《オーバーロード:前編》王都-5
雨が降っていた。
ポツリポツリというものでは無い。ザーザーと耳鳴りが起こっているような、そんな騒がしい雨音を立ててだ。
雨が地面に落ち、水面を作る。王都の路面は水はけまで考えられて作られたものではない。特に裏路地にもなれば、だ。結果、路地一面が水に浸ったような巨大な湖と変わる。そうやって出來た湖面は、打ち続ける雨によって大きくれていた。
――大雨によって灰に染まった世界。そこは飛散する飛沫が風に吹かれて舞い上がり、水の匂いが満ちていた。
そして王都という場所がまるで水の中に沈んでしまったかのような、そんな雰囲気をかもし出していた。
そんな灰の世界の中、その人はいた。
住処はあばら家。いや、あばら家という言葉ですら勿無い。
支柱となるのはほっそりとした木々。人男の腕の太さ程度だろうか。天井になるのは襤褸切れで、壁の代わりに襤褸切れがだらしなく垂れ下がっている。
あばら家の住人は、いまだい年。
年のころ、6歳ぐらいだろうか。そんな子供が1人、住居とはいえない住居の中にいたのだ。手足は細く、一目で栄養狀態が良くないと分かる。年はゴミが無造作に捨てられているようにその中で全を丸め、大地に薄い布を引いて、その上に転がっていた。
考えれば支柱となっている木々も、襤褸切れで作ったあまり頭のよくない住居も、これぐらいの子供がなんとか作りそうなものだ。
しかし、そんな子供が作りそうな住居だ。防水や暖房のことを考えたものではないため、外とまるで変わらないような環境である。
雨が降ることにより大気中の溫度は下がり、震いをするような冷気が漂うのは道理。
特にその冷たい雨によって濡れた年のからは、凄まじい勢いで溫が奪われていっていた。
年の吐く息が、一瞬だけ己の存在を示すが、即座に溫度を奪われ空気中に消えていった。
年のは震えているが、それを防ぐ手段を持ち合わせてはいない。
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元々著ている襤褸切れのような服に、保溫効果があるわけが無い。そして住居としている襤褸切れと木々で作った、隙間だらけの家にも雨を凌ぐだけの力は無いのだから。
天井からは水が滴れ、床からはじくじくと水が上がっている。その両方に挾まれ、服が意味をさないほどだった。
ただ、この全に染み込んでいくような冷気が、年の毆られて痣だらけになったには心地良くじられたのは、最悪の中で何かを探そうというのならば、たった1つのちっぽけな幸運だろうか。
誰も通らなくなった路地を、年は橫になったまま眺める。
皆、當たり前だが家の中に閉じこもっているのだろう。聞こえてくるのは雨音と自らの呼吸音ぐらいだ。まるで自分以外の全てがこの世界にいないのではないか。そんな風に思わせるような靜けさだ。
いながらも年は自分が死ぬのだろう、そう理解できた。
死というものがどんなものなのか、それを完全に理解できるほどの歳ではないため強い恐怖は無い。それに死というものを恐れるほど、自らの生に強い執著心があったわけでもない。
富や権力等持つものは全てが失われる死を、強く恐れる。これは當然だ。今まで持っていたもの、幾らでも楽しめるチャンス。そういったものを失うことを、楽しむ者はいないだろう。だからこそ死から逃れようと様々な手段を使うのだ。魔法や薬といったものを使ったり、竜の英知や悪魔との取引を求めたり。
しかしながら殆ど何も持たない彼からするとさほど、というものだったのだった。今まで生にしがみついていたのは、痛いことは嫌だからという逃避にも似た行為だ。
現在のように、痛み無く――寒さはあるものの――死ねるなら、死も悪いものではない。
濡れたは徐々に覚をなくし、意識はぼんやりとし始めている。雨が振る前に住処を移した方がよかったのだろうが、たまたまたちの悪い男たちに絡まれて、暴力を振るわれたではここまで戻ってくるのが一杯だったのだ。
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不幸なのだろうか。
2日、食事を食べていないというのはいつものことなので不幸ではない。両親がいなく育ててくれた人がいないのも、昔からのことだから不幸ではない。襤褸切れを纏い、不快なにおいを漂わせているのも當たり前のことなので不幸ではない。腐ったものを食べ、汚水で腹を膨らますような生き方も、記憶のある頃からしていれば不幸ではない。
ただ、たまたま住んでいた空き家を奪われ、頑張って作り上げた住居を遊びで壊され、そして酒に酔った男達に暴力を振るわれてのあちらこちらを痛めた。これらが殆ど同時に押し寄せてきたのは不幸なのだろう。
ただ、それも終わりだ。
不幸はここで終わり。
死は幸運な者の前にも、不幸な者の前にも現れる。
――そう、死は絶対である。
目を閉じる。
もはや寒さもじなくなりつつあるには、目を開けることも億劫だったのだ。
その時、変な音がした。
雨を遮るようなそんな音。消えるような意識の中、それに子供特有の興味を引かれ、彼は瞼に力を込める。
細い線のような視界の中、それが映った。
そして彼は閉じかけた目を大きく見開く。
そこには綺麗なものがいた。
それがなんなのか一瞬だけ理解できなかった。
例えるなら寶石のようなとか黃金の塊のようなとか、そんな麗句はいくらでもあるだろう。しかしそれはそういうものを見たり知ったりするような生活をしている人間からすれば、の言葉だ。
廃棄された半分腐りだしたものを腹に収めるような生活をしている者にそんな言葉は浮かばない。
そう。
だからこそ彼が思ったのはたった1つだ。
――太のようだ。
彼の知る最もしく、最も屆かないもの。それを頭に浮かべたのだ。
雨によって灰に染まった世界。空を支配しているのは厚く黒い雨雲。だからだろうか。見る者がいないからと旅立った太が、自分の前に現れたのではないか。
そんなことを思ったのだ。
それは手をばし、彼の顔をでた。そして――
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年は人ではなかった。
年を人とみなすものはいなかった。
だが、その日、彼は人間となった。
■
リ・エスティーゼ王國、王都。その最も奧に位置し、外周約800m、20もの円筒形の巨大な塔が防網を形し、城壁によってかなりの土地を包囲しているロ・レンテ城。
その20もの円筒の塔の1つにその部屋はあった。
完全に明かりが落とされて漆黒のそれほど広くない部屋に、ベッドが1つ。その上に橫になっている年と青年のちょうど境目ぐらいの年齢の男がいた。
金髪は短く刈り上げられ、は健康的に日に焼けたをしている。
クライム。
それだけの名前しか持たない、『黃金』と稱されるの、最も近くにいる兵士だ。
そんなクライムの目覚めは早い。
日の昇る時間よりも早く目を覚ます。
深い暗黒の世界から意識が戻ってきたと認識した段階で、即座に思考は冴え渡り、の機能はほぼ完全に起狀態まで移行している。寢つきと寢起きの良さは、クライムの自慢の1つだ。
目が見開かれ、そのつりがちな三白眼に鋼のごとき意志が燈る。
明かりが1つも無い真っ暗な世界の中、クライムはもぞもぞとを起こす。そのきに反応し、下から木が軋むようなギシギシという音が響いた。
「ふぁ」軽く欠をらすとしわがれた聲でクライムは呟く。「れ」
クライムの発したキーワードに反応し、天井から吊り下げられたランプに白の明かりが燈り、室を照らし出す。《コンティニュアル・ライト/永続》が付與されたマジックアイテムである。
これはクライムの部屋が特別製ということではない。
松明やランプによって明かりを取るのが當たり前のように思われるかもしれないが、このような石で作られた塔のように空気の通りが余りよくない場所で、燃焼させることで明かりを発するようなものを使うのはあまり良いことではない。そのため初期費用はかかってはいるが、ほぼ全ての部屋に魔法的な明かりが組み込まれているのだ。
白のに照らし出された部屋は、床や壁が石で作られているため、石の上に薄い絨毯をもうしわけ程度に敷いている。木で作られた末なベッド、武もれることが出來そうなやや大き目の裝ダンス、引き出しつきの機、木製の椅子には薄い座布団が置かれている。部屋の隅には白のフルプレートメイルが鎮座していた。
部屋の中に置かれているものはその程度だろうか。
みすぼらしいとじるかもしれないが、これは彼のような地位の人間からすると有り余るような好待遇である。
通常の兵士は個室なんて與えられず、大部屋に二段ベッドを置いて集団生活をおこなうのだから。そういう者はベッドに私をれるための鍵付きの木箱しか無いのだ。それからするとクライムがどれほど恵まれているかは理解できるだろう。
に掛かっていた厚手のタオルケット――周囲は完全に石で作られているため室の溫度は、どの時期でもある程度低い――を剝ぐと、クライムはベッドからを起こす。
裝棚を開け、その中から服を取り出す。
そこに置かれた姿見を見ながら服を調えていく。
金屬の匂いがこびりついている年季のった服を著て、最後にチェインシャツを被るように著用する。本來であれば更に鎧をまとうのだが、そこまではしない。代わりにポケットになる部分が、大量にある変なチョッキやズボンをはいて終了だ。そして手に持つのは桶とその中にれたタオルである。
最後に姿見を覗き込み、変なところは無いか、服裝のれはないかとチェックをする。
クライムの失態は下手をすれば、王であるラナーへの攻撃の材料にされる場合がある。多でも恥ずかしいところはあまり他人には見せられないからだ。
しばし自分の姿を眺め、満足げに1つ頷くと、クライムへ部屋を出る。
そして向かった先は大広間である。
大広間という名前に相応しいだけの大きな部屋である。塔の1階部分を丸ごと使っているような広さを持っていた。
普段であればもわっとした熱気があるのだが、流石にここまで早い時間だと人は誰もいない。がらんとした空間は靜まりかえり、靜寂が音として聞こえてきそうだった。
周囲のかけられた魔法の明かりによって室は照らし出されている。
明かりに照らし出され。広間の中には杭に結わえた鎧が立ち並び、弓の的となる藁で作った人形もある。壁沿いには刃を落とした様々な武が立ち並べられた武棚が見える。
この広間の用途は勿論、兵士たちの訓練場だ。
ロ・レンテ城外はヴァランシア宮殿のある敷地でもある。そのため訓練場も外ではなく、中に作られているのだ。とはいっても外でしか出來ない訓練もあるので、その場合は端っこの方を使ったり、王城の外で行ったりもするのだが。
クライムは靜まり返った広間の中に、ひんやりとした空気を掻き分けるようにると、端っこでゆっくりとストレッチを始める。
時間にして30分以上、念りにストレッチをしたクライムの顔は若干ではすまないほど紅していた。額には汗が滲み、吐く息にもその熱気が込められていた。
額に手をやり、汗を拭うと、クライムは武棚に近づき、刃をなくした練習用のやたらと分厚く大きな鉄剣を一本、その幾度もまめを潰したことによってくなった手で抜き取る。
そしてポケットに金屬の塊をつめだした。
幾つもの金屬の塊を充分に詰め込んだ服は、フルプレートメイルと同等の重さをかねたものへと姿を変える。魔法を込められてない単なるフルプレートメイルには強固さとの引き換えに、その重さときに対する阻害がデメリットとして存在する。そのため本來であれば実戦を考えるなら、著用した狀態で行うのが正しい訓練ではある。
しかしながら、流石に単なる訓練でフルプレートメイルまで持ち出すのは、あまり見ないのもまた事実である。それに彼に與えられた白の鎧を訓練で著るようなことはできない。
グレートソードを超える巨大な鉄剣を強く握り締め、上段に構えるとクライムは息を吐きつつ、ゆっくりと剣を振るう。そして振り下ろした剣が床を叩くギリギリで止めると、息を吸いつつ再び上段の構えと持ち上げる。素振りをする速度を徐々に増しながら、その鋭い目つきで、目の前の空間を強く睨み、ただひたすらに沒頭する。
それを繰り返すこと、200回以上。
クライムの顔は完全に紅し、汗が滴るように顔を流れる。息はに溜まりつつある熱気を吐き出すように、溫度を急上昇させていた。
兵士としてかなり鍛えられたクライムだが、大型のグレートソードの重量はそれを持ってしても厳しいものがある。特に振り下ろした剣が床に付かないように、速度を殺すのにはかなりの筋力を必要とする。
呼吸は荒くなりつつあるが、いまだクライムにその素振りをとめようとする気配は無い。
暫しの時間が経過し、500を超える頃、クライムの両腕は悲鳴をあげるように痙攣をし始めた。顔からは汗が滝のように流れ出している。しかし剣を止めようとする気配は無い。
この辺りが限界だということはクライムにも理解している。それでもクライムに止めるという意志はない。
だが――
「――それぐらいにしたらどうだ?」
第三者の聲が掛かる。慌て、聲のした方を振り返ったクライムの目に、1人の男が飛び込んできた。
屈強という言葉以上に似合う言葉は無い。そんな鋼を現したような男だ。年齢はまだまだ若く、30にいくかいかないかというところか。巌のような顔は顰められ、年齢以上に老けて見えた。
髪はかなり短く刈り込み、さっぱりというより危ないじを出している。
その人を王國の兵士で知らないものはいないだろう。
「――ガゼフ様」
王國戦士長ガゼフ・ストロノーフ。王國最強、そして近隣國家でも並ぶ者がいないとされる戦士である。
そんな男がきやすそうな格好でクライムのことを眺めていたのだ。
「それ以上はやりすぎだな。無理をしても意味が無いぞ」
クライムは剣を下ろし、ブルブルと震える自らの腕に視線をやる。
「おっしゃられるとおりです。々無理をしすぎました」
無表に謝の意を示すクライムにガゼフは軽く肩をすくめる。
「本當にそう思っているなら、同じセリフを言わせないでしいものだがな」
クライムは言葉を返さない。
そんな反応をするクライムに、ガゼフは再び肩をすくめた。2人にとっては幾度と無く繰り返したある意味挨拶のような會話だ。クライムが自らのを酷使しすぎる訓練を行っている中、ガゼフは口を挾むというのは。
ただ、本來であればこれで話は終わり、互いに自分達の訓練に再び沒頭することとなる。
しかしながら本日は違った。
「どうだ、クライム。1つ、剣をえてみないか?」
ガゼフの言葉に、クライムの無表な面が一瞬だけ崩れかける。どうして、そんなことを言うのだろうかという疑問の表を浮かべかけたのだ。先の通り、2人はこの場で會っても互いに剣をわすようなことはしない。今まではそれが不文律だったのだ。
ガゼフが負けるようなことはありえないが、もし苦戦でもしたら々とガゼフの足を引っ張ろうとする貴族の良い攻撃材料になるだろう。平民であるガゼフが、剣の腕だけで今の地位まで登りつめたことに対する貴族達のは良いものでは無いのだから。
そしてクライムが當然のように負ければ、ラナーの辺を任せられないと々な貴族が自らの子弟を近づけさせようとするだろう。ラナーという絶世のであり、婚約者のいない王がクライムという貴族出でもない兵士1人を重寶し、辺警護を任せているのを不快に思っている貴族は多いのだから。
そんな立場が立場であるが故に、彼らは互いに剣をわすことが出來なかったのだ。
それを破る。それは一どんな理由によるものか。
良い理由なのか、悪い理由なのか理解できず、クライムは困し揺するが、表には決して浮かべようとはしない。
ただ、クライムの前にいるのは王國最強といわれる戦士だ。普通の人間であれば知覚できないような、ほんの一瞬ののれを鋭敏に知し、ガゼフは返答する。
「つい最近、すごく強い戦士――あれはナイトか? と戦って、な。し歯ごたえのある奴と訓練をしたいと思っていたんだ」
「凄く強い戦士ですか?」
王國最強といわれるガゼフを持ってして強い戦士と言わしめるような者。それは一どんな奴だとクライムは考える。
帝國でも名高い『重』『不』『雷』『激風』の4騎士。とかだろうかと考え、もし彼らとぶつかったのなら戦爭だなとその考えを破棄する。次に浮かんだのは、「とある」巖のような人であるが、もし彼なら普通に名前を言っても良いだろう。
そんなクライムの困をやはり理解したのだろう。ガゼフは苦笑いを浮かべると、クライムに問いかける。
「まぁ、気にするな。上手く説明できる気がしない。……それよりどうだ?」
ちらりと武棚に目をやり、そして周囲に誰もいないことを確認し、クライムは1つ頷く。
話を誤魔化されたは無いこともないが、それより王國最強といわれる人に稽古をつけてもらえるというのは何よりも捨てがたい。
「では、一手お願いします」
「ああ」
2人で揃って武棚に向かうと、自分達にちょうど良いサイズの剣を取り出す。ガゼフがバスタードソードを選んだのに対し、クライムは小型の盾とブロードソードだ。
それからクライムは、ポケットなどから鉄の塊を取り出す。自分よりも強者を相手にするのに、こんなものを持ったままというのは失禮に値する。勝てないにしても全力で剣を振るうべきだからだ。
やがて完全に準備を整えただろうクライムに対して、ガゼフは尋ねる。
「それで腕は大丈夫か?」
「ええ。もう大丈夫です」
クライムが両手を振るい、そのかし方に噓はないと判斷したガゼフは頷いた。
「個人的にはタワーシールドを使ってしいのだが……」
「タワーシールドですか? あれはしばかり……申し訳ないのですが」
その言葉に先のガゼフの言葉に出たナイトというのがタワーシールドを使っているのだろうと推測する。だが、あれほど巨大な盾を上手く使って戦える自信はクライムには無い。
「いや、気にしないでくれ。それよりも準備がよければはじめようか」
「ええ、ではお願いします」
ゆっくりとクライムは剣を下に構え、盾で隠すようにした半をガゼフに向ける。クライムの視線は鋭く、意識も既に訓練のものではない。同じように実戦さながらの気配がガゼフからもれる。
たとえ刃を落としたといっても鉄の棒だ。當たり所が悪ければ、それは命を失いかねないものだ。それを使っての訓練であればそれは実戦といっても過言ではない。
にらみ合い、だが、クライムからくことは出來ない。
先ほどの鉄の塊を捨てたためきやすくなったが、それでも踏み込んでガゼフに勝てる気がしない。能力という意味でも、経験という意味でもガゼフの方が圧倒的に上だ。下手に踏み込めば簡単に迎撃を食らうだろう。
ならばどうするか。
それはガゼフの持っていない部分で戦うしかない。
や経験、神的な面と、戦士として必要な部分は完全にクライムが負けている。差があるとしたら武裝の面だ。
ガゼフはバスタードソード。それに対してクライムはブロードソードとスモールシールド。本來であれば魔法の武であったりしたら差が生じるだろうが、これは訓練のもの。武での差は無い。
ただ、ガゼフが1つの武であるのに対し、クライムは2つの武を有している。これは力が分散する代わりに攻撃手段が増えるというメリットもある。
――一撃を盾で弾き返し、剣を振るう。もしくは剣で流し、盾で叩く。
狙うはカウンターと戦略を立て、クライムはガゼフのきを真剣に観察する。
幾秒かの時間の経過と共に、僅かにガゼフが笑う。
「來ないのか? なら、こちらから――これから行くぞ?」
絶対の余裕をみせつけ、ガゼフは剣を構えた。腰を僅かに落とし、バネが押し込まれるようにに力が篭り始める。クライムもいつ剣を振るわれても弾けるよう、自らのに力を込める。そしてガゼフが踏み込み、剣が盾を狙ってわざと振り下ろされる。
――早い!
クライムはそうじ、弾くように盾をかすことを諦める。単なる防に全の神経と能力を回す。
そして直ぐ次の瞬間――すさまじい衝撃が盾を襲った。
盾が一発で砕けたのでは、そうじるような衝撃であり、盾を持った手が完全にかなくなるようなものだ。こんなものをける事は出來ない。自らの甘い考えを叱咤するクライムの腹部に、別の衝撃が走った。
「がはっ!」
クライムのが吹き飛ぶ。石で出來た床の上に転がり、ごろごろと転がる。
ガゼフの足がクライムの腹部を強く蹴り飛ばしたのだ。
「……剣しか持ってないからといっても、そこに注意を向けすぎるのは不味いぞ。今のように蹴られたりするからな。今は腹を狙ってやったが、例え間にパッドをれていても、金屬製の足甲とかで蹴られると運が悪いと潰れたりもするからな? 相手の全を見て、一挙に注意を払え」
「……はい」
クライムは腹部から上がってくる鈍痛を堪え、ゆっくりと立ち上がる。ガゼフが本気で蹴れば例えチャインシャツを著ていたといっても、戦闘不能まで持っていくことは容易だ。しかしそうはならなかったということは、本気で蹴ったのではなく、吹き飛ばすこと狙いに足を添えてから強く力をれたのだろう。
クライムはガゼフに謝をしながら再び剣を構える。
王國最強の戦士に稽古をつけてもらえるというこの時間がどれだけ貴重か。
クライムは再び盾を前にジリジリとガゼフに迫る。ガゼフはそんなクライムを黙って見つめる。このままで行けば先ほどと同じことの繰り返しだ。クライムは迫りながら作戦の立て直しを迫られる。
王國最強の戦士、ガゼフ・ストロノーフ。能力も桁が違うと思っていたが、それでもクライムの想像の範疇を超えている。盾で弾けるなんてどれだけ侮っていたというのか。
平然と待ち構えるガゼフのその姿は、圧倒的余裕をじさせる。全然本気を出していない事を考えれば、クライムごときガゼフからすれば本気を出すほどの存在ではないということだろう。
だが、それが――悔しい。
悔しいというのは傲慢な考えだろうか。
確かにガゼフという最強の男に対し、クライムごときがそう考えるのはおこがましいだろう。クライムは王國の兵士と比べるなら強者の類だ。しかしガゼフが指揮する戦士よりし強い程度、冒険者でいうならBクラスに屆かない程度の能力しかない。
クライムの限界はそろそろ見え始めている。これだけ朝早くから剣の修行をしても、長は今一歩無い。その程度なのだ。
そんなクライムが才能の塊の男に対し、本気を出してくれないことが悔しいなんて失禮な話だ。本気を出してもらえない自らの才能の無さを恨むべきなのだ。
しかし――クライムは『ギィッ』と歯を噛み締める。
に宿る思い。その1つのため、に。
ほう、とガゼフは嘆息し、かすかに表を変える。
前に立つ年とも青年ともいえる者の表が変わったからだ。先ほどまでは言うなら有名人に會った子供のような、ワクワクがあった。しかし今目の前にいるのは強者を前にした戦士のもの。
ガゼフは心での警戒レベルを一段階引き上げる。
されど――
「――意志を変えたからといっても、彼我の能力の差は歴然としているぞ? さて、どうする?」
はっきり斷言してしまえばクライムに才能は無い。誰よりも努力をしようと――どれほどを苛め抜いても、才能が無ければ高みには昇れない。ガゼフやかつてガゼフが戦ったことのある最大の強敵、ブレイン・アングラウス。そんな男のようにはクライムはなれないのだ。
誰よりも強くなろうとしていても、それは決して夢や幻の領域を出ない。
「意志がを凌駕する。そんなものは偽りだ」
ガゼフはそんな者を見たことは無い。を凌駕する意志を発揮したものなんか。火事場の糞力のような、リミッターの解除なら見たことはあっても、意志がを超えることは無い。
ゆえにあるものでどうにかしなくてはならない。
何故、クライムに稽古をつけてやろうと思ったか。
それは単純だ。ガゼフは無駄な努力をひたすらに行うクライムを見てられなかったのだ。人間に才能によって限界値というものがあるなら、その壁にひたすら當たりを続ける年を見て、哀れみをじてしまったのだ。
だからこそ、別の手段を學ばしたいのだ。
才能による限界があっても、経験による限界はないと信じて。
「――來い、クライム」
獨り言に裂帛の気合を込めた答えが返る。
「はっ!」
ダッとクライムは走る。
先ほどとは違い、真剣な表になったガゼフがゆっくりと剣を擔ぐ。
上段からの振り下ろし。
盾でけ止めればきを完全に殺され、剣でければ弾かれる。防という行為の意味をなくしてしまう攻撃。けるのは愚策だが、クライムの持つ武はブロードソードであり、ガゼフの持つバスタードソードよりも短い武だ。
飛び込むしか手段は無い。そしてガゼフはそれを迎撃せんと待ち構えている。
虎口に飛び込むような行為――しかし迷いは一瞬。
クライムはガゼフの剣の間合いに飛び込む。
待っていたとガゼフが剣を振るう。それをクライムは盾でけ止める。すさまじい衝撃は先ほどよりも強い。腕に伝わる痛みにクライムは顔をゆがめた。
「殘念だ。先と同じ結果に終わるとは」
そんなクライムの腹部に、わずかな失を浮かべたガゼフの足が添えられ、そして――
『フォートレス!』
クライムのびと共に、ガゼフが僅かに驚きの表を浮かべる。
戦技であるフォートレスは別に盾や剣でなければ発できないというものではない。やろうとすれば手だろうと鎧だろうと出來る。しかし一般的に剣や盾でけ止めたときに発させるのは、発のタイミングが非常にシビアだからだ。鎧で発させた場合、下手すれば相手の攻撃を無防備にけるという可能もある。ならば最低でも剣や盾でけ止めたときに発させたいと思うのは人間の心理的に當たり前の話ではないか。
それになによりフォートレスは無敵の技ではない。衝撃を殺しているように見えるが、実際は武や盾にダメージを移し変えているようなものだ。下手すれば盾や武の方が壊れてしまう。
しかし、ガゼフのように蹴りという危険の無い行いをすると分かっていれば、それらの問題も解決する。
「狙ったか!」
「はい!」
ガゼフの蹴りの力はまるでらかいものを吸収されるように抜ける。本來であればそこに込められていた蹴りのダメージは鎧に伝わり、鎧の耐久力を減らすだろう。しかしガゼフの蹴りといえども、相手を吹き飛ばすことを目的とした蹴りだ。大したものではない。
足がび、力をれることが出來ないガゼフは蹴りを諦め、足を床に戻そうとする。不利な姿勢を戻しつつあるガゼフに、クライムは切りかかる。
『スラッシュ!』
戦技を発させての、大上段からの一撃。
たった1つ、自信を持って放てる技を作れ。
そうある戦士からけた言葉をに、才能が無いクライムが必死に鍛えたのは上段からの一撃だ。
クライムのはこれ見よがしな筋の鎧には覆われてはいない。元々筋が良く付くような恵まれたでもないし、そして重い筋をつけても有り余る機敏さを潛在的に持つわけでもなかったからだ。
無限を思わせる繰り返される鍛錬による、それに特化した筋の構。
それがクライムの行ったことであり、そしてその結果が上段からの振り下ろしだ。
クライムが剣を振るう速度の中、たった1つだけ速度的にオカシイのではないかと思わせる、剛風を巻き起こすような剣閃。それがガゼフの頭部めがけて振り下ろされる。
當たれば致命傷なんてことはクライムの頭から抜け落ちている。ガゼフという男がこの程度で死ぬわけが無いという絶対的な信頼があってこその技だ。
質の金屬音が響き、持ち上げられたバスタードソードと振り下ろされたブロードソードがぶつかる。
ここまでは予期されたこと。
クライムは全の力を込め、ガゼフのバランスを崩そうとする。
しかし――ガゼフのはビクともかない。
片足というバランスの悪い狀態でも、クライムの渾の一撃を容易くけ止める。それは巨木がその太いを大地に這わしているように。
クライムの全の力を込めた最高の一撃に戦技。その2つを足し合わせても、片足のガゼフと同等にもならない。その事実に驚くが、クライムの目が自らの腹部にく。
ブロードソードで切りかかるということは距離を詰めるということ。再びガゼフがクライムの腹部に足を添えられるということを可能とするということでもある。
クライムが飛び退くと同時に、蹴りがクライムのを襲った。
すこしばかりの鈍痛。そして數歩の距離でにらみ合った2人。
ガゼフは僅かに目を下げ、口元をほころばせる。
笑みではあるが、それには不快なものの無い、さっぱりとしたものだ。クライムは僅かにむずがゆいものをじた。父親が息子の長を目にした時に浮かべるような、ガゼフの笑みを前に。
「見事だった。だから次からは多本気でいくな」
そしてガゼフの表が変わった。
クライムの全を怖気が走る。王國最強の戦士。その人が目の前に姿を見せたことを直し。
「ポーションを実は1本だけ持っているんだ。骨折ぐらいなら元に戻るから心配するな」
「……ありがとうございます」
骨折ぐらいはするぞと暗に言われ、クライムの心臓がバクンと大きな音を立てる。怪我には慣れているとはいえ、好きなわけではないのだから。
ガゼフが踏み出す。クライムを倍する速度での踏み込みだ。
剣先が床をするような非常に低い軌道を取りながら、バスタードソードがクライムの足をめがけて走る。遠心力を伴ったその速度に慌て、クライムはブロードソードを床に突き立てるような形で、自らの足を守りにいく。
両者が激突するクライムがそう思った、その瞬間――ガゼフの剣が跳ね上がった。ブロードソードの側面に駆け上るように、バスタードソードが切りあがる。
「くっ!」
ごと顔を逸らしたクライムの直ぐ橫をバスタードソードが抜けていく。巻き起こる風に髪のが何本も持っていかれるような速度。
このほんの一瞬でここまで追い詰めてきたガゼフという人への恐怖を込めて視線だけでそれを見送ったクライムは、バスタードソードが急激な速度で停止、そして反転したのを目にした。
考えるよりも早く。
生存本能に追い立てられるように、突き出したスモールシールドとバスタードソードがぶつかり、再び甲高い金屬音を立てる。
そして――
「――がっ!」
激痛と共にクライムのが橫に吹き飛んだ。転がり、床に叩きつけられた衝撃で手からは剣がり落ちる。
スモールシールドとぶつかり跳ね上がったバスタードソードはそのまま橫に流れ、大きく開いたクライムのわき腹を強打したのだ。
「流れだ。攻撃して防してでは無く、次の攻撃に移るように流れを持って行しなくてはならない。防も攻撃の一環で行うんだ」
落とした剣を拾い、わき腹を押さえ立ち上がろうとするクライムに、ガゼフは優しく聲をかける。
「折らないように力は抜いたからまだ出來るとは思うが……どうする?」
まるで息の切れてないガゼフに対し、張と痛みで呼吸をすクライム。
數撃すら持たないこの有様ではガゼフの時間を奪うだけだ。しかし、それでもクライムはしでも強くなりたいがため、ガゼフに頷き、剣を構える。
「よし。なら続けるか」
「はい!」
しわがれた大聲をだし、クライムは駆ける。
打たれ、吹き飛ばされ、時には拳や蹴りまで食らったクライムは息も絶え絶えに石の床に転がる。床の冷たさが、チェインシャツや服越しに熱を奪っていき、非常に心地よい。
「ふぅふぅふぅ」
流れる汗を拭おうともしない。いや、拭う気力すらない。
あちらこちらから湧き上がる痛みを堪えながら、全から昇って來る疲労に支配されたクライムは、軽く目を閉じる。
「お疲れ様。へし折ったり、ひびが出來たりしないように剣は振るったつもりだが、どうだ?」
「……」床に転がったまま、腕をかしたり、痛みのある部分をったりしながらクライムは目を見開く。「問題は無いようです。痛みはありますが打ち程度です」
打ちでもジンジンと響くこの痛みは軽いものではないが、そこまで言う必要は無い。
「そうか……ならポーションは必要ないな」
「ええ。下手に使うと筋トレーニングの効果がなくなったりしますから」
「本來なら超回復するはずなのに、魔法の効果で元に戻ってしまうからな。わかった。これから王様の近辺警護にいくのだろ?」
「はい」
「ならば一応渡しておこう。問題があるようなら使うといい」
こつりという音を立て、ポーションがクライムの傍に置かれる。
「ありがとうございます」
を起こし、ガゼフを見る。
一度たりとも剣を屆かせることの出來なかった男を。
クライムとは違い、無傷の男は不思議そうに問いかける。
「どうした?」
「いえ……凄いと思いまして」
額に汗は殆ど無い。息も切れていない。これが床に転がる自分と、王國最強の男との差かと、クライムは嘆息をつきつつ納得する。それに対してガゼフは苦笑いのようなものを見せた。
「……そうか。そうだな……」
「なんで――」
「――なんでそんなに強いかという質問に関しては上手く答えることは出來ないぞ? 俺は単に才能を持っていたからだからな。ちなみに戦い方を學んだのも傭兵をやっている中でだ。貴族が品がないとぶ、この足癖の悪さもその辺で學習したものだしな」
強くなるコツはない。そうガゼフは斷言し、クライムは若干がっかりとした気分となる。もしかしたらガゼフのような練習をすれば、多は強くなれるのではないかという希を否定されて。
「クライムはそういう意味では向いているな。毆ったり蹴ったりも行う、手足をそういう意味で使った戦い方」
「そう……ですか?」
「ああ、剣士として練習をけたわけでないのが良い方向に進んでいる。剣を持つとどうしてもその剣で戦うことに集中してしまうのがいるが……それは良いことではない。お前のような全を使った剣こそ実戦で意味のあるものだ。まぁ泥臭い……冒険者向けの剣って奴だな」
クライムは普段から浮かべている無表さを打ち消し、苦笑いを浮かべる。まさかガゼフという王國の最強の人に、クライムの剣の腕をそれほどの評価をされるとは思ってなかったためだ。
クライムは誰かに戦い方を教わったわけではない。というよりこの王城に來た頃のクライムという人に剣を教えてくれる人はいなかった。だから大広間などで剣の修行をしている兵士達のきを盜み見て、そうやって學んでいったのだ。だからこそ全てがチグハグであり、剣の王道を守らないきだ。
不恰好な剣と貴族に裏で嘲笑される、そんなクライムの剣を褒めてもらえるとは思わなくて。
「さて、俺はもうこれで行くとしよう。王の食事に間に合わせないといけない。お前は良いのか?」
「ええ。今日はお客様がお見えですので」
「お客様? どこかの貴族の方か?」
あの王の元に、と不思議そうなガゼフにクライムは答える。
「ええ。アインドラ様です」
「おお、あのアインドラ家の変人2巨頭の1人か」
クライムは無表に顔を戻し、それには何も答えない。主人の最大の友人の悪口を言うわけにはいかないからだ。それに貴族の視點からすると変人かもしれないが、この世界を大きく見渡して考えるならば、王族にも匹敵しかねない人だ。ガゼフほどの人間――もう片方の変人と仲が良く、世界的にも名の知られた人であれば言えるかもしれないが、クライムごときがそんなことをいえるはずが無い。
「なるほどな……。そういうことか、ご友人の方が來ているのではな……」
ガゼフはしみじみと頷くが、考えていることは外れているだろうとクライムは直する。
ガゼフは友人が來ている為にクライムと一緒の食事が出來なかったというじのイメージを持っているようだが、実際はクライムもラナーに食事にわれたのだ。ただ、流石にそこまではとクライムから遠慮させてもらったのだ。
実のところ、アインドラともクライムは面識があるし、ラナー繋がりで仲良くさせてもらっているため、別にクライムが食事に參加しても他の貴族のように拒絶反応を示したりはしないだろう。
それでもあの2人に挾まれての食事はクライムの神を限界まで削ぎ取るというのは予測できる。だからこそ斷らせてもらったのだ。
「ならば食事が終わった頃に行くのか?」
「はい、その予定です」
「そうか……それなら長々とつき合わせて悪かったな。朝食もそろそろ始まってるだろうし、時間的にも頃合だろう」
食事が終わればこの部屋も騒がしくなる。
「はい、今日はありがとうございました。ガゼフ様」
「いや、気にするな、俺も楽しかったからな」
「……もしよければまたこのように稽古をつけてもらってもよろしいですか?」
一瞬だけガゼフは口ごもり――その反応を知ってクライムが謝罪するよりよりも早く、口を開く。
「構わないぞ。余り人のいないところ時間帯であれば」
その葛藤がどういうものだったか分かるからこそ、クライムは下手な言葉を言わない。軋むに力を込め、立ち上がる。そしてただ、自らの素直な思いだけを舌に乗せる。
「ありがとうございます!」
鷹揚に手を振り、ガゼフは歩き出した。
「さて片付けるとしよう。食事に間に合わないと厄介ごとだ。……そうそう、あの上段からの攻撃はなかなか良かったぞ。ただ、あそこからどうするかまで考えておいた方がいいな。上段を避けられたり、けられたりした後だ」
「はい!」
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