《オーバーロード:前編》戦-9

危険知能力という言葉がある。

冒険者の中でもシーフに代表される探知系の技能保有者が、重要視する能力であるそれは、読んで字の如く、危険を知する能力だ。

この能力は直――推理や考察などによらず、覚的に事を瞬時にじとること――による場合と、経験等の推理や考察から察知する場合の2種類存在する。蟲の知らせとも言われる心のざわめきが前者であるなら、僅かな周辺環境の変化――微かな匂いや、僅かな音、そういったものから敵の奇襲等を見破るのが後者だ。

そして後者の場合、戦場に出ることやたった1人で旅をする場合に、鍛えようとしなくても獨りでに鍛えられる場合がある。これは言うまでも無く、死線を掻い潛ったことによる経験から來るものである。安全な場所だと思って気を抜くことや、狀況の変化の察知に失敗したりすることが、死に直結する環境のため、無意識でもこの危険知能力が厳しく鍛えられるからだ。

そしてリザードマンのような生は人間よりも、その能力に優れる率は高い。それは生的な能力――の鋭敏さから來るものであり、厳しい生存環境から來るものでもある。人間であれば、一応はモンスターから離れた安全な場所で眠るだろう。しかし、リザードマンの生存する環境下では直ぐ橫にモンスターが存在するのだ。

そんな環境下であれば、危険知能力が人間よりも優れるのも納得してもらえるだろう。

そんなリザードマン。

特にザリュースからすれば、家の外の雰囲気の変化の察知に失敗するわけがない。

とも取れるような空気のざわめく気配に、ザリュースは敏に反応し、目を開く。

見慣れた――といっても寢泊りしているのは數日間だけだが――室が目にる。明かりのってこない室は、人であれば目を凝らしても見ることが出來ないが、リザードマンであればさほど苦ではない。

に異常は無い。

周囲を見渡し、それを確認したザリュースは、僅かな安堵の息と共にを起こす。

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今まで眠っていたにも関わらず、ザリュースの意識は平時となんら変わらない狀態まで覚醒している。寢ぼけたりはしていないどころか、直ぐに戦闘に移れるようなの活狀態だ。

無論これは、ある程度鍛えられた戦士であれば當たり前ではある。そしてまた、リザードマンという種族の眠りの淺さに起因するものだ。

しかしながらザリュースの橫で寢る、クルシュに起きてくる気配ない。

ザリュースという暖かさをじさせる存在を失ったクルシュは、まどろみの中、微かに不満げな鳴き聲を上げているだけだ。

本當に深い眠りだ。

通常時であればクルシュもこのざわめきをじ取り、目を覚ましただろう。しかしながら今回は失敗してしまったというところか。

ザリュースはしばかり後悔していた。多、クルシュのに負擔をかけ過ぎただろうか、と。

ザリュースは昨晩の記憶をたどり、確かにクルシュの負擔の方が大きかったかもしれないと納得する。あのリッチという強大な敵を倒してそのままの流れで、だ。オスであるザリュースよりは、メスであるクルシュの方が負擔は大きかったということだ。

個人的にはそのまま寢かしておきたい。しかしながら、耳をそばだてれば家の壁を通して、多くのリザードマンが慌てているのが聞き取れるのだ。そんな何らかの非常事態が起きている狀況下で、寢かしておく方が危険だろう。

「クルシュ、クルシュ」

ザリュースは數度、多強めにクルシュを揺さぶる。

「ん、んぅ」

尾がくねり、それから直ぐにクルシュの赤い瞳が姿を見せる。

「ん? んうぅ……?」

「何かあったようだ」

その一言で、未だ眠たげだったクルシュの瞳が大きく見開かれる。それを確認し、ザリュースはそばに置かれていたフロスト・ペインを手にすると立ち上がる。遅れてクルシュも立ち上がる。

人間であれば服を纏ったりと々しなくてはならないことがあるかもしれないが、リザードマンにその必要はない。2人は揃って家の外に出る。

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外に出て、騒ぎの発生源はすぐにザリュースは、そしてクルシュは理解した。

その原因は――天空。

村の頭上を覆うかのように広く掛かる、厚い黒雲を確認して。

これは通常のものとは違う。ザリュースが遠くを見れば、雲ひとつない晴天が広がっていた。

つまりこれは――。

「また……來たのか」

そう。

偉大なる方の存在の手の者が、再び來訪したことを意味する符丁――。

「そうみたいね」

同じものを見、確信したクルシュが同意する。5部族の、共に戦ったリザードマンたちも同じように天空に掛かる雲を視認することで騒いでいる。しかしながら、そこに恐怖のはない。

昨日の戦い――圧倒的な不利を跳ね除けた上で得た勝利が、心を強くしているのだ。現狀では、また來たか程度の揺しか生んでいないのだ。

「行こう」

「ええ」

ザリュースとクルシュは村の正面門に目掛け走る。

バシャバシャという水音を立てながら、疾走。幾人もの戦闘準備を整えつつあるリザードマンの橫を通り越し、大して時間を掛けずに正面門まで到著する。

多くの戦士階級のリザードマンたちが門から外を伺っている。そんな中に1つの異形なリザードマン。片腕が異様に太く逞しい影――ゼンベルだ。

激しい水音を立てながら走ってきた2人に対し、ゼンベルは軽く手を上げることで挨拶とし、すぐに門の外を顎でしゃくる。

ゼンベルの橫に並び、門から外を伺うザリュースとクルシュ。

250メートル向こうの岸辺。地と森の境目ともいうべき場所。

そこにいたのは隊列を組んだスケルトンたちだ。それもかなりの數。前回の數と比較するなら同數ぐらい、いやないぐらいだろうか。リザードマンを數倍する數である。

「また來やがったな」

「ああ……」

ゼンベルに答え、ザリュースは1つ、舌打ち。

予測できていた結果だ。あれで敵の攻撃は終わらないだろうとは思っていた。

しかしながらあまりに早すぎる。負傷したリザードマンを治癒魔法で完全に癒す時間も、死者を弔う時間も、防備を強化する時間も無く攻めてくるというのは予想外だ。

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ザリュースは僅かに顔を顰める。相手をあまりに甘く見すぎたかと。

スケルトンとゾンビの大群をあれだけ滅ぼしたのに、再び大軍をかすだけの力を持っていたとは。

「……あのリッチが召喚した骸骨よりは弱いだろうけどよぉ」

その言葉の後ろにある意味。それは今隊列を整えているスケルトンは、この前に攻めてきたスケルトンよりも強いと、ゼンベルは判斷しているということだ。

ザリュースもそこに並ぶスケルトンを、真剣に観察する。どれだけの力を持つ存在なのか、どれだけの警戒が正しいのかを見極めるために。

外見的には確かにスケルトンのようだ。

刺突攻撃に対して完全耐を有する、そののついていない骨の。それも厄介だが、最も厄介なのは筋がついていないため、どれだけの能力を有するか外見からは判別できないことだ。

外見的に決定的に違うのは武裝だ。先のスケルトンは持っていたのは錆び付いた剣だった。だが、今回來ているスケルトンたちは立派な當て<ブレスト・プレート>を纏い、片手には逆三角形をばしたような形狀の盾――カイトシールド、もう片手には各種多用な武を持っている。背中には矢筒と合長弓<コンポジット・ロングボウ>。

攻守長短に対してしっかりと裝備を整えている。

それだけで先のスケルトンとは、段違いであることが読み取れる。さらには心なしか、格も良いような気さえする。

そこまで観察したザリュースは、ある事実を発見し、己の目を疑い、數度手でる。しかしながら依然として、それは事実として存在していた。

「え?」

「ば、バカな……」

クルシュの驚きの聲にあわせ、同じ事実に気づいたザリュースは、を吐かんばかりの呟きをもらす。それにゼンベルが反応した。

「……おう、ザリュース。おめぇも気づいたかよぉ」

ゼンベルの、やはりを吐かんばかりの聲。それは信じられないものをその目にしたために。

「ああ……」ザリュースはそこで口を閉ざす。言いたくはない。言ってしまうと恐ろしくなるから。しかし言わないわけにもならない。「……魔法の武のようだな、あれは」

クルシュが橫でこくこくと首を縦に振っている。

――そうだ。

そのスケルトンたちが持つ様々な武。それは魔法の力を付與されているのだ。あるスケルトンは炎を宿す剣を所持したと思ったら、別のスケルトンは青雷を宿すハンマーを持っている。穂先が緑がかったに包まれた槍を持つ者、どろりとした紫に包まれたようなシックルを持つ者だっている。

そんなザリュースの驚きを、ゼンベルは容易く強める言葉を放る。

「ちげぇぞ。鎧や盾もよく見てみろ。ありゃ……全部魔法の武だ」

ゼンベルの言葉にザリュースは目を凝らす。

そして思わずき聲を上げてしまった。盾も鎧も日を反したとは思えない、まるでそのもの自を宿しているというように見えるという事実に気づき。

どれほどの存在であればあれだけの數の、スケルトンの兵士に魔法の裝備を持たすことが出來るというのか。確かに一時的に、または単純な切れ味を高める魔法を込めた武なら、大きな國なら長期間の計畫を立てれば可能だろう。しかし、魔法の武にそれぞれの屬を――それも多種多様となってくると話が変わってくる。

ザリュースは旅に出て、山に住んでいたドワーフたちから様々な知識を得た。

ドワーフは山の種族であり、金屬に関しては優れた能力を所持する種族だ。そのドワーフたちが酒の席で語るような英雄譚――ドワーフの大帝國を築いた王、ミスラルの鎧にを包んだ英雄、ドラゴンを一騎打ちの末に殺した者、そしてかの13英雄の1人『魔法工』。そんな者達の話ですら、あれだけの魔法の裝備を整えた兵団の話はない。

では今、ザリュースが目にしているものは何だというのか。

「……神話の軍隊か」

人の語ではないとするなら、もはやそれは神の語の世界だ。

ザリュースは全をぶるっと、1回だけ大きく震わす。あまりに予想以上、決して敵にしてはいけないものを敵にしたのではと思って。

だが、だ。

これも分かっていたことではないか。相手は恐らくは強者だと。元よりここには全滅覚悟で集めたのだ。その計畫の発案者である自らが怯えてどうなるというのか。想像を絶するほどの強敵だった。それは理解した。問題はそれだからどうするかだ。

勝利が自分の心を緩めたのか。

相手の話を思い出せば、ザリュースたちリザードマンは相手の第一波を撃退することで価値を示した。ならば、相手は最低でも何らかの渉は取ってくるだろう。そのときに怯んでいれば、評価が下がる可能は高い。

そう判斷し、自らの心に活をいれ、ザリュースはスケルトンたちを睨む。

その中にいるだろう敵の指揮を見かそうと――そのとき、ぞくりとするような冷たい風。それがザリュースの全で回す。

「風が……」

クルシュも寒いのだろう。自らのを抱きかかえるようにしながら、空の狀況を伺っている。

確かに空には厚い雲が掛かっており、日を遮ることで寒さをじてしまうのだろう。それは當たり前の予測であり、通常であれば間違いのない答えのはずだ。しかし、ザリュースは直する。

それだけでは無い、と。

再び風が吹きぬけ、震いするような寒さがクルシュは襲われたのだろう。再びぶるりと、を震わせている。フロスト・ペインを所持しているザリュースは、冷気防効果の一環として、ある一定以上のダメージのこない寒さはじることが出來ない。だからザリュースはクルシュをぐぃっと抱き寄せる。

「大丈夫か?」

「ええ。……暖かい」

俺もさみいな。そんなことを言っているゼンベルは2人とも視界にれず、ザリュースは自らの溫をクルシュに分け與える。傍から見れば仲の良いつがいが抱き合っているような姿で、ザリュースはクルシュに質問をする。

「クルシュ。この時期にこんな寒い風が吹くっていう話を聞いたことがあるか?」

「いえ、ないわ。でも天候作魔法を発させているから、こんな寒い風が起こったとしてもおかしくはないかもしれない」

クルシュもまた、ザリュースにしか聞こえないような小さい聲で自らの推測を返す。それを聞き、ザリュースは顔を歪める。

「不味いな……」

「え? 何が?」

「おいおい、なんかやべぇ雰囲気だぜ?」

ゼンベルの言葉どおり、この異様な寒さをもたらす風によって、この場に集まったリザードマンたちが不安げな表を浮かべていた。顔に宿っていた先ほどまでの自信に溢れていたものは殆どない。子のような不安がにじみ出ていた。

ザリュースの不安が的中だ。

この時期からするとありえないような冷たい風――つまりはありえないような自然環境の変化。それがリザードマンの士気をがた落ちにしているのだ。

これはリザードマンが魔法というものを知らないためであり、そして自然は決して人の手で支配できるものではないという経験からだ。つまりは自然を変化させた、即ちそれを行った存在は人を超越しているという想像に繋がるのだ。

そう。これから戦うだろう敵がどれほどの存在か。この吹き抜ける冷たい風は、その強大さを雄弁に語っているのだ。

「上手い手だな」

舌打ちをしつつもザリュースはこの魔法の効果を認める。一気に士気を下げた手腕は見事だとしか言えないだろう。士気の低下を狙っての行だとするなら、ここで駄目押しをする――

き出しやがった」

そうだ。スケルトンたちがき出したのだ。

ザリュースはぎりっ、と歯を噛み締める。大きくこうとした尾は意志の力で押さえ込む。やはりこのタイミングでくか、と。

浮き足立ったように周囲の戦士階級のリザードマンたちが揺する。これから攻めてくるのかと警告の唸り聲を上げているものさえいる。その中において、ザリュースは違うと判斷する。

あれは戦闘のためのきではない。だが、揺しているリザードマンからすればそれは攻めてきているとしか思えない。

ザリュース、そしてゼンベルが落ち著かせようと聲を上げかけた瞬間――

「――落ち著け!」

ビリビリと空気が軋むような、裂帛の気勢が響く。その聲は大きすぎるわけではない。しかし抗うことの出來ないような、自信と貫祿に溢れていた。

その場にいた全てのリザードマンがその聲に呑まれ、きを止めて聲のあった方向を見る。

そこにいたのはシャースーリューである。

「もう一度言う。落ち著け」

靜まり返ったこの場所に、シャースーリューの聲だけが響き渡る。

「そして怯えるな。戦士たちよ。祖霊を――お前達の後ろにいるだろう多くの祖霊を失させるような行為は慎むのだ」

冷靜さを取り戻し、靜まり返ったリザードマンたちの間を抜け、ザリュースの側まで歩いてくる。

「弟よ、向こうのきはどうだ?」

「ああ、兄者。き出したが……戦闘準備とは違うみたいだ」

「ほう」

き出したスケルトンたちが作ったのは、500からなる十列橫隊だ。

「なにをする気だぁ?」

ゼンベルの呟き。それはその場にいる誰もが思ったことだ。幾らなんでも隊列を組みなおしただけではないだろう、と予して。そしてその質問が出るのを待っていたかのように、スケルトンたちは再びき出した。

その橫隊が一部の狂いもない完璧な行を取りながら、中央から左右に分かれたのだ。そうして20分ぐらいの間が空く。その隙間――そこには1つの影があった。

大きさ自は大したことは無い。250メートルという距離があっても、ザリュースよりは小さいだろうと自信を持って言える。その影は漆黒のローブを纏い、手には黒い靄のようなものを上げる、杖のような何かを持っている。

昨日戦った強敵、リッチを髣髴とさせるような格好だ。ゆえに、恐らくは魔法使いだろうと推測が立つ。

ただ、それを目にしたザリュースの背筋に冷たいものが走る。

昨日のリッチを遙かに凌ぐ、強者の予を覚えて。

『……おお!』

何をするつもりなのか。固唾を呑んで見守るリザードマンたちが、一斉に揺の聲を上げた。突如としてその魔法使いを中心に、10メートルにもなろうかという巨大なドーム狀の魔法陣が展開されたのだ。

魔法陣は蒼白いを放つ、半明の文字とも記號ともいえるようなものを浮かべたものだ。それがめまぐるしく姿を変え、一瞬たりとも同じ文字を浮かべていないように思える。

が遮られているために、リザードマンたちの場所から非常にはっきりとそんな景が見えた。

もしこれがリザードマンに敵意を持ってない存在が行っていることなら、幻想的とも言える景だ。蒼く澄んだが姿を変えつつ、周囲を照らす様は。

しかしながらこの狀況下で見惚れているわけにはいかない。

あれはなんだというのか。一何をしようとしているのか理解できずに、ザリュースは困する。

魔法使いが魔法を使う際、あのような魔法陣が空中に投影されることはない。今、相手が行っていることはザリュースの知識にない行だ。そのため、この場で最も魔法に関する知識があるだろうメスに問いかける。

「あれは、一?」

「し、しらない。あんなもの知らないわ――」

ザリュースの質問に、クルシュが怯えたように返す。魔法に関する知識があるからこそ、何をしているのか理解できないのが余計恐怖に繋がるのか。

ザリュースが宥めようとした、次の瞬間。

魔法が発したのか、魔法陣が弾け、無數のの粒となって天空に舞い上がる。そして一気に――発するかのように天空に広がった。

リザードマンは知らない。

そしてまた世界も知らない。

この世界で始めて使われる魔法。

それは500年前、そして200年前に使われたことのある最高位魔法と同等のもの。

超位魔法が1つ――世界を改変する大魔法。

即ち、それ――

結果、湖は――

――凍る。

何が起こったか理解できたものは誰一人としていなかった。そう、その場にいたリザードマン誰もが、だ。

族長として類まれな才覚を持つシャースーリュー、祭司の力に優れたクルシュ、そして旅人として経験をつんだザリュース。リザードマンの歴史上、恐らくは才覚という言う點では上から數番目に位置するだろう者達ですら、そのあまりの事態を直ぐには理解できなかったのだ。

己の足が氷の下にあるなんて、理解できなかったのだ。

遅れて――目の前で起こっていることを脳がけ止められるだけの時間が経過し、絶が上がる――。

リザードマンの誰もが、そう――誰もが悲鳴を上げたのだ。

ザリュースとてそうだ。クルシュもシャースーリューも、そして豪膽では隨一だろうゼンベルも。自らの心の奧底、魂から這い上がるような恐怖に我を忘れて絶を上げる。

そのあまりにも恐ろしい事実。決して凍らないとされる湖。自らが生まれてからずっと変わらずに存在した事実。

それが歪められ、凍りついたのだ。

氷というものは知識としてあるだけだろう。そう思ってきていたのだ、全てのリザードマンが。

その恐怖は、いわば太が西から昇りだしたのを目にした人間が上げるのに似たものだった。

リザードマンたちは慌てて足を引き上げる。氷自は幸運なことにさほど厚いものではなかったため、直ぐに割れるのだが、割れた先から即座に凍り付いていこうとする。下から立ち昇る冷気、即ち突き刺すような冷たさが、これが幻ではないことを強く示唆する。

ザリュースは慌てて泥壁に昇ると周囲を見渡す。そしてそのあまりの景に絶句した。

視界範囲の湖が完全に凍り付いている――その風景を目にして。

およそ20キロ四方よりなる巨大な湖。その視界範囲の全てが凍り付いているのだ。

「噓……」

隣に昇ってきたクルシュが周囲を見渡し、ザリュースと同じようにあんぐりと口を開ける。そのぽっかりと開いた口からは、魂が抜け切ったような聲がれ出た。

信じたくないのはザリュースも同じだ。

決して凍ったことがないとされる湖。それを凍らせることが出來る存在なんかいるわけがない。そうだ。目の前で起こったとしても信じることが出來ないのだ。

どれほどの力を持つものがそのような行いを可能とするのか。

「早く上がれ!」

兄であるシャースーリューの怒號が響く。その聲に驚き、ザリュースとクルシュは泥壁の下を見下ろす。

そこには幾人からのリザードマンが力なく倒れていた。さほど數はいないが、それでもちらほらと見える。まだ無事なリザードマン――戦士階級の者がほとんどだ――たちが協力し合い、倒れた者を凍りついた沼地から引き上げる。

引き上げられるリザードマンは皆、顔が悪く。を小刻みに震わせている。

ザリュースが見たじ、溫の低下による癥狀によく似ている。立ち上る冷気によって生命力を奪われたのだろう。

「兄者、俺が見て回る!」

フロスト・ペインを所持するザリュースにこの程度の冷気ならば、影響をけるほどのものではない。

「いや……行くな!」

「何故だ、兄者!」

「これから敵がき出すはずだ。ここから離れることは許さん! 全てを見ろ。1つとして報を取り逃すことは許さん! 世界を見て回ったお前こそ適任なのだ!」

「しかし魔力を溫存すべきでは……」

「愚か者! すべきことを間違えるな!」

ザリュースから視線を逸らし、シャースーリューは周囲の戦士階級のリザードマンたちに話しかける。

「今からお前達に冷気に対する魔法の守り、《プロテクションエナジー・フロスト/冷気屬》をかける。直ぐにこの氷から離れるように、村の中を言って回れ。そして意識をなくした者がいたら応急処置を行うのだ」

「私もかけるわ」

「頼む」

「それとクルシュは俺と手分けをして、危険そうな者がいたら治癒の魔法をかけてくれ」

クルシュとシャースーリューによって、魔法の守りが6人のリザードマンにかけ始められる。

ザリュースは泥壁に上ったまま、敵陣地を睨む。今すべきことはシャースーリューから言われたこと。相手の一挙も見逃さぬよう、鋭い視線を送る。

不安がザリュースの頭を過ぎる。これほどの――湖を凍らせるほどの魔法を使う相手を、普通に見ていても問題はないのかと。目が潰れたりはしないのかと。

だが、そんな起こるかどうかわからないことに怯えて、敵のきを見ていませんでした。そんな言い訳が出來るものか。兄に言われたことを完璧に行わなくてはならないのだから。

「よいっしょっと」

橫に上ってきたゼンベルが、気楽そうに敵陣地を眺める。

「もうちっと気楽にしろよ。おめぇの兄貴はあれだろ、お前の知恵を期待してんだろ? 別になんか見逃したって、怒られはしないさ。それよりは注意しすぎで視野を狹めんなよ?」

ゼンベルの気楽そうな聲、それはすっとザリュースの頭が冷えたような効果をもたらす。

その通りだ。ザリュースは1人でやっているわけではない。多くの仲間と共に戦っているのだ。出來ることを皆で行って、そしてそれを束ねればよいのだ。

ザリュースは視線をかす。

ゼンベル以外の戦士階級のリザードマンたちも同じように泥壁に昇り、敵を観察している。

そう、1人で戦っているのではない。どうやら圧倒的な力――魔法を見せ付けられ、揺していたようだ。

ザリュースは息を吐き出す。心に溜まった淀みを吐き出すように。

「すまない」

「いいって事よ」

「……そうだな。ゼンベルもいるのだからな」

「ふん。頭に関しては期待すんなよ?」

微かに笑いあい、敵のきを眺める。

「しっかし。湖を凍らせたのがまじであれなら。ありゃ、本當の化けだな」

「ああ。桁が違うな……」

魔法使いは王者のごとき堂々たる姿で、ザリュースたちの村を眺めている。その小さいはずのが異様に大きく見えてくる。

「……あれが偉大なる方とか言う奴なんだろうな」

「恐らくは。湖を凍らせるほどの魔法を使うものが複數いるとは思いたくないな」

「だなー。ああ、納得だよ。こんなことを仕出かす化けからすれば、俺達リザードマンなんか糞みてぇなもんだろうな。あー糞。あー糞! 俺達が蟲を邪魔だから潰す程度の存在にしか思われてないんだろうな」

「…………」

ザリュースに言葉はない。なぜならザリュースもそう思っているから。

「抵抗って言葉がバカみたいに思えるな」

「……向こうが降伏を許さなかったら、どうする?」

ゼンベルが驚いたようにザリュースを見る。それからニヤリと笑った。

「突撃って言う名前の自殺をしてやるよ。まぁ、良い経験だろうよ。世界を狂わすほどの化けを相手に出來るなんてな」

「……ブレないな」

「……そいつは……褒め言葉だよなぁ?」

「その……つもりかな?」

「つーか……き出したぞ」

「ああ、そうだな」

湖を凍らせた魔法使いが、杖を持たない手を挙げ、村へと手を振る。

それに答えるように、森から隊列を組んで全鎧を纏った騎士のような者たちが進み出た。數はさほど多くはない。全部で40だ。

その戦士達の長は2.3メートルほどだろうか。

左手にはを3/4は覆えそうな巨大な盾――タワーシールドを持ち、巨を包むのは黒の全鎧。管でも走っているかのように、真紅の文様があちらこちらを走っている。そして機能を重視したものとは違い、棘を鎧の所々から突きたてたまさに暴力の現だ。

そしてその手には6メートルにもなる槍。槍騎兵が持つに相応しいであろうその槍には、布が吊るされていた。

槍旗である。

そんな者たちが、漆黒のマントをたなびかせながら、一糸れぬきで地に踏みる。足元で氷を踏み砕きながら、黙々と進んでいく。

そしてやはり完全にれぬきで、間隔を取りながら地を進んだその者たちは、手にした槍を數メートル隣の戦士と差させていく。

槍が互に組み重なり、40の異なる紋様の描かれた布が垂れ下がる中、一本の通路が出來上がった。

「……王の通り道か」

まさにその通りだった。

その下の凍りついた湖を、魔法使いはゆっくりと歩いてくる。

いつ現れたのか、後ろに複數の影を引きつれ。

先頭に立つのは、湖を凍らせた――もはや力の桁が理解できない魔法使い。それ以上になんと思えば良いのか。リザードマンの平均よりも低い背格好だが、その軀に想像を絶する力を包している、その化けを。

纏っているのは闇を切り抜いて作ったような漆黒のローブ。まるでを吸い込んでいくかのようだ。そして、手に持った杖は苦悶の表を歪め消えていくオーラを撒き散らしている。

そのフードの下――それはほぼ骸骨の顔。空虛な眼窟の中、真紅のがほのかに揺れている。

無數の――それもザリュースでは到底理解不能であろうと思われる――魔法の裝飾品にを包み、堂々と歩を進めてくる。

その魔法使いのしばかり後方、左右に並ぶのは、ダークエルフのと銀髪のだ。

ダークエルフのの金の絹のような髪は、肩口で切りそろえられている。金と紫という左右違う瞳。

耳は長く尖っており、薄黒い。エルフの近親種、ダークエルフ特有の皮をしている。

上下共に皮鎧の上から漆黒と真紅の竜鱗をり付けたぴっちりとした軽裝鎧を纏い、さらにその上に白地に金糸のったベスト。地には何らかの紋様。

腰、右肩にそれぞれ鞭を束ね、背中には巨大な弓――ハンドル、リム、グリップ部に異様な裝飾がつけられたものだ――を背負っている。

銀髪のの全を包んでいるのは、らかそうな漆黒のボールガウン。

スカート部分は大きく膨らみ、かなりのボリュームを出している。スカート丈はかなり長く、完全に足を隠してしまっている。フリルとリボンの付いたボレロカーディガンを羽織ることによって、元や肩はまるで出していない。さらにはフィンガーレスグローブをつけていることによって、殆どのを隠してしまっている。

外に出ているのは一級の蕓ですら彼を前にしたのなら恥じるほどの端正な顔ぐらいものだ。白い――健康的というのではない白蝋じみた白さ。長い銀の髪を片方で結び、持ち上げてから流している。

2人ともリザードマンの覚からするとあまりよくは分からないのだが、非常に人なのだろうと思われる。

そして一番最後を歩くのは――

「あれは……悪魔か?」

ザリュースの呟きに、ゼンベルは疑問の表を浮かべる。

悪魔。

それは暴力による破壊をもたらすデーモン。知恵による墮落をもたらすデビル。そういった異界の存在をまとめて呼ぶ時の名稱である。それは邪悪極まりない存在であり、知を持って生きる善良な存在全てを滅ぼすためにいるとされる。いわば悪の代名詞的なモンスターだ。

人間社會であれば非常に聞きなれた単語ではあるが、リザードマンの世界ともなれば別だ。この場合、知らないゼンベルのほうが普通なのだ。というのも自然と共に生きているリザードマンからすれば、悪魔という存在はあまりに縁遠いのだ。これは単純に文明的なものもあるだろうし、隔絶した世界であるということも言えるためだ。

ザリュースが知っているのは、旅をしている間にドワーフから聞いたおでだ。

ドワーフの話では、悪魔という存在がどれだけ恐ろしい存在かを延々と語ったものだ。200年ほど前、悪魔の王的存在、魔神が配下の悪魔を引き連れ、世界を滅ぼしかけたという伝承だ。

最終的には、かの13英雄が天界から9神を降臨させ、滅ぼしたということになってはいる。その戦いの傷跡が、今なお殘る場所もある。

アンデッドが生きるものへの憎悪を宿した存在なら、悪魔は生きるものを苦しめるための存在だ。

その悪魔の長は2メートルほどであり、沢のある赤。刈り揃えられた漆黒の髪は濡れたような輝きを持っていた。

赤い瞳は理知的に輝き、こめかみの辺りから鋭い、ヤギを思わせる角が頭頂部に向けてびており、背中から漆黒の巨大な翼が生えていた。

鋭くとがった爪のはえた手で一本の王錫を握り、真紅の豪華なローブにそのしなやかなを包む姿はどこかの王を彷彿とさせる威厳に満ちていた。

一行は黙々と歩き、40の槍旗の下を潛り抜けてくる。歩いた距離は160メートル。村まではもはや90メートル程度しかない。そして、そこで歩みを止める。

どうしたのか。

幾人かのリザードマンが不安げに互いの顔を見合わせる。そしてこの場では最も賢いだろう人に委ねることとする。

「……どうしますか、ザリュースさん。戦闘の準備を?」

「いや。その必要は無い。あのときのリッチを思い出してくれ。リッチよりも圧倒的に強いだろう魔法使いだぞ? この程度の距離を無視して攻撃を放つことは容易の筈。恐らくは……何か言いたいことがあるんだろう」

納得という顔をするリザードマン。

その間も向かってきた一行から視線を逸らさずに、ザリュースは観察を続ける。

もはやこの距離にもなれば、かなり詳細に観察できる。そう、互いの目線すら差する距離だ。

先頭を立つ魔法使いのものはこちらを観察するものだろうか。ダークエルフのは、この狀況下であるということを考えると、意外なほど敵意を持っているような視線ではない。銀髪ののは嘲笑をえたもの。悪魔のものには優しさすらあるのが恐ろしい。

互いを観察しあう時間が多流れ、それから先頭に立つ魔法使いが再び、杖を持たない手をの辺りまで軽く上げる。それに反応し、幾人かのリザードマンが揺から尾を激しくかす。

「――怯えるな。相手の前で無様な姿を見せるな」

まるで大きくは無いが、刃で切りつけるようなザリュースの叱咤の聲に、その場にいたリザードマン全員の背筋がぴんとびる。

そんなザリュースたちとは関係なく、魔法使いの前に黒い靄が複數起こった。

數にして12。

それは渦巻きながらしずつ大きくなっていき、150センチほどの黒い靄となる。やがて、そんな靄の中におぞましい無數の顔が浮かびあがる。

「あれは……」

ザリュースは思い出す。メッセンジャーとして村に來たモンスターのこと。そして旅をしていたときに見たアンデッドモンスターを。

あれは神的な攻撃を行ってくるため、ザリュースでも苦戦を免れないような非実のモンスターだ。さらには非実というのは魔法を付與された武や、特別な金屬から作られた武、魔法、特殊な武技を使用しなくてはダメージを與えることがほぼ困難な存在でもある。

リザードマンの全部族を合わせても、魔法の武なんかほんのししかない。そのため、1でも倒すのは非常に困難だろう。

そんなモンスターを12。しかも容易く生み出す――。

「有り得ない……」

認めたくは無いが事実は事実だ。ザリュースは周囲のリザードマンを伺う。魔法使いが今、行ったことがどれだけ凄まじいことか理解してないのか、驚きはあるものの恐怖のは見えない。多の安堵と共に、ザリュースは魔法使いを見つめる。

「化けが……」

なるほど納得だ。確かに、あれだけの力を持つリッチが、忠誠を盡くすだけの桁外れの存在だ。

ザリュースは絶と共にそう思う。

魔法使いは何事かを呟くと、行けといわんばかりに手を振る。そしてそのアンデッドたちは村を囲むように飛來する。

そして唱和が響いた。

『偉大なる方の言葉を伝える』

渉を偉大なる方はまれている。代表となる者は即座に歩み出よ』

『無駄な時間の経過は、偉大なる方を不快にさせるだけと知れ』

それだけを言うと非実のアンデッドは生み出した主人の下へと戻っていく。そして魔法使いの合図をけ、後方に控える銀髪のが、勢い良く手を合わせる。

そして――そのアンデッドは瞬時に消滅した。

「はぁ!?」

ザリュースは驚き慌て、思わず聲を上げてしまう。今、目の前で起こったことが信じられなくて。

今のは召喚したモンスターを帰還させたのではなく。消滅させたのだ。

アンデッドの消滅。それは神ならば行なえる行為だ。通常は退散させるのが一杯だが、互いの実力に圧倒的な差がある場合は、退散ではなく消滅させることが可能となる。ただ、多くのアンデッドを消滅させようとなると、飛躍的に困難になっていき、それだけの力を必要とする。

つまり銀髪のはそれだけの力を持つということ。

さらにたったあれだけの言葉を伝えるためだけに、あれほどの強さを持つアンデッドを使ったということだ。

「くっくっく――」

ザリュースは思わず笑いをこぼしてしまった。周囲のリザードマン――ゼンベルもあわせ――がザリュースを奇怪なものを見るような眼で眺める。そんな視線を無視して、ザリュースは微かな笑い聲を上げる。

「い、いったいどうしたんだ、ザリュース?」

「いやな――くく」

ザリュースの笑いは止まらない。

當たり前だ。笑う以外にどうしろというのか。これだけの力の差を見せ付けられて――。

「弟よ!」

「――おお、兄者!」

泥壁の下から聲に反応し、見るとそこにはシャースーリューとクルシュの姿があった。2人は泥壁を登り、魔法使い一行を眺める。クルシュはゼンベルとザリュースの間に、無理矢理を割り込ませる。その所為でゼンベルが落ちそうになるが、まぁ、許容範囲だろう。

「あれが敵の親玉か。見ているだけで背筋に何かが突き刺されるような存在だな。お前達が倒したリッチのような外見だが……強さは比較にならんのだろうが……」

「だよなぁ。はちっさいけど、どいつもこいつも化けだぜ、ありゃ」

「ゼンベルの言うとおりだ、兄者。あの後ろに控える者たちも桁が違うぞ」

「――え!? もしかしてあれは悪魔? 悪魔を使役しているというの? あの魔法使い?」

「そうみたいだな、クルシュ。悪魔に支配されるような存在ではないだろうからな」

「信じられない。他にいるのはダークエルフともう1人は何かしら? 人間みたいだけど……」

「単なる人間ではなかろう。それに後ろで旗を持っている騎士たちも恐らくはかなりの強敵だろうな」

「おれたちで掛かったらどれだけ倒せるかねぇ?」

ゼンベルの質問に答えるものはいない。々と予測できるが、それを口に出すと周囲で耳をそばだてているリザードマンの士気を極端に下げると思ってだ。

「……そういえば兄者のほうは終わったのか?」

「うむ、大は終わった。それにあの使者の言葉を聞いてはな」

「なるほど、確かにそうだな」

優先度は使者が伝えた容の方がはるかに高い。

「……そうだな。先にそちらを済ませねばなるまい。かの使者の言っていたことだが……ザリュース、來てくれるか?」

「…………」

無言でザリュースはシャースーリューをしばらく見つめる。それから深く頷いた。一瞬だけ、シャースーリューは辛そうな顔をし、誰にも気づかれないほどすぐに元の表へと戻す。

「すまんな」

「気にするな、兄者」

シャースーリューはそれだけ言うと、泥壁から飛び降りる。地に張った薄い氷が割れ、水音が響く。

「では、し行ってくる」

「気をつけてね」

ザリュースはクルシュを強く抱きしめると、シャースーリューに続いて地に飛び降りる。

湖面に張った氷を踏み砕きながらザリュースとシャースーリューは歩く。門から出てきた2人に対し、魔法使いの一行の視線が、理的な重圧を伴うかのようにザリュースはじられた。そして後方からは不安げな視線。その中で最も強い視線はクルシュのものか。尾を引かれるような強い思いを、必死にザリュースは耐える。

そんな中、ポツリとシャースーリューが言う。

「……すまんな」

「……何がだ、兄者」

「……渉が決裂したとき、場合によっては見せしめで殺されるからだ。分かっていただろう?」

「ああ……」

ザリュースの答えは短い。だからこそクルシュを強く抱きしめたのだから。

「妻が出來て――」

「言うな、兄者。相手が複數を連れてきているのだ。兄者1人でいかせるわけには行くまい。向こうもたった1人では侮られたと思うだろうよ」

そしてザリュースは確かにリザードマンでも名の知られた存在であり、渉の場に連れて來るに相応しい者だが、地位的には旅人。殺されたとしてもリザードマンの団結的には惜しくは無いだろう。

英雄が死んだとしても、他の王が生きていれば戦爭は行えるということだ。

そのまま2人は無言で歩く。

やがて距離が迫り、相手の姿がはっきりと見えてくる。それで分かるのだが、その魔法使いの一行は、皆、さほど厚くない氷の上に、平然と立っている。重が軽いとかそういう問題ではなく、何らかの魔法か何かを使用しているのだろう。

互いの距離が殆ど無くなり、渉をするには充分な距離となる。

そんな中、ザリュースもシャースーリューも、心臓が激しい鼓を打っていた。まるで心臓だけが飛び出してしまうような勢いで。

それの元はだ。

この圧倒的強者を前に、どのような渉が最も正しいのか。それが不明なため、非常に強い重圧がのしかかっているのだ。

本來であればへりくだるのが賢いのかもしれない。しかし、それで興味をなくされ、皆殺しという決定を下すかもしれない。だが、もし不遜だと判斷されたらどうなるか。

何が正解なのか、まったく分からないのだ。

いうなら真っ暗闇の中、凄まじく切れ味の良い武の上を、素足で渡っているようなものだ。

「來たぞ。リザードマンの代表、シャースーリュー・シャシャだ。そしてこっちがリザードマン最強の者」

「ザリュース・シャシャだ」

その言葉に返答は無い。魔法使いの一行は上から下まで観察をするような視線をくれるだけで、何か行を起こそうという気配はまるで見えなかった。

渉を要求したにも係わらず、異様な態度だ。一、どうしたというのか。ザリュースとシャースーリューは目線だけで互いの顔を伺う。何か失敗したかと。

そんな2人に答えを述べたのは、悪魔だった。

「我らが主は君達が聞く姿勢が出來てないと思われているのだよ」

「……何?」

「『平伏したまえ』」

突如、ザリュースもシャースーリューも跪いて、頭を地の泥の中に突っ込んでしまう。そうするのが當たり前としか思えなかったのだ。

非常に冷たい泥水が2人のを付著し、震いを起こす。割れた氷が再び凍り付いていく。

起き上がろうとすることはまるで出來ない。全にどれだけの力をれてもピクリともかないのだ。まるで眼には見えない巨大な手が上から押さえ込むように、2人のの自由を完全に奪っている。

「『抵抗するな』」

再び放たれた言葉を耳にした瞬間、ザリュースもシャースーリューも自分の意志とは関係なく、力が抜けていく。

2人が無様に泥の中に平伏する。そんな景に満足をしたのか、悪魔がしばかり離れ、自らの主人に話しかけるのが、見ることが出來ないザリュースの耳に聞こえた。

「アインズ様、聞く姿勢が整ったようです」

「ご苦労。――頭を上げろ」

「『頭を上げることを許可する』」

唯一自由にくようになった頭をかし、ザリュースとシャースーリューは前に立つ魔法使いを下から見上げる。

「遅れたが名乗らせてもらおう。私はナザリック大地下墳墓が主人、アインズ・ウール・ゴウン。先は私の実験を手伝ってくれたことに謝の意を示す」

まるで謝の意の篭って無い言葉をけ、ザリュースは一瞬だけ心から激しい怒りが湧き上がるのをじられた。あれだけのリザードマンの命を奪いながら、実験だと言い切るそのおぞましさに、激が炎となって心の中で燃え盛ったのだ。

しかし、すぐにそのは押さえ込み、完全に隠しきる。

當たり前だ。目の前にしたのは、想像を絶する力を保持した存在。湖を1つ凍らせるような強大な力の化けを、もし不機嫌にでもすれば、その瞬間何が起こるか想像すらできない。

死ねるのならば幸せ、という地獄が待っていてもおかしくは無い。

だからといって、おべんちゃらをいう気はこれっぽっちも無いが。

「後ろに控えるものは私の部下だが、特別今回の話に関わることは無いと思うので紹介は省こう。さて、それで本題だが……私の支配下にれ」

何かを言おうとしたシャースーリューを、魔法使い――アインズは軽く手を挙げ、止める。

無視して話しても良いことが無いと理解しているシャースーリューは、大人しく黙ることとする。

「――しかしながら君達といえども、自分達が勝利を収めた相手の支配下なんかにりたくはなかろう? ゆえに4時間後再び攻めるとしよう。もし君達が今度も勝利を収められたなら、私は完全に君達から手を引くことを約束しよう。それどころか君達に相応の謝罪金を支払うことすら約束しようじゃないか」

「……質問しても良いだろうか?」

「構わないとも」

「攻めてくるのは……ゴウン殿なのか?」

後ろに控える銀髪のが僅かに眉をかし、悪魔が微笑みを強める。恐らくは殿という言葉が気にらなかったのだろう。しかし、特別な行に出ないのは自らの主人が何も言わないからだろう。

そんな2人を気にすることなく、アインズは言葉を続ける。

「まさか、そのようなことはしないとも。私の信頼の出來る側近……それもたった1人だ。名をコキュートスと言う」

その言葉を聞き、世界が崩れんばかりの絶が、ザリュースを襲った。

もし數で攻めてくるなら、リザードマンにも勝利の可能はあっただろう。つまりは先の実験という、不快な進軍の流れを踏む行いである可能があるからだ。それであれば萬に1つの勝ち目はあるだろう。

しかしそうではないのだ。

攻め手はたった1人だという。

一度敗北した者がたった1人で攻めさせる。罰という考えを除けば、その言葉の後ろにあるのは、絶対の信頼をその存在に與えているということに他ならない。

桁外れの力を保有する存在が、信頼する側近。

その側近もまた桁外れな力を持つのだろう。……リザードマンでは勝算が無いほどの。

「降伏を……」

「おいおい。まさか戦わないで降伏するとかつまらないことを言わないでしいのだがね? 勝ち逃げはつまらんぞ? ちょっとぐらいは戦おうじゃないか。こちらだって適度な勝利は得たいからな」

シャースーリューの言葉を奪う形で、アインズは言葉の先を潰す。

つまるところ見せしめか。この下種が。

ザリュースは言葉には出さずに吐き捨てる。ただ、その反面正しい行いでもあると理解は出來る。

アインズは実験で出した兵が壊滅したことにはこれっぽっちも腹は立てていないのだろう。しかし、敗北したという事実を殘したまま、支配しようとしても上手く行かない可能がある。特にリザードマンは強さを尊む。

だから圧倒的な強さを見せ付ける気なのだろう。

つまりは今から行われることは――生贄の儀式だ。

リザードマンの多くを殺すことによって、反抗心をこそぎ奪い取るための。

「話したいことは終わりだ。では4時間後にたっぷり楽しんでくれ」

「待ってしい――この氷は溶けるのか?」

勝とうが負けようが、この氷が張ったままではリザードマンが生きていくには辛い環境だ。氷自はそれほど厚くは無いが、立ち込める冷気が々厳しい。れているものは冷気によるダメージによって死にわれるのだから。

「……ああ。そうだったな」

忘れていた。そんな軽い調子で答える。いや、事実、アインズからすれば軽いことなのだろうとザリュースは理解する。當たり前だ。これほど強大な存在からすれば、この程度の冷気はなんでもないのだろう。

地を歩いて泥で汚れるのが嫌だったから凍らせただけだ。岸辺に著いたら魔法の効果は解除するとしよう」

「な!」

ザリュースもシャースーリューも驚愕に息を呑む。

今、この化けはなんと言った――。

泥で汚れるのが嫌だから凍らせた?

もはやありえないとか、そんなレベルではない。

力の桁が違いすぎる。自然の力すらも容易くねじ伏せる存在。それも汚れたくないからという下らない理由で。

そんなものを前にしていたのか、とザリュースもシャースーリューも獨りぼっちになった子が持つだろう恐怖に襲われる。

「では、さようなら。リザードマン」

話すべきことを全て話し終えたと判斷したアインズは、軽く手を振ると踵を返して歩き出す。もはや興味は無い。そういわんばかりの態度だ。

「じゃあねー。リザードマンさん」

「さらばでありんす、リザードマン」

何も言わずに後ろに控えていた2人のが、そう聲をかけるとアインズを追って歩き出す。

「『自由にして良い』 さて、たっぷり楽しんでくれたまえ、リザードマン」

最後に殘った悪魔が優しく聲を響かせ、後ろを見せて歩き出す。

ぽつんと殘されたザリュースもシャースーリューも、泥の中に伏したまま、もはや立ち上がる気力が無かった。伝わってくる極寒の冷気すらもはや苦ではない。以上に心にけた衝撃は強すぎた。

ただ、黙って遠ざかっていく化けたちの集団の後ろ姿を見送る。

「ちくしょうが……」

シャースーリューには似合わないような呟き。そこには無數のが混じりあっていた。

戻ってきた2人を出迎えたのは、冷気からを避けるために、泥壁の上に昇った各部族の族長達だ。ゼンベル、クルシュ、それに小さき牙<スモール・ファング>の族長に鋭き尾<レイザー・テール>の族長である。

周囲にはそれ以外のリザードマンはいない。

に話したいことがあるとだろうと予測しての行だろう。ならば隠すことも無い、と考えたシャースーリューは、先の渉ともいえないような渉であったことを包み隠さず、単刀直に言う。

シャースーリューの重い言葉に、大きな反応を返すものはいない。皆、僅かに息を呑む程度だ。およそどのような渉になるか予測はしていたのだろう。

「了解だぜ。……んで、氷はどうなるんだ? 溶けねぇ事には戦いにもならねぇぞ?」

「問題ない。魔法は解除するそうだ」

「ふむ。渉の結果かい?」

スモール・ファングの族長の質問に対し、シャースーリューは答えることなく、薄く笑う。それを見て、答えを理解したスモール・ファングの族長は、遣る瀬無さそうに頭を橫に振った。

「君達が行っている間にちょっと調べたんだがね。……湖の中に敵の影があった。スケルトンの兵士のようだよ。恐らくは包囲する形で待機しているんだと思われるね」

「にがーす、き……かんがえない」

「かなり本腰をれているってことは……」

「そういうことでしょうね」

渉に出なかった4人がため息をつく。恐らくはザリュースたちが思い至った、これから行われることが生贄の儀式であるという結論に行き著いたのだろう。

「で、どうすんだい?」

「……戦士階級のリザードマンは全て員する。それに……この場にいる……」

「兄者……5人で許してもらえないか?」

不思議そうな顔をしたクルシュを視界の端に捕らえながら、ザリュースはシャースーリューのみならず、オスのリザードマン全員に懇願するように続ける。

「向こうの狙いが自らの圧倒的な力を見せつけるためなら、リザードマンを皆殺しにはしないはず。ならば生き殘った者を纏め上げる、中心人は必要だ。この場にいる全員が死ぬのは、リザードマンの將來を考えるなら勿無いことだ」

「……正論ですね、シャースーリュー」

「うん。ざりゅーす、ただしい」

2人の族長は、ザリュースとクルシュを互に見、それから同意の聲を上げる。

「――いいんじゃねぇか? 俺も賛だな」

最後に殘ったゼンベルの賛同を得られたことで、シャースーリューに弟のみを否定する理由は無い。

「では。そうしよう。誰かは生き殘って纏め上げた部族を率いていかねばならない。それは俺も考えていたことだ。――クルシュなら適役だろう。アルビノということがマイナスかもしれないが、その祭司の力は必要不可欠だろうしな」

「ちょっと待って。私も共に戦うわ!」

話の容が摑めたクルシュはぶ。何故、今更、置いていくのかと。

元々この地に來た段階で、あの存在と戦うと決めた段階で、命を失うことは既に覚悟済みだ。それなのに何故。

そんな思いが彼び聲を上げさせる。

「それに殘るならシャースーリューの方が良いじゃない! 一番この中で信頼されている族長なんだから!」

「だから、いけないのですよ。向こうの狙いは圧倒的な力を見せ付けること。絶させることで支配を容易とする狙いでしょう。ですが、もし生き殘ったリザードマンの中に希をもたらす様な者がいたら?」

「そして……この場にいる者の中で、もっと期待されてないのがクルシュだからだ」

クルシュは言葉に詰まる。アルビノである彼の評価が一番低いのは、覆せない事実だ。

言葉による説得は不可能。そう思ったクルシュはザリュースを見つめる。

「私も共に行くわ。あなたは私をこの地に呼んだ時、覚悟を決めさせたじゃない。何故、今更になって言うの?」

「……あのときは場合によっては皆死んだ。しかし、今はたった1人ぐらいなら、充分に生き殘れる可能があるからだ」

「ふざけないで!」

クルシュの怒りに呼応するように、ビリビリと空気が震えるようだった。幾度と泥壁を叩く音がする。クルシュの激しいによって、尾がのたうち暴れているのだ。

「――ザリュース。お前が説得しろ。4時間後にまた會おう」

それだけ言うとシャースーリューは歩き出す。遅れて氷の割れる音とばしゃりという水音が響いた。泥壁から3人の族長が飛び降り、シャースーリューの後ろを付き従って歩き出したのだ。背中を見せたままゼンベルが、軽く手を挙げ挨拶とする。

そんな後姿を見送り、ザリュースはクルシュに向き直る。

「クルシュ、理解してくれ」

「理解できるわけ無いじゃない! それに負けるとは決まってないかもしれないじゃない! 私の祭司の力があれば勝てるかもしれないわ!」

その言葉がどれほど空虛に響いたか。言っているクルシュだって信じてないような臺詞だ。

「メスを――自分の惚れたメスを殺したくない。そんな愚かなオスの願いを葉えてくれ」

クルシュが悲痛な表を浮かべ、泥壁から飛び降り、ザリュースに抱きつく。

「ずるいわよ!」

「すまん……」

「あなたは多分死ぬのよ?」

「ああ……」

そうだ。生き殘れる可能は低い。いや、可能は無いと斷言できるだろう。

「私にそれを見送れと? たった一週間でここまで私の心を縛り付けておきながら?」

「ああ……」

「出會ったのは幸せだわ。でも不幸でもあるわ」

ザリュースのに回す、クルシュの手に込められた力がより強くなる。まるでしも離したくないというかのように。

ザリュースに言葉は無い。

何を言えば良いのか。何を言ったら良いのか。そんな思いに囚われて。

しばらくの時間が過ぎ去り、クルシュが顔を上げる。それは決意に満ちたものだ。

クルシュが無理にでもついてくる気ではと、ザリュースの心に不安が吹き上がる。そしてそんなザリュースにクルシュははっきりと宣言する。

「――孕むわ」

「――は?」

「行くわよ!」

クルシュに引っ張られるように、ザリュースは歩き出した。

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