《傭兵と壊れた世界》第七十八話:ナバイア研究所

丘の向こうに跡が広がった。

跡といっても全貌は把握できない。何故ならば巨大湖の中に沈んでいるからだ。湖の中央に口と思われる建が見えた。建から陸地へ四本の橋が架けられており、水中を覗くと跡が深くまで沈んでいるのが確認できる。

「――全員無事か?」

通信機からエイダンの聲が聞こえた。

「こちら支援部隊、無事よ。ウォーレンも問題ない?」

「――大丈夫だ。うちの船は損耗もない」

「良かったわ。それにしても、丘を越えた途端に妖が止まったのは何故かしら」

「――その質問には僕が説明しよう!」

クレメンス商人が割り込んだ。突然耳元に響いた大聲にナターシャは顔をしかめる。

「――この湖は原生生にとっての聖地だ。家、もしくは故郷と言ってもいい。ナバイアに生息するすべての生きはこの湖から生まれ、湖に還る。だから丘を越えた僕たちを彼らは襲えないんだよ。自らの手で聖地を荒らすことになるからね」

船が橋を渡る。なんとなく振り返ったナターシャは肩を強張らせた。無數の妖が恨めしそうに手を揺らしながら、丘の上に並んでいたからだ。つられて振り返ったイグニチャフが「うぉっ!?」と素っ頓狂な聲を出した。妖たちは靜かに、跡へ向かう侵者を見送った。

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船は建の隣で停泊した。船から現れる調査隊の面々。久しぶりの顔合わせである。第三六(さぶろく)小隊とクレメンスの船員、そして支援部隊。出発時はブルフミュラー商會の護衛船もいたのだが、隨分と數が減ってしまった。

「もう一度確認しよう。僕たちの目的は跡の調査、そして中立國が殘したとされるの回収だ。部には原生生が殘っているかもしれない。跡の崩落、もしくは中立國の警備裝置。何が起きてもおかしくないだろう」

クレメンスが脅すような口調で語る。

「だが安心しているよ。シザーランドの名高い傭兵がついているからね。僕は君たちを信用しよう。必ずや僕を最深部まで送り屆けてくれるはずだ」

同時に跡の部から風が吹き抜けた。足地に吹く冷たい風だ。

調査隊が建部へ進む。はるか昔に建てられた部は老朽化しており、ひび割れた壁から苔や珊瑚が生えている。跡は下へびるような形狀だ。が屆かない跡が真っ暗な闇に包まれており、調査隊は封晶ランプの明かりを頼りに下りていく。

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「ナバイアの膨大な水は幾度となく氾濫し、そのたびに中立國は頭を抱えたそうだ。どうにかして氾濫を防げないか。苦悩の末に生まれたのがナバイアの跡を水処理施設に利用する考えだった。過剰な水を湖にためてから、地下を通して大陸の各地に流すのさ」

クレメンスは誰に聞かれるでもなく跡について語った。この男は口を閉じると死んでしまうのではないか。

「ここは中立國にとって丁度良い隠れ蓑(みの)でね。水処理施設を建前にして、表に出せない研究がおこなわれたそうだ」

「よく足地で研究をしようなんて思ったわね」

「いいや、順序が逆だよ。研究施設が建てられたのは中立國が建國してすぐの頃。當時はまだ結晶風が吹いておらず、兇悪な原生生も生まれていない。ただ莫大な水量の原が広がっていただけなんだ」

ナターシャの相槌にクレメンスは嬉しそうな表を浮かべた。誰も反応してくれないのは悲しいからだ。

「何の研究をしていたの?」

「それは分からない。なにせ文明の崩壊と同時に多くの書が失われたからね。今話した容だって斷片的な歴史を僕なりにつなぎ合わせただけだから」

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「なるほどね。まあ、ろくな研究じゃないでしょう」

跡の部は複雑な構造だ。枝分かれした階段が木ののように広がり、気を抜くと道はおろか方向すら分からなくなる。

イグニチャフは何となく手すりをろうとし、手のひらに気の悪いがして引っ込めた。見れば丸い貝のような生きがびっしりと生えている。手すりだけではない。床や天井にも貝や珊瑚が張り付いており、海から水だけが消えたような空間だった。

「な、なあ、何で陸地なのにこいつらは生きているんだ?」

彼は隣のナナトにたずねた。

「さあねぇ、頑張って適応したんじゃない?」

「んな適當な」

「適當でいいのさ。考えるのは俺たちの仕事じゃないもん」

最初は石造りの無機質な床が続いたが、ある場所を境に雰囲気が変わり、木の手すりや本棚といった水処理施設に相応しくない調度品が現れた。ここから先が本當の研究所だ。封晶ランプをかざすたびにカサカサと何かがくような音がした。遠くからの歌聲が聞こえてくる。また螺旋貝が歌っているのだろうか。

「不気味な場所だぜ。ここじゃ祈りだって屆かない。なにせ空が見えないんだから――」

暗闇からしいが浮かび上がった。イグニチャフは思わず手を止めて見惚れる。彼は服を著ていない。だが違和はまるでなく、そもそも服なんて存在しないのが普通だとイグニチャフは錯覚してしまう。は細い両腕をイグニチャフの肩に回し、しなだれかかるように顔を近づけた。

このときイグニチャフは思った。そうか、しいは磯(いそ)の香りがするらしい。

やがてがイグニチャフに重なろうとする。

「何やってんのよ馬鹿」

イグニチャフの目の前での頭がぜた。彼の顔にが飛び散る。

「なっ、んな、ちょっ!」

「よく見なさいな。人間じゃないわ」

と思われたのは上半だけであり、腰から下は鱗が生えている。人魚のような姿だが尾ひれは付いておらず、代わりにタコのような手が足の代わりにいていた。

ドットルは腰を屈めて興味深そうに観察する。

「変わった生きだね。人魚のなりそこないってところかな? 殘念だねえイグニチャフ、もうしで良い気持ちになれたのに」

「ふざけんな小太り、誰が化けに口づけをするか」

「そう言いつつ見惚れていたじゃん。神父ってのは意外とむっつりなんだね。ふふ、思っていたよりも君とは仲良くなれそうだ」

イグニチャフは心の底から嫌そうな顔をした。たとえ追放されても心は神父なり。変態と同類に思われるなんてたまったものじゃない。

「何の銃聲だ」

前方からエイダンの聲がした。

「原生生に襲われたわ。人魚みたいな見た目で暗闇から現れる。注意して」

さて、銃聲を鳴らせばどうなるか。

答えは簡単、暗闇で視力が退化した原生生は音に敏であり、銃聲を聞きつけて化けが群がってくる。

「來るぞ!」

エイダンが前方でんだ。直後、いくつものの顔が暗闇から浮かび上がる。そのどれもが端正な顔だちをしており、瞳は白濁、口元は鋭利な牙が並んでいた。

な(・)り(・)そ(・)こ(・)な(・)い(・)の歓迎會だ。

青白い顔が暗闇に浮かぶ景は非常に不気味である。もうし近寄って下半が目にろうものなら更に不気味である。人の顔をしていながら無表なのも良くない。

なりそこない以外にも音にわれた生きはいる。いったいどこに隠れていたのか、本棚の影や道の奧から珊瑚憑きが現れた。ナターシャは頬を引き攣らせる。はて、これは選択を誤ったか。

エイダンは崩落の危険を考慮して重火砲を満足に扱えない。つまり調査隊の火力は激減しており、特に対多數戦における決定打が欠けていた。

「全員走れ! 襲ってくるやつだけを迎撃しろ!」

エイダンの言葉を合図に調査隊は走り出した。先の見えない暗闇へ。何が待つかも分からぬナバイアの闇へ。

水沒原にってからずっと逃げているような気がするが、殘念ながら矮小な人間は逃げるしかないのだ。足地は偉大である。そして強大である。本來ならば踏みれることすら恐れ多いというのに、原生生に手を出すなんて罪深いこと、この上なし。

「援護をしてくれ、俺だけじゃ手が足りない!」

ウォーレンがんだ。彼の前方にはクレメンスを始めとしたブルフミュラー商會の男たちが必死に走っている。だが傭兵でない彼らの足は遅く、すでに何名かはなりそこないの腕に捕まりかけている。

ナターシャは白拳銃を引き抜いた。結晶銃では取り回しが悪いため、慣れ親しんだ銃をなりそこないに撃った。

「私が加わっても足りないわよ!」

いくらナターシャが闘しようとも全員を守ることはできない。どこから現れるか分からないため後手に回らざるを得ないからだ。傭兵ならば突然襲われたとしても対処のしようがあるが、クレメンスのような戦闘の心得がない者は悲慘だ。

商會の一員であるが捕まった。なりそこないの両手が彼の頬に添えられ、艶(なまめ)かしいがゆっくりと近づく。なりそこないの腕は見た目に反して力強く、彼は必死に抵抗するが引き剝がせない。やがて彼がなりそこないと重なった。

「んっ!!」

言葉にならないび聲が上がった。なりそこないが舌をからめて商人のを吸う。數度、痙攣したように彼が震え、なりそこないがを離したとき、商人の瞳からは力が失われていた。

人魚にれなかった化けは足りないものを求める。人が捨ててはいけないもの、彼たちが食らうのはや魂だ。無表だったなりそこないが初めて恍惚とした笑顔を浮かべた。

「この化けが!」

ウォーレンがなりそこないの頭を撃ち抜いて商人に駆け寄った。だが時既に遅く、彼の心臓は止まっていた。

研究所はれっきとした足地なのだ。この地で失われた命、積もった怨嗟の聲を比較すればラフランにも劣らない。中立國がどうしても隠したかった研究所。なりそこない達はたとえ化けになってもなお、自分たちが研究の果てに目指した姿を求めているのだ。

「走りなさいウォーレン! もう手遅れよ!」

呆然とするウォーレンの腕をナターシャが摑んだ。小柄な彼ではウォーレンを引っ張るなんて出來ないが、彼は無理やり大男を立たせた。悲しむ時間は後でいくらでも作れるのだ。

「待て、彼を殘すわけには――」

「手遅れだって言ってんの! あなたも化けと仲良くするつもりなら知らないけど、死を抱えて逃げるなんて不可能よ! 間に合わなかった命には生き殘ってから謝りなさい!」

納得できない表を浮かべたままウォーレンは走った。仲間を失ったことがない彼には難しい決斷だ。されど逃げるしかないのは彼も理解しており、一瞬だけ目を伏せてから前を向く。

やがて前方に大きな扉が現れた。調査隊はドタバタと駆け込むように扉の中へ駆け込んだ。

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