《オーバーロード:前編》王都-8

王城への帰り道、クライムは思案しながら歩を進める。考え事はラキュースという人がラナーの近くにいることへの不安だ。ラキュースという人は最高峰の冒険者のパーティーの1人であり、リーダーだ。そんな人がもし呪いに飲み込まれれば、その結果がどうなることか。一介の兵士であるクライムに予測することは出來ないが、語でよくあるパターンはに飢えて暴れだすというものだ。

ラキュースが暴れだした場合、クライムに止められるはずが無い。それが出來るのは恐らくは王城ではガゼフぐらいだろう。そう考えると、確実にラナーに被害が及ぶと思われる。

イビルアイは呪いに簡単に飲み込まれることは無いだろうと判斷していたようだが、もしかするとティアという人をつれてきていたのは呪いに支配される可能も考えてではないだろうか。

クライムは無表を壊し、眉を顰めた。

ラナーに進言し、ラキュースとの會話を打ち切ってもらうべきか。

現在、2人の知者が様々なことを相談しあい、重要な案件についての方針を決めているのだろうが、クライムからすればそれ以上にラナーの安全の方が重要だ。

ただ、問題は下手するとラキュースの顔を潰しかねないことだ。呪いを制できると判斷しているのに、ど素人が下手な口を挾んで、友人たる王を引き離したら、面目丸つぶれだ。

クライムは逡巡する。そして結論を出す。

やはりクライムの知る限り最高の叡智を持つ者であるイビルアイを信じるべきだろう、と。

そう決心したクライムの足がしだけ速くなる。とりあえずの方向は決まったのだが、不安と焦りが速度を速めているのだ。

そんなクライムを足を止めようというのか、前方に変わったものを発見してしまう。それは人だかりであり、2人の兵士が困ったようにその様子を眺めている景だった。

人だかりの中心からは騒ぐ聲。それも真っ當なものではない。

聞こえてくるのは怒聲とも笑い聲ともいえないものと、何かに対する毆打音。人だかりからは死んでしまうとか、兵士を呼びに行った方がという聲が聞こえてきた。人の所為で見えないが、毆打音やそういった話からすると何らかの暴力行為が行われているのは確実だ。

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クライムは表く凍らせると兵士の元に歩く。

「何をしている」

突如、背後から聲を掛けられた兵士は驚き、クライムへと振り返る。

兵士の武裝はチャインシャツにヘルム、そしてスピアだ。チェンシャツの上からは王國の紋章のったサーコートのようなものを羽織っている。王國の一般的な兵士の格好ではあるが、その兵士からは錬度の低さをじさせる。

まず軀はさほど立派なものではない。次に髭は綺麗に剃られてなく、チェインシャツも磨き抜かれてないために薄汚れたじがしていた。全的にだらしなさが漂っていた。

「お前は……」

兵士は自らよりも年下のクライムに突然聲をかけられたことに対する、困と多の憤怒をじさせる聲で尋ねてきた。

「非番中の仲間だ」

言い切るクライムに、兵士は困をその顔に浮かべる。年齢的には自らよりも下だが、まるで自分の方が立場的に上だという雰囲気をクライムが匂わせているからだ。

とりあえずは下に出るほうが、賢いと判斷した兵士達は、背筋をばす。

「なにやら騒ぎが起こっているようでして」

それぐらい分かると、クライムは叱咤したい気持ちをぐっと抑える。王城警護の兵士とは違い、通常の兵士は平民が取り立てられたもので、さほど訓練をつんだものではない。言うなら平民にが生えた程度でしか無いのだ。

おどおどとしている兵士から人だかりの方へ、クライムは視線をかす。この2人に期待しても良いものは返ってこない。ならば自分がけばよい。

「お前達は待っていろ」

「はっ」

そう決心したクライムは、兵士の困した聲を背に人だかりに歩を進める。

「通してくれ」

そう言いながら掻き分けるように無理矢理を押し込んでいく。多の隙間はあるといっても、クライムにその間をすり抜けるようなことは出來ない。いや、そんなことが出來る人間がいたらそっちの方が異常だ。

必死に掻き分ける中、中心の方から聲が聞こえる。

「……失せなさい」

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「あ?」

「もう一度言います。失せなさい」

「てめぇ!」

不味い。

まだ見えないが暴力が振るわれようとしている。

起こりうる事態の予測に、更に急いで人を掻き分けたクライムの開けた視界に飛び込んできたのは、1人の老人の姿である。そしてそれを取り囲もうとする男達だ。男達の足元にはボロ雑巾のようになった子供の姿がある。

老人はなりの良い格好をしており、どこかの貴族やそれに従うようなそんな品の良い人のようだった。そして老人を取り囲もうとする男達は皆、屈強であり、酒に酔った雰囲気を漂わせている。どちらが悪いのか、一目瞭然の景だ。

男の1人、最も屈強そうな男が拳を強く握り締める。老人と男、比べればその差は圧倒的だ。その板、腕の太さ。そして漂わせる暴力の匂い。男が毆りつければ、老人のなんか簡単に吹き飛ぶだろう。それが予測できる周りの人間達は、老人のにこれから起こる悲劇を思い、微かな悲鳴を上げる。

ただ、その中にあってクライムだけが、微妙な違和じていた。

確かに男の方が屈強そうに見える。だが、絶対的強者の雰囲気という奴は、老人の方から漂ってくるような気がしたのだ。

一瞬だけ呆け、その短い時間の間に老人に対して男が暴力を振るおうとするのを、止めるチャンスをクライムは失う。そして――

――男が崩れ落ちた。

クライムの周りから驚きの聲が上がる。誰もが老人では勝てないと思っていたのだ。しかし蓋を開けてみたら、結果はまるでその逆だ。これで驚くなという方が噓だろう。

老人はピンポイントで、男の顎を高速で揺らしたのだ。それもかなりの速度で。クライムのような視力を鍛えていない人では、毆ったとしか理解できない早さだった。

「まだやりますか?」

老人の靜かな、深みのある聲が靜かに男達に問いかける。

その冷靜さ、そして見かけによらない腕っ節。その2つを持ってすれば、男達の頭から酒気を抜くのは容易いことだった。いや、周囲の人間だって飲み込まれているのだ。男達にもはや何かをしようという意思は完全に無い。

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「あ、ああ。お、おれたちが悪かった」

數歩後ろに下がりながら、男達は口々に詫びをれる。そして無様に地べたに転がった男を抱え逃げていく。クライムはその男達を追おうという意志はなかった。普段であればあったかもしれないが、その老人の姿に心を奪われたようにけなかったのだ。

一振りの剣のようなそのピンと延びた姿勢。戦士であれば誰もが憧れるような、そんな姿だったのだ。

老人は子供のほうに一歩だけ足を進め、そして首を振る。それから踵を返し、歩き出した。その際、周りにいた人間の1人に指さす。

「……その子を神殿に。の骨が折れている場合もあります。それを注意して運ぶ際は、板に載せて余り揺らさないように」

それだけ言うと老人は何も言わずに歩き出した。人だかりは一直線に割れ、その老人のための道を開く。誰もがその老人の背中から目を離せない。それほどの姿だったのだ。

クライムは慌てて、転がった年に駆け寄る。そしてガゼフから貰ったポーションを取り出した。

「飲めるか?」

尋ねるが返事は無い。というより完全に意識をなくしている。

クライムは蓋を開け、年のに降りかける。ポーションは飲み薬と思われがちだが、別に振りかけたとしても問題は無い。魔法とはかくも偉大ということだ。

まるでに吸収されるように、溶年のに吸い込まれる。そして年の悪かった顔に赤みがかったが戻った。

クライムは安心したように1つ頷く。

ポーションを使ったのだから恐らくは問題はもはや無いはずだ。だが、念のために神殿まで連れて行ったほうが良いだろう。遅れてやってきた兵士の姿をクライムは確認する。先ほどの2人にさらに3人ほど増えている。

やっと來た兵士たちに周囲の人間の非難の視線が向けられるが、こればかりは仕方が無いことだろう。様子を伺って、安全になったから來たように見えたのだろうから。

クライムは居心地が悪そうにしている兵士の1人に聲をかける。

「この子供を神殿に」

「一何が……」

「暴力行為が行われていたんだ。治癒のポーションを使ったから問題はないとは思うが、念をれて神殿まで連れて行ってしい」

「あ、はい。分かりました」

クライムを上役として命令を聞くのは、先ほどの兵士が後から來た兵士に伝えているためだろう。実際はクライムと兵士は同格なのだが、その辺まで説明してやる必要は無い。

「宜しく頼む」

「ではその暴力行為を行っていた者はどうしましょうか?」

クライムは男達が去っていった方向に視線を送る。流石に気を失った男を運んでだと速度的にも遅い。直ぐにその背中が見つかる。

「あの男達だ。警備詰め所まで連行してくれ」

「了解しました」

兵士が2人駆け出す。その姿を確認し、クライムはここで自分がすべきことは終わりだろうと判斷した。王城勤務の兵士が、これ以上、他の職場に乗り込んでどうこうするのは止めた方が良いだろうから。

「この場で何が起こっていたかを最初から見ていた人間から、詳しい話を聞いてもらえるか?」

「了解しました」

「では後は任せた」

命令されることで自信を持ってきびきびとき出した兵士を確認し、クライムは立ち上がり駆け出す。一どこにという兵士の聲が屆くがそれを無視してだ。

老人が曲がった通りまで來ると、クライムは足の速度を落とす。

それから老人を追って歩き出した。何故追っているのか。それは本當に下らない理由だ。

通りを進んでいく老人の背中が目にる。

早く聲をかければ良いとは思うのだが、その勇気が今一歩わかない。老人の背中に目がついているのではないのか、そんな威圧とも取れるようなものが押し寄せて來ている為だ。目には見えないが分厚い壁のようなものをじてしまったのだ。

老人は道を曲がり、薄暗い方、薄暗い方と歩き出す。クライムはそれに続く。後ろについて歩きながらも、クライムは一度も話しかけることが出來なかった。

これじゃ尾行だ。

クライムは自らがやっていることに頭を抱える。幾ら話しづらいからといってもこれは無いだろうと。狀況を変えようと、悶々としながらクライムは後に続く。

やがて人の気配が完全に無いような裏路地に差し掛かり、クライムは勇気を振り絞った。

「――すみません」

くるりと振り返った老人。

髪は完全に白く、口元にたたえた髭も白一だ。だが、その姿勢はすらりとび、鋼でできた剣を髣髴とさせた。堀の深い顔立ちには皺が目立ち、そのため溫厚そうにも見えるが、その鋭い目は獲を狙う鷹のようにも見える。

どこかの大貴族、もしくはそれに連なる人のような品の良さを漂わせている。

クライムの見てきた貴族でも、これほどの人はそうはいない。

「何か用ですか?」

老人の多しわがれた聲だが、凜とした生気に満ちている。目には見えない圧力が押し寄せてくるようで、クライムはごくりとを鳴らす。

「あ、あ」

老人の迫力に押され、クライムは言葉が出ない。そんな姿を見て、老人はに張り詰めていた力を抜いたようだった。

「あなたは一?」

口調にらかさのみが殘る。それでようやく圧力から開放されたように、クライムのが普通にくようになった。

「……私はクライムというもので、この國の兵士の1人です。本來であれば私がやらなければならなかったことを代わりにやっていただきありがとうございました」

深々と頭を垂れるクライム。僅かに老人は考えるように目を細め、クライムの言ってる容に思い當たったのか、あぁ、と小さく呟く。

「……構いません。では私はこれで」

話を打ち切り歩き出そうとする老人に、頭を上げたクライムは問いかける。

「このようなおこがましい願いを口に出す私を笑ってしいのですが、もしよければ先ほどの技を伝授してもらえないでしょうか?」

「……どういう意味でしょうか?」

「はい。私はより強くなれるよう、や知識を求めているのですが、あなたの先ほどの素晴らしいきを見て、その腕をしでも教えてもらえればと思って今、お願いしました」

「私にメリットが……いえ、確かあなたは兵士だとかいいましたね。ではしお聞きしたいことがあるのですが、つい先日あるを拾ったのですが――」

それからセバスと名乗った老人の話を聞かされたクライムは、激しい怒りを覚えた。

ラナーの布令した奴隷解放をそのように悪用するものがいた、そして今だ何も変わっていないそんな現狀に不快を隠せなかったのだ。

いや、違うクライムは頭を振った。

國の法律で奴隷の売買は止されている。しかし、奴隷の売買じゃなくても、借金の方で劣悪な環境下で働かせるというのは珍しい話ではない。そういう抜け道がごろごろとあるのだ。いや、そういう抜け道があるからこそ、奴隷の売買止という法律はなんとか制定されたのだ。

ラナーのした行為はほぼ無駄に等しい。そう寂しい思いが脳裏を過ぎり、それを振り払う。とりあえずは今考えなくてはならないのは、セバスの狀況だ。

そしてクライムは眉を顰めた。どうしようも無い狀況下であるために。

げられたと考えると味方したくなるので、この場はもっと別のものに置き換えて考えよう。

屈強な炭鉱夫がいたとしよう。彼は炭鉱の劣悪な環境下によって肺を病んでしまった。その結果、もはや死ぬばかりとなっただった。そこをセバスが拾って癒した。そこに現れたのが炭鉱主だ。そしてその男を渡せと言う。契約ではその男は炭鉱で働かなくてはならないとなっているから。

さて、セバスが炭鉱夫を庇って渡さないことは良いことなのだろうか。

人間的な面で見れば弱者の救済という正しい行為だろう。しかし國の法律からすれば、その契約の容にもよるが炭鉱夫の契約違反の可能があり、もしくはセバスによる監といわれても仕方が無いことだ。

王國に働く人間の衛生環境まで考えられた法律は無い。そのため、炭鉱夫が肺を病んだとしても、それは仕方ないことであり、炭鉱主が責められることは無いのだ。したがってこの場合悪いのは炭鉱夫もしくはセバスだ。

したがっての問題でも、セバスの方が圧倒的に不利な立場に置かれている。確かにの契約容を調べることで反撃に出ることは出來るだろうが、それだけの行為を行う存在――犯罪者が、その辺の手回しが抜け落ちているとは考えられない。

法律上訴えられれば、セバスの敗北は必至だ。

彼らが訴えでないのは、そうしない方がよりふんだくれると判斷したからだろう。

「それであなた方の力でどうにかなりますか?」

圧力をかけて彼に関わらないようにしろというのだろう。それは出來るか出來ないかで言えば……出來ない。

現在王國は2つに別れている。もし敵対派閥であった場合、王が圧力をかけた場合、勢力を削ぎ取ろうとしていると思われる可能は非常に高い。もしそう思われなくても、何らかの譲渡や換條件を提示してくるだろう。1人ぐらいなら、と簡単に考えることは出來ないのだ。

権力の行使というのはそう簡単なものではない。特に王國のように2分している場合は。

では、そのは助けるだけの、貴族との取引をしてまで助けるだけの価値があるのか。

いや無いだろう。彼を助けるメリットは無いと斷言できる。その場所の報を得るのならばもっと別の手段があるし、そのしか知らないような報も期待できないだろう。

クライムは吐き捨てたくなる気持ちをぐっと堪える。

メリット、デメリットを考え、1人の人間の人生がどうなろうと見ない振りをせざるをえない自分に対して、激しい怒りをじたためだ。

ただ、クライムはラナーに使える兵士。ラナーのためならば何を犠牲にしても惜しくは無い。見ず知らずの1人なんか言うに及ばず、切り捨てて當然だ。

ただ、彼に関わらないように圧力をかけることは出來ないが、法律を盾に迫っているなら、法律を武に彼を助けることも出來る。

「……主に聞かなくてはならないですが、そのを主の領地に逃がすというのはどうでしょうか?」

「……領地に逃がして問題が無いでしょうか?」

「無いと思われます。奴隷売買は違法であり、その法律違反をあなた方が行ったという名目で、主自が取り締まったとすれば良いかと」

「……そうなると私の主人に迷がかかるのでは?」

クライムは黙る。セバスの主人は商人であるいう話だ。噂等が生じる可能は高く、確実に迷をかけるだろう。そしてを失った分、なんらかの見せしめ的な行為をとってくる可能はある。

「それ以外の方法は無いのですか?」

「難しいかと」

クライムは即答する。あってもラナーに迷をかけるものしかない。

「……彼の話では、その場所には他にもいるそうです。男に関係なく」

「…………」

「あなた方の力では助けられないのですか?」

セバスの口調自は強いものでなければ、を込めたものでもない。どちらかと言えば靜かで優しげなものだ。しかし、セバスの言葉の1つ1つがクライムの心を抉るようだった。

無理なのだ。

そんなことをしている人間たちだ。それなりの手段を様々な権力機構につぎ込んでいるだろう。そしてその後ろにいる貴族もかなり権力を持っている筈だ。強権を発しての調査や救出行為は、下手すれば派閥間の全面的な抗爭に発展する可能めている。回しが既に行われている中に、回しをせずに飛び込むというのは、々とめるのが基本である。

もし強権を発した場合、またその強権が発されるかもしれないと、敵対派閥は思う可能がある。そうなると王國を2分する戦に繋がりかねない。

それをラナーの手で起こさせるわけには行かない。

そのためクライムは何も言わない。いや、言えない。

「申し訳ないですが……」

頭を垂れるクライムをセバスは黙って見つめる。

「分かりました。ですが、彼を逃がすことは出來るんですね?」

「それは主に聞いてみないと確約はしかねますが、可能かと思われます」

「了解しました」

靜寂が2人の間を流れる。

クライムは何も言わない。結局のところセバスの真にんでいることはこちらは一切出來ないのだ。そんな人間がどんな面をして、セバスに願い事を言えというのか。

重い沈黙の帳が下り、やがてその重圧に耐えられなくなったクライムが口を開こうとしたその瞬間、セバスがクライムに質問を問いかけた。

「1つ聞かせていていただいても良いですか? 何故、あなたは強くなりたいのですか?」

「え?」

「あなたの先ほどの頼みである。訓練をつけてしいという頼みに関しての質問です。その答えが納得の行くものであれば訓練をつけても構いません」

セバスの質問に、クライムは目を細める。

何故、強くなりたいのか。

クライムは両親の顔を知らない捨て子だ。王國でこれはさして珍しくない。そして泥の中で死んでいくこともまた珍しいものではない。

クライムも雨の日にそうやって死ぬ運命だった。

ただ――クライムはあの日、太に出會ったのだ。薄汚く、薄暗がりを這い回るだけの存在は、その輝きに魅られたのだ。

い頃は憧れで、そして長するにつれ、その思いは形をより強固のものへと変えていった。

――である。

この気持ちは殺さなくてはならないものだ。遊詩人が歌う英雄歌のような奇跡は、現実の世界では決して起こらない。太に手が屆く人間がいないように、クライムの心は決して屆かない。いや屆いてはいけない。

クライムの最も好きなは他人の妻となる定めなのだ。王である彼が、クライムのような分不確かな平民以下の存在のものになるはずが無い。

結婚適齢期であるラナーが結婚して無いのが、そして婚約者がいないのが不思議なのだ。

もし王が倒れ、王子が國を継げば直ぐにラナーはどこかの大貴族と結婚させられるだろう。恐らくはその辺の話も既に王子と大貴族の間で出來ているはずだ。もしかすると周辺國家のどこかに政略の一環として出されるかもしれないが。

今、この瞬間――それは時を止めるだけの価値があるような、そんな黃金の時間なのだろう。

もし訓練――強くなろうという努力に時間を費やさなければ、その黃金の時間をしでも長く味わえる。

クライムは幾度も言うように才能の無い、単なる凡人だ。今の強さは限界を思わせる訓練の結果得たものだ。年齢が15ぐらい――捨て子であるため、正確なところはわからない――であるということも考えれば、これ以上の負荷をかけるような訓練は意味が無いかもしれない。よりが出來上がるまでは。

またクライムは単なる兵士としてはかなりの強さを持つ。ならばここで満足して、訓練する時間を潰してラナーの近辺に付き従った方がより良い時間の使い方だろう。

そう、そして殘りない黃金の時間を有用に使えるといってもいいはずだ。

しかし――本當にそれで良いのか?

クライムは太のごとき輝きに憧れた。それは噓でもなく、間違ってもいない。クライムの心からの思いだ。

ただ――

「男ですから」

クライムは笑う。

そうだ。クライムはラナーの橫に並びたいのだ。太は天空に燦々と輝いている。人では決してその橫には並べない。それでもより高く昇り、しでも太に近い存在になりたいのだ。

いつまでも憧れ、見上げるだけの存在ではいたくない。

これは年のつまらない、だが、年に相応しい思いだ。

憧れるに相応しいだけの男になりたい。

その思いを抱いているからこそ、どれだけ仲間のいない生活にも、どれだけ苦しい修行にも、睡眠時間を削っての勉學にも耐えることが出來るのだ。

愚かな思いだと笑いたいのならば、笑えばよい。

本當に人をした者でなければ、つりあいの取れるような男になりたいと思ったことの無い者には決して理解できないような思いだろうから。

真剣にその様子を観察するセバスは、目を細める。クライムの短い答えに込められた、無數の意味を理解するように。

それから1つだけ頷いた。

「分かりました。1つ修行を付けてあげましょう」

信じれないような思いにクライムは目を見開き、それから謝の意志を示す。だが、セバスはそれを手で差し止めた。

「ただ申し訳ないですが、見たところあなたには才能が無い。ですので本當に修行をつけるとなるとかなりの時間になってしまいます。ですが、私にはそれほどの時間はありません。ですので短期で効果がありそうな修行を付けたいと思うのですが……かなり厳しいですよ?」

クライムのが1つ鳴った。

セバスの瞳に宿ったが、クライムの背をぞくりと震わせる。本気になったガゼフを超えるような、そんなありえない力を持った眼だったのだ。即答出來なかったのは、そのためだ。

「はっきり言います。死ぬかもしれませんよ?」

冗談ではない。

クライムはそれを直する。死ぬのはかまわない。ただしそれはラナーのためならばだ。決して自分勝手な理由で命を落としたいとは思わない。

臆病者ではない。いや臆病者なのかもしれない。

1つ唾を飲み込み、クライムは迷う。暫しの時間、遠くの喧騒が聞こえるほどの靜寂が周囲を支配する。

それからクライムはセバスに問いかけた。

「死ぬ可能はどの程度なのですか?」

「……さて。それは分かりません。あなたの心次第ですから。……もしあなたに大切なものがあるのならば、這いつくばっても生にしがみ付きたい理由があるのならば大丈夫でしょう」

に関することを教えてくれるのではないのか? そんな疑問がクライムの脳裏に浮かぶが、現時點で問題となるのはそこではない。セバスの言葉の意味を考え、飲み込み、そして答えを出す。

「なら、お願いします」

「死なないと判斷しましたか」

這いつくばっても生にしがみ付きたい。それならばまさにクライムのことだ。そんな自信をクライムの目を覗き込むことで読み取ったのだろう。セバスは大きく頷く。

「了解しました。ではここでその修行を行いましょう」

「ここで、ですか?」

「ええ。時間もほんの數分もかかりませんよ。武を構えてください」

、何をするのか。未知への不安と困、そして僅かばかりの期待と好奇心で心をまぜこぜにしたクライムは、そんなことを思いながら剣を抜く。狹い通りに剣が鞘走る音が響いた。

正眼に剣を構えたクライムをセバスはじっと見つめる。

「では行きますよ。意識をしっかり持ってください」

そして次の瞬間――

――セバスを中心におぞましいものが吹き荒れる。

「あ……」

クライムにもはや言葉は無い。セバスを中心に起こったもの、それは殺意である。いや、殺意といわれる部類に屬するものだという方がより正解かもしれない。クライムの心臓を一瞬で握り潰したのではと思えるような、の付いたような気配が怒濤のごとく押し寄せてくるのだ。

できる。

それは人間ごとき下等な生が起こせるようなチャチなものではない。もっと上位の存在が起こすようなそんなレベルのものだ。

殺意の黒き濁流に翻弄され、クライムは自らの意識が白く染まりだすのをじる。あまりの恐怖に意識を手放すことで、け流そうとしているのだ。

「……こんなものですか。何が男なんでしょうね?」

薄れゆくクライムの意識の中、やけに大きくセバスの失したような聲が聞こえた。

その言葉の意味、それはどんなものよりも大きくクライムの心に突き刺さる。ほんの一瞬だけでも、前方から來る恐怖を忘れさせるほど。

バクンと1つ心臓が大きく音を立てた。

「ふぅ!」

クライムは大きく息を吐き出す。

あまりにも怖くて、逃げ出したくて。でも涙目で必死に耐える。剣を持つ手は振るえ、剣先は狂ったようにいている。全が引き起こす震えがチェインシャツから騒がしい音を響かせていた。

それでもクライムはガチガチと震える歯を必死に噛み締めようと、セバスの恐怖に耐えようとする。

そんな無様な姿をセバスは鼻で笑い、目の前まで上げた右拳をゆっくりを握り締めていく。瞬き數回にも及ばない時間の経過後、まるでボールのような丸い拳がそこにはあった。

それがゆっくりと弓を引き絞るように、後ろを下がっていく。

何が起こるか、それが理解できるクライムは、がたがたと震えながら、顔を左右に振る。無論、そんな意思表示はセバスには屆かない。

「では……死んでください」

確定していることを教えるような冷たい口調でセバスは言う。限界まで引き絞られた矢が放たれるように、ゴウッ、という風を引き裂く音を立てて、セバスの拳が走る。

間延びした時間の中、セバスの拳がクライムの顔面めがけ突き進む。

これは即死だ。

クライムは直した。自らの長を遙かに凌駕する巨大な鉄球が、猛速度で突き進んでくるような完璧な死のイメージがクライムの脳裏を支配する。剣を上げて盾にしたところで、セバスの拳はそれを容易く砕くだろう。

もはや全かない。あまりの張狀態に置かれたことで直しているのだ。

最初から殺すつもりだったのか。

クライムの切れ切れになった思考が必死に回転し、そんなことを思う。

――死は絶対である。

クライムは諦め、そして苛立つ。

ラナーのために死ねないのなら、なんであそこで死ななかったと。

あのときの憧れ。そしてそれからの憧れ。それを捨てることは許されない。全てはラナーのために。

苛立ちは激しい怒りへと転じ、なみだ目を浮かべながら、クライムのを縛る死への恐怖という鎖を砕く。

もはや遅いかもしれない。

セバスの拳を避ける時間は無いかもしれない。

それでもかなくてはならない。

クライムはを捻るように、必死にく。普段に比べるならそれは鈍亀のきだが、クライムの全全霊をかけた必死のきだった。剣を上げないのは、自らが持つ剣程度でセバスの拳を止めることはできないと直しているためである。

そして――

ゴゥッ、という音を立てて、セバスの拳はクライムの顔の橫を通り過ぎる。それから靜かな聲が屆いた。

「おめでとうございます。死の恐怖を乗り切った想はどうですか?」

――――。

――言われた意味が分からなく、クライムは呆けた顔をする。

「どうでした、死を目の前にした気分は? そしてそれを乗り越えられた気分は?」

クライムは荒い息で呼吸を繰り返しながら、何かが抜け落ちたようなぼんやりとした顔でセバスを見た。殺意なんか噓のように無い。セバスの言葉の意味が脳に浸し、ようやく安堵が生まれる。

まるでその激しい殺意が支えていたように、クライムのが糸を切った人形のように崩れ落ちる。

路地に這い蹲り、新鮮な空気を貪るように肺に送り込む。

「……ショック死しなくて良かったですよ。時にはあるんです、死を確信してしまったがゆえに、生命を維持することを諦めてしまうということが」

クライムのの奧にはいまだに苦いものが殘る。これが死の味かと確信を持つ。

「あと數度繰り返せば、並の恐怖なら乗り越えるようになるでしょう。ですが注意しなくてはならないのは、恐怖は生存本能を刺激されるものです。それが完全に麻痺していると、絶対に勝てない戦いにを投じかねません。その見極めをしっかりと行う必要があります」

「……し、失禮ですが、あなたは何者なんですか?」

ぐようにクライムは下から問いかける。

「それはどういう意味ですか?」

「あ、あの殺気は常人が出せるものでは無いように思います。あなたは一……名高い方だとは思うのですが……」

「ああ、有名ではないと思いますよ。単に腕に自信があるだけの老人にしかすぎません。今はね」

クライムは微笑むセバスの顔から目が離せない。溫厚に笑っているだけのようだが、ガゼフを遙かに凌ぐ絶対的な強者のようにも思われたのだ。いや、もしかするとそうなのかもしれない。

ガゼフという近隣國家最強の戦士を遙かに凌ぐかもしれない存在。そして今はということは昔はそうではなかったということなのだろうか。王國最強以上の者――

――クライムは自らの好奇心をそこで満足させる。これ以上は踏み込んで良い問題ではないと考えて。

それでもセバスというこの老人は一何者なのかという疑問だけは強く心に殘る。もしかして伽噺の13英雄とかなのか。そんな思いすら起こるほど。

セバスはそんなクライムの驚愕の視線をスルーして問いかける。

「ではそろそろ、もう一度やりましょうか?」

クライムと別れ、セバスは帰宅の道をたどる。あれから數度繰り返したことによって、そこそこの時間がたってしまった。

とりあえずはクライムと連絡をつける方法は出來たので、あとはツアレをクライムに渡して安全を図るべきだろう。それから先は臨機応変に対応していくしかない。

頭を悩ませながらもセバスは館に到著する。

扉を開けようとする手が止める。扉の向こう、直ぐの場所に誰かがいる。気配はソリュシャンのものだが、何故扉の直ぐの場所にいるのか読めなくてだ。

何かの非常事態なのだろうか。

セバスは心に嫌なものをじながら扉を開ける。そしてあまりにも想定外の景を目にして直した。

「おかえりなさいませ、セバス様」

そこにいたのはメイド服を著たソリュシャンだ。

ぞわっとしたものがセバスの背中を走る。

商人の令嬢という演技をしており、何も知らない人間――ツアレが館にいる中でソリュシャンがメイド服を著る。それは演技をする必要がなくなったからか、もしくはメイド服を著なくてはならない理由があるのか。

前者ならツアレに何かあった場合、そしてもし後者なら――

「――セバス様、アインズ様が奧でお待ちになられております」

ソリュシャンの靜かな聲をけ止め、セバスの心臓が1つ跳ねる。強敵を前にしても、守護者クラスの存在を前にしても平然と対峙できるセバスが、自らの主人が館に來たというだけで張したのだ。

「な、なぜ……」

舌がもつれる様に言葉を紡ぐ。そんなセバスをソリュシャンは黙って見つめる。

「セバス様。アインズ様がお待ちです」

これ以上言うことは何も無い。そういう態度を見せるソリュシャンに付き従うように、セバスは歩を進める。その歩き方は斷頭臺へと歩かされる死刑囚のような重いものだった。

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