて無いようなものでしょ」
「――私に文句を言わないでくれ」
機船が停止した。
力が稼働する音、甲板に打ち付ける冷たい雨、それらの報を全て遮斷し、ナターシャは海牛を照準に捉える。橙の斑紋が波うち、のめりとしたが水をはじく原生生。そのに埋まった一點を狙い、彼は指に力を込めた。
一拍、水沒原に銃聲が響く。
◯
ヨナキが周囲の水を吸収し始めた。再び超水圧の放水をおこなうつもりだ。
エイダンが砲臺に乗る。第三六小隊の速砲は巨大だ。通常の二倍はあろう砲を持ち、頑強な筐と際限なくこめられた弾丸、そして並みの人間ではまともに扱えないほど重い縦桿を併せ持つ。エイダンはそれを難なく縦し、無數の弾丸を海牛に放った。
頭を吹き飛ばすつもりで撃った弾丸。しかし、頭部を覆うい何かによってはじかれた。
「頭を殻で覆ったか」
ヨナキは貝の一種であり、に退化した貝殻を有する。そのさは鋼のごとし。たとえ鉄の銃弾であっても貫けない。
ならば頭ごと吹き飛ばしてみせよう。エイダンは砲臺から降り、自らのを肩に擔いだ。重火砲、と呼ばれる大砲のような火だ。ルーロ戦爭において數多の弾薬庫や敵拠點を破壊した兵である。
「ちょっ、駄目ですよ隊長! それ一発でいくらかかると思っているんですか!」
「金と命を天秤にかけるなネイル。必要な出費だ。跡に到著するまで溫存しておきたかったが仕方ない」
「駄目ですってー!」
「やかましい守銭奴め」
エイダンは構わずに撃とうとした。だが重火砲を撃つよりも先に、奇妙な輝きを放つ弾丸が海牛のを貫いた。
ナターシャの狙撃だ。
通常の弾丸であれば、たとえ命中しても再生されてしまう。だが、から生まれた結晶弾は海牛ので結晶化現象(エトーシス)を引き起こした。結晶化した心臓にヒビがり、破片となって周囲に散らばる。
「ああ、助かった、赤字にならなくて済みそうです!」
心臓を失ったヨナキは地面に崩れ落ち、大量の水を吐き出しながらを小さくした。よく見ればがピクピクと痙攣している。橙の斑紋は役目を終えたように彩度を落とし、周囲には白い水溜まりができた。
エイダンは重火砲を甲板に降ろす。ずん、と重い鉛玉を落としたような音だ。
「ふん、俺を助けたつもりか小娘」
「不服ですか?」
「手柄の橫取りとは思わん。だが、第二〇小隊の力を借りたというのは癪だ」
「隊長は彼らが嫌いですもんねえ。まあ良いじゃないですか。無事に終わったことですし、商業船に連絡して出発しましょう」
エイダンは重火砲を降ろしたまま微だにしない。彼の視線はただ一點を見つめている。不思議に思ったネイルが尋ねた。
「どうかしましたか?」
「ヨナキを見ろ」
「見ろって言われましても――うへえ、気持ちわる」
ヨナキのは白いを出しながら溶けていた。正確には、頭とを切り離すように、首から下が狀化していた。生理的嫌悪を覚える景にネイルは顔をしかめる。
エイダンは直した。
まだだ。ヨナキは、まだ死んでいない。
「ネイル、今すぐ船を出せ。ウォーレンにも逃げるように連絡を――」
「オァァァアアアッ!」
赤(・)ん(・)坊(・)の(・)泣(・)き(・)聲(・)が(・)し(・)た(・)。戦場を駆け巡ったエイダンが経験したことのないほど、大きくて歪な聲。悲鳴に近い。
ヨナキがなぜ生きているのか。なぜ人間のような聲を発するのか。薄気味悪さが足元から這い上がる。
(まだ來るか……!?)
急速に迫る気配をエイダンはじ取った。來る。何か、人の常識から逸した生が、近付いている。エイダンの背中に久方ぶりの悪寒が走った。総じて追い詰められた生が取る手段といえば、親や上位者に助けを求めることなのだ。
やがて空がにわかにを帯びた。赤、青、黃、と虹のしいだ。優雅に。そして幻想的に。ソレは水沒原の奧から現れる。
亀貝、もしくはクリオネと呼ばれる原生生だ。暗い雨の中をふわふわと浮いており、図はヨナキよりも一回り小さいが、一般的な生と比較すれば圧倒的な巨である。
――ナバイアの妖。
ソレは両手を上げたような格好でヨナキの上空を回った。き通るに無數の臓が脈し、赤や黃といったを明滅させる。ヨナキは安心したように鳴き聲を止め、プルプルとを震わせながら水中に溶けた。
「母と子、か」
誰もが手を止めて空を見上げる。
一番近くにいたのはウォーレンの船だった。依頼人クレメンスが用意した二臺の商業船、そのうちの護衛船に乗っていたウォーレンは、間近で妖の姿を見た。七のを宿した明のはしく、だが良い知れぬ恐怖をじさせる。例えば人の頭部に花が咲いたような、生として存在してはならないおぞましさ。思わず彼はぶ。
「全員逃げろ! 早く、船じゃなくて、外へ、別の船へ――!」
ウォーレンは優秀だった。妖が頭を下げたと同時に、彼は甲板を走り出していた。向かうのは妖と真逆だ。彼は逃げたのだ。ブルフミュラー商會に雇われた護衛たちが妖に目を奪われる中、ウォーレンは力の限り地面を蹴った。
妖の頭部が八つに裂ける。パカリと口が開くように、裂けた頭部が無數の手となって広がった。その大きさは船の全長に等しい。手の奧にはヨナキと似た口がある。
空気が吸い込まれた。
妖に向かって風が巻き起こった。
雨音すら止んだような靜寂の末、妖はび聲を上げた。桁外れな音圧が衝撃波となって船を襲う。
妖の近くにいた護衛たちは悲慘だ。何が起きたのかも分からなかっただろう。衝撃波によってがくぼみ、骨が潰れ、そうして船の殘骸と一緒になって吹き飛んだ。
「うっ、ぉ、ぉおおっ――!」
ウォーレンは振り返ることができない。背後から迫る死の気配に恐怖し、がむしゃらに船を飛んだ。
クレメンスの船が近くにあったのは不幸中の幸いだ。ウォーレンが甲板から飛び降りたと同時に、音による風が彼の背中をでた。もしも走り出すのが遅ければ巻き込まれていただろう。船に叩きつけられたウォーレンは、痛みを我慢しながら顔を上げる。
そこに、自分が乗っていた船はない。大が空いてひしゃげた機船。その奧に浮かぶ、しきナバイアの妖。
「馬鹿げている。本當に、馬鹿げているぞ――!」
ウォーレンが呆然と呟く中、妖は次の獲に狙いを定めた。
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