《【書籍化作品】離婚屆を出す朝に…》5、紫奈、掃除の楽しみを知る

「那人《なひと》さん、そろそろまた頼んでもいい?」

もともと素の薄い髪をさらに明るいブラウンに染めて、ヘアアイロンで大きめに巻きながら私はドレッサーの鏡ごしに尋ねた。

「その事だけどさ、そろそろ自分でやる努力もしてみたら?」

休日の朝だが、那人さんは仕事に行く準備をしていた。

最近仕事が順調なのはいいが、休みを返上する事が多くなった。

「えー、私にトイレ掃除や風呂掃除をしろっていうの?

私は那人さんの家政婦になるために結婚したんじゃないのよ」

「家政婦なんて思ってないけどさ、専業主婦でずっと家にいるんだからさ、それぐらい出來るだろ?

ヘルパーさんを頼むお金があれば、二人でちょっとリッチな食事も出來るじゃないか」

高校を卒業してすぐ結婚した私は、水まわりの掃除が大嫌いだった。

水垢やカビが気持ち悪くて、実家で家事のほとんどを請け負っていた時も、それだけは嫌だといって、うちではパートの掛け持ちで忙しい母の代わりに父の擔當業務だった。

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結婚しても、それだけは譲らず、月に2・3回ヘルパーさんに來てもらっていた。

「あの気持ち悪い水垢を掃除するぐらいなら、リッチな食事なんかいらないわ」

18才のな妻と結婚したのだから仕方がないと、最初にヘルパーさんに頼んでしまったのがいけなかった。

それに味をしめて、私はその後一切、水まわりの掃除はしなかった。

「ねえ、紫奈《しな》。最初は確かに高校を出たばかりで分からないんだろうと大目にみてたけどさ、そろそろ結婚して1年経つんだよ。ちょっとは努力してみようよ?」

「なによ! 那人さん、最近冷たくなったわ!

仕事仕事ってちっとも外に連れてってくれないし!

友達はみんなサークルやらコンパやら楽しそうにしてるのに!」

「今は仕事が波に乗ってるんだよ。

もうしだけ我慢してくれよ」

「我慢我慢って、最近いっつもそうよ!

うう……。本當なら私も花の子大生だったのに」

メソメソ泣き始めた私に那人さんは小さなため息をついた。

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「分かったよ。ヘルパーさん頼んでいいから。

もうし我慢してくれよ」

……………

嫌な夢を見て目が覚めた。

結婚1年目の頃の夢だ。

改めて見返すと、なんて自分勝手な事を言ってたのだろうと、があったらりたい気分だった。あの頃には那人さんは私との結婚を後悔していたに違いない。

でも……、まだ忠告するだけの期待は殘っていた頃だ。

最近は黙って自分で掃除するか、仕事が忙しい時は私に言われなくてもヘルパーさんを呼んでいた。

諦めの境地に至ったのだろう。

専業主婦でずっと家にいたのに何をしてたんだろう。

容院に行って、エステに通って、朝晩パックをして、半浴にマッサージ。

しく保つ事が那人さんのを失わない事なのだと、すべての時間を使っていた。

でも、今なら分かる。

那人さんはそんな私にしも喜んでいなかったのだと……。

◆ ◆

「まだ仕事が殘ってるんだ。

俺は行くけど荷を置いてし休むといいよ」

午後に病院に迎えに來た那人さんは、車で自宅まで送ってくれた。

タワーマンションの最上階。

30畳のリビングがある4LDKの豪邸だ。

もともと実家も裕福だったが、ここは那人さんが自分で買った持ち家だ。

彼がどんな事業をしているのか、詳しくは知らないが、IT関連でかなりの功を収めているらしい。

だが、改めて部屋を見回すと、その素晴らしい豪邸は埃が積もり、類が散らばり、雑誌が散していた。そしてもちろん水まわりはカビとぬめりで汚れていた。

これはもちろん家を取り仕切るはずの主婦、つまり私がダメ主婦だったからだ。

「ああ。ごめん。

忙しくてヘルパーさんを頼む暇がなかったんだ。

明日にでも來てもらうように連絡しておくよ」

キッチンのぬめりを見つめる私に、那人さんが謝った。

「頼まなくていいわ。私が掃除するから……」

「え?」

那人さんは驚いたように私の顔をまじまじと見つめた。

「不用だから、時間はかかるかもしれないけど、私がしたいの」

那人さんは不安そうに眉間を寄せた。

「紫奈、やっぱりどこか合悪い? 昨日からちょっと変だよ」

掃除をしたら変。

私はそういう人間だった。

「大丈夫よ。那人さん仕事があるんでしょ?

私の事は心配しなくていいから行って」

「で、でも……」

「大丈夫。どこも悪くないから」

私は那人さんを追いやるように玄関まで見送った。

那人さんは首を傾げながらも、仕事に出掛けていった。

そして、一人きりになった部屋で、私は汚れたリビングを見回した。

水まわりどころか、離婚話が出てからは、普通の掃除すらしなくなっていた。

荒れ放題の部屋は、かなり手こずりそうだった。

まずは散らばった類を片付け、雑誌をしまって、掃除機をかけた。

拭き掃除をして、最低限の裁を整える。

棚の中や、クローゼットの中は今日は諦めよう。

とりあえず那人さんが帰ってきて気持ちいい部屋になるように……。

ああ、そんな風に掃除をした事なんてなかったかもしれない。

妙に凝ったテーブルクロスをかける事や、アロマに凝ったり、照明にこだわったり。

お灑落に見えたり、ゴージャスに見せる事にばかり気を使っていた。

私は誰に向けて掃除してたんだろう。

ツイッターでお灑落な部屋を見せびらかすため?

ハイソな生活を実するため?

ここは那人さんがくつろぐための家であるはずなのに。

心地よく過ごせる程度に掃除した所で、いよいよ勝負の水まわりだ。

改心したからと言って、気持ち悪くないわけではない。

水まわりの汚れは恐怖だ。

私は覚悟を決めて、掃除道を手にとった。

那人さんが普段使っていた洗剤やスポンジを見つけた。

とりあえずキッチンから。

あまり料理をしてなかったせいか、コンロはあまり汚れていない。

しかし流し臺のまわりのステンレスがくすんでぬめっている。

「ん? この白いスポンジは何かしら?」

『水だけでピカピカ』とパッケージに書かれたスポンジがあった。

「調子のいい事言って、そんなわけ……」

だまされたと思って磨いてみると、本當にステンレスが鏡のようにピカピカになった。

「なにこれ? 楽しい!」

気付けば夢中になって、ステンレスの流し臺から人工大理石の調理臺まで磨きまくっていた。

「うーん、でもこの食洗の隙間の汚れが気になる~。

ん? これは何かしら?」

掃除道れに、割り箸の先に端切れを巻いてゴムで留めたものが何本かっていた。

「なるほど! これなら食洗の隙間もるし、汚れたら端切れを捨てたらいいもんね。

那人さん、あったまいい!!」

普段マメな掃除をしない紫奈は、この主婦なら誰もが知ってる有名な棒の存在を知らなかった。

「後は……ケトルも磨きたいけど、先にトイレとお風呂を掃除しなきゃ」

トイレと風呂はキッチンよりも更に覚悟が必要だった。

「と、とりあえず、きやすい服に著替えよう」

私は家でも高級ブランドのワンピースを著ている事がほとんどだった。

服を汚したくないから水まわりの掃除もしたくなかった。

どの服裝なら汚れてもいいだろうかと考えた挙句、黒のTシャツに黒のスパッツ、髪はだんごにして垂れないようにした。そして手には腕まであるゴム手袋をつけた。

那人さんには見せられない恰好だ。

結婚してから、家で一人でいてもこんなダサい恰好でいた事なんてない。

でも、もうそんな見栄は捨てる事にした。

「よし! 準備萬端!」

だが汚れを磨く勇気は持てたが、汚れを目の當たりにする勇気が足りない。

掃除をしない人間に限って、妙に潔癖癥だったりする。

排水を開けるのは嫌というより、もう恐怖だ。

この恐怖に打ち勝てず、水まわりの掃除を敬遠していた。

「そうだ! クリアに見え過ぎるから気持ち悪いのよ!

サングラスをかけたら、はっきり見えないから大丈夫よ」

私は黒裝束に、たまたま近くにあったシャネルのサングラスをかけた。

もう那人さんどころか、誰にも見られたくない恰好だ。

「うん。これで排水も全然大丈夫だわ!」

そうして、挑んでみると、想像していたよりも全然平気だった。

ゴム手袋をつけているおかげで、さほど気持ち悪くもない。

しかもここでも那人さん用達のがあった。

カビ汚れにシュッと一吹きするだけで、消しゴムのように消えていくのだ。

「こんないいものがあったんだ。

なんだ、思ったより全然楽じゃないの」

こんな簡単な事ならもっと早くやってみれば良かった。

そうすれば……。

那人さんと離婚せずに済んだだろうか……。

(ううん。今更なにを言ってるんだか……)

私は頭を振って、無駄な希を追い払った。

覆水盆に返らず……。

すべてはもう遅すぎた。

後悔してももう遅い。

だったらせめて、最悪の疫病神から、し殘念な疫病神ぐらいには思ってもらえるように。

自分の汚點を消すように、私は夢中でトイレの床を拭き、風呂のタイルの目地を一つ一つ磨いていった。 そしてシャワーのカランはあの魔法のスポンジで磨くと見違えるほどピカピカになった。

「ふう~。すごい達。掃除って楽しい~」

額の汗を拭って、立ち上がった私は、目を丸くして風呂場を覗いている那人さんと目が合った。

次話タイトルは「紫奈、那人さんとの心の距離を知る」です

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