《【第二部完結】隠れ星は心を繋いで~婚約を解消した後の、味しいご飯とのお話~【書籍化・コミカライズ】》番外編 星降りの夜に①

婚約中の夏のお話です。

(2-32と2-33の間の出來事です)

馬車を降りるとまだ熱気を孕む夕風に、一本に束ねた髪が揺らされた。

は沈んでも遠くの山は赤を殘している。空に浮かぶ雲も金を映しているけれど、空は次第に夜を濃くしていって、一際明るい星がその姿を主張し始めていた。

「ありがとう、マルク」

「いえいえ。どうぞ楽しい夜を」

馬車で送ってくれたマルクは、頭に載せた帽子を取ってにこやかに笑う。またその帽子をひょいと頭に載せてから、手綱をしっかり握り直す。石畳に蹄の音を響かせて、馬車は來た道を戻っていった。

その姿が角を曲がるまでを見送ってから、背後のお店を振り返る。今日も溫かなで照らされた看板に何だかほっとしてしまった。

あまりりす亭の扉を開けると、いい匂いが広がってくる。

顔が綻ぶのを自覚しながら店に足を踏みれると、カウンターからエマさんが明るい笑顔を向けてくれた。

「いらっしゃい、アリシアちゃん。今日は一人?」

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「ノアは遅くなるから、先に行ってくれって言われたの」

後ろ手に扉を閉めてからカウンターの席に向かう。

テーブル席は半分埋まっているけれど、カウンターに人はいない。椅子に座りながらエールを一つと注文をする。エマさんはそれに頷きながら表し曇らせた。

「一人で來るのは危なくない?」

「家の馬車で送って貰ったから大丈夫。ありがとう」

「それなら安心ね。今日は何が食べたい?」

「ノアが來てからおすすめを頂こうと思うんだけど、その前に軽く出して貰える?」

「はーい」

廚房から顔を覗かせたマスターにもわたしの注文は屆いていたようだ。小さく頷いてまた廚房に戻っていく。

れ替わるように、なみなみとエールの注がれたジョッキがわたしの前に用意された。

「まずはエールね」

「ありがとう」

両手でけ取ったジョッキはずっしりと重い。口をつけるといっぱいに広がる爽やかな酸味と苦味。越しが良くて一気に半分ほど飲んでしまったのは、自分でも気付かないうちにが渇いていたのかもしれない。

ジョッキから口を離して深い息を吐く。うん、味しい。

やっぱり夏はエールが一際味しくじる気がする。冷えているお酒なら何でも味しいのかもしれないけれど。でもやっぱりエールは格別なのだ。

「はい、お待たせ。オレンジとにんじんのサラダなんてどう?」

エマさんがわたしの前に置いてくれたのはしいオレンジのサラダだった。

細く切られたにんじんの上には薄皮の剝かれたオレンジがちょこんと載っているのが可らしい。

味しそう」

「ノアくんが來たらおすすめを出すわね。今日のも味しいわよ~」

明るい聲でエマさんが笑うから、わたしもつられるように笑ってしまった。

ごゆっくり、と言ったエマさんは注文を取る為にテーブル席の方へと向かう。賑やかだけれど騒がしいわけではない、そんな心地の良い雰囲気が広がっていた。

両手を組んで祈りを捧げたわたしは早速サラダを一口食べてみると、白ワインの香りが口いっぱいに広がった。しゃきしゃきとした食もいいし、オレンジの酸味とにんじんの甘さがよく合っている。

刻まれたくるみがいいアクセントになっていて、とても味しくて食べやすいサラダだった。

「んん、味しい」

またエールを一口飲む。

賑やかな笑い聲を背中で聞きながら、自分の他には誰も座っていないカウンター席へと目を向ける。

ここで待ち合わせをしているから、この後に會えると分かっていても。それでも早く會いたいと思ってしまう。この気持ちが落ち著く時が來るなんて、まだ想像も出來ないけれど。

なんだかそわそわしてしまって、緩む頬を隠すようにジョッキを持ち上げると、思っていた以上に軽くなっていた。これはもう飲んでしまって新しいものを頼もう。

ぐっと一気にジョッキを傾けると扉が開く音がした。そちらに目を向けると、中にってきたのは黒髪を下ろした貓背の人──ノアだ。

ノアは真っ直ぐカウンター席に進み、わたしの隣に腰を下ろしながら楽しそうに笑った。

「……何かおかしかった?」

「エールを飲み干してるところが流石だと思って」

味しいものは味しいうちに、でしょ」

確かに、なんてまたノアが笑うと、気付いたエマさんが廚房から顔を出してくれる。

「いらっしゃい、ノアくん」

「エールを……ふたつ。それから何かおすすめ頂戴」

「はーい」

にこやかに頷いたエマさんがまた廚房に戻っていったと思ったら、すぐにジョッキを二つ持って戻ってきた。け取ったジョッキはエールで満たされていて、わたしとノアはそれを掲げて乾杯をしてから飲み始める。

二杯目でもやっぱり味しい。

「もうし遅くなるかと思ってたんだけど、大丈夫だった?」

「ああ、書類仕事が殘ってただけだったから平気。さっさと終わらせてきた」

「それなら良かった。お疲れ様」

「お前もお疲れ様。ちゃんとマルクさんに送って貰ったのか?」

分厚い前髪の向こう、眼鏡の奧の瞳は心配のに染まっているのだろうと分かる。聲にもそれが溢れていた。

心配だと笑う事も出來ないくらい、今年の夏は々とあったから。その気持ちが嬉しかった。

「ええ、送って貰ったから大丈夫」

「安心した」

ノアがほっとしたように笑う。その口元が笑み綻ぶだけで、わたしの鼓は早まるのだからどうにかならないものだろうか。

「はい、お待たせ~。今日は鯛と夏野菜のソテーよ」

「ありがとう」

エマさんとマスターが、わたし達の前にそれぞれお皿を置いてくれる。

ふわりとバジルの香りが立ち上って食をそそった。

「ごゆっくり」

マスターが軽く會釈をして、エマさんと一緒に廚房へと戻っていく。腕まくりをしたエマさんは何か笑ってお喋りしながら、マスターの背中を叩いていた。

カトラリーを取ったわたしは、改めてお皿へ視線を向けた。

ソテーされた鯛の切りに添えられているのは、ズッキーニ、なす、トマト。鮮やかな野菜は見るからに味しそう。

鯛を食べやすい大きさに切って、口に運ぶ。

焼かれた皮も香ばしくて味しい。焼き目のついたズッキーニにバジルソースを絡めて食べてみると、溢れる旨味に吐息がれてしまった。

味いな」

「ええ、とっても。お野菜も味しい」

味しいご飯で気持ちが満たされていく。

さっきまでのそわそわした気持ちが落ち著いたかと思ったら、楽しさとか嬉しさとか、んな気持ちが溢れてくるようだった。

ノアに會えて、一緒にご飯を食べる。

もう當たり前のようなこの時間がおしい。

そんな事を考えていたら、パチンと獨特の音がした。

聞き覚えのあるそれは、懐中時計の蓋を閉める音。どうかしたのかとノアに目を向けると、彼は時計をポケットにしまってからジョッキを手にしていた。

「まだ時間があるなと思って。見るだろ、流星群」

「ええ。この日を楽しみにしていたんだもの」

そう、今日は星降りの日。

一年に一度、決まった時間。東の空に沢山の星が流れる日。

そんな特別な日だから、今年はノアと一緒に過ごしたいと思っていた。

「俺も楽しみにしてた。お前と、一緒に星を見られる日を」

想いの乗せられた甘い聲。

顔が熱いのはきっとエールのせいだけじゃなくて。

おかしそうにノアが笑うのを橫目に、わたしは二杯目のエールを飲み干していた。

恥ずかしさを誤魔化す為なのも、きっと彼には伝わっているだろうけれど。

明日も更新しますので、お付き合い頂けたら嬉しいです。

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