「クソッ……！」

皇帝は、執務室の機を思い切り叩いた。

聖イリスが、公の場で偽聖ミーナの処遇について嘆願したことは、想像以上に皇帝側に大打撃を與えていた。

「あのイリスめ……ッ！　全て分かっていてあの場で嘆願しおったのかっ」

慈悲深く清廉なイリスに賞賛が集まる一方、皇帝が長く重寶してきた侍従長が、皇后毒殺の主(・)犯(・)として捕らえられ、橫領罪まで明らかとなってしまった。

これに伴い皇室の威信は他に落ちた。更には大衆の前で仲睦まじい様子を見せた、聖イリスと隣國の大公子メフィストのロマンスが取り沙汰されたことをけて、暫く公の場に現れなくなった皇太子エドガーについての不名譽な噂話が帝都を駆け巡った。

皇太子エドガーは、偽者に騙されイリスを裏切りミーナと婚姻したが、イリスが真の聖となった途端に再びイリスに乗り換えようとして、想を盡かしたイリスに無様にも振られたようだ……と。

これはまるで、ミーナが聖になった際、ミーナとエドガーのロマンスの噂によりイリスが悪者に仕立て上げられた當時の裏返しのようだった。気付けばイリスを捨て偽者と婚姻した挙句、今更イリスに橫慕して失した皇太子という、なんともけないレッテルがエドガーにられてしまっていた。

エドガーが公務の場で恙無い姿を見せていれば、また違ったかもしれない。しかし、皇太子であるエドガーはイリスに求婚を斷られ平手打ちされてからというもの、酒浸りとなり部屋から一歩も出て來なくなっていた。

公務を投げ出す皇太子に皇室に対する不信は募る一方であり、皇室の支持率が急落するのと反対に、皇室と距離を置いて悪事を暴き偽聖でさえも救おうとする聖イリスの清廉潔白な行いは高く評価された。

こうして隣國の貌の大公子メフィストと親な様子を見せる聖イリスと、次々に不祥事が発覚する皇室との確執が、次第に浮き彫りとなっていた。

「侍従長の件も、イリスはミーナが進んで毒を盛ったのを知っているはずだ！　にも関わらず、侍従長を主犯に仕立て上げるとは……何かを企てているに違いない、あの！」

公の場にてイリスが主張した侍従長の調査はその後も公開的に進められ、聖により発信された罪狀は民衆に知れ渡った。

聖イリスは再調査の結果、侍従長が皇后暗殺を企て毒を用意し、當時聖であったミーナに毒殺を強要したと発表した。侍従長は斬首刑が決まり、偽聖ミーナはこれまでの功績を踏まえ狀酌量の余地があるとして、斬首刑から終刑へと減刑され、帝都の端の離宮へ幽閉が決まった。民衆に広くことの経緯が広まっている今、皇帝の権力をもってしても侍従長の処刑を覆すことは不可能だった。

「まさかこんな形で侍従長を失おうとは思いもやらなかった……っ！　大神！　例の案件は決まりそうなのかっ！？」

睨まれた大神は滲んだ汗を拭きながら目を逸らす。

「陛下、それが……」

「どうした？」

「実は、聖様がミーナからイリス様に代わったことをけて、概ねこちら側についていた大臣達が難を示しております」

「……何だと？」

「ミーナの治癒力を餌に支持を得ていた病がちの子のいる貴族家は、イリス様の無償の治療により取引に応じなくなりました。また、賄賂を贈っていた侍従長が失腳したことも大きく、さ、更に……イリス様が、サタンフォードの大公子と行を共にしていると噂が広がり、議會から例の件の裁決を延期するよう聲が上がり始めておりまして……」

「…………っ！？　ふざけるなっっ！」

皇帝は機の上の書類を叩き落とした。

散らばる書類やらペンやら置やらを避けながら、大神は言いづらそうに付け加えた。

「そして、侍従長の失腳やエドガー殿下の引き篭もりをけ、貴族議員の間から……宰相の復帰をむ聲が相次いでおります」

皇帝は、機に手をつきそのを怒りに震わせた。

「和平派の筆頭だった邪魔なタランチュランを始(・)末(・)し、口煩い宰相も追い遣ったと言うのに、何故サタンフォードへの侵略戦爭が決まらんのだ！？」

サタンフォードを奪取するため、ずっと侵略戦爭論を唱えてきた皇帝にとって、本來であれば今が絶好の機會のはずだった。

サタンフォードとの和平渉をむタランチュラン公爵を反逆者として処刑し、その責を取らせて蟄居を命じた宰相を議會から遠ざけた。その隙にエドガーと聖だったミーナを婚姻させ、ミーナの力を使い議會の貴族達を懐してきたのだ。

その為に、侍従長には様々な汚職をさせてきた。故に多のことには目を瞑り、橫領程度なら好きにさせていたのだが。どうやらそれが、仇となったらしい。

「このままでは駄目だ。侍従長が余計なことを喋る前に、一刻も早く始末するのだ」

「陛下！　宜しいのですか？　侍従長はこれまで陛下のために散々盡くしてきたではありませんか。私も立場は違えど同じく陛下の元にお使えしてきたなれば……」

大神の悲痛な聲に、皇帝は首を橫に振った。

「致し方あるまい。下手に生かしておいて、こちら側の不正が明らかになればそれこそ皇室は終わりだ。侍従長も皇室のために死ねるのであれば本であろう」

皇帝のこの言葉に、大神は言い知れぬ不安を覚えた。侍従長と同じだけ、大神も見すれば非常にマズい事案を抱えているからだ。それが見した時、この皇帝は果たして助けてくねるのだろうか。淡々と自分に斬首刑を言い渡す皇帝の顔が思い浮かんで、大神は震えたままだった。

「皇后毒殺の件についても、折角素(・)知(・)ら(・)ぬ(・)フ(・)リ(・)をしてやったと言うのに。こうなっては庇いようもない。まったく。イリスが聖となった際、咄嗟にもミーナに罪を押し付ける機會を與えてやったのに、もっと上手くやれば良かったものを」

呆れたような皇帝の言い草に、大神は侍従長を庇いたくなる。

「遅かれ早かれ皇后は戦爭の邪魔になるので好きなようにさせよ、と仰ったのは陛下ではありませんか！」

「あの時は絶対的弱者のイリスが居たではないか！　どんな罪を押し付けようとも誰も庇う者などいない、打ってつけのが！　侍従長が良いように利用できるよう、タランチュラン家を絶やしにした際わざわざ生かしてやったと言うのに。まさかあのが聖になるとは！　そこから全てが狂った！」

皇帝が再び怒りの拳を機の上に振り下ろす。ダンッと鈍い音がして、辺り一面が散らばった書類やらインクやらで悲慘な狀態となった。

「大公子暗殺の件は？　何故報告が上がってこないのだ？」

「暗殺者を送り込んでいるのですが、悉く返り討ちに會い失敗に終わっています。あの者はどうやら相當の手練れのようです」

「チッ……このままでは、何もかもが臺無しではないか！　せめてイリスの……聖の力が手にれば。エドガーは何をしている？」

「……相変わらず、酒浸りとなり部屋にこもっておいでです」

ブツブツと走った目で息子を罵る皇帝は、最後にこう命じた。

「エドガーに伝えよ。何が何でもイリスをものにしろと！　無理矢理だろうが何だろうが構わん！　イリスを奪い、屈服させるのだっ！　さもなくば、皇太子の地位を剝奪し廃嫡するとなっ！！」

その夜のこと。

『………リス、……イリス』

「ん……っ」

深い眠りについていたイリスは、夢の中で久しぶりにウサギの聲を聞いた気がした。

『……イリス、寢ている場合ではない！　早く起きるのだ！』

ウサギのルビーの瞳に急かされてハッと目を覚ましたイリスは、暗闇の中、自分を見下ろしている影に驚いて直する。

「だ、誰……！？」

イリスが逃げるよりも速く、影からびてきた手がイリスの腕を摑んだ。窓の隙間から差し込んだ月に照らされ浮かび上がったその顔を見て、イリスは凍り付いた。

「エドガー……！！」