甘い匂いのする酒がグラスからこぼれて、勢いよくミネルバにかかった。元からお腹までしみができて、じわりと冷たさが広がっていく。

セリカの茶い目がミネルバの目とぶつかった。セリカのが、自分に対する激怒に転じたことをミネルバはじ取った。彼の耳元に素早く近づき、抑えた聲で訴える。

「私が教育係だったときにお教えしたはずですよ。アシュランの王侯貴族がひざまずくのは、神と、宗主國グレイリングの皇族だけだと。あなたの軽率な振る舞いで、わが國を危険な狀況に追い込むおつもりですか」

セリカがぐっと息をのんだ。おそらく、口にしかけていた悪態ものみこんだのだろう。彼は憎々し気にミネルバを睨んだ。

摑んでいた右手を放すと、セリカの手から高級なグラスがり落ち、酒でできた水たまりの中にひっくり返った。

「こ、このが──このが悪いのよ！　いきなり私の手を摑んで持ち上げたの！」

セリカはフィルバートを振り返り、憤懣やるかたない様子で訴えた。

「つ、つまり自分で勝手にお酒を浴びたんだからっ！　ああ、痛い、痛いわ、あざができてしまったに違いないわっ！！」

フィルバートはの気のない顔で呆然としている。

つねに理ではなくに支配されるセリカは、ミネルバに責任を転嫁するという愚かな行為を繰り返してきた。セリカ以外何も見えなくなっていたフィルバートは、どんな狀況でも彼の言葉だけを信じた。

しかし今回は、人々よりも高い場所にいるセリカが、ルーファスを見ながら右手を振り上げた姿を多くの人が目撃している。さしものフィルバートも、これまでのようにミネルバをとがめるわけにはいかないらしい。

宗主國の皇族は、立場をわきまえない屬國の者に対し、それが誰であれ罰する権利を持つ。

現皇帝でありルーファスの兄であるトリスタンは病がちだ。彼の跡取り息子はまだい。皇帝にもしものことがあれば、ルーファスが摂政として辣腕を振るうことは間違いないのだ。

そっとルーファスの側に控えていた、やはり黒づくめの従者２名が剣の柄に手をかけている。

グラスの酒がルーファスにかかっていたら──それを想像したのか、フィルバートの頬がひくついた。

「な、なによ、なんなのよ──……っ！」

フィルバートが助けてくれないとわかると、セリカは憎しみをむき出しにしてミネルバを睨みつけた。興した彼のが、荒々しく上下しているのがわかる。

「そ、宗主國がどうとかなんて、教わってないわ！　信じてフィルバート、このが私を陥れたのよっ！　私に大切なことを教えないで、恥をかかせようとしたんだわっ！！」

セリカは両手をばしてミネルバの肩を押しやった。足元が濡れているせいでミネルバはバランスを崩した。まっすぐ立とうと踏ん張ったが、右足首に痛みをじた。膝が折れてむなしく後ろに倒れる。

玉座のある場所からい床に叩きつけられることを覚悟した次の瞬間、誰かの力強い手がミネルバの肩を摑んで支えてくれた。

小さく振り返ったミネルバは息をのんだ。ルーファスの漆黒の瞳がミネルバを見つめていた。

「に庇われたのは初めてだ。どうやらあなたは、見かけよりずっと勇敢なであるらしい」

ルーファスは溫かく微笑んだ。そして広い肩と厚い板でミネルバのを支えたまま、フィルバートに向かって聲高に言った。

「フィルバート！　お前の妻は、つねに自分の思い通りにならないと気が済まないようだが。私には、そのは頭がどうかしているとしか思えない。お前はこのしい令嬢が、お前の妻を陥れたように見えたか？」

一瞬であたりの空気が張り詰めた。ルーファスが発している権力や権威を持つ者特有のオーラは、フィルバートのそれを大きく上回っている。

「い、いいえ……見えま、せんでした……」

「いくら異世界人とはいえ、一國の王太子妃が『教わっていない』と言い訳をして、それで事が済むと思うか？」

「いいえ……思いません」

「そうか。ならばお前たち夫婦は、この令嬢の行をありがたく思うべきだ。どうすればいいかはわかるな？」

「は、はい……」

フィルバートがをかむ。

ルーファスがミネルバのを両腕ですくうようにして抱き上げた。ミネルバは困して小さく悲鳴を上げた。彼はミネルバを軽々と抱えて段差を降り、３人の兄たちの元へ向かった。

「ご令嬢のご家族とお見けする。彼は水たまりの中で足をらせた。恐らく、捻挫しているだろう。あの愚かな夫婦の謝罪が終わったら、治療のための部屋と侍醫、ふさわしい著替えを用意させる」

３人の兄たちが口々に禮を言い、深々と頭を下げる。

そっとを降ろしてもらいながら、ミネルバはルーファスの観察眼に舌を巻いていた。彼ならば、ミネルバが庇わなくてもグラスの酒を避けられたに違いない。

「や、やめてフィルバート、痛い！　どうしてそんなに怖い顔をするのっ！」

「いいから降りろ、お前のせいで大変なことになるところだったんだぞっ！　ルーファス様と、それからミネルバ嬢に謝るんだっ！！」

大きな聲にハッとして顔を上げると、フィルバートが有無を言わさぬ口調でセリカに命令していた。ミネルバはそんな景を初めて見た。

フィルバートがセリカのを玉座のある場所から引きずり下ろし、肩を抱いて無理やり歩かせる。彼の目は驚きに見開かれていた。